(甘)夢見月 花守人の 思ひ初め
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土曜日とはいえ新幹線が随分と混んでいるな…と思ってから、そう言えば今は桜の季節であったことに気づいた。
春の京都は絶好の観光日和だ。
深緑の季節も紅葉も、寒さの厳しい冬も見所がたくさんあるので1年中観光日和と言われればその通りなのだが、桜の季節の京都はまた格別のように思う。
特に3月は春休みや卒業シーズンでもあり、格好の観光と花見の時期だ。
久方ぶりに訪れた生まれ故郷で、慣れ親しんだ風景と再会できる良い機会であるのに、地元に段々と近づいていく車窓を眺める俺の心は晴れなかった。
父上からの急な呼び出しで帰省することが決まったのが一昨日。
断る上手い理由は見つからず。
逆らう事も出来ずに黙って頷いたが、父上の用件は分かっていた。
卒業オーディションを控えた今、結果がどうであろうと跡継ぎである俺の将来を盤石にするために、そろそろ婚約者との顔合わせをさせたいのだ。
もう既に親同士で決められている決定事項なので、互いに相手を気に入るかいらないかはこの際関係なく。
俺の預かり知らぬところでどんどんと勝手に道が出来ていく事がとても息苦しく、その上を歩かされるのは苦痛以外の何者でもない
…だが、これもまた上手く断れる理由も、逆らう勇気も無かった。
じぃがいつものようにヘリで迎えに行くと電話で息巻いていたが、せめて覚悟が決まるまでは少しでも実家に着くまでの時間を稼ぎたいがために、ヘリポートで待ち合わせた時間をわざと無視して新幹線に飛び乗った。
これだけ混んでいるのにも関わらず切符が取れたのは、たまたまひとつだけキャンセルが出たからだ。
乗れずに終わったなら、心も決まらないまま諦めてヘリで運ばれていた事を思えば、運命というものは果たして俺に寛容なのか非情なのかわからずに苦笑した。
他者に定められた道は歩まされるのに、そのための覚悟をする時間はくれるのか、と。
(……俺の婚約者、か。)
顔も知らぬのに、いずれ結婚する相手。
初恋の経験もまだないものを、自分が誰かと婚姻を結び一生を添い遂げる未来がうまく想像できるはずがない。
俺には歌という夢がある、今はその道を極める事で精一杯で、結婚などとても考えられぬというのに。
覚悟を決めるどころか、今も往生際が悪く婚約を破棄できる理由を探している。
よもや、相手の方が俺の事を気に入らずに破棄してはくれないかとすら思っている。
そのほうが男の側から破棄するよりも、女性にとってはダメージが少ないだろうからな。
俺が破棄を言い出せば、少なからず相手の尊厳を傷つけ、本人や家の評判も落とすだろう。
婚約破棄はこの世界ではそれだけ大きな問題となる。それよりは、まだ俺の名に傷がつくほうが良い。
女性は名に傷がついたら次の良い縁との巡り合わせも男より難しくなる。
だが、俺には聖川家の名前に勝手に傷をつけることも許されん。
だからわざと嫌われる振る舞いをすることもできない。
俺1人に傷がついて終わる問題ではないのだ。
(……綾瀬財閥のかなで嬢…せめて、良い人柄の女性だと良いのだが…。)
以前、じぃにどのような女性かそれとなく聞いてみた際には、それはそれはとても素晴らしい女性だと熱く語っていた。
品行方正で悪い噂はひとつもなく、悪い評判も聞かない。
幼い頃より学問はもちろん淑女教育、花嫁修行まであらゆる教育をしっかりと受け、聡明で頭が良く器量も良い、財閥のご令嬢の生まれにふさわしい品格のある人柄に、夫の三歩後ろを歩くような奥ゆかしい清楚な性格の現代の大和撫子だ、と。
しかもとても可憐な美人なのでぼっちゃまもきっとお気に召されます!!と熱弁されて反応に困った。
女性を容姿で気に入る気に入らないを判断するつもりは毛頭ないが、そこまで文句の付け所が無い汚れなき完璧な才女が本当に存在するのか、じぃが俺をその気にさせるために過剰に話を盛っているのではないか…と。
そんな女性が実在するとしたら大和撫子どころか天女だ。
ただ、綾瀬家の次女のその名前だけはどこかのパーティーで噂を聞いたことはあった。
創立100年を越える日本有数の有名な老舗企業をいくつも抱えた財閥で、関東に拠点を置いている大きな家。
祖先は名のある大名で明治からは爵位を持っていた華族の流れも汲む歴史ある旧家なので、その家柄の良さから年頃の御息女は縁談が引っ切り無しだが、現当主である彼女の祖父が孫娘を深窓の姫君のように大事に隠して養育しているので、果たしてどのような家と縁を繋ぐつもりなのかと。
ご当主のご子息である彼女の父親の子供は彼女含む姉妹2人で男性の跡継ぎが父親以降がいないため、確か姉君のほうが先日別の財閥の次男を婿取りし、いずれ父親のあとに家督を継ぐ予定でいるという。
姉君も後を継ぐにふさわしく大変に優秀で見目麗しいと噂だったので、引く手数多だったろうについに身を固めるとは実に惜しいという声が多数だったのを覚えている。
あとは妹君のかなで嬢の縁談相手に選ばれるのはどんな良家の子息だろうか、と。
そんな名家がまさか聖川との縁を選ぶとは。
まだ顔合わせをするまでは内密事項だが、婚約が公表の運びとなればそれなりの騒ぎとなろう。
⋯今から憂鬱だといえば相手に失礼だろうが、面識のない者との結婚となるので、多少は仕方なかろう。
もしかなで嬢がこの婚約に前向きだったなら、俺に逃げ道はない。
話通りなら大変申し分ない相手だ、やはりこちらから断る理由もない。
⋯⋯歌という夢を持たなければ、俺はそのまま父上の用意した道を歩み、この縁談も受け入れただろう。
何を考えることもなく、いや、考えることすら許されず。
そうして迎えた妻を、俺はできる限り大切にし誠実な夫であるよう精一杯に努める努力はするはずだ。
できれば愛情を持てるようになればそれが一番なのだが、自分というものを持たず、自分の意志は何もない人生でどれだけ心を尽くせるだろうか。
せっかく縁あって結ばれる相手に愛のない生涯を送らせてしまうのは男としては情けなく、女性にとっては不幸なことではないのか。
望まぬ婚姻で愛せるかもわからないのに、愛する努力までするのか。
俺とて生涯を共にする女性にはできれば愛されたいとも思う。
いくら考えても堂々巡りなまま、覚悟も決まらぬままに、風景はどんどん見慣れたものに変わっていく。
やがて勝手知ったる街並みが拡がり、新幹線は無事に時間通りに京都駅に着いてしまった。
溜息をこぼしながら荷物を持ち、ゆっくりとした足どりで改札へ向かう。
さてこのまま実家に行くべきかどうするかと迷いながら改札を出たところで、聞き馴染みある大きな声が俺を呼んだのでビクッと肩が跳ねた。
「ぼっちゃま〜〜〜っっっ!!!」
「じぃ⋯っ⋯藤川!?なぜここにいる!?」
ヘリでの迎えを無断キャンセルしたはずのじぃが、涙を流しながら全速力で駆け寄ってきた。
「お時間になってもいらっしゃらないので、もしやと思いヘリで追いかけて参ってよりこちらでお待ちしておりました!約束を違えるなどじぃは情けないですぞ!!」
「す、すまん⋯⋯。」
迫りくるじぃの勢いに圧倒されてしまい無意識に謝罪が口から出たが、確かに待ち合わせの約束を破り黙って来たのは俺なので、姿を現さずさぞ心配もしただろう⋯こればかりは申し訳ないことをしたと反省した。
だが俺が現れぬと見てすぐさま新幹線だと予測し京都駅に取って返すこの判断力と読みの鋭さはさすがだ、伊達に俺を幼い頃より見てきていない。
やはり、じぃに小手先のごまかしは通用しなかったか。
気まずさに視線を彷徨わせる俺に、じぃは涙を引っ込め叱るのを止めて、改まった声を出した。
「⋯綾瀬家のご息女とのご縁談、まだ腹が決まらぬご様子ですな。」
「⋯⋯っ⋯⋯」
「やはり、図星ですか。ぼっちゃまのお気持ちはお察し致しますが⋯しかし⋯。」
「⋯⋯いや、未だ腹を括れぬ俺の不徳は承知している。せめてこちらに着くまでにはと思っていたのだが。」
腹が決まるどころか、京都に近づくたびに逆に気後れし、駅に着いた時にはもう後戻りはできぬのだとかえって怯んでしまった。
顔を合わせてしまえばもう結婚への流れは止められない。
目の前に迫りくる自分の用意された運命に怖気づくのは大変情けないが、一歩一歩が気が重い。
聖川家の雇用に身を置く立場だが俺の気持ちも理解しているじぃは、心配げな瞳で俺を見つめてくる。
良家の嫡男ならば嫡男らしくその運命を受け入れ、聖川の男児らしくあるべきと叱らなければならぬ身なのに、じぃはずっと俺の心の味方でもあった。
少しでも腹を決める時間を稼ぎたいがために約束を破り黙って新幹線に乗った俺の心情を読み取ったのだろう。
どうしてもじぃのその気遣いに甘え、つけ込んでしまいたくなる。
「⋯じぃ。すまんが、ひとつだけ俺の頼みを聞いてくれないだろうか。」
「はっ。なんでございましょうか。」
「父上と先方との約束の時間まではまだある。申し訳ないが、屋敷まではなるべく歩いて行かせて欲しい。時間は必ず守る、逃げも隠れもしない。」
この期に及んでまだ悪あがきするか、と自嘲の笑みが浮かぶが⋯じぃは一瞬だけ目を見開いて驚いた表情をしただけで、あとは何も言わなかった。
それから、また表情を冷静なものに戻した。
「⋯承知いたしました。ですが、何か不測の事態がございましたら必ずこのじぃにご連絡を。⋯それと、真衣お嬢様もぼっちゃまのご到着を心待ちにしていらっしゃることは、お忘れなきようにお願い致します。」
「ああ、わかった。」
ではお荷物だけお先に、と俺の小さな旅行カバンを抱え、じぃは頭を下げて去っていった。
外に車を待たせているのだろうに、本当に申し訳ない。
だが俺を信じてくれて感謝する、その信頼は決して裏切らない。
必ず決意を固めて屋敷へ赴こう。
それから、俺の心を少しでも軽くして帰りやすくするために真衣のことを持ち出してくれたのだろうことも。
屋敷に帰るのは憂鬱だが、久々に可愛い妹には会いたい。
⋯お兄ちゃまは必ず心を決めるから、待っていてくれ、真衣。
じぃの言う通り、俺の帰りを今か今かと待っているだろう幼い妹に、俺は念を込めた。
春の京都は絶好の観光日和だ。
深緑の季節も紅葉も、寒さの厳しい冬も見所がたくさんあるので1年中観光日和と言われればその通りなのだが、桜の季節の京都はまた格別のように思う。
特に3月は春休みや卒業シーズンでもあり、格好の観光と花見の時期だ。
久方ぶりに訪れた生まれ故郷で、慣れ親しんだ風景と再会できる良い機会であるのに、地元に段々と近づいていく車窓を眺める俺の心は晴れなかった。
父上からの急な呼び出しで帰省することが決まったのが一昨日。
断る上手い理由は見つからず。
逆らう事も出来ずに黙って頷いたが、父上の用件は分かっていた。
卒業オーディションを控えた今、結果がどうであろうと跡継ぎである俺の将来を盤石にするために、そろそろ婚約者との顔合わせをさせたいのだ。
もう既に親同士で決められている決定事項なので、互いに相手を気に入るかいらないかはこの際関係なく。
俺の預かり知らぬところでどんどんと勝手に道が出来ていく事がとても息苦しく、その上を歩かされるのは苦痛以外の何者でもない
…だが、これもまた上手く断れる理由も、逆らう勇気も無かった。
じぃがいつものようにヘリで迎えに行くと電話で息巻いていたが、せめて覚悟が決まるまでは少しでも実家に着くまでの時間を稼ぎたいがために、ヘリポートで待ち合わせた時間をわざと無視して新幹線に飛び乗った。
これだけ混んでいるのにも関わらず切符が取れたのは、たまたまひとつだけキャンセルが出たからだ。
乗れずに終わったなら、心も決まらないまま諦めてヘリで運ばれていた事を思えば、運命というものは果たして俺に寛容なのか非情なのかわからずに苦笑した。
他者に定められた道は歩まされるのに、そのための覚悟をする時間はくれるのか、と。
(……俺の婚約者、か。)
顔も知らぬのに、いずれ結婚する相手。
初恋の経験もまだないものを、自分が誰かと婚姻を結び一生を添い遂げる未来がうまく想像できるはずがない。
俺には歌という夢がある、今はその道を極める事で精一杯で、結婚などとても考えられぬというのに。
覚悟を決めるどころか、今も往生際が悪く婚約を破棄できる理由を探している。
よもや、相手の方が俺の事を気に入らずに破棄してはくれないかとすら思っている。
そのほうが男の側から破棄するよりも、女性にとってはダメージが少ないだろうからな。
俺が破棄を言い出せば、少なからず相手の尊厳を傷つけ、本人や家の評判も落とすだろう。
婚約破棄はこの世界ではそれだけ大きな問題となる。それよりは、まだ俺の名に傷がつくほうが良い。
女性は名に傷がついたら次の良い縁との巡り合わせも男より難しくなる。
だが、俺には聖川家の名前に勝手に傷をつけることも許されん。
だからわざと嫌われる振る舞いをすることもできない。
俺1人に傷がついて終わる問題ではないのだ。
(……綾瀬財閥のかなで嬢…せめて、良い人柄の女性だと良いのだが…。)
以前、じぃにどのような女性かそれとなく聞いてみた際には、それはそれはとても素晴らしい女性だと熱く語っていた。
品行方正で悪い噂はひとつもなく、悪い評判も聞かない。
幼い頃より学問はもちろん淑女教育、花嫁修行まであらゆる教育をしっかりと受け、聡明で頭が良く器量も良い、財閥のご令嬢の生まれにふさわしい品格のある人柄に、夫の三歩後ろを歩くような奥ゆかしい清楚な性格の現代の大和撫子だ、と。
しかもとても可憐な美人なのでぼっちゃまもきっとお気に召されます!!と熱弁されて反応に困った。
女性を容姿で気に入る気に入らないを判断するつもりは毛頭ないが、そこまで文句の付け所が無い汚れなき完璧な才女が本当に存在するのか、じぃが俺をその気にさせるために過剰に話を盛っているのではないか…と。
そんな女性が実在するとしたら大和撫子どころか天女だ。
ただ、綾瀬家の次女のその名前だけはどこかのパーティーで噂を聞いたことはあった。
創立100年を越える日本有数の有名な老舗企業をいくつも抱えた財閥で、関東に拠点を置いている大きな家。
祖先は名のある大名で明治からは爵位を持っていた華族の流れも汲む歴史ある旧家なので、その家柄の良さから年頃の御息女は縁談が引っ切り無しだが、現当主である彼女の祖父が孫娘を深窓の姫君のように大事に隠して養育しているので、果たしてどのような家と縁を繋ぐつもりなのかと。
ご当主のご子息である彼女の父親の子供は彼女含む姉妹2人で男性の跡継ぎが父親以降がいないため、確か姉君のほうが先日別の財閥の次男を婿取りし、いずれ父親のあとに家督を継ぐ予定でいるという。
姉君も後を継ぐにふさわしく大変に優秀で見目麗しいと噂だったので、引く手数多だったろうについに身を固めるとは実に惜しいという声が多数だったのを覚えている。
あとは妹君のかなで嬢の縁談相手に選ばれるのはどんな良家の子息だろうか、と。
そんな名家がまさか聖川との縁を選ぶとは。
まだ顔合わせをするまでは内密事項だが、婚約が公表の運びとなればそれなりの騒ぎとなろう。
⋯今から憂鬱だといえば相手に失礼だろうが、面識のない者との結婚となるので、多少は仕方なかろう。
もしかなで嬢がこの婚約に前向きだったなら、俺に逃げ道はない。
話通りなら大変申し分ない相手だ、やはりこちらから断る理由もない。
⋯⋯歌という夢を持たなければ、俺はそのまま父上の用意した道を歩み、この縁談も受け入れただろう。
何を考えることもなく、いや、考えることすら許されず。
そうして迎えた妻を、俺はできる限り大切にし誠実な夫であるよう精一杯に努める努力はするはずだ。
できれば愛情を持てるようになればそれが一番なのだが、自分というものを持たず、自分の意志は何もない人生でどれだけ心を尽くせるだろうか。
せっかく縁あって結ばれる相手に愛のない生涯を送らせてしまうのは男としては情けなく、女性にとっては不幸なことではないのか。
望まぬ婚姻で愛せるかもわからないのに、愛する努力までするのか。
俺とて生涯を共にする女性にはできれば愛されたいとも思う。
いくら考えても堂々巡りなまま、覚悟も決まらぬままに、風景はどんどん見慣れたものに変わっていく。
やがて勝手知ったる街並みが拡がり、新幹線は無事に時間通りに京都駅に着いてしまった。
溜息をこぼしながら荷物を持ち、ゆっくりとした足どりで改札へ向かう。
さてこのまま実家に行くべきかどうするかと迷いながら改札を出たところで、聞き馴染みある大きな声が俺を呼んだのでビクッと肩が跳ねた。
「ぼっちゃま〜〜〜っっっ!!!」
「じぃ⋯っ⋯藤川!?なぜここにいる!?」
ヘリでの迎えを無断キャンセルしたはずのじぃが、涙を流しながら全速力で駆け寄ってきた。
「お時間になってもいらっしゃらないので、もしやと思いヘリで追いかけて参ってよりこちらでお待ちしておりました!約束を違えるなどじぃは情けないですぞ!!」
「す、すまん⋯⋯。」
迫りくるじぃの勢いに圧倒されてしまい無意識に謝罪が口から出たが、確かに待ち合わせの約束を破り黙って来たのは俺なので、姿を現さずさぞ心配もしただろう⋯こればかりは申し訳ないことをしたと反省した。
だが俺が現れぬと見てすぐさま新幹線だと予測し京都駅に取って返すこの判断力と読みの鋭さはさすがだ、伊達に俺を幼い頃より見てきていない。
やはり、じぃに小手先のごまかしは通用しなかったか。
気まずさに視線を彷徨わせる俺に、じぃは涙を引っ込め叱るのを止めて、改まった声を出した。
「⋯綾瀬家のご息女とのご縁談、まだ腹が決まらぬご様子ですな。」
「⋯⋯っ⋯⋯」
「やはり、図星ですか。ぼっちゃまのお気持ちはお察し致しますが⋯しかし⋯。」
「⋯⋯いや、未だ腹を括れぬ俺の不徳は承知している。せめてこちらに着くまでにはと思っていたのだが。」
腹が決まるどころか、京都に近づくたびに逆に気後れし、駅に着いた時にはもう後戻りはできぬのだとかえって怯んでしまった。
顔を合わせてしまえばもう結婚への流れは止められない。
目の前に迫りくる自分の用意された運命に怖気づくのは大変情けないが、一歩一歩が気が重い。
聖川家の雇用に身を置く立場だが俺の気持ちも理解しているじぃは、心配げな瞳で俺を見つめてくる。
良家の嫡男ならば嫡男らしくその運命を受け入れ、聖川の男児らしくあるべきと叱らなければならぬ身なのに、じぃはずっと俺の心の味方でもあった。
少しでも腹を決める時間を稼ぎたいがために約束を破り黙って新幹線に乗った俺の心情を読み取ったのだろう。
どうしてもじぃのその気遣いに甘え、つけ込んでしまいたくなる。
「⋯じぃ。すまんが、ひとつだけ俺の頼みを聞いてくれないだろうか。」
「はっ。なんでございましょうか。」
「父上と先方との約束の時間まではまだある。申し訳ないが、屋敷まではなるべく歩いて行かせて欲しい。時間は必ず守る、逃げも隠れもしない。」
この期に及んでまだ悪あがきするか、と自嘲の笑みが浮かぶが⋯じぃは一瞬だけ目を見開いて驚いた表情をしただけで、あとは何も言わなかった。
それから、また表情を冷静なものに戻した。
「⋯承知いたしました。ですが、何か不測の事態がございましたら必ずこのじぃにご連絡を。⋯それと、真衣お嬢様もぼっちゃまのご到着を心待ちにしていらっしゃることは、お忘れなきようにお願い致します。」
「ああ、わかった。」
ではお荷物だけお先に、と俺の小さな旅行カバンを抱え、じぃは頭を下げて去っていった。
外に車を待たせているのだろうに、本当に申し訳ない。
だが俺を信じてくれて感謝する、その信頼は決して裏切らない。
必ず決意を固めて屋敷へ赴こう。
それから、俺の心を少しでも軽くして帰りやすくするために真衣のことを持ち出してくれたのだろうことも。
屋敷に帰るのは憂鬱だが、久々に可愛い妹には会いたい。
⋯お兄ちゃまは必ず心を決めるから、待っていてくれ、真衣。
じぃの言う通り、俺の帰りを今か今かと待っているだろう幼い妹に、俺は念を込めた。