月巡りて、満ちる。
『兎さんが舞い降りてくると思わなかったからグラス一つしか持ってきてないの。取ってきましょうか?』
「ううん。お気持ちだけ。僕は地球の物を口にしてしまったら月に帰れなくなってまうので」
『ふふっ…そうなんだ。それじゃあ遠慮なく私だけ頂きますね』
「どうぞどうぞ。幸せそうなお姉さんを見てるだけで僕も幸せな気持ちになるなぁ」
今度は彼の視線が私に向けられる。流石にジッとはしていられなくて、つい視線を返してしまう。
『あんまり見られると恥ずかしいなぁ』
「だって綺麗やもん。ずっと見てたくなる。ねぇ、僕と一緒に月に帰らへん?」
ふざけているのか真剣なのか表情からは全く読めないけれど、もし本当に月に連れて行ってくれるのなら、それはそれでアリかもしれない。
私は黙って頷いた。
彼は嬉しそうに微笑み、私の手を取った。
大きな手と長い指にドキドキしてしまう。
「ホンマに綺麗や。誰にも見せたない」
彼の指が髪を撫でる。どんどん顔が近付いてくる。何の合図も無しに目を閉じると唇が触れ合った。彼の唇は冷たくて、思わずピクリと身体が反応してしまった。
触れていたのはほんの数秒だけだった。それでももっと欲しくなっているのが分かる。ゆっくりと目を開けて求めるように見つめると、彼は察したようで再びキスをくれた。
今度は何度も角度を変え、貪るように深く深く求め合った。背筋がゾクゾクと震え、脳にまで伝わるのが分かる。こんな場所だからなのか、こんな夜だからなのか、とにかく感じたことのない快感が突き抜けていく。
「…ッ…ハァッ…これ以上はアカンわ…止められへんくなる…」
彼の言うことは最もだ。でももっと触れたくて、触れて欲しくてどうにかなってしまいそうだった。彼の腕の中から見えた月は明るいような寂しいような光を放っていて、本当にこのまま吸い込まれてしまえば良いのにと思った。
そして別れの時間がやってきた。
彼はゆっくりと私から離れ、そしてまた優しく微笑む。
「もうそろそろ行かんと」
『…そっか』
彼を照らす月の光はやっぱり少し寂しくて、切ない気持ちでいっぱいになる。彼は私の頬に優しく触れ、愛おしそうに見つめる。
『また会える?』
「もちろん。また次の満月の夜に迎えに来るな。とびきりお洒落して来てや?」
『ふふっ…分かりました。とびきり、ね』
小さく返すと彼は微笑み、そしてゆっくりとその場を去って行った。さっきまで触れていた頬も唇も熱なんて一つも残っていなくて、それが何だか彼らしいなと思った。
グラスに残ったお酒をグッと飲み干しす。
空のグラス越しに見える月は、少し歪んで見えた。ようやく酔えた気がした。
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