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彷徨う騎士とある黒猫

おやつにドーナツを買って、帰ろうとしたときだった。
ふにゃりと柔らかい感触がして、地面に吸い込まれてしまった。

「わわっ!?」

ドーナツを抱え込み、受け身を取ることを忘れていた。手遅れだけど、怪我するのも怖くて目を瞑ったが──考えいた程の衝撃はなくて、どこも痛くなかった。
疑問に思いつつも目を開けると、ムリナールさんが私の顔を覗き込んでいた。

「ムリナールさん……?」

どうやらムリナールさんが受け止めてくれたらしい。表情一つ変えずに、私をゆっくりと降ろしてくれた。

「ありがとうございます!いきなりでびっくりしちゃった……」
「……あぁ」

見ている限りは怪我をしていたり、体調が良くない、という感じでもない。でも、なんだか落ち着かない感じがする。

「どうかしました……?」
「あれを」

彼が指差した先には、とんでもないことが書かれていた。
『キスしないと出られない部屋』
変な声が出たし、挙動がおかしくなって、すごく恥ずかしかった。

「えっと、その、これって……」
「そういうことだ。残念だが、通信は繋がらない。アーツで壁を斬ったが、まるで手応えがなかった」
「そんな……」

自分でもわかるくらい、耳と尻尾が萎れた。おやつタイムはなくなるし、落ちた先がとんでもない部屋だった。
でも、ムリナールさんはいつものような涼やかで、鋭い目をしていた。ドキドキしているのは私だけなのだろう。
それもそうだよね。騎士の一族で、場数も踏んでいるから、感情の起伏が表に出ないように訓練しているはずだから。
慌てる私とは対照に、彼は冷静さを保っている。
ムリナールさんは、女性慣れしているのだろうか?カジミエーシュには綺麗な人が多いし、彼は格好良くて強いから、付き合っている人の一人や二人いても、おかしくない。それに、あのニアール家の当主でもあったのだから。
私はヴィクトリアの貴族だけど、身分を返上するつもりだし……そもそも、姪たちと同じ年頃の私を恋愛対象としてみるのは、彼の性格的にありえない。
いつか助けてくれた時に、湧き上がってきたこの気持ち。今更ながらその正体に気付いてしまって、視界が滲む。

「フローリア」

呼ばれているのはわかっている。けど、振り返れば泣き顔を見せることになるし、声も出したくない。

「……フローリア」

いつもの手甲を外した指は長くて骨張っている。少しの間、私の肩や首筋を彷徨った指先は、頬に添えられ、目元の涙を拭った。

「……私のような人間と口付けをするのは嫌かもしれない。だが、伝えたいことがある」

嫌だということを否定したいのに、嗚咽が漏れてしまう。

「諦めるのも嫌われるのも慣れてはいるが……貴女に拒まれることが、何よりも恐ろしい」

腰を引き寄せられて、背中越しに彼の体温が伝わってくる。首筋に彼の髪の毛が当たってくすぐったい。
我慢できなくなって、彼の方を向いた。
無表情かと思いきや、憂いを帯びた瞳をしていて、耳はぺたんと折りたたまれている。それでも、私を見据える目は真っ直ぐで。

「フローリア、貴女のことが好きだ。嘘偽りのない、本当の気持ちだ」

逸らすことも、逃げることも許されないけど、今の私には彼の言葉を理解するのが精一杯だった。

「答えを……聞かせてくれないか」

いつの間にか押し倒されていた。
整った顔と低く掠れた声で迫られ、言いたいことは全部吹き飛んだ。

「私も、です……」

詰まりながらも何とか返事できたけど、情けない姿を好きな人に晒してしまって、恥ずかしくて仕方がなかった。
悶えている間に、彼の顔は喉元に降りてきていた。生暖かい感触と、吸い上げられる痛みが走った。

「ムリナールさん……?」

彼は嬉しそうに目を細めて、跡をなぞる。
鍵が開いたような音がしたが、彼は離してくれなさそう。

「鍵が……」

完全に私の上に覆い被さり、強く抱きしめてきた。姉や祖父母に抱きしめてもらうことはあったけど、他の異性とこんな事をするのは初めてのことで……。

「すまない、ここだと二人きりだからな」
「わ、わかりました……」

この体温が心地良くて、私も彼の首筋に顔を埋める。頭を撫でてもらえて、耳も尻尾も元気になってきた。
その流れでドーナツのことを思い出した。

「どうした?」
「帰ったら食べようと思って、ドーナツを買っていたんです」
「そうだったのか……なら、名残惜しいが戻ろう」

いざ立ち上がると、力が抜けていてちょっとふらついてしまった。そんな私に、ムリナールさんはあの時みたいに手を差し伸べてくれた。
手を繋いで戻ると、見慣れたロドスの廊下だった。壁にはお姉様達が寄りかかって、私を待っていた。

「おかえり……連絡つかなくて心配したけど、その様子だと大丈夫そうだね」
「ただいま、わ!ほんとだ……ごめんね」
「本当ですよ妹様!俺もドーナツもらいますからね!」
「馬鹿なこと言うなよセオドア、今度買ってあげるからさっさと行くよ。邪魔して悪かったね、二人で楽しんでおいで」

お姉様はセオドアを引き摺りながら部屋に戻り、私もムリナールさんとおやつタイムへ。
彼が淹れてくれたコーヒーは、買ってきたドーナツとよく合っていた。

「良かったのか、彼らと一緒じゃなくて」
「お姉様のことです、何を言っても戻っていたかな……と」
「そうか。彼らには感謝しよう」

それにしても、食べる姿も綺麗だ。
普段の所作の美しさからわかってはいたけど、見惚れてしまう。

「私の顔に何か付いているのか?」
「い、いえ……!」

今日一日でたくさんのことが起きた。
敵部隊を密やかに処理できたし、限定のドーナツも買えた。それに、ムリナールさんと一緒に過ごせて……私は幸せだ。

「フローリア、口元に付いている」

声を出す前に彼が先に動いた。
クリームを器用に舌で拭うと、そのまま私の唇を奪った。

「……!?」
「さっきは喉元にしたからな」

一瞬のことだったけど、あまりの手際の良さにまたしても私は翻弄された。彼の方は嬉しそうに尻尾も揺らしていた。

「ごちそうさま……人も増え始めたし、部屋で話そうか」

いつもの気怠そうな雰囲気とは全然違う大人の色気を全面に出すムリナールさん。
このまま彼に溺れてしまおう。
そう決めた私は、彼と一緒に戻ることにした。
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