嫌いだとでも思ったか
「もし、俺がいなくなったら、君はどうするね?」
リビングで紅茶をすするケツァルコアトルが、何となしにそんなことを口にした。午後三時に似つかわしくない重たい話題を口にする彼に、テスカトリポカは少し瞬きをして、それから口を開く。
「いなくなる予定でもあるのかね?」
「今はない」
即答されたそれに、ふむ、と眉をひそめるテスカトリポカである。
もし、も何も、一度いなくなったじゃあないか。そう指摘しようとも思ったが、これはそういう話ではないのだろう。
「東京からいなくなる、ということでいいのかね?」
「うん、そう考えていい」
テスカトリポカの問いにケツァルコアトルが頷く。ふうん、と声を漏らしたテスカトリポカが、顎に指をやりながら、もう一つ訊ねた。
「君がどこへ行ったかは分かる仕様かね?」
「んー……じゃあ、うん、分かるとしたら?」
そこまでは考えていなかったか。アドリブのような返しにテスカトリポカはしばし考える。
もし、ケツァルコアトルがいなくなったら。
どこに行ったかは分かっていたら。
「ならば追いかけようというものだよ」
悩むまでもなく出た答え。それはテスカトリポカを納得させるのに充分で、問いかけてきたケツァルコアトルを瞠目させるのにも充分だった。
黒き太陽は迷わず言葉を重ねる。
「エルドラドから出ていかれた時とは状況が違うのだからね。私はエルドラドの世界代行者だから、故郷を放り出して君を追いかけることは難しかったが……東京のことは一ミリも背負っていない。迷わず追いかけに行くというものさ」
ケツァルコアトルはその返答に、ふむ、と声を漏らした。そしてテスカトリポカを見て、ならば、と口を開く。
好奇心に満ちた瞳をしていた。
「どこに行ったか、分からなかったら?」
「この体が擦り切れるまで探し回る。要するに……それでも追いかける、ということだね」
ジャガーの獣人が、紅茶のカップを手にとって、口内を潤した。彼の一挙手一投足を見ていた竜蛇は、小さく息をついて、それから不思議そうな声を上げた。
「迷わんのだね、君は」
追いかける、と、特に深く考えた素振りもなく言ったからか。テスカトリポカがケツァルコアトルの方に目を向けると、ケツァルコアトルはやや照れた様子で目を伏せていた。
ふん、と鼻を鳴らす世界代行者が、かつての追放者……今は愛しき片割れに向かって言葉を返す。
「迷っている暇はなかろうよ。君は自由だ。まごついていたら、あっという間に距離を離される」
「それはたしかに。俺は待たないだろうな」
「そうだろう?」
まったく。と肩を竦めながら言うテスカトリポカに、ケツァルコアトルが笑った。
「いいかね、ケツァル……我が半身よ。君は私と対等なのだよ? いつ、いかなる時もだ。そんな君が世界を出ていくというのなら、私は君を追いかける。必ずだ」
「なんで、そこまで」
「君と肩を並べられる存在は、私をおいて他にないのだよ!」
「ショロトルは?」
「あーっ。ずるい男だ。こんな時に例外中の例外を持ち出して」
真面目に話をしていたかと思えば、突然不機嫌になって拗ねたことを言うテスカトリポカに、ケツァルは口元を押さえる羽目になった。君の一番は私だろう? と、聞く者によっては自惚れとも取れる発言をしながら、黒いジャガーはケツァルコアトルを真っ直ぐに見つめてくる。
「そうだ、ケツァルコアトル。君に追いついた暁には、君のことを一発殴らせてくれまいか」
いなくなること前提の提案に、ケツァルコアトルはついに耐えきれず、声を上げて笑った。
「嫌だよ! なんでだよ!」
「なんでもへったくれもあるものかね! 君を探して追いかける労力を考えてみ給えよ!」
「ふはは! よほど疲労困憊したと見える!」
「心身ともに耗弱 したよ!」
「ふはははは!」
心身ともに。
身も心も擦り切れて、それでもなお探し求めていたという。影も形もない、ケツァルコアトルの行方を、ひたすら追いかけていたのだと。
ケツァルコアトルが
「どこにも行くなと俺を閉じ込めることもできるんじゃないか?」
と、今思いついたことを口にすれば
「それを振り払って出ていくのが君じゃあないか」
自己分析が甘いぞう、きょうだい。などと、テスカトリポカが返した。
議論するまでもないことだったようだ。この話はここでおしまいだよ、とテスカトリポカが言うのに、ケツァルコアトルも頷く。二人で残った紅茶を一気に呷り、一息ついた。
「それにしても、俺は殴られるのかね」
「当たり前だろう、君ィ。どれだけ心配したと思っているのだね」
「ふうん、心配してくれていたのか、君。俺のことを。……どれほどだね?」
足を組む。頬杖をつく。楽しそうにケツァルコアトルが問う。
それにテスカトリポカは、じっとりとした視線を向けて対抗した。やや口を尖らせているのは、不機嫌だからだろうか。
「私の既にない臓腑が、ごそりと抜け落ちたかのようだったよ」
「はははは! ないものが抜け落ちるわけないだろ! エルドラドジョークも大概にし給えよ!」
ウケた。
テスカトリポカのエルドラドジョーク……サモナーには微妙な反応をされるし、イツァムナーやショロトルからは眉をひそめられるそれは、ケツァルコアトルの笑い声を誘うものだったらしい。
「君がいなくなって呼吸が止まったのだからね、きょうだいよ?」
「そのまま息の根が止まれば良かったんだよ」
「うわあ、酷いことを言ってくれる」
「はははは!」
ケツァルコアトルの明るい声が響く。冗談ではなくてね? というテスカトリポカからの苦言さえも、ケツァルコアトルの笑いのツボを刺激した。
「つまり君、テスカトリポカ……君は、俺がいなくなったら必ず追いかけて来てくれると、そう言うわけだな? 本気なんだな?」
「先程からそう言っているじゃないかね! 私は君の隣に立つべく、必ずや探し、求め、追いかけるだろうよ!」
分かった、覚えておく。
ケツァルコアトルは短くそう返事をして、喉の奥で笑っていた。よほど嬉しいセリフだったのだろう。黒い太陽を眩しそうに見つめ、上機嫌だった。
「俺も、テスカトリポカがいなくなったら、追いかけるとするかな」
「君なら、途中で別のものに気を取られて脱線すると思うがね?」
「わーっ! 酷いことを言うもんだ!」
「フハハハ、意趣返しだとも! きょうだい!」
午後三時のリビングは。
二人の不機嫌と上機嫌と、新しく淹れた紅茶の香りが入り混じり、騒がしくも熱い、そんな雰囲気に満ちていた。
リビングで紅茶をすするケツァルコアトルが、何となしにそんなことを口にした。午後三時に似つかわしくない重たい話題を口にする彼に、テスカトリポカは少し瞬きをして、それから口を開く。
「いなくなる予定でもあるのかね?」
「今はない」
即答されたそれに、ふむ、と眉をひそめるテスカトリポカである。
もし、も何も、一度いなくなったじゃあないか。そう指摘しようとも思ったが、これはそういう話ではないのだろう。
「東京からいなくなる、ということでいいのかね?」
「うん、そう考えていい」
テスカトリポカの問いにケツァルコアトルが頷く。ふうん、と声を漏らしたテスカトリポカが、顎に指をやりながら、もう一つ訊ねた。
「君がどこへ行ったかは分かる仕様かね?」
「んー……じゃあ、うん、分かるとしたら?」
そこまでは考えていなかったか。アドリブのような返しにテスカトリポカはしばし考える。
もし、ケツァルコアトルがいなくなったら。
どこに行ったかは分かっていたら。
「ならば追いかけようというものだよ」
悩むまでもなく出た答え。それはテスカトリポカを納得させるのに充分で、問いかけてきたケツァルコアトルを瞠目させるのにも充分だった。
黒き太陽は迷わず言葉を重ねる。
「エルドラドから出ていかれた時とは状況が違うのだからね。私はエルドラドの世界代行者だから、故郷を放り出して君を追いかけることは難しかったが……東京のことは一ミリも背負っていない。迷わず追いかけに行くというものさ」
ケツァルコアトルはその返答に、ふむ、と声を漏らした。そしてテスカトリポカを見て、ならば、と口を開く。
好奇心に満ちた瞳をしていた。
「どこに行ったか、分からなかったら?」
「この体が擦り切れるまで探し回る。要するに……それでも追いかける、ということだね」
ジャガーの獣人が、紅茶のカップを手にとって、口内を潤した。彼の一挙手一投足を見ていた竜蛇は、小さく息をついて、それから不思議そうな声を上げた。
「迷わんのだね、君は」
追いかける、と、特に深く考えた素振りもなく言ったからか。テスカトリポカがケツァルコアトルの方に目を向けると、ケツァルコアトルはやや照れた様子で目を伏せていた。
ふん、と鼻を鳴らす世界代行者が、かつての追放者……今は愛しき片割れに向かって言葉を返す。
「迷っている暇はなかろうよ。君は自由だ。まごついていたら、あっという間に距離を離される」
「それはたしかに。俺は待たないだろうな」
「そうだろう?」
まったく。と肩を竦めながら言うテスカトリポカに、ケツァルコアトルが笑った。
「いいかね、ケツァル……我が半身よ。君は私と対等なのだよ? いつ、いかなる時もだ。そんな君が世界を出ていくというのなら、私は君を追いかける。必ずだ」
「なんで、そこまで」
「君と肩を並べられる存在は、私をおいて他にないのだよ!」
「ショロトルは?」
「あーっ。ずるい男だ。こんな時に例外中の例外を持ち出して」
真面目に話をしていたかと思えば、突然不機嫌になって拗ねたことを言うテスカトリポカに、ケツァルは口元を押さえる羽目になった。君の一番は私だろう? と、聞く者によっては自惚れとも取れる発言をしながら、黒いジャガーはケツァルコアトルを真っ直ぐに見つめてくる。
「そうだ、ケツァルコアトル。君に追いついた暁には、君のことを一発殴らせてくれまいか」
いなくなること前提の提案に、ケツァルコアトルはついに耐えきれず、声を上げて笑った。
「嫌だよ! なんでだよ!」
「なんでもへったくれもあるものかね! 君を探して追いかける労力を考えてみ給えよ!」
「ふはは! よほど疲労困憊したと見える!」
「心身ともに
「ふはははは!」
心身ともに。
身も心も擦り切れて、それでもなお探し求めていたという。影も形もない、ケツァルコアトルの行方を、ひたすら追いかけていたのだと。
ケツァルコアトルが
「どこにも行くなと俺を閉じ込めることもできるんじゃないか?」
と、今思いついたことを口にすれば
「それを振り払って出ていくのが君じゃあないか」
自己分析が甘いぞう、きょうだい。などと、テスカトリポカが返した。
議論するまでもないことだったようだ。この話はここでおしまいだよ、とテスカトリポカが言うのに、ケツァルコアトルも頷く。二人で残った紅茶を一気に呷り、一息ついた。
「それにしても、俺は殴られるのかね」
「当たり前だろう、君ィ。どれだけ心配したと思っているのだね」
「ふうん、心配してくれていたのか、君。俺のことを。……どれほどだね?」
足を組む。頬杖をつく。楽しそうにケツァルコアトルが問う。
それにテスカトリポカは、じっとりとした視線を向けて対抗した。やや口を尖らせているのは、不機嫌だからだろうか。
「私の既にない臓腑が、ごそりと抜け落ちたかのようだったよ」
「はははは! ないものが抜け落ちるわけないだろ! エルドラドジョークも大概にし給えよ!」
ウケた。
テスカトリポカのエルドラドジョーク……サモナーには微妙な反応をされるし、イツァムナーやショロトルからは眉をひそめられるそれは、ケツァルコアトルの笑い声を誘うものだったらしい。
「君がいなくなって呼吸が止まったのだからね、きょうだいよ?」
「そのまま息の根が止まれば良かったんだよ」
「うわあ、酷いことを言ってくれる」
「はははは!」
ケツァルコアトルの明るい声が響く。冗談ではなくてね? というテスカトリポカからの苦言さえも、ケツァルコアトルの笑いのツボを刺激した。
「つまり君、テスカトリポカ……君は、俺がいなくなったら必ず追いかけて来てくれると、そう言うわけだな? 本気なんだな?」
「先程からそう言っているじゃないかね! 私は君の隣に立つべく、必ずや探し、求め、追いかけるだろうよ!」
分かった、覚えておく。
ケツァルコアトルは短くそう返事をして、喉の奥で笑っていた。よほど嬉しいセリフだったのだろう。黒い太陽を眩しそうに見つめ、上機嫌だった。
「俺も、テスカトリポカがいなくなったら、追いかけるとするかな」
「君なら、途中で別のものに気を取られて脱線すると思うがね?」
「わーっ! 酷いことを言うもんだ!」
「フハハハ、意趣返しだとも! きょうだい!」
午後三時のリビングは。
二人の不機嫌と上機嫌と、新しく淹れた紅茶の香りが入り混じり、騒がしくも熱い、そんな雰囲気に満ちていた。