だあれだ?

 珍しく仕事をしている。
 部下から悪態のような感想を投げつけられるほど、仕事から逃げ出すことの多い男が、書類を睨みつけるように黙読し、サインを書き込んでいた。
 内容は詳しく述べることができないが、ケツァルコアトルに関連したものである、ということだけはハッキリしている。
 書類の内容を確認し、押印し、サインし……随分と集中して仕事をこなしていたテスカトリポカは、だからなのか、気づかなかった。
 背後に何者かが忍び寄っていることに。

 テスカトリポカの視界を無理やり遮るように、長いものが巻き付いてきた。

 背後で誰かの息遣いが聞こえる。
 鱗があることは、頬に触れる長いものの動きと感触で分かった。鱗ではない部分はすべすべとしていて、滑らかである。テスカトリポカよりもやや低い体温の持ち主であることも伺えた。
 そして、耳元で声。
「だーれだ?」
 聞き慣れた宿敵のそれに、学園軍獄の最前線指揮官は、少し黙り込んだ。
「さあ? 皆目見当がつかな痛だだだだだ!!」
 テスカトリポカの頭を、宿敵……ケツァルコアトルの尻尾がミシミシと絞め上げたのは直後。

「何だね突然!? 何がしたいのだね、君は」
 頭を押さえつつ、テスカトリポカが背後に視線を向ける。ケツァルコアトルは笑っていた。何がおかしいのか。さらに不機嫌になるジャガーだ。
「ちょっと訊きたくてね」
 いたずらっぽい笑みを浮かべている羽毛ある蛇は、きっとテスカトリポカではない相手には、こんな乱暴な悪戯はしかけなかっただろう。
 真っ向から迎え討ってくれる、信頼の置ける大好きなきょうだいだから、無茶な真似をしたのだ。
「訊きたいとは……何を」
 美しい翼を持つ竜蛇に、テスカトリポカが問いかける。問われた方の彼は、うん、と短く答えてから、目を伏せて、口を開いた。

「なあ、テスカトリポカ。君にとって、俺はいったい誰だね? どんな存在で、どのようなものだね? ……それを、君の口から聴きたかった」

 呆れたようにジャガーは返す。
「面と向かって訊ねればいいことではないのかね」
「へえ、驚いた」
 ケツァルコアトルはからかう。テスカトリポカを小馬鹿にしたように、笑って返す。
「なら君は、同じことを面と向かって訊ねられるのかね? そんな度胸があるとは驚きだよ、君」
 ぐぬぅ、と……テスカトリポカが唸る。
 それを見て、ケツァルコアトルが笑う。
 君にとって自分はどんな存在だ、などと、目を合わせて、顔を突き合わせて、直接訊ねることができていたなら、きっと二人は今頃、まだエルドラドにいただろうから。
 完全に黙らされたテスカトリポカは、不機嫌そうにじっとりとした視線をケツァルコアトルに送る。ケツァルコアトルは、そんなテスカトリポカの目を、両手でそっと塞いだ。
「……だーれだ?」
 再びの問い。
 それに返るのは

「……私の最愛の宿敵であり、友であり、きょうだいである半身だとも」

 いつもの口上だ。
「それ以外では?」
 つまらなそうなケツァルコアトルの声に、それ以外ぃ? と上ずった声で聞き返すジャガーが、小さくため息をついて、それからこう言った。
「……心底愛しい片割れだよ」
「ふはは! 心底愛しいか! これは良いことを聞いたな! 向こう十年はからかえる!」
「意地悪だなあ、君ィ」
 満足したのか、ケツァルコアトルがテスカトリポカの瞼から手を離す。うっすらと目を開けたジャガーの彼が、笑うケツァルコアトルに静かにすり寄って、その手で羽毛ある蛇の瞼を閉じる。
「……私は、誰だね?」
 ささやくようなテスカトリポカからの問いかけに、口角を上げたままのケツァルコアトルは、それは上機嫌に返すのだった。

「最低で」

「ひどくないかね」
「まあ、聞けよ」
 ふはは!
 笑い声を上げながら、目を閉じたままのケツァルコアトルが、テスカトリポカの手に触れた。
「君は、最低で、最悪で、最高で、最愛の……俺の……俺だけの鏡だよ」

 ケツァルコアトルの瞼が開かれた時、目の前の真っ黒な男は、なんとも微妙な表情をしていた。
 あまりにもストレートな愛情のぶつけ合いに、参ってしまったのだろう。
 それを見てケツァルコアトルはカラカラと笑ったし、手を叩いて、腹を抱えた。
「喜べばいいだろ!」
 快活に言ってくれるケツァルコアトルに、あのねえ、と苦言を呈するのはテスカトリポカ。

「私だって、照れや羞恥の心はあるよ」

「はっはっはっはっはっはっは!」
「笑うことないだろう、君ィ、薄情な!」
 いたずらっ子のように笑ってテスカトリポカの追及から逃げるケツァルコアトルは、聞きたいことが聞けて、言いたいことが言えて、大いに納得したらしい。最後には、テスカトリポカに抱きついて大笑いしていた。

「もう言ってやらんからね、そんなに笑うなら」

 不貞腐れたテスカトリポカは、しかしケツァルコアトルを抱きしめる手は、緩めなかった。
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