笑おうか、ダーリン
笑おうか、ダーリン 1/2
最低限の機能しかないというのは、実に不便だ。
壊れかけといっても過言ではない体を見ながら、ケツァルコアトルは思った。
涙を流す機能はあまりない。目は潤むが筋となって流れることはないのだ。
爪も髪もおそらく伸びない。成長し、補修する機能はその体にはない。
だが本人はその体をこそ誇っている。これでいい、これがいい、失うことこそ我が喜びであると。
そこに多少の意地が入っていることを、ケツァルコアトルは知っている。体を失って後悔したこともあるだろうと、ケツァルコアトルは分かっている。
テスカトリポカは、そんな後悔もまるごと自分の経験だと、自分自身の足跡だと言う。そこに嘘はないだろう。冗談で言っているわけでもないだろう。心臓を世界に捧げ、心を片割れたる竜蛇に捧げた彼は、愛しい傷跡を誇りだと言ってやまないのだ。
そんな不便な体に自身を押し込めて笑う半身。
彼が自発的に笑い出したのはいつからだったか。
羽毛ある蛇はジャガー獣人の彼を横目で見ながら考える。
たしか、創世のために右足を差し出したときも、彼は笑っていなかったか。分かりやすいエサに飛び付くとは、あれも大したことはなかった、などと軽口を叩いて、死にそうな顔で涙を堪えていたケツァルコアトルの神経を逆撫でしたのではなかったか。
それから彼は信仰に則って、体を捧げるようになっていった。捧げるたびに、テスカトリポカに笑顔が増えていった。曇った表情で彼を見て、生け贄信仰に疑問を抱いていたケツァルコアトルを置き去りに、彼はしょっちゅうこちらに笑いかけてくるようになった。
理由は分かっている。
ケツァルコアトルに笑っていてほしかったからだ。
鏡写しなのだら、片方が笑えばもう片方も笑う。そう過ごしてきたし、間違いはないことだった。
だが、体を次々に失っていく大切な存在に、笑えと言われて笑えるものだろうか。どれだけ自分が泣いたと思っているんだ、と恨みがましい気分になったケツァルコアトルが、小さくため息をついた。
息を吸うとき、ず、と鼻をすする音がした。
いつのまにか、少し泣いていたのだ。過去を思いだし、そうして、泣く機能を持たない彼の体を見つめながら、ケツァルコアトルのほうが泣いていた。
「……どうしたんだね、君。私のことを見ながら泣いて」
ポカンとした表情のテスカトリポカが、涙ぐんでぐずぐずと鼻をならしているケツァルコアトルの頬に触れた。喧嘩をしたときには容赦なく振るわれる拳が、今日は優しく開かれて、包むように、撫でさするように、ケツァルコアトルに触れている。
ああ、ああ、どうしてこんなに気のいい半身が体の全てを持っていかれなければならなかったのだ。それを目の前のこいつが望んだことだったとしても、誰かが「もういい」と言ってやらなかったのか。
自分は言った。何度も言った。もういい、やめろ、生け贄をやめよう、と何度も訴えた。それに返ってくるのは戦争だったが。テスカトリポカは世界代行者として、ケツァルコアトルの訴えを理解できなかったのかもしれない。そう思っても、理解できないほど馬鹿じゃなかったろうお前、という恨み言が頭の片隅に湧くケツァルである。
涙がこぼれた。
「ケツァルコアトル」
焦ったようなテスカトリポカの声。
そりゃあ、いきなり泣き出したら誰だって焦るだろう。
ケツァルコアトルは鼻声で「なんでもない」と返した。テスカトリポカは悲痛な表情になって、固まっていた。逆効果というやつだ。
「お前が泣けなくなった分を、俺が泣いているだけだから」
だから、少し放っておいてくれ。
そういってボロボロと涙を流すケツァルコアトルに、テスカトリポカは呆けた表情で……ケツァルの目からあふれる塩辛い雫を、舌で舐めとる。昔、じゃれあって世界を駆け回っていたころ、やんちゃをしすぎて泣く羽目になったケツァルにそうしたように。
「今このタイミングで泣くのかね、君……」
「笑わば笑え、きょうだい」
「笑わんよ。呆気にはとられているがね」
テスカトリポカが苦笑いをひとつ。ケツァルコアトルの頭を撫でながら、泣かんでよろしい、と言う。
その苦笑いに、ケツァルコアトルの涙腺はさらに刺激された。
苦笑、微笑、呵呵大笑、哄笑、失笑、ごまかし笑い。
笑顔のレパートリーが豊富な片割れは、泣けないから笑うのだ。
「俺を……俺、を、笑わせようと、するな」
べそべそと泣きながら、ケツァルコアトルはテスカトリポカにしがみついて言う。
鏡写しなのだら、片方が笑えばもう片方も笑う。そう過ごしてきたし、間違いはないことだった。
だが、今じゃない。
今このタイミングで泣くのかと驚いたテスカトリポカに、今このタイミングで笑うんじゃないとケツァルコアトルは言う。
「無理するなよ」
竜蛇の一言に、世界代行者は吹き出した。
「無理しているのはどちらだね……こんなに目を真っ赤に腫らして」
「違う、違う、やめろ、そうやって笑うな。俺の機嫌を取ろうとするな。俺は……俺、は、お前が、泣く代わりに、笑ってることを、知ってるんだから」
「私はね」
テスカトリポカが、ケツァルコアトルをゆるく抱き締める。
とはいってもジャガーの力だ。ぎゅう、と体を締め付けられる感触はしたし、少しだけ苦しかった。
「君には、笑っていてほしいよ」
テスカトリポカの言葉に、ケツァルコアトルは「うわあ」と声を絞り出して泣いた。
「お前が泣けないから! 俺が! 泣いてるんだ! 馬鹿!」
「そんなことを頼んだかね」
「頼まれてないさ! 俺がそうしたいからそうしてるんだ、邪魔するな」
「やれやれ、とんだ暴君だ」
わあ、わあ、と声をあげてなく片割れに、テスカトリポカは静かに目を閉じて、やはり笑っていた。
最低限の機能しかないというのは、実に不便だ。
壊れかけといっても過言ではない体でケツァルコアトルを抱き締めながら、テスカトリポカは思った。
この体で「泣かないでほしい」と言ったところで逆効果だ。ケツァルコアトルの神経を逆撫でして、さらに泣かせてしまうだろう。
昔もこうして泣かれたっけ。
テスカトリポカは、自身を生け贄にしたときのことを思い出す。
やめよう、生け贄なんか。そう言ってケツァルコアトルは泣きそうな顔で訴えてきたのだ。生け贄「なんか」という言葉にカチンときたテスカトリポカが起こした行動は、もちろん戦争だったが。
その頃は、自分にしか見せないその表情に後ろ暗い喜びを抱いていたものだ。君がいなくなると悲しい、と言外に示された表情に、えもいわれぬ優越感や達成感を覚えていた。
それが、どうだろう。
今は、どうだろう。
いや、嬉しいのだ。ケツァルコアトルが自分のために泣いてくれるのは。
しかし、昔のような感情ではないと、テスカトリポカは感じていた。
今はもうない心臓のあたりが、温かくなる錯覚に陥る。愛されているのだな、などと、くすぐったくなる。ケツァルコアトル、我が半身よ、優しいね、君は。そう言って、竜蛇にそっと触れたくなる。
最低限の機能しかないというのは、実に不便だ。
壊れかけといっても過言ではない体を見ながら、ケツァルコアトルは思った。
涙を流す機能はあまりない。目は潤むが筋となって流れることはないのだ。
爪も髪もおそらく伸びない。成長し、補修する機能はその体にはない。
だが本人はその体をこそ誇っている。これでいい、これがいい、失うことこそ我が喜びであると。
そこに多少の意地が入っていることを、ケツァルコアトルは知っている。体を失って後悔したこともあるだろうと、ケツァルコアトルは分かっている。
テスカトリポカは、そんな後悔もまるごと自分の経験だと、自分自身の足跡だと言う。そこに嘘はないだろう。冗談で言っているわけでもないだろう。心臓を世界に捧げ、心を片割れたる竜蛇に捧げた彼は、愛しい傷跡を誇りだと言ってやまないのだ。
そんな不便な体に自身を押し込めて笑う半身。
彼が自発的に笑い出したのはいつからだったか。
羽毛ある蛇はジャガー獣人の彼を横目で見ながら考える。
たしか、創世のために右足を差し出したときも、彼は笑っていなかったか。分かりやすいエサに飛び付くとは、あれも大したことはなかった、などと軽口を叩いて、死にそうな顔で涙を堪えていたケツァルコアトルの神経を逆撫でしたのではなかったか。
それから彼は信仰に則って、体を捧げるようになっていった。捧げるたびに、テスカトリポカに笑顔が増えていった。曇った表情で彼を見て、生け贄信仰に疑問を抱いていたケツァルコアトルを置き去りに、彼はしょっちゅうこちらに笑いかけてくるようになった。
理由は分かっている。
ケツァルコアトルに笑っていてほしかったからだ。
鏡写しなのだら、片方が笑えばもう片方も笑う。そう過ごしてきたし、間違いはないことだった。
だが、体を次々に失っていく大切な存在に、笑えと言われて笑えるものだろうか。どれだけ自分が泣いたと思っているんだ、と恨みがましい気分になったケツァルコアトルが、小さくため息をついた。
息を吸うとき、ず、と鼻をすする音がした。
いつのまにか、少し泣いていたのだ。過去を思いだし、そうして、泣く機能を持たない彼の体を見つめながら、ケツァルコアトルのほうが泣いていた。
「……どうしたんだね、君。私のことを見ながら泣いて」
ポカンとした表情のテスカトリポカが、涙ぐんでぐずぐずと鼻をならしているケツァルコアトルの頬に触れた。喧嘩をしたときには容赦なく振るわれる拳が、今日は優しく開かれて、包むように、撫でさするように、ケツァルコアトルに触れている。
ああ、ああ、どうしてこんなに気のいい半身が体の全てを持っていかれなければならなかったのだ。それを目の前のこいつが望んだことだったとしても、誰かが「もういい」と言ってやらなかったのか。
自分は言った。何度も言った。もういい、やめろ、生け贄をやめよう、と何度も訴えた。それに返ってくるのは戦争だったが。テスカトリポカは世界代行者として、ケツァルコアトルの訴えを理解できなかったのかもしれない。そう思っても、理解できないほど馬鹿じゃなかったろうお前、という恨み言が頭の片隅に湧くケツァルである。
涙がこぼれた。
「ケツァルコアトル」
焦ったようなテスカトリポカの声。
そりゃあ、いきなり泣き出したら誰だって焦るだろう。
ケツァルコアトルは鼻声で「なんでもない」と返した。テスカトリポカは悲痛な表情になって、固まっていた。逆効果というやつだ。
「お前が泣けなくなった分を、俺が泣いているだけだから」
だから、少し放っておいてくれ。
そういってボロボロと涙を流すケツァルコアトルに、テスカトリポカは呆けた表情で……ケツァルの目からあふれる塩辛い雫を、舌で舐めとる。昔、じゃれあって世界を駆け回っていたころ、やんちゃをしすぎて泣く羽目になったケツァルにそうしたように。
「今このタイミングで泣くのかね、君……」
「笑わば笑え、きょうだい」
「笑わんよ。呆気にはとられているがね」
テスカトリポカが苦笑いをひとつ。ケツァルコアトルの頭を撫でながら、泣かんでよろしい、と言う。
その苦笑いに、ケツァルコアトルの涙腺はさらに刺激された。
苦笑、微笑、呵呵大笑、哄笑、失笑、ごまかし笑い。
笑顔のレパートリーが豊富な片割れは、泣けないから笑うのだ。
「俺を……俺、を、笑わせようと、するな」
べそべそと泣きながら、ケツァルコアトルはテスカトリポカにしがみついて言う。
鏡写しなのだら、片方が笑えばもう片方も笑う。そう過ごしてきたし、間違いはないことだった。
だが、今じゃない。
今このタイミングで泣くのかと驚いたテスカトリポカに、今このタイミングで笑うんじゃないとケツァルコアトルは言う。
「無理するなよ」
竜蛇の一言に、世界代行者は吹き出した。
「無理しているのはどちらだね……こんなに目を真っ赤に腫らして」
「違う、違う、やめろ、そうやって笑うな。俺の機嫌を取ろうとするな。俺は……俺、は、お前が、泣く代わりに、笑ってることを、知ってるんだから」
「私はね」
テスカトリポカが、ケツァルコアトルをゆるく抱き締める。
とはいってもジャガーの力だ。ぎゅう、と体を締め付けられる感触はしたし、少しだけ苦しかった。
「君には、笑っていてほしいよ」
テスカトリポカの言葉に、ケツァルコアトルは「うわあ」と声を絞り出して泣いた。
「お前が泣けないから! 俺が! 泣いてるんだ! 馬鹿!」
「そんなことを頼んだかね」
「頼まれてないさ! 俺がそうしたいからそうしてるんだ、邪魔するな」
「やれやれ、とんだ暴君だ」
わあ、わあ、と声をあげてなく片割れに、テスカトリポカは静かに目を閉じて、やはり笑っていた。
最低限の機能しかないというのは、実に不便だ。
壊れかけといっても過言ではない体でケツァルコアトルを抱き締めながら、テスカトリポカは思った。
この体で「泣かないでほしい」と言ったところで逆効果だ。ケツァルコアトルの神経を逆撫でして、さらに泣かせてしまうだろう。
昔もこうして泣かれたっけ。
テスカトリポカは、自身を生け贄にしたときのことを思い出す。
やめよう、生け贄なんか。そう言ってケツァルコアトルは泣きそうな顔で訴えてきたのだ。生け贄「なんか」という言葉にカチンときたテスカトリポカが起こした行動は、もちろん戦争だったが。
その頃は、自分にしか見せないその表情に後ろ暗い喜びを抱いていたものだ。君がいなくなると悲しい、と言外に示された表情に、えもいわれぬ優越感や達成感を覚えていた。
それが、どうだろう。
今は、どうだろう。
いや、嬉しいのだ。ケツァルコアトルが自分のために泣いてくれるのは。
しかし、昔のような感情ではないと、テスカトリポカは感じていた。
今はもうない心臓のあたりが、温かくなる錯覚に陥る。愛されているのだな、などと、くすぐったくなる。ケツァルコアトル、我が半身よ、優しいね、君は。そう言って、竜蛇にそっと触れたくなる。
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