デリケートな神様
羽毛の生えた竜蛇の鋭い爪は今、黒と金に彩られていた。ケツァルコアトルの手を取って、真剣な様子でマニキュアを塗り、マニキュアが乾いたらマスキングテープを貼り付け、テープの上から細い筆で金色の線を引く。テスカトリポカは、職人のように淡々と、黙々と作業をこなしている。
マスキングテープを剥がすと、黒地に金色の装飾が施された爪が現れる。かれこれ一時間の大仕事だ。ケツァルコアトルはその間、身動きが取れなくて、やや退屈そうにその作業を眺めているしかなかった。
「終わったよ」
ふう、と爪先に息を吹きかけて、テスカトリポカは静かに言った。黒と金色……すなわち、自分の色に染まった、白い彼の手先を満足げに見つめていた。
「上手いな。上手いが……俺はもっと彩度の高い化粧が好きだよ、テスカトリポカ」
「ああ、そうだろうね。分かっているとも、我が半身、ケツァルコアトルよ」
爪をテスカトリポカと同じ彩色にできて満足なのだろうか。テスカトリポカは目を伏せて笑う。
そうしてケツァルコアトルの手を愛おしげに撫でさすり、口を開いた。
「これはね、ケツァル。マーキングなのだよ」
「それ以外に何があると言うのだね、テスカ」
自分の色に染めるということは、そういう意味だろう。そんなことは分かっている、とケツァルコアトルはやはり退屈そうに返した。
テスカトリポカは微笑む。
「この装飾が消え果てるまでは、君は私のものであると、そう、言わせてほしいのだ、きょうだい」
珍しくしっとりとした声で心情を吐露するテスカトリポカに、ケツァルコアトルは少し黙った。
馬鹿げたことを言うきょうだいだ、と内心でテスカトリポカに少しだけ舌を出す。
嫌なわけではない。決して拒絶したいのではない。しかし、テスカトリポカらしからぬ……いや、ケツァルコアトルを支配しようという気を持ち合わせないテスカトリポカらしい、ささやかな「マーキング」に、気分を害したらしかった。
テスカトリポカは、ケツァルコアトルと対等でいたがる。鏡だから、というだけではないだろう。昔から肩を並べて語り合い、殴り合い、笑い合う関係だったから。だから今でも、彼はケツァルコアトルを支配しない。序列をあまり好まない。
テスカトリポカはなんと言ったか。
「この装飾が消え果てるまでは、君は私のものであると、そう、言わせてほしいのだ、きょうだい」
そう言った。
爪に乗った色が消えるまでの僅かな時間だけ、ケツァルコアトルは彼のものであると、そう。
束縛を好まないケツァルコアトルだが、このささやかかつ、密やかな束縛の仕方には、やや腹が立っていた。
臆病すぎやしないかね、きょうだい。
だが、自分がいつまでもテスカトリポカのものである想像は、ケツァルコアトルにもできなかった。自由な性質を持つ竜蛇だ。世界代行者の手からするりと逃げ出す竜蛇だ。
ケツァルコアトルは小さなため息をつく。
テスカトリポカのやり方が正しいと、自分でそれを認めてしまったからだった。
だが、一方的に装飾されて、それを受け入れるというのは悔しい。対等ならば意見しても問題はないだろう。だからケツァルコアトルは言った。
「馬鹿かね、君は」
ムスッとした表情になるのは仕方ないことだ。だってテスカトリポカが少しだけ微笑んで……愛想笑いか何かだろう、これは。そうやって、ケツァルコアトルをあやしているかのような、そんな表情をしていたからだ。
ジャガー獣人は瞬きをしたあと、軽く俯いた。
「いくら見事な装飾をしたとて、爪が何かに当たれば、簡単に剥げて落ちるじゃないかね」
「そうだよ、ケツァルコアトル。剥げて落ちるとも。最後の一片が無くなるまでの、僅かな間でいいのだよ、私は」
「自己満足に浸りたいのか?」
「自己満足に浸りたいのだよ?」
ケツァルコアトルの、ムスッとした表情は、更に不機嫌さを増した。
子供のような動機で爪を塗り始めたくせに、引き際が大人のようなのは、どういうことだ。
「もう一度言うぞ。馬鹿かね、君は」
もっとテンション高くぶち当たって来い。
君は……俺と鏡写しである君は、強引に笑ってわがままを言うくらい、わけないはずだろう。
「自己満足に浸りたい者が、君一人だけだと思っているなら、それはとんだ勘違いだ」
ケツァルコアトルは、丁重に扱われるのを好まない。万物に通ずる知恵者は、慎重にもてなされることを好まない。
今から自分が言おうとしていることが、やや恥ずかしいことだと思ったのか、ケツァルはテスカから視線をそらして、少しだけ口をとがらせた。
「いいのかね……」
ぼそっと呟かれた言葉に、テスカトリポカがこちらを向く。そして、小さく首を傾げた。
鏡写しの癖に、こんな時は以心伝心じゃないのか。ああもう、きょうだい、君って奴は。
ケツァルコアトルは、だから! と荒くなった口調で、テスカトリポカに向かって告げた。
「いいのかね! トップコートを塗らなくても!」
爪の装飾が剥げて落ちるまで、お前のものだというのなら。
もう少しだけ長く、お前のものでいてやろうかと。
言外で主張された、竜蛇のやり返しに。
テスカトリポカは息を止めた。
息を止めたあと
プハッと吹き出して、笑った。
「それでいいのだね? きょうだい」
「二言はない!」
まるて喧嘩だ。
デリケートな喧嘩だ。
マスキングテープを剥がすと、黒地に金色の装飾が施された爪が現れる。かれこれ一時間の大仕事だ。ケツァルコアトルはその間、身動きが取れなくて、やや退屈そうにその作業を眺めているしかなかった。
「終わったよ」
ふう、と爪先に息を吹きかけて、テスカトリポカは静かに言った。黒と金色……すなわち、自分の色に染まった、白い彼の手先を満足げに見つめていた。
「上手いな。上手いが……俺はもっと彩度の高い化粧が好きだよ、テスカトリポカ」
「ああ、そうだろうね。分かっているとも、我が半身、ケツァルコアトルよ」
爪をテスカトリポカと同じ彩色にできて満足なのだろうか。テスカトリポカは目を伏せて笑う。
そうしてケツァルコアトルの手を愛おしげに撫でさすり、口を開いた。
「これはね、ケツァル。マーキングなのだよ」
「それ以外に何があると言うのだね、テスカ」
自分の色に染めるということは、そういう意味だろう。そんなことは分かっている、とケツァルコアトルはやはり退屈そうに返した。
テスカトリポカは微笑む。
「この装飾が消え果てるまでは、君は私のものであると、そう、言わせてほしいのだ、きょうだい」
珍しくしっとりとした声で心情を吐露するテスカトリポカに、ケツァルコアトルは少し黙った。
馬鹿げたことを言うきょうだいだ、と内心でテスカトリポカに少しだけ舌を出す。
嫌なわけではない。決して拒絶したいのではない。しかし、テスカトリポカらしからぬ……いや、ケツァルコアトルを支配しようという気を持ち合わせないテスカトリポカらしい、ささやかな「マーキング」に、気分を害したらしかった。
テスカトリポカは、ケツァルコアトルと対等でいたがる。鏡だから、というだけではないだろう。昔から肩を並べて語り合い、殴り合い、笑い合う関係だったから。だから今でも、彼はケツァルコアトルを支配しない。序列をあまり好まない。
テスカトリポカはなんと言ったか。
「この装飾が消え果てるまでは、君は私のものであると、そう、言わせてほしいのだ、きょうだい」
そう言った。
爪に乗った色が消えるまでの僅かな時間だけ、ケツァルコアトルは彼のものであると、そう。
束縛を好まないケツァルコアトルだが、このささやかかつ、密やかな束縛の仕方には、やや腹が立っていた。
臆病すぎやしないかね、きょうだい。
だが、自分がいつまでもテスカトリポカのものである想像は、ケツァルコアトルにもできなかった。自由な性質を持つ竜蛇だ。世界代行者の手からするりと逃げ出す竜蛇だ。
ケツァルコアトルは小さなため息をつく。
テスカトリポカのやり方が正しいと、自分でそれを認めてしまったからだった。
だが、一方的に装飾されて、それを受け入れるというのは悔しい。対等ならば意見しても問題はないだろう。だからケツァルコアトルは言った。
「馬鹿かね、君は」
ムスッとした表情になるのは仕方ないことだ。だってテスカトリポカが少しだけ微笑んで……愛想笑いか何かだろう、これは。そうやって、ケツァルコアトルをあやしているかのような、そんな表情をしていたからだ。
ジャガー獣人は瞬きをしたあと、軽く俯いた。
「いくら見事な装飾をしたとて、爪が何かに当たれば、簡単に剥げて落ちるじゃないかね」
「そうだよ、ケツァルコアトル。剥げて落ちるとも。最後の一片が無くなるまでの、僅かな間でいいのだよ、私は」
「自己満足に浸りたいのか?」
「自己満足に浸りたいのだよ?」
ケツァルコアトルの、ムスッとした表情は、更に不機嫌さを増した。
子供のような動機で爪を塗り始めたくせに、引き際が大人のようなのは、どういうことだ。
「もう一度言うぞ。馬鹿かね、君は」
もっとテンション高くぶち当たって来い。
君は……俺と鏡写しである君は、強引に笑ってわがままを言うくらい、わけないはずだろう。
「自己満足に浸りたい者が、君一人だけだと思っているなら、それはとんだ勘違いだ」
ケツァルコアトルは、丁重に扱われるのを好まない。万物に通ずる知恵者は、慎重にもてなされることを好まない。
今から自分が言おうとしていることが、やや恥ずかしいことだと思ったのか、ケツァルはテスカから視線をそらして、少しだけ口をとがらせた。
「いいのかね……」
ぼそっと呟かれた言葉に、テスカトリポカがこちらを向く。そして、小さく首を傾げた。
鏡写しの癖に、こんな時は以心伝心じゃないのか。ああもう、きょうだい、君って奴は。
ケツァルコアトルは、だから! と荒くなった口調で、テスカトリポカに向かって告げた。
「いいのかね! トップコートを塗らなくても!」
爪の装飾が剥げて落ちるまで、お前のものだというのなら。
もう少しだけ長く、お前のものでいてやろうかと。
言外で主張された、竜蛇のやり返しに。
テスカトリポカは息を止めた。
息を止めたあと
プハッと吹き出して、笑った。
「それでいいのだね? きょうだい」
「二言はない!」
まるて喧嘩だ。
デリケートな喧嘩だ。
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