一度殴らせてくれ

 壁に穴が空いていた。椅子の足が折れていた。
 窓はどうにか割れていなかったと思う。
 しかし花瓶は投げられて砕けていたし、壁掛け時計は壁から落ちていた。カーテンはカーテンレールが壊れていたので、だらしなく不気味に垂れ下がるほかない有り様だった。
 誰がどう見ても喧嘩だ。本人たちもそう思う。

「お前の態度が気にくわない!!」

 極彩色の羽毛を背負った彼が、青筋を浮かべて叫び散らした。こめかみ辺りが腫れていた。

「君こそ自らを省みたらどうだね!!」

 漆黒の翼を背負った彼が、怒りと恨み辛みを込めて怒鳴り返した。右の頬が腫れていた。
 雰囲気は最悪である。今にも第二ラウンドが始まりそうだ。ゴングが鳴らずとも、二人ならば全力を尽くして戦ってしまうだろう。
 争いのきっかけは些細なことだった。いや、些細でなかったことなどなかった。端から見たらどうでもいいことでも彼らの間では火がついた。
 ああ言えばこう言う性格だ。どちらが? ……どちらも。お互いに負けず嫌いだし、お互いに大人げないし、お互いに意地っ張りだった。
 今回の喧嘩だってそうだ。
 仕方のないことで言い合った。
 謝る気はないし、謝らせる気もないらしい。とにかく目の前の彼をぶちのめさなければ気が済まないと、どちらの彼も思っている。
 雰囲気は……最悪である。
 お互いを睨み付け、そして、同じ空気を吸っていたくないとばかりに歯噛みしていた。

 だというのに。
 テスカトリポカも、ケツァルコアトルも、ここから……一軒家のリビングから、出ていこうとしない。自分の部屋に引きこもるなり、家の外に出て落ち着くなり、方法はあるだあろうにだ。

「約束だからな」

 苦々しい表情でケツァルコアトルが言う。

「ああ、約束したものな、私たち」

 腹立たしげにテスカトリポカが返す。
 そう。約束だった。
 喧嘩をしても同じ空間に居続けること。
 そういう、約束だった。
 ケツァルコアトルが背を向ければ、テスカトリポカが眉間にシワを寄せる。悔しそうに、寂しそうに、再び一人になるのを恐れるかのように。
 テスカトリポカが背を向ければ、ケツァルコアトルが苦虫を噛み潰した顔になる。つらそうに、悲しそうに、再び彼を失うのを怖がるかのように。
 だから、設けた。
 二人の間だけの、特別ルールを。
 謝らなくていいからそばにいろ。
 言い訳しなくていいからこっちを向け。
 そんな、感情的なルールの中の一つだ。
 どちらから提案したのかは分からない。どちらが受け入れたのかも分からない。
 だが、確かに今も生きているルールだった。

 出ていきたくなった方が、出ていかない代わりに、相手を一発殴る権利を得る。

 血なまぐさく、物々しく、騒々しい。それこそ次なる喧嘩の引き金になりかねないルールだというのに、二人はなぜか納得し、律儀にそれを守り続けているのである。
 テスカトリポカと、ケツァルコアトルが、無言でお互いに近づいた。いつもの喧しさはどこへやら。二人はピンと張り詰めた空気の中、向かい合い、そして……

 ノーモーションの顔面パンチを繰り出しあった。

 クロスカウンターというやつである。
 ゴツッ!! と硬い音が部屋に響いた。
 どちらも出ていきたかったらしい。そして、どちらも片割れを置いて行きたくなかったらしい。
 情け容赦のない殴り合いが一度、壮大に起こって、終わった。

「この喧嘩、終わり!!」

 ケツァルコアトルが怒鳴る。

「よかろう! はい終了!!」

 テスカトリポカががなる。
 まだお互いに腹を立てている状態だったが、これ以上の言い合いは無用だとお互いに頷きあった。
 そうして、荒れ果てたリビングの惨状を見て、しばし黙り込み、小さくため息をつきあった。

「じゃーんけん」
「ぽん」
「俺の勝ち」
「……チッ」
「よって今回はテスカが悪い」
「はいはい、私が悪かったよ」

 おざなりに仲を修正した二人が、ズタボロになった部屋を修復しに動く。
 誰がどう見ても喧嘩後だ。
 本人たちもそう思う。
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