今こそ別れ、いざさらば

 ケツァルコアトルは自由だ。
 戦いとは、自由な者が勝つのだ。

 世界代行者としてエルドラドの信仰を引き受け、体現する私よりも、生贄に異を唱え、世界から出ていったケツァルコアトルの方が、断然自由で、強いというものだ。何もかもを捨て去った彼は、何よりも強い。
 そう。彼は……ケツァルコアトルは、本当に、本当に強いのだ。

 私なんて、必要ないくらいに、ずっと。

 イツァムナーやショロトルと並んで談笑するケツァルコアトルの姿を見て、テスカトリポカは人知れず拳を握りしめた。
 その表情は穏やかで、拳を固めるという行為が、怒りや憎しみから来るものではないことを物語っていた。悔しいわけでも、悲しいわけでも、苦しいわけでもなく。ひたすらにテスカトリポカは穏やかだった。
 ケツァルコアトルがシパクトリに軽口を叩いている。シパクトリが心外そうに表情を歪め、言い返している。ケツァルコアトルは手を叩いて笑う。
 なんとも自由な竜蛇である。
 そう。自由。
 テスカトリポカが怒りも苦しみもしない理由はそこにあった。
 ケツァルコアトルはとにかく自由で、何に縛られることなく振る舞える、強い存在で。
 だから、いずれ別れがやって来る。
 行くなと言ったって、彼は行く。
 エルドラドで自らの痕跡をすべて焼き尽くして消えていったように。
 この東京でも、きっと。
 どんなに言葉を尽くして縛り付けようとも、どんなに肩を掴んで抱きしめようとも、ケツァルコアトルはいつか飛び立って行くのだ。
 テスカトリポカは、そう思っている。
 それこそが、私が愛した君なのだから。
 テスカトリポカは、そう……。

 また、置いていかれる。
 きっと、また置いていかれる。
 エルドラドでの関係が、永遠ではなかったように。ここ東京での関係もまた、永遠ではないのだ。
 ショロトルが苦言を呈している。
 ケツァルコアトルが苦笑している。
 それを見て、テスカトリポカは小さく息をついた。泡沫の夢、という言葉がよく似合う。

 くるり、とケツァルコアトルがこちらを向いた。とても不思議そうな表情でテスカトリポカを見つめていた。

「そんな所にいないで隣に来たらどうだね」
 なぜ孤立している?
 ケツァルコアトルは、テスカトリポカが皆から離れていた理由が分からないようだった。
 それはそうだ。いつも賑やかで、呼んでもいないのに絡んで来ては、余計なことを言うなりするなりして喧嘩の種をばら撒いてくる男が、静かにこちらを眺めているだけだったのだから。
 おいで。とケツァルコアトルは言った。
 テスカトリポカは、

「ああ、そうだね」

 静かに返す。
「君がそれを望むなら、今はそうしよう」
「何だ、今はって」
 呆れたように問うてくる羽毛ある蛇。
 それにテスカトリポカは笑みを浮かべて歩み寄っていく。ゆっくり、ゆっくり。近づけば近づく分だけいずれ距離ができるのだと、分かっているのかもしれない、そんな動きで。
「今度、みんなで映画を観に行こうという話になってな。テスカトリポカも来るだろう?」
 無邪気な片割れに、黒い太陽は笑った。
「しばらく仕事だよ。行けはしない」
 ええー。というブーイングがケツァルコアトルの口から発せられる。
 仕事なんていつも通りサボればいいだろう、と、とんでもないことを口にする竜蛇に、これこれ、とたしなめるのはイツァムナーだ。
「最近、俺と出かけなくなったよなテスカ」
 不満そうなケツァルコアトルに
「私も行動を共にしたいのは山々なのだがね」
 白々しい台詞を吐いて、太陽は目をそらした。

 心の準備はできている。
 いつか来る別れを、泣き笑いで迎える準備は。
 おそらくこの一点に関しては、ショロトルより臆病になっている自覚があるテスカトリポカが、訝しがるケツァルコアトルに向かって軽口を叩いた。何でもないという顔をして。
「私がいないと映画の一つも集中して観られんかね、とんだお子様だなあ、きょうだい」
「馬鹿にするなよ! お前がいなくても映画くらい観られるぞう、きょうだい!! 何ならシパクトリとウィンドウショッピングもできるし! ショロトルとドライブにだって行けるし!」
「おーおー、その意気だ」
 黒い太陽の挑発に、ムキになって返す竜蛇。それを煽るようにテスカトリポカは笑った。
 その意気だ。

 それでいいんだ。
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