ブレイクタイムブレイク
ブレイクタイムブレイク2
「今度ドリッパーでも買いに行かないか、テスカ」
インスタントのドリップコーヒーももちろん美味いが、そうじゃないほうも飲んでみたいと、ケツァルコアトルは言う。ミルやサイフォンを買う気はないが、ドリッパーならば置いておいても邪魔にはなるまい。味覚は一度グレードを上げてしまうと、下げるのはなかなかに難しいのである。
テスカトリポカは「ふむ」と呟き考え込んでいたが、壁にかけられたカレンダーに目を向け、とある曜日を指さして3秒ほど固まったあと、大きく頷いた。ケツァルコアトルとテスカトリポカの休日が丁度かぶる日を見つめていたのだ。
「ならばその日に古本屋巡りもしようか」
「うん。普通の書店だと過去の書物は置いていないからな、つい古書店を頼ってしまう」
「その気持ちは分からんでもないなぁ。著名な作家の作品じゃないと文庫化されるのは難しいだろうし」
そうなんだよ、とケツァルコアトルは頷いて、それから無糖のカフェオレをグッと呷った。その後で「あ」と声を上げる。「何だね」とテスカトリポカに問われたケツァルは、カレンダーのとある日付を指さして口を開いた。
「古本市って知ってるか?」
「それくらいは知っているとも。……近いうちに開催されるのかね? どこで?」
「神保町。だがその日は俺の休日であってお前の休日ではないんだ。……一人で行くことになるのかな」
「ふうん。有給休暇でも取ろうか?」
あっさりとそんな返しをするテスカトリポカに、ケツァルコアトルはどう言葉を返したらいいか考え込んだ。有給休暇を取得して共に過ごしてくれるならば、それが良いに決まっている。しかし……しかしだ。
「有給休暇って、お前のところの参謀が許してくれるものかね?」
「私だって良い子で仕事に励むくらい、何てことはないよ。同じことの繰り返しで飽き飽きしない限りはサボらんさ」
「ははあん、だから今までサボり倒していたわけか。同じことの繰り返しだったから」
「そんなこと、今はどうだっていいじゃないかね。深掘りするんじゃないよ、君ィ」
で? どうするね? と片割れのジャガーに尋ねられ、竜蛇は素直になることにした。ここで変に意地を張っても良いことはないだろう。ケツァルコアトルは「うん、行きたい」と口にすると、その後、少し残念そうな表情になった。
「良い子で仕事に励んだら、つまり……帰ってくるのが遅くなる日が続くか、もしくは帰ってこない日が続くということだよな?」
「仕事の量が量だからねぇ」
「……お前が溜め込んだから膨大な仕事量になっている、とかではなくてか?」
「溜め込まなくともそれなりに量があったよ」
「なら尚更溜め込むなよ」
5日は帰りが遅くなるよ、とテスカトリポカは言った。古本市が開催されるのは今日から7日後のことなので、間に合いはするだろう。分かった、と了承してカレンダーに予定を書き込むケツァルコアトルは、しかし口を尖らせ不満げだった。
自分のわがままで半身のスケジュールを決め、無理をさせているような気になった。実際、無理をさせているといえばさせているのだろう。ケツァルコアトルのスケジュールに合わせてくれるあたり、流石は鏡写しの存在だと言えるが、テスカトリポカにもやりたいことはあったのではないだろうか。その邪魔をしてしまっていたら、どうしよう。
じっとテスカトリポカを見た。
やはり一人で行くべきじゃなかろうか。
テスカトリポカに付き合わせてばかりで、自分が付き合ってやることは数えるほどしかない。鏡だというのに、それでは不公平だ。
「……やっぱり、お前が休みたい日に休めよ」
気を遣って声をかけたケツァルコアトルに、
「365日休みたいが?」
テスカトリポカが真顔で返した。
「転光生である以上不可能だが?」
「あー、現実に目を向けたくない」
「前言撤回、5日間頑張れ」
テスカトリポカが自室から本を持ってきて読み始めたのを見ながら、ケツァルコアトルも読書を再開することにした。今日は珍しく闘争をしていない日だな、と思い出し、まあ、そんな日も悪くない、と結論づけて無言の時を過ごす。
文章を目で追うテスカトリポカの横顔をチラリと見る。相変わらず顔が良くて、この整った顔立ちで「きょうだい、戦争だ!」とはしゃぎ倒すのだから、周りの者はさぞ振り回されるのだろうな、などと想像した。
静かにしていれば美丈夫という言葉も似合うだろうに。……ただ、テスカトリポカが静かなときは、大体冷徹であったり、底冷えのする戦略を立てているときであったりするので、やはり多少は騒がしいほうが平和なのだろうな、などと……エルドラドの価値観で判断をしたケツァルである。
「君ィ、今日は随分と不躾に眺めてくるじゃあないかね。私に何か思うところでもあるのかな?」
「思うところはあるさ。だが、そうじゃない。うるさくないお前が久しぶり過ぎて調子が狂うだけだよ」
「うるさくしようか?」
「御免被る。騒いだら家から叩き出すからな」
「手厳しいなぁ」
君が静かなら私だって静かになるさ、鏡だもの。テスカトリポカのその言葉に、まあ、そうだけど……。と渋い表情になるケツァルコアトルは、テスカトリポカがもう一度キッチンへ向かうのを見て、コーヒーを淹れるのだ、と察した。
「テスカ、おかわり」
「君なあ、そのソファから一歩も動いていないじゃないかね。動き給え、少しは」
ケツァルコアトルの分のコーヒーカップを持って立ち上がっているあたり、淹れてくれる気ではいるらしい。お優しい半身である。
ケツァルコアトルはそんな彼の優しさ……いや、この場合は甘さというべきか、それに頼り切ることを決めたようだった。ソファにもたれかかり、キッチンに向かって声をかける。
「冷蔵庫に卵のキッシュが入ってる」
「……君が買ってきたのかね?」
「そう。駅前のパンと惣菜売ってる店があるだろ。そこのだよ。出して食べよう」
「君が出せばいいだろうに。なぜ全て私にやらせるのたね。私はナマケモノのきょうだいを持った覚えはないぞう?」
「どうやらソファの居心地が良すぎて尻から根が生えたらしい。動けない」
「ああー、そうやって適当なことを言う」
コーヒーの香りが漂ってくる。まったく、というテスカトリポカの、ため息混じりの呟きも聞こえてくる。ケラケラと笑うケツァルコアトルは、卵のキッシュを電子レンジで温める物音を聞いていた。甘えたら甘やかしてくれる、というのも、鏡写しの結果なのだろうか? 甘え返してくるのではなく、受け入れることを選ぶあたり、テスカトリポカはケツァルコアトルよりも少しだけ大人なのかもしれない。
テレビもつけず、お互いに会話をすることもなく、それぞれ読書をして過ごすこと一時間。外が薄暗くなってきたので部屋の明かりをつけた。そして再び本に目を落とした。壁掛け時計の秒針が、チッ、チッと小さく音を立てている。
先に本を閉じたのはテスカトリポカだった。読みたい箇所を読み終えたのか、ふう、と息をついてコーヒーをすすっている。カップに半分ほど残ったコーヒーは冷めてきていて、猫舌……ジャガー舌と言えばいいのかは分からないが、とにかくテスカトリポカに優しいぬるさとなっていた。
「……トイレ行きたくなってきた」
「飲み過ぎだよ、ケツァル」
本を閉じて席を立とうとするケツァルコアトルの腕を引き、ソファに再び座らせるのは、テスカトリポカだ。トイレに行きたいと言ってるだろうが、と険しい表情になる羽毛ある蛇に、煙吐く鏡は顔色一つ変えずに告げる。
「尻から根が生えているのだろう? なら終始動かずにいてみせ給えよ」
「あっ、最悪な意趣返しをお前……!」
「フハハハ、私を使ってくれたお礼だよ! さあ、どこまで動かずにおれるかね?」
「漏れる!」
「我慢できるだろう、大人なんだから」
力ずくでケツァルコアトルを押さえつけてケラケラと笑うテスカトリポカに、ああ、うるさくなってきた、とため息をつく。だが、本当にトイレに行きたい。テスカトリポカに付き合ってやれる暇はない。
「キスしてやるから離してくれ」
「キス程度で私をどうにかできるものかね」
「……じゃあ、どうしたら離してくれる?」
「……私のために動いてくれるなら」
「ああ、分かった分かった。そうする」
おざなりな返事に、拘束は解かれた。立ち上がってお手洗いに向かうケツァルコアトルを、テスカトリポカが見つめていた。「ふうん?」と、余裕綽々といった笑みを浮かべて。
ケツァルコアトルが戻ってきた時には、既にコーヒーカップは片付けられていて、きれいに洗われた後だった。私のために動いてくれるなら、なんて言っておきながら、結局自分で何もかもしてしまうんじゃないか。とケツァルコアトルはテスカトリポカを見る。
ジャガー獣人は竜蛇に近寄ると、至極当たり前といった様子で口を開く。
「夕食は事を済ませた後でいいね」
「事って何だね」
「おや、薄情だな君? 私は言ったぞう? 私のために動いてくれるなら解放すると。動いてくれるのだろう? 私のために」
テスカトリポカに手首を掴まれて、ケツァルコアトルはそこでようやく、おざなりな返事をすべきではなかったことに気づいた。が、もう遅いというものだ。手を引かれるままテスカトリポカの部屋に向かい、さあ、こちらにどうぞ、とベッドに案内されて引きつった顔になるが、それも遅かった。
「私のために動いてくれるのだよね? きょうだい?」
「ああー……くそ! やられた!」
「フハハハ!」
ベッドが軋むこと一時間。テスカトリポカからこれといった指示はなく。ケツァルコアトルは自ら、テスカトリポカのために、動き倒す羽目になったのだが、割愛とさせていただく。
不機嫌なケツァルコアトルが、服の乱れを直しながらリビングのソファに座り込む。こんな騙し討ちのような真似をしなくともいいじゃないか、と恨みがましい目で宿敵を見やると、その宿敵はいたずらっぽい笑みを浮かべて、ケツァルコアトルを見返した。
夕食はデリバリーを頼もうということになり、なら高いものを頼んでやろうとケツァルコアトルが意気込む。覚悟しろ、払わせてやる。という謎の宣言をされたテスカトリポカは、言われなくとも払うつもりなのだがね。と笑っていた。
夕食を終えて、機嫌も少し直ってきた頃。テスカトリポカがケツァルコアトルに尋ねた。
「コーヒーでも飲むかね」
本日何度めかのコーヒーだ。
ケツァルコアトルは「うん」と頷いて、それからテスカトリポカに問いかける。
「俺が淹れようか?」
「今更だなあ、きょうだい」
「うるさい。お前はブラックでいいのか?」
「うん。あまり熱いと飲むのがつらいのでね、ぬるめにしてくれまいか」
キッチンに立ったケツァルコアトルが瞬間湯沸かし器のスイッチを押したとき、テスカトリポカがこちらを覗き込んできた。なんの気なく見ているだけだったようだが、信用されていないようにも思えて、ケツァルコアトルは眉間にシワを寄せ、口を尖らせた。座ってい給えよ、とやや不機嫌になりながらケツァルコアトルが言えば、尻から根が生えているわけではないからね、とこすられる。
何度もいじるんじゃない。とテスカトリポカの分のコーヒーを淹れながら彼を蹴った。熱い湯でカップの半分まで淹れたあと、冷蔵庫で冷えていたミネラルウォーターをフィルターに注いで温度を下げる。
スプーンでかき混ぜ、一部始終を見ていたテスカトリポカにそのまま手渡した。
「あ。戸棚に貰い物のマカロンがあったね」
思い出したように言うジャガー。竜蛇はぱちくりと瞬きをして、それから「マカロン?」と首を傾げた。
「言っていなかったっけ?」
「まったく」
美味しいらしいよ、と何でもないことのように言うテスカトリポカだ。ケツァルコアトルはやや不機嫌になった。貰い物、と彼は言っていた。誰からだ? そんな洒落たものを誰から貰ったというのだ?
浮気というわけではない。ないが、ケツァルの預かり知らぬところでテスカに色目を使っている誰かがいるなら、今すぐ怒りを表明するべきだ、とケツァルは思った。
テスカトリポカはやはり、何でもないことのように言う。
「サモナーからの貰い物だよ。パティスリー・イイモリの新作だそうだ」
「なんだ、サモナーか」
「なんだとは何だね。我々の東京でのきょうだいからだよ? ありがたく頂こうじゃないか」
サモナーなら許す。
何様だかは知らないが、ケツァルコアトルは不機嫌オーラをあっさり消した。そして素直に戸棚からマカロンを出すと、自分のコーヒーも淹れてリビングへと向かうのだった。
焼き餅を焼きました、なんて白状することはない。
黒い彼に調子に乗られると癪なので。
「俺このピンクの食べる」
「桜の塩漬けの味がするらしいよ、それ」
「お前のは何味だね?」
「ゆず」
「ほぉー、半分くれよ」
ケツァルコアトルが淹れたコーヒーを、二人ですする。半分かじったマカロンを交換しあい、ひと口で頬張ると、ああ、お前のが美味いな、だとか、私は君のが好みだなあ、などと、他愛のない会話が始まった。
あまり飲みすぎると眠れなくなりそうだが、おそらく二人にそんなことは関係ないのだ。眠れないなら眠れるまで、やはり二人で他愛のない会話をすればいいのだから。
「やっぱり上顎に張り付くな……マカロンって」
「まあ、そういうものだと割り切り給えよ。コーヒーもあるし」
「これ、何味?」
「それはチョコレートだね」
ソファに置かれた小説は、今夜はもう、読まれることはないだろう。ケツァルコアトルはテスカトリポカしか見ていないし、テスカトリポカもまたケツァルコアトルしか見ていないのだから。アーサー・コナン・ドイルもこのきょうだいの仲に割り込むことはできないのだ。
テスカトリポカとケツァルコアトルの声は、夜が更けてしばらくしても聞こえていた。
ブレイクタイムが終わっても。
「今度ドリッパーでも買いに行かないか、テスカ」
インスタントのドリップコーヒーももちろん美味いが、そうじゃないほうも飲んでみたいと、ケツァルコアトルは言う。ミルやサイフォンを買う気はないが、ドリッパーならば置いておいても邪魔にはなるまい。味覚は一度グレードを上げてしまうと、下げるのはなかなかに難しいのである。
テスカトリポカは「ふむ」と呟き考え込んでいたが、壁にかけられたカレンダーに目を向け、とある曜日を指さして3秒ほど固まったあと、大きく頷いた。ケツァルコアトルとテスカトリポカの休日が丁度かぶる日を見つめていたのだ。
「ならばその日に古本屋巡りもしようか」
「うん。普通の書店だと過去の書物は置いていないからな、つい古書店を頼ってしまう」
「その気持ちは分からんでもないなぁ。著名な作家の作品じゃないと文庫化されるのは難しいだろうし」
そうなんだよ、とケツァルコアトルは頷いて、それから無糖のカフェオレをグッと呷った。その後で「あ」と声を上げる。「何だね」とテスカトリポカに問われたケツァルは、カレンダーのとある日付を指さして口を開いた。
「古本市って知ってるか?」
「それくらいは知っているとも。……近いうちに開催されるのかね? どこで?」
「神保町。だがその日は俺の休日であってお前の休日ではないんだ。……一人で行くことになるのかな」
「ふうん。有給休暇でも取ろうか?」
あっさりとそんな返しをするテスカトリポカに、ケツァルコアトルはどう言葉を返したらいいか考え込んだ。有給休暇を取得して共に過ごしてくれるならば、それが良いに決まっている。しかし……しかしだ。
「有給休暇って、お前のところの参謀が許してくれるものかね?」
「私だって良い子で仕事に励むくらい、何てことはないよ。同じことの繰り返しで飽き飽きしない限りはサボらんさ」
「ははあん、だから今までサボり倒していたわけか。同じことの繰り返しだったから」
「そんなこと、今はどうだっていいじゃないかね。深掘りするんじゃないよ、君ィ」
で? どうするね? と片割れのジャガーに尋ねられ、竜蛇は素直になることにした。ここで変に意地を張っても良いことはないだろう。ケツァルコアトルは「うん、行きたい」と口にすると、その後、少し残念そうな表情になった。
「良い子で仕事に励んだら、つまり……帰ってくるのが遅くなる日が続くか、もしくは帰ってこない日が続くということだよな?」
「仕事の量が量だからねぇ」
「……お前が溜め込んだから膨大な仕事量になっている、とかではなくてか?」
「溜め込まなくともそれなりに量があったよ」
「なら尚更溜め込むなよ」
5日は帰りが遅くなるよ、とテスカトリポカは言った。古本市が開催されるのは今日から7日後のことなので、間に合いはするだろう。分かった、と了承してカレンダーに予定を書き込むケツァルコアトルは、しかし口を尖らせ不満げだった。
自分のわがままで半身のスケジュールを決め、無理をさせているような気になった。実際、無理をさせているといえばさせているのだろう。ケツァルコアトルのスケジュールに合わせてくれるあたり、流石は鏡写しの存在だと言えるが、テスカトリポカにもやりたいことはあったのではないだろうか。その邪魔をしてしまっていたら、どうしよう。
じっとテスカトリポカを見た。
やはり一人で行くべきじゃなかろうか。
テスカトリポカに付き合わせてばかりで、自分が付き合ってやることは数えるほどしかない。鏡だというのに、それでは不公平だ。
「……やっぱり、お前が休みたい日に休めよ」
気を遣って声をかけたケツァルコアトルに、
「365日休みたいが?」
テスカトリポカが真顔で返した。
「転光生である以上不可能だが?」
「あー、現実に目を向けたくない」
「前言撤回、5日間頑張れ」
テスカトリポカが自室から本を持ってきて読み始めたのを見ながら、ケツァルコアトルも読書を再開することにした。今日は珍しく闘争をしていない日だな、と思い出し、まあ、そんな日も悪くない、と結論づけて無言の時を過ごす。
文章を目で追うテスカトリポカの横顔をチラリと見る。相変わらず顔が良くて、この整った顔立ちで「きょうだい、戦争だ!」とはしゃぎ倒すのだから、周りの者はさぞ振り回されるのだろうな、などと想像した。
静かにしていれば美丈夫という言葉も似合うだろうに。……ただ、テスカトリポカが静かなときは、大体冷徹であったり、底冷えのする戦略を立てているときであったりするので、やはり多少は騒がしいほうが平和なのだろうな、などと……エルドラドの価値観で判断をしたケツァルである。
「君ィ、今日は随分と不躾に眺めてくるじゃあないかね。私に何か思うところでもあるのかな?」
「思うところはあるさ。だが、そうじゃない。うるさくないお前が久しぶり過ぎて調子が狂うだけだよ」
「うるさくしようか?」
「御免被る。騒いだら家から叩き出すからな」
「手厳しいなぁ」
君が静かなら私だって静かになるさ、鏡だもの。テスカトリポカのその言葉に、まあ、そうだけど……。と渋い表情になるケツァルコアトルは、テスカトリポカがもう一度キッチンへ向かうのを見て、コーヒーを淹れるのだ、と察した。
「テスカ、おかわり」
「君なあ、そのソファから一歩も動いていないじゃないかね。動き給え、少しは」
ケツァルコアトルの分のコーヒーカップを持って立ち上がっているあたり、淹れてくれる気ではいるらしい。お優しい半身である。
ケツァルコアトルはそんな彼の優しさ……いや、この場合は甘さというべきか、それに頼り切ることを決めたようだった。ソファにもたれかかり、キッチンに向かって声をかける。
「冷蔵庫に卵のキッシュが入ってる」
「……君が買ってきたのかね?」
「そう。駅前のパンと惣菜売ってる店があるだろ。そこのだよ。出して食べよう」
「君が出せばいいだろうに。なぜ全て私にやらせるのたね。私はナマケモノのきょうだいを持った覚えはないぞう?」
「どうやらソファの居心地が良すぎて尻から根が生えたらしい。動けない」
「ああー、そうやって適当なことを言う」
コーヒーの香りが漂ってくる。まったく、というテスカトリポカの、ため息混じりの呟きも聞こえてくる。ケラケラと笑うケツァルコアトルは、卵のキッシュを電子レンジで温める物音を聞いていた。甘えたら甘やかしてくれる、というのも、鏡写しの結果なのだろうか? 甘え返してくるのではなく、受け入れることを選ぶあたり、テスカトリポカはケツァルコアトルよりも少しだけ大人なのかもしれない。
テレビもつけず、お互いに会話をすることもなく、それぞれ読書をして過ごすこと一時間。外が薄暗くなってきたので部屋の明かりをつけた。そして再び本に目を落とした。壁掛け時計の秒針が、チッ、チッと小さく音を立てている。
先に本を閉じたのはテスカトリポカだった。読みたい箇所を読み終えたのか、ふう、と息をついてコーヒーをすすっている。カップに半分ほど残ったコーヒーは冷めてきていて、猫舌……ジャガー舌と言えばいいのかは分からないが、とにかくテスカトリポカに優しいぬるさとなっていた。
「……トイレ行きたくなってきた」
「飲み過ぎだよ、ケツァル」
本を閉じて席を立とうとするケツァルコアトルの腕を引き、ソファに再び座らせるのは、テスカトリポカだ。トイレに行きたいと言ってるだろうが、と険しい表情になる羽毛ある蛇に、煙吐く鏡は顔色一つ変えずに告げる。
「尻から根が生えているのだろう? なら終始動かずにいてみせ給えよ」
「あっ、最悪な意趣返しをお前……!」
「フハハハ、私を使ってくれたお礼だよ! さあ、どこまで動かずにおれるかね?」
「漏れる!」
「我慢できるだろう、大人なんだから」
力ずくでケツァルコアトルを押さえつけてケラケラと笑うテスカトリポカに、ああ、うるさくなってきた、とため息をつく。だが、本当にトイレに行きたい。テスカトリポカに付き合ってやれる暇はない。
「キスしてやるから離してくれ」
「キス程度で私をどうにかできるものかね」
「……じゃあ、どうしたら離してくれる?」
「……私のために動いてくれるなら」
「ああ、分かった分かった。そうする」
おざなりな返事に、拘束は解かれた。立ち上がってお手洗いに向かうケツァルコアトルを、テスカトリポカが見つめていた。「ふうん?」と、余裕綽々といった笑みを浮かべて。
ケツァルコアトルが戻ってきた時には、既にコーヒーカップは片付けられていて、きれいに洗われた後だった。私のために動いてくれるなら、なんて言っておきながら、結局自分で何もかもしてしまうんじゃないか。とケツァルコアトルはテスカトリポカを見る。
ジャガー獣人は竜蛇に近寄ると、至極当たり前といった様子で口を開く。
「夕食は事を済ませた後でいいね」
「事って何だね」
「おや、薄情だな君? 私は言ったぞう? 私のために動いてくれるなら解放すると。動いてくれるのだろう? 私のために」
テスカトリポカに手首を掴まれて、ケツァルコアトルはそこでようやく、おざなりな返事をすべきではなかったことに気づいた。が、もう遅いというものだ。手を引かれるままテスカトリポカの部屋に向かい、さあ、こちらにどうぞ、とベッドに案内されて引きつった顔になるが、それも遅かった。
「私のために動いてくれるのだよね? きょうだい?」
「ああー……くそ! やられた!」
「フハハハ!」
ベッドが軋むこと一時間。テスカトリポカからこれといった指示はなく。ケツァルコアトルは自ら、テスカトリポカのために、動き倒す羽目になったのだが、割愛とさせていただく。
不機嫌なケツァルコアトルが、服の乱れを直しながらリビングのソファに座り込む。こんな騙し討ちのような真似をしなくともいいじゃないか、と恨みがましい目で宿敵を見やると、その宿敵はいたずらっぽい笑みを浮かべて、ケツァルコアトルを見返した。
夕食はデリバリーを頼もうということになり、なら高いものを頼んでやろうとケツァルコアトルが意気込む。覚悟しろ、払わせてやる。という謎の宣言をされたテスカトリポカは、言われなくとも払うつもりなのだがね。と笑っていた。
夕食を終えて、機嫌も少し直ってきた頃。テスカトリポカがケツァルコアトルに尋ねた。
「コーヒーでも飲むかね」
本日何度めかのコーヒーだ。
ケツァルコアトルは「うん」と頷いて、それからテスカトリポカに問いかける。
「俺が淹れようか?」
「今更だなあ、きょうだい」
「うるさい。お前はブラックでいいのか?」
「うん。あまり熱いと飲むのがつらいのでね、ぬるめにしてくれまいか」
キッチンに立ったケツァルコアトルが瞬間湯沸かし器のスイッチを押したとき、テスカトリポカがこちらを覗き込んできた。なんの気なく見ているだけだったようだが、信用されていないようにも思えて、ケツァルコアトルは眉間にシワを寄せ、口を尖らせた。座ってい給えよ、とやや不機嫌になりながらケツァルコアトルが言えば、尻から根が生えているわけではないからね、とこすられる。
何度もいじるんじゃない。とテスカトリポカの分のコーヒーを淹れながら彼を蹴った。熱い湯でカップの半分まで淹れたあと、冷蔵庫で冷えていたミネラルウォーターをフィルターに注いで温度を下げる。
スプーンでかき混ぜ、一部始終を見ていたテスカトリポカにそのまま手渡した。
「あ。戸棚に貰い物のマカロンがあったね」
思い出したように言うジャガー。竜蛇はぱちくりと瞬きをして、それから「マカロン?」と首を傾げた。
「言っていなかったっけ?」
「まったく」
美味しいらしいよ、と何でもないことのように言うテスカトリポカだ。ケツァルコアトルはやや不機嫌になった。貰い物、と彼は言っていた。誰からだ? そんな洒落たものを誰から貰ったというのだ?
浮気というわけではない。ないが、ケツァルの預かり知らぬところでテスカに色目を使っている誰かがいるなら、今すぐ怒りを表明するべきだ、とケツァルは思った。
テスカトリポカはやはり、何でもないことのように言う。
「サモナーからの貰い物だよ。パティスリー・イイモリの新作だそうだ」
「なんだ、サモナーか」
「なんだとは何だね。我々の東京でのきょうだいからだよ? ありがたく頂こうじゃないか」
サモナーなら許す。
何様だかは知らないが、ケツァルコアトルは不機嫌オーラをあっさり消した。そして素直に戸棚からマカロンを出すと、自分のコーヒーも淹れてリビングへと向かうのだった。
焼き餅を焼きました、なんて白状することはない。
黒い彼に調子に乗られると癪なので。
「俺このピンクの食べる」
「桜の塩漬けの味がするらしいよ、それ」
「お前のは何味だね?」
「ゆず」
「ほぉー、半分くれよ」
ケツァルコアトルが淹れたコーヒーを、二人ですする。半分かじったマカロンを交換しあい、ひと口で頬張ると、ああ、お前のが美味いな、だとか、私は君のが好みだなあ、などと、他愛のない会話が始まった。
あまり飲みすぎると眠れなくなりそうだが、おそらく二人にそんなことは関係ないのだ。眠れないなら眠れるまで、やはり二人で他愛のない会話をすればいいのだから。
「やっぱり上顎に張り付くな……マカロンって」
「まあ、そういうものだと割り切り給えよ。コーヒーもあるし」
「これ、何味?」
「それはチョコレートだね」
ソファに置かれた小説は、今夜はもう、読まれることはないだろう。ケツァルコアトルはテスカトリポカしか見ていないし、テスカトリポカもまたケツァルコアトルしか見ていないのだから。アーサー・コナン・ドイルもこのきょうだいの仲に割り込むことはできないのだ。
テスカトリポカとケツァルコアトルの声は、夜が更けてしばらくしても聞こえていた。
ブレイクタイムが終わっても。
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