ちょっと遊ぼうか

ちょっと何か言おうか

 珍しいことに、ケツァルコアトルの家から、なんの物音も聞こえてこなかった。
 預かっている小学生くらいの少年の声も、家主である大学生の竜蛇の声もしない。リビングの明かりはついているので、出掛けているわけではない。
 その日、練馬のとある住宅街は、しんとしていた。

「……」
「……」
 ケツァルコアトルが押し黙ると、鏡であるテスカトリポカもまた、同じように押し黙る。それが沈黙の原因だった。
 ケツァルコアトルは警戒する。何を言われるのだろう。何を問われるのだろう。エルドラドから何故いなくなった? と尋ねられたとき、きちんと答えられるだろうか。
 テスカトリポカは静かにケツァルコアトルを見ていた。普段のやかましさはどこへやら。トラブルを引き連れて高笑いするあのジャガー獣人はどこにも見当たらない。
「……」
「……」
 責めてほしい。
 ケツァルコアトルは、心の片隅でそう思った。
 どれだけ探したと思ってる、お前がいなくなったせいでエルドラドは、そうやって感情のままに責めてほしかった。
 そうしたら、ケツァルコアトルだって感情のままに反論できるし、そもそもお前の右足がなくなったことを誰が喜ぶと思うのだね、と叫べたのだ。
 なのに、テスカトリポカは静かだ。
 緊張して、警戒して、呼吸ひとつにも気を遣うケツァルを写しとるように、テスカもまた、口を真一文字に引き結んで黙り込んでいる。
「……」
「……」
 ちょっと話そうか、なんて言っておきながら、いつまでたっても会話は発生しなかった。

「……ちょっと、何か言おうか、きょうだい」

 恐る恐るツッコむ形になってしまったが、ケツァルコアトルが口を開いた。テスカトリポカは少し目を伏せて、それから、ふっと小さく笑った。小学生らしからぬ表情の変化に、ああ、これからするのは大人の話だから、彼はそんなに憂いを帯びた顔をしているのだ、とケツァルは察して。
 何を言えばいいか、分からなくなった。

「……意趣返しは、その……気分が良かったかね」

 おずおずと尋ねたのは、テスカトリポカだ。
 え。とだけ言って、それから声が出ず、瞬きをするしかなくなったのは。ケツァルコアトルだ。
「私は生け贄という機構に傾倒していた。おそらく今もそうだよ、ケツァルコアトル。私は……私を捧げることを是としているよ」
 少年の姿でも、右足は黒曜石の義足だった。
 小学生らしい半ズボンのせいで、まざまざと見せつけられる右足の不在に、ケツァルコアトルはギリリと歯を噛み締める。
「ケツァルコアトル、君は……エルドラドの機構を是としないのだね」
「当たり前だろう」
 自分でも驚くほど強い口調で返してしまった羽毛ある蛇は、背や首筋に生えた羽をざわりと逆立てて、抗議の意思を見せる。対立したいわけではない。いや、嘘だ。対立していたい。ずっと、ずっと、馬鹿みたいに、何かあるたび戦争だ闘争だと喧嘩して、終わったらまた笑いあいたかった。
 でも。
 それを不可能にしたのは
 テスカトリポカじゃないか。
「お前は少しずつ消えていった。徐々に肉を失っていった。とうとうナワルなしでは触れあえなくなったし、それでもお前は笑っていた。俺の気も知らないで」
 声が震える。
 目が熱い。
 鼻の奥が痛い。
 ケツァルコアトルはかすむ視界をそのままに、まっすぐ前を見て言う。
「イツァムナーは生け贄をやめさせたくて、一人で……たった一人で戦っていた。それがどんなに勇敢なことか、分かるかね、テスカトリポカ」
「多数に挑むのは、勝ち目が薄い。それを分かっていて抗ったのだ。かのきょうだいは、さぞ恐ろしかったろうね」
「そうだよ。その恐ろしさを、心細さを、我らは評価しなかった。できなかった。ショロトルが死にたくないと泣いたとき、生け贄を拒んで逃げたとき、俺は……少数派が泣く世界を……お前を食らう世界を……初めてはっきりと見た気がした」
 うん。
 テスカトリポカは、白熱するケツァルコアトルを前に、白熱しない。まるでケツァルコアトルの心が、静かに凍りついているのを分かっているように、静かに頷くだけだった。
「腹が立ったよ!」
 吐き出すケツァルコアトルの目から、ぼたぼたと涙がこぼれる。
 それにも構わず、竜の彼は声を荒らげた。
「世界代行者は、世界を背負わねばならない! 生け贄を是とする世界を代表して、生け贄にならねばならない! 腹が立った!」
 それだけではない。
 少数の民を救うには、どうすればいいのか。
 戦ばかりではなく、創造を好む民を、どう掬い上げればいいのか。
 死にたくない民を、どう生かせばいいのか。
 世界代行者の立場でできることは、あまりにも少なかった。
 その世界を代表していては拾えないものばかりが手をすり抜けて落ちていった。
 悲しみだって感じた。
 しかしそれ以上に怒りを抱いた。
 お前の右足が失われたとき、この世界は「喜んだ」のだ。
 さすがテスカトリポカだ、この世は生け贄という機構でできている、それは誉れだ、名誉ある喪失だ。
 そうやって喜んで、テスカトリポカの欠損を尊んだのだ。
 イツァムナーだってショロトルだって、ケツァルコアトルだって泣いたのに。
 その少数を無視して、世界は沸いた。
「世界代行者なんてやめてやろうと思っても、無理からぬ話じゃないか。それでお前の体が戻ってくるわけではないと知っていても、お前という欠けゆく者を掴んで離さないあの世界に、背を向けたくなるじゃないか」

「……ケツァルコアトル、私の体はね、涙が出ないのだよ」

 テスカトリポカが苦笑いを一つ。
 涙をぼろぼろと落としながらテスカトリポカを見据える竜蛇に言う。
「君と同じ表情ができない……これほど悔しいこともあるまい」
 うぐ……。
 込み上げてくるままに涙をさらに落とすケツァルコアトルに、テスカトリポカは、ああ、悔しいとも、と続けた。
「後悔していないと言えば嘘にもなろう。しかしね……それでも私は、胸を張るよ。胸を張らねばなるまいよ。君と作ったあの世界は、私にとって、愛しいものだから」
 わっと声を上げて泣き出したのは、大学生の方だった。
 分かってる、分かってる、でもなんで、どうして、だってお前、と言葉にならない叫びを吐いて、うずくまって泣いていた。
 子供のように泣きじゃくる大学生の背を、大人びた小学生が、静かにさすって、すまない、と一言呟いて、目を伏せた。

「……これ以上失うものは、何もない、と見ていいのか?」
 目を真っ赤にしたケツァルコアトルが、鼻をすすって問いかける。
「私に限って言えばそうだとも、きょうだい」
 泣き止んだ白いきょうだいの頭を撫でて、テスカトリポカは笑う。
「……お前に限って言えば?」
「うむ。私の肉体は既に失せている。けどね、ケツァル。私には、まだ失っておらず、なおかつこれからも失いたくないものが、確かに存在しているのだよ」
 きょうだい、とささやいて、笑顔を作るテスカトリポカに、ケツァルコアトルは、察した。

 失いたくないものは、君だよ、ケツァル。

 その言葉を聞く前に、衝動的にテスカトリポカを抱き締めていた。
 再び涙が込み上げてきて、子供のように泣きじゃくった。
 仕方のないきょうだいだ。
 泣けないジャガーが、笑って言った。
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