ちょっと遊ぼうか
ちょっと急ごうか
「テスカトリポカ、起きないと遅刻するぞ、ほら」
毛布にくるまる小さな体を揺すると、んむう、とむずがる声が返った。うっすらと目を開けた少年姿のテスカトリポカが見たものは、自分を覗き込んでくる最愛のきょうだいの顔。
そして、チラリと視界に映り込む、赤いつやつやとしたランドセル。
「登校初日に遅刻したら心象が良くないぞう、きょうだい」
笑いを含んだ声でぷにぷにと頬をつついてくるケツァルコアトルに「やめふぁまえよ」と苦情を申し立てながら、小さなテスカトリポカはのそりと起き上がった。
「トーストと目玉焼きでいいかね、テスカ?」
「うん」
小さくあくびを一つこぼすテスカトリポカを見て、ケツァルコアトルは少しだけ笑った。
なつかしいな、などと、思ってしまった。
かじ、かじ、と焼けた食パンを少しずつ頬張るテスカトリポカは、目玉焼きの黄身にフォークを突き立てて潰す。とろりと濃厚な黄色が流れ出るのを眺めながら、目の前で同じように食事をしている半身を見た。
ケツァルコアトルは、大人の姿のテスカトリポカと比べるとやや細い。縦に長いと言うべきか、竜特有の尻尾の長さと、それからしなやかな首の長さで、身長をだいぶ稼いでいるようだ。
万物に精通する知能の持ち主であり、優しく、しかし苛烈で、喜怒哀楽が激しいきょうだい。何を考えているのかが分かりやすく、だけど、何を考えていたのか、今でもあまり分からないきょうだい……。
「テスカ」
不意にこちらを見たケツァルコアトルが声をかけてくる。
「ちょっと急ごうか? ゆっくりしていると、本当に遅刻してしまうよ」
な? と首をかしげるその様が、あまりに昔のそれと合致して、テスカトリポカはよく噛んでもいないトーストを無理に飲み込むことになった。
喉が少し痛かった。
そんなに穏やかな表情ができるのだね、と言えなかった。
うつむきながら急いで食事を終えると、ケツァルコアトルの笑い声が聞こえる。
「そんなに焦らなくてもいいぞ、きょうだい。いざとなったら飛べばいいんだから……ほら、ついてる」
頬についた食べかすを指で摘まんで取る竜の彼は、少しだけ寂しそうな目で笑った。いいんだぞう、きょうだい。爆笑してくれても。そう言おうとして、本当に遅刻しそうだったので、言わずに終わったテスカトリポカである。
おはよう、と声をかけられて、穏やかに笑って返すケツァルコアトルは、課題を提出しながら、同じ授業を受講する仲間たちの会話を聞いていた。
「今日も飛んできたのかい? 遅刻すれすれだったけど」
「小さな猫ちゃんを抱えて飛んでたよね、誰なの、あの子?」
どうやら興味は、腕の中にいたテスカトリポカに注がれているらしい。今日が登校初日なんだ、と返すと、新しい転光生か、と問われた。そのようなものだよ、と頷いておく。
東京に来た順で言えば、テスカトリポカよりもケツァルコアトルのほうが早い。よって、大切なきょうだい兼宿敵兼半身の彼は、ケツァルコアトルの後輩ということになる。たぶん、そうだ。
自分を頼って家を訪ねてきてくれたのは嬉しかった。
やあ、きょうだい、と声をかけてくれた彼は、昔と変わらず、なんの気負いもなく接してくれた。
エルドラドから出ていった自分を、こうして頼ってくれた……。
面白いから受け入れた。それは正直、本当のところである。でも、負い目がないというわけではない。エルドラドに置いていってごめん、と言うべきだったろうし、生け贄をやめなかったお前にも責任はあるだろう、と喧嘩をすべきだったろう。
それを笑ってごまかして、いいよ、体が直るまで一緒に暮らそうじゃないかと返したのだ。ちょっとだけチリリと痛む胸に気づかないふりをして。
ケツァルコアトルには、そんな引け目がある。
大学の講義が全て終わった頃、ケツァルは学校の出入り口から出てきた。初等部の授業は既に終わっている頃合いだ。テスカトリポカの姿はなかった。
今日はアルバイトもなく、そのまま帰れる日で、少しだけ曇ってきた空と冷えてきた空気が、直帰するべきだとケツァルに教えている。
ガタン、と自販機の音が聞こえる。
会話をしながら帰路につく仲間たちに別れを告げる。
帰ったらきっと、幼い姿のテスカトリポカと二人きりだ。少し照れるし、少し緊張するし、少し怖い。子供の体なのだから、きっと精神年齢もわずかばかり下がっているだろうテスカトリポカが「なんでエルドラドから去ったのだね」なんて聞いてくる可能性はなくもない。
そうしたら……ケツァルはさらりと答えられるだろうか。
自分の中でも複雑な事情が絡み合ってあの行動に出たのだと、言い訳めいたことを言わずにいられるだろうか。ごめん、の一言を、きちんと伝えられ……
「あっつ!」
突然、左手が熱を持った。
慌てて見てみれば、赤いランドセルを背負った少年が、熱々の缶コーヒーをケツァルコトルの左手に押し当てている。
「え、テスカ……あれ……初等部の授業はもう……」
「うむ。こうして待っていたのだよ。これから冷えるらしいからね、温かい飲み物でも飲まないか、きょうだい」
いたずらっぽい笑みを浮かべたテスカトリポカは、自分には紙パックの牛乳を買っていて、学校の敷地内にあるベンチに先に腰かけていた。
座りたまえよ、と呼ばれたので、ケツァルはそれに従った。
何を言おうか、と言葉を選ぶケツァルコアトルに、テスカトリポカは今日あったことをつらつらと話して聞かせる。授業はつまらんね、簡単すぎて、とむくれる彼の頬をつつくと、やめふぁまえよ、と苦情を申し立てられたので、笑った。
「……テスカトリポカ……あのな」
「さあ、帰ろう」
「え」
「え、とは何だね? 授業が終わったら帰るだけだよ、きょうだい。それともまだ何か用事があるのかね?」
手を差し伸べてくる小学生姿のテスカトリポカに、ケツァルコアトルは少しだけ……ほんの少しだけ、怯えのようなものを感じ取った。
その「怯え」は、自分自身も抱えている薄暗いものに似ていて。
まだ開示すべきときではないのだと、察した。
「ちょっと急ごうか? ゆっくりしていると、冷え込んできてしまうから」
目の前の少年が、悲しそうに微笑んだ。
「テスカトリポカ、起きないと遅刻するぞ、ほら」
毛布にくるまる小さな体を揺すると、んむう、とむずがる声が返った。うっすらと目を開けた少年姿のテスカトリポカが見たものは、自分を覗き込んでくる最愛のきょうだいの顔。
そして、チラリと視界に映り込む、赤いつやつやとしたランドセル。
「登校初日に遅刻したら心象が良くないぞう、きょうだい」
笑いを含んだ声でぷにぷにと頬をつついてくるケツァルコアトルに「やめふぁまえよ」と苦情を申し立てながら、小さなテスカトリポカはのそりと起き上がった。
「トーストと目玉焼きでいいかね、テスカ?」
「うん」
小さくあくびを一つこぼすテスカトリポカを見て、ケツァルコアトルは少しだけ笑った。
なつかしいな、などと、思ってしまった。
かじ、かじ、と焼けた食パンを少しずつ頬張るテスカトリポカは、目玉焼きの黄身にフォークを突き立てて潰す。とろりと濃厚な黄色が流れ出るのを眺めながら、目の前で同じように食事をしている半身を見た。
ケツァルコアトルは、大人の姿のテスカトリポカと比べるとやや細い。縦に長いと言うべきか、竜特有の尻尾の長さと、それからしなやかな首の長さで、身長をだいぶ稼いでいるようだ。
万物に精通する知能の持ち主であり、優しく、しかし苛烈で、喜怒哀楽が激しいきょうだい。何を考えているのかが分かりやすく、だけど、何を考えていたのか、今でもあまり分からないきょうだい……。
「テスカ」
不意にこちらを見たケツァルコアトルが声をかけてくる。
「ちょっと急ごうか? ゆっくりしていると、本当に遅刻してしまうよ」
な? と首をかしげるその様が、あまりに昔のそれと合致して、テスカトリポカはよく噛んでもいないトーストを無理に飲み込むことになった。
喉が少し痛かった。
そんなに穏やかな表情ができるのだね、と言えなかった。
うつむきながら急いで食事を終えると、ケツァルコアトルの笑い声が聞こえる。
「そんなに焦らなくてもいいぞ、きょうだい。いざとなったら飛べばいいんだから……ほら、ついてる」
頬についた食べかすを指で摘まんで取る竜の彼は、少しだけ寂しそうな目で笑った。いいんだぞう、きょうだい。爆笑してくれても。そう言おうとして、本当に遅刻しそうだったので、言わずに終わったテスカトリポカである。
おはよう、と声をかけられて、穏やかに笑って返すケツァルコアトルは、課題を提出しながら、同じ授業を受講する仲間たちの会話を聞いていた。
「今日も飛んできたのかい? 遅刻すれすれだったけど」
「小さな猫ちゃんを抱えて飛んでたよね、誰なの、あの子?」
どうやら興味は、腕の中にいたテスカトリポカに注がれているらしい。今日が登校初日なんだ、と返すと、新しい転光生か、と問われた。そのようなものだよ、と頷いておく。
東京に来た順で言えば、テスカトリポカよりもケツァルコアトルのほうが早い。よって、大切なきょうだい兼宿敵兼半身の彼は、ケツァルコアトルの後輩ということになる。たぶん、そうだ。
自分を頼って家を訪ねてきてくれたのは嬉しかった。
やあ、きょうだい、と声をかけてくれた彼は、昔と変わらず、なんの気負いもなく接してくれた。
エルドラドから出ていった自分を、こうして頼ってくれた……。
面白いから受け入れた。それは正直、本当のところである。でも、負い目がないというわけではない。エルドラドに置いていってごめん、と言うべきだったろうし、生け贄をやめなかったお前にも責任はあるだろう、と喧嘩をすべきだったろう。
それを笑ってごまかして、いいよ、体が直るまで一緒に暮らそうじゃないかと返したのだ。ちょっとだけチリリと痛む胸に気づかないふりをして。
ケツァルコアトルには、そんな引け目がある。
大学の講義が全て終わった頃、ケツァルは学校の出入り口から出てきた。初等部の授業は既に終わっている頃合いだ。テスカトリポカの姿はなかった。
今日はアルバイトもなく、そのまま帰れる日で、少しだけ曇ってきた空と冷えてきた空気が、直帰するべきだとケツァルに教えている。
ガタン、と自販機の音が聞こえる。
会話をしながら帰路につく仲間たちに別れを告げる。
帰ったらきっと、幼い姿のテスカトリポカと二人きりだ。少し照れるし、少し緊張するし、少し怖い。子供の体なのだから、きっと精神年齢もわずかばかり下がっているだろうテスカトリポカが「なんでエルドラドから去ったのだね」なんて聞いてくる可能性はなくもない。
そうしたら……ケツァルはさらりと答えられるだろうか。
自分の中でも複雑な事情が絡み合ってあの行動に出たのだと、言い訳めいたことを言わずにいられるだろうか。ごめん、の一言を、きちんと伝えられ……
「あっつ!」
突然、左手が熱を持った。
慌てて見てみれば、赤いランドセルを背負った少年が、熱々の缶コーヒーをケツァルコトルの左手に押し当てている。
「え、テスカ……あれ……初等部の授業はもう……」
「うむ。こうして待っていたのだよ。これから冷えるらしいからね、温かい飲み物でも飲まないか、きょうだい」
いたずらっぽい笑みを浮かべたテスカトリポカは、自分には紙パックの牛乳を買っていて、学校の敷地内にあるベンチに先に腰かけていた。
座りたまえよ、と呼ばれたので、ケツァルはそれに従った。
何を言おうか、と言葉を選ぶケツァルコアトルに、テスカトリポカは今日あったことをつらつらと話して聞かせる。授業はつまらんね、簡単すぎて、とむくれる彼の頬をつつくと、やめふぁまえよ、と苦情を申し立てられたので、笑った。
「……テスカトリポカ……あのな」
「さあ、帰ろう」
「え」
「え、とは何だね? 授業が終わったら帰るだけだよ、きょうだい。それともまだ何か用事があるのかね?」
手を差し伸べてくる小学生姿のテスカトリポカに、ケツァルコアトルは少しだけ……ほんの少しだけ、怯えのようなものを感じ取った。
その「怯え」は、自分自身も抱えている薄暗いものに似ていて。
まだ開示すべきときではないのだと、察した。
「ちょっと急ごうか? ゆっくりしていると、冷え込んできてしまうから」
目の前の少年が、悲しそうに微笑んだ。
