潮騒
凍える風が吹き荒ぶ砂浜を、モッズコートを着た大男が歩いていた。その歩調は軽やかである。時折、風が首筋に当たるのが気になるのか、肩をすぼめるようにして身震いしていたが、その顔には笑みが浮かんでいた。
冬の海。
泳ぐのに適さない、厳しい顔をした大自然。
波も穏やかとは言い難く、水も命の源泉とは思えぬほど冷え切っている。これではサーフィンも満足にできないだろう。
血の通わない薄青色と、暗いとも呼べない灰色が混じり合った水面を見て、大男……テュポーンは、さざ波が押し寄せる波打ち際へ向かって歩み寄っていった。
氷を砕いたような空気の塊が頬を撫でる。
テュポーンのくるぶしが海に浸かり、足首から下がキュッと締め付けられる感覚に襲われる。
それが彼には心地よかったようだ。
誰もいない海辺で自分ひとり、騒ぐ波を体で思うがままに感じている、このひと時。
テュポーン、という、暴風を冠した名を持つ彼にとって、穏やかで広いばかりではない海が、心から好ましかった。
台風。嵐。この世の終わり。
そんな風に呼ばれ、そんな風に見られ、自分自身もそうなのだと固く信じていた、あの頃。
自然の厳しさを体現する者として、優しいばかりではない一面を持つ冬の海は、実に共感できたし、好感も持てたし、安心感すら覚えた。
だから、テュポーンは笑う。
人がいなくなった海辺で、海と自分自身は苛烈な中身を抱いている同士であると、笑う。
たまには荒れなやってけへん時とてあるやんな。
そうやって、他者を突き放すように冷たく厳しい海に笑いかけて、一歩、さらに海水へ浸かろうと足を踏み出した。
その時だった。
「そのまま沈んでいかないでよ?」
すぐ隣から、声がしたのは。
……気がつけば、高校生が立っていた。テュポーンと同じく、くるぶしを濡らしながら。
その高校生の冷えた指先が、テュポーンの手にそっと触れて、ギュッと握ってくる。
「ご主人はん、風邪ひいてまうて」
目を丸くするテュポーンに、ご主人はん……こと、神宿学園のサモナーは、海風に煽られて寒い中、その表情に険しさはあるが、笑顔になった。
「テュポーンが楽しそうにしてたから、どれだけ気持ちいいのかと思って浸かりに来た」
「どやった?」
「キンキンに冷えすぎて足が痛いくらいだよ」
「だはは!」
足首を洗うように打ち付けてくる波から逃れるように、二人は軽い調子で砂浜へと戻る。ぼうぼうと音を立てて荒れる海風を体中に浴びながら、何でもない沈黙の時間を過ごした。
やがて、スッ……と息を吸う音がした。
テュポーンの方から聞こえた音だった。
「冬の海ってなあ、恐ろしいと思わん? 刺々しいちゅうか、なんや排他的と言うか」
「ああ、うん、なんとなく分かる」
「せやろ? 荒々しい……とはちょっとちゃうねんけどな、こう、スン、としてるっちゅうか、ツン、としとるっちゅうか」
途中から擬音が混じり始める表現。それに、サモナーは笑う。以前、テュポーンに「シュッとしとる」と言われたことがある。
「嫌いやないねん。そんな海も。むしろ好きやねんな。ワイもおんなしで、優しいばっかりとちゃうから、お揃いやんなぁ、って」
どこか遠い目で、それでも優しい笑顔でテュポーンが言う。テュポーンの手を握り続けていたサモナーの指先に、優しい力がこもる。
少しの沈黙のあと。
スッ……と息を吸う音がした。
サモナーの方から聞こえた音だった。
「寒いね……帰ろう……帰って、タコパしよう」
脈絡のない「タコパ」。
何を言うつもりなのかと、テュポーンがサモナーを優しく見下ろす。サモナーは、海をまっすぐ見据えていた。
「冬の海が恐ろしく見えるのは……刺々しくて、排他的に映るのは……きっと……きっとなんだけど、護るべきものが多すぎるからなんだと思う」
落ちた者の体温を根こそぎ奪うような、そんな凍てついた水辺に、サモナーは言う。
「自分の中に、護るべきものが沢山あるから、外の者を突き放さないといけない……そんな周期が来たからだよ」
高校生の体が、テュポーンの体にすり寄ってくる。体温を分け合うかのようにぴったりとくっつき、そして高校生は、テュポーンを見上げた。
「自分は、護る」
「……何を、護りますのん?」
「その海すら、丸ごと……護る。護るよ」
テュポーンは確か、こう言った。
ワイもおんなしで、優しいばっかりとちゃうから、お揃いやんなぁ、って。
海と自分は似ていると、確かに、その口で。
海を丸ごと護ると言い切ったサモナーは、寒いからか、それとも別の理由でか、頬を赤らめて笑っている。
「帰ろう」
その一言に、テュポーンもまた、同じ顔をして笑った。握られている手をゆっくり閉じて、サモナーの手を包みこんで。
「……呑まれへんよう、気ぃつけなあかんで」
潮騒が、優しく囃し立てるように笑っているような、そんな気がした。
冬の海。
泳ぐのに適さない、厳しい顔をした大自然。
波も穏やかとは言い難く、水も命の源泉とは思えぬほど冷え切っている。これではサーフィンも満足にできないだろう。
血の通わない薄青色と、暗いとも呼べない灰色が混じり合った水面を見て、大男……テュポーンは、さざ波が押し寄せる波打ち際へ向かって歩み寄っていった。
氷を砕いたような空気の塊が頬を撫でる。
テュポーンのくるぶしが海に浸かり、足首から下がキュッと締め付けられる感覚に襲われる。
それが彼には心地よかったようだ。
誰もいない海辺で自分ひとり、騒ぐ波を体で思うがままに感じている、このひと時。
テュポーン、という、暴風を冠した名を持つ彼にとって、穏やかで広いばかりではない海が、心から好ましかった。
台風。嵐。この世の終わり。
そんな風に呼ばれ、そんな風に見られ、自分自身もそうなのだと固く信じていた、あの頃。
自然の厳しさを体現する者として、優しいばかりではない一面を持つ冬の海は、実に共感できたし、好感も持てたし、安心感すら覚えた。
だから、テュポーンは笑う。
人がいなくなった海辺で、海と自分自身は苛烈な中身を抱いている同士であると、笑う。
たまには荒れなやってけへん時とてあるやんな。
そうやって、他者を突き放すように冷たく厳しい海に笑いかけて、一歩、さらに海水へ浸かろうと足を踏み出した。
その時だった。
「そのまま沈んでいかないでよ?」
すぐ隣から、声がしたのは。
……気がつけば、高校生が立っていた。テュポーンと同じく、くるぶしを濡らしながら。
その高校生の冷えた指先が、テュポーンの手にそっと触れて、ギュッと握ってくる。
「ご主人はん、風邪ひいてまうて」
目を丸くするテュポーンに、ご主人はん……こと、神宿学園のサモナーは、海風に煽られて寒い中、その表情に険しさはあるが、笑顔になった。
「テュポーンが楽しそうにしてたから、どれだけ気持ちいいのかと思って浸かりに来た」
「どやった?」
「キンキンに冷えすぎて足が痛いくらいだよ」
「だはは!」
足首を洗うように打ち付けてくる波から逃れるように、二人は軽い調子で砂浜へと戻る。ぼうぼうと音を立てて荒れる海風を体中に浴びながら、何でもない沈黙の時間を過ごした。
やがて、スッ……と息を吸う音がした。
テュポーンの方から聞こえた音だった。
「冬の海ってなあ、恐ろしいと思わん? 刺々しいちゅうか、なんや排他的と言うか」
「ああ、うん、なんとなく分かる」
「せやろ? 荒々しい……とはちょっとちゃうねんけどな、こう、スン、としてるっちゅうか、ツン、としとるっちゅうか」
途中から擬音が混じり始める表現。それに、サモナーは笑う。以前、テュポーンに「シュッとしとる」と言われたことがある。
「嫌いやないねん。そんな海も。むしろ好きやねんな。ワイもおんなしで、優しいばっかりとちゃうから、お揃いやんなぁ、って」
どこか遠い目で、それでも優しい笑顔でテュポーンが言う。テュポーンの手を握り続けていたサモナーの指先に、優しい力がこもる。
少しの沈黙のあと。
スッ……と息を吸う音がした。
サモナーの方から聞こえた音だった。
「寒いね……帰ろう……帰って、タコパしよう」
脈絡のない「タコパ」。
何を言うつもりなのかと、テュポーンがサモナーを優しく見下ろす。サモナーは、海をまっすぐ見据えていた。
「冬の海が恐ろしく見えるのは……刺々しくて、排他的に映るのは……きっと……きっとなんだけど、護るべきものが多すぎるからなんだと思う」
落ちた者の体温を根こそぎ奪うような、そんな凍てついた水辺に、サモナーは言う。
「自分の中に、護るべきものが沢山あるから、外の者を突き放さないといけない……そんな周期が来たからだよ」
高校生の体が、テュポーンの体にすり寄ってくる。体温を分け合うかのようにぴったりとくっつき、そして高校生は、テュポーンを見上げた。
「自分は、護る」
「……何を、護りますのん?」
「その海すら、丸ごと……護る。護るよ」
テュポーンは確か、こう言った。
ワイもおんなしで、優しいばっかりとちゃうから、お揃いやんなぁ、って。
海と自分は似ていると、確かに、その口で。
海を丸ごと護ると言い切ったサモナーは、寒いからか、それとも別の理由でか、頬を赤らめて笑っている。
「帰ろう」
その一言に、テュポーンもまた、同じ顔をして笑った。握られている手をゆっくり閉じて、サモナーの手を包みこんで。
「……呑まれへんよう、気ぃつけなあかんで」
潮騒が、優しく囃し立てるように笑っているような、そんな気がした。
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