聖者の贈り物
ダメージジーンズと言えば聞こえは良いが、その実、ダメージ加工をされたジーンズではなく、単にダメージが入ったジーンズである。
擦り切れ、膝には穴が空き、裾はほつれた糸がチラホラ伸びているそれを履いた男が、荒川区を歩いていた。両手に提げるのは、みっちりと服が詰まったビニール袋である。
彼が履いている靴はつま先の部分がパカリと開いており、熊獣人の足が見え隠れしていた。
彼は急いでいた。焦っている様子はない。高揚した表情で、大股で帰路についていた。
「ただいま!」
立派とは言えないだろう、プレハブらしき家。そこに彼は飛び込んで、笑顔で声を上げる。
黒い犬と戯れていた少年が、それを迎えた。
「おかえりなさい、おじさん」
おとなしい少年である。やや肥満体型なのは、おそらく栄養バランスの取れた食事を摂取できていないからか。健康的な食事は、値が張るのだ。
壁に囲まれた東京。その中で荒川区は、スラム街のような様相であった。
「ケンタ、聞いてくれ。今回の仕事先の上司に子供がいるらしくてな、もう着ないからって、お下がりの服をくれたんだ! ケンタが着られそうなものを貰ってきたからな、後で着てみせてくれ」
おじさん、と呼ばれた熊の獣人が両手に提げたいくつものビニール袋を少年……ケンタに見せつけるように持ち上げる。
彼が持っているもの全て、ケンタのための荷物らしい。どうだ、と言わんばかりに胸を張り、ケンタ本人よりも嬉しそうな表情をしている。
ケンタ少年は、それに少し困った表情を返した。
「……ありがとう……でも、ごめんなさい」
「謝らなくていいんだぞ、ケンタ」
「でも、ぼくの服ばっかり……おじさんの服は、あんまりふえないから……」
優しく控えめな少年である。ふくよかな体を縮こまらせ、申し訳なさそうにしている。
黒い犬……普段はケンタ少年のランドセルの中に潜んでいるイヌガミは、目を伏せているケンタの頬をぺろりと舐めた。
「ケンタ、あのな……子供はすぐに体調を崩す。俺みたいに頑丈な大人は、着るものが少なくても大丈夫だけどな、子供はそうじゃない。遠慮しないで着てほしい。……駄目か?」
駄目か? と問われて、駄目だ、と答えられるほど、ケンタは気が強くはない。
眉を八の字にして、首を横に振った。
その様子に、自分のエゴを押し通してしまった申し訳なさと、それでもケンタが風邪を引かずに済むという安心感で、熊の獣人……バーゲストが、小さく息をつく。
「ありがとうな、ケンタ」
優しく少年の頭を撫でると、少年はくすぐったそうに目を閉じて、少し笑った。
バーゲストは日々、日雇いの仕事で東奔西走している。革靴だったはずが、サンダルのような形状になってしまった靴を履き、命じられるままに働き、生活費を稼いでいる。
クッション性がほぼ無い靴であちこちに出向くので、彼の丈夫な足は、それでも所々擦れ、マメのようなものができていた。
「夕飯の買い出しにでも行ってくるか」
バーゲストが腰を上げたその時、
「ぼ、ぼくも行く……荷物、もつよ」
薄桃色の、うさぎの耳がフードに縫い付けられている、厚手のパーカーを着て、ケンタ少年が立ち上がった。バーゲストがお下がりに貰ってきた服たちから、それを選んだらしかった。
「似合ってるぞ、ケンタ」
「……ありがとう……」
手を繋いで、近くの商店街に向かう。商店街の入り口に建つドラッグストアは、賞味期限が近いものや、傷物になってしまった商品を、三割から四割ほど安く売ってくれる。
ケンタ少年の歩幅に合わせて、ゆっくり小股で歩くバーゲストは、少年が背負ったランドセルの中で欠伸をしているイヌガミに微笑んだ。
ドラッグストアで、ケンタ少年の成長に欠かせない牛乳を買い物カゴに入れる。それから、割引きのステッカーが貼られた千切りキャベツや、訳あり商品、というポップの下に置かれた菓子パンなどを手に取る。豚バラ肉が半額で売られていたので、他の客に持っていかれる前に、急いでカゴに入れた。
会計を済ませると、レシートが嫌に長かった。
そんなに多く買った覚えはない。
注意深くレシートを見てみると、一定の金額以上の買い物をしたら、福引き券が付いてくるタイプのものだと分かった。
福引きができる回数は、たった一回。
ポケットティッシュでも貰えたなら上出来か、とバーゲストは思い、ケンタ少年を見下ろした。バーゲストの腹のあたりに少年の頭が来る。
結構な体格差がある少年を相手に、バーゲストは、ぐっと腰を落としで目線を合わせた。
「福引き、やってみるか?」
「……いいの?」
ケンタ少年の瞳が、少し輝いた。
商店街の中程にある福引き会場には、行列ができていた。会場まで、片手に買い物袋、片腕にランドセルを背負ったケンタ少年を抱えたバーゲストが、ゆっくり歩いていく。
ケンタ少年は、福引き券が付いたレシートを、まるで大吉のおみくじのように、両手で持って、大切そうに胸元に掲げていた。
「次の方、どうぞ」
福引きのスタッフが声をかけてくれる。
バーゲストが、ケンタ少年を下ろす。
「さあ、行って来い」
ケンタ少年は覚悟を決めたように頷くと、スタッフの背後に大きく張り出されている、福引きの景品リストを見た。
一等は自転車で、二等は五キロの米。
四等に……大人用の服があった。
これだ! と、ケンタ少年は思ったに違いない。瞳の輝きが強くなっている。
レシートをスタッフに渡し、手回しの福引き器をグルンと回転させた。
「おめでとうございます! 三等の醤油と味醂セットが当たりましたよ!」
「おじさんの、服……当てたかったのに……ごめんなさい……ぼく、引けなかった」
肩を落として歩くケンタ少年。
「何を謝る必要があるんだ、醤油も味醂も嬉しいよ! よく当ててくれた! 本当に嬉しいんだ」
バーゲストが明るい表情でケンタ少年を励ます。ふくよかな体型の少年は、それでも、バーゲストに新しい服をプレゼントしたかったようだ。
しゅんとしていた。
「ありがとうなあ、優しいなあ、ケンタは」
熊の獣人のたくましい腕が、ケンタ少年を軽々も持ち上げ、少年を自身の肩の上に、よっこらせ、と座らせた。肩車だ。
「俺はな、ケンタやイヌガミと暮らせるだけで充分幸せだよ。いつもありがとうな」
その言葉に嘘はないように聞こえて、ケンタ少年は微笑んだ。バーゲストは少年を肩に乗せ、帰路につく。夕焼けに照らされ、彼らの影が長く伸びていた。
「おじさん」
「ん? どうした?」
「ぼくこそ……いつも、ありがとう」
肩の上の少年を、バーゲストは片腕で優しくポンポンと叩いた。
今日はケンタの好物を作ってやろうかな、と、熊のおじさんは、しみじみと喜びを噛み締めながら思うのだった。
擦り切れ、膝には穴が空き、裾はほつれた糸がチラホラ伸びているそれを履いた男が、荒川区を歩いていた。両手に提げるのは、みっちりと服が詰まったビニール袋である。
彼が履いている靴はつま先の部分がパカリと開いており、熊獣人の足が見え隠れしていた。
彼は急いでいた。焦っている様子はない。高揚した表情で、大股で帰路についていた。
「ただいま!」
立派とは言えないだろう、プレハブらしき家。そこに彼は飛び込んで、笑顔で声を上げる。
黒い犬と戯れていた少年が、それを迎えた。
「おかえりなさい、おじさん」
おとなしい少年である。やや肥満体型なのは、おそらく栄養バランスの取れた食事を摂取できていないからか。健康的な食事は、値が張るのだ。
壁に囲まれた東京。その中で荒川区は、スラム街のような様相であった。
「ケンタ、聞いてくれ。今回の仕事先の上司に子供がいるらしくてな、もう着ないからって、お下がりの服をくれたんだ! ケンタが着られそうなものを貰ってきたからな、後で着てみせてくれ」
おじさん、と呼ばれた熊の獣人が両手に提げたいくつものビニール袋を少年……ケンタに見せつけるように持ち上げる。
彼が持っているもの全て、ケンタのための荷物らしい。どうだ、と言わんばかりに胸を張り、ケンタ本人よりも嬉しそうな表情をしている。
ケンタ少年は、それに少し困った表情を返した。
「……ありがとう……でも、ごめんなさい」
「謝らなくていいんだぞ、ケンタ」
「でも、ぼくの服ばっかり……おじさんの服は、あんまりふえないから……」
優しく控えめな少年である。ふくよかな体を縮こまらせ、申し訳なさそうにしている。
黒い犬……普段はケンタ少年のランドセルの中に潜んでいるイヌガミは、目を伏せているケンタの頬をぺろりと舐めた。
「ケンタ、あのな……子供はすぐに体調を崩す。俺みたいに頑丈な大人は、着るものが少なくても大丈夫だけどな、子供はそうじゃない。遠慮しないで着てほしい。……駄目か?」
駄目か? と問われて、駄目だ、と答えられるほど、ケンタは気が強くはない。
眉を八の字にして、首を横に振った。
その様子に、自分のエゴを押し通してしまった申し訳なさと、それでもケンタが風邪を引かずに済むという安心感で、熊の獣人……バーゲストが、小さく息をつく。
「ありがとうな、ケンタ」
優しく少年の頭を撫でると、少年はくすぐったそうに目を閉じて、少し笑った。
バーゲストは日々、日雇いの仕事で東奔西走している。革靴だったはずが、サンダルのような形状になってしまった靴を履き、命じられるままに働き、生活費を稼いでいる。
クッション性がほぼ無い靴であちこちに出向くので、彼の丈夫な足は、それでも所々擦れ、マメのようなものができていた。
「夕飯の買い出しにでも行ってくるか」
バーゲストが腰を上げたその時、
「ぼ、ぼくも行く……荷物、もつよ」
薄桃色の、うさぎの耳がフードに縫い付けられている、厚手のパーカーを着て、ケンタ少年が立ち上がった。バーゲストがお下がりに貰ってきた服たちから、それを選んだらしかった。
「似合ってるぞ、ケンタ」
「……ありがとう……」
手を繋いで、近くの商店街に向かう。商店街の入り口に建つドラッグストアは、賞味期限が近いものや、傷物になってしまった商品を、三割から四割ほど安く売ってくれる。
ケンタ少年の歩幅に合わせて、ゆっくり小股で歩くバーゲストは、少年が背負ったランドセルの中で欠伸をしているイヌガミに微笑んだ。
ドラッグストアで、ケンタ少年の成長に欠かせない牛乳を買い物カゴに入れる。それから、割引きのステッカーが貼られた千切りキャベツや、訳あり商品、というポップの下に置かれた菓子パンなどを手に取る。豚バラ肉が半額で売られていたので、他の客に持っていかれる前に、急いでカゴに入れた。
会計を済ませると、レシートが嫌に長かった。
そんなに多く買った覚えはない。
注意深くレシートを見てみると、一定の金額以上の買い物をしたら、福引き券が付いてくるタイプのものだと分かった。
福引きができる回数は、たった一回。
ポケットティッシュでも貰えたなら上出来か、とバーゲストは思い、ケンタ少年を見下ろした。バーゲストの腹のあたりに少年の頭が来る。
結構な体格差がある少年を相手に、バーゲストは、ぐっと腰を落としで目線を合わせた。
「福引き、やってみるか?」
「……いいの?」
ケンタ少年の瞳が、少し輝いた。
商店街の中程にある福引き会場には、行列ができていた。会場まで、片手に買い物袋、片腕にランドセルを背負ったケンタ少年を抱えたバーゲストが、ゆっくり歩いていく。
ケンタ少年は、福引き券が付いたレシートを、まるで大吉のおみくじのように、両手で持って、大切そうに胸元に掲げていた。
「次の方、どうぞ」
福引きのスタッフが声をかけてくれる。
バーゲストが、ケンタ少年を下ろす。
「さあ、行って来い」
ケンタ少年は覚悟を決めたように頷くと、スタッフの背後に大きく張り出されている、福引きの景品リストを見た。
一等は自転車で、二等は五キロの米。
四等に……大人用の服があった。
これだ! と、ケンタ少年は思ったに違いない。瞳の輝きが強くなっている。
レシートをスタッフに渡し、手回しの福引き器をグルンと回転させた。
「おめでとうございます! 三等の醤油と味醂セットが当たりましたよ!」
「おじさんの、服……当てたかったのに……ごめんなさい……ぼく、引けなかった」
肩を落として歩くケンタ少年。
「何を謝る必要があるんだ、醤油も味醂も嬉しいよ! よく当ててくれた! 本当に嬉しいんだ」
バーゲストが明るい表情でケンタ少年を励ます。ふくよかな体型の少年は、それでも、バーゲストに新しい服をプレゼントしたかったようだ。
しゅんとしていた。
「ありがとうなあ、優しいなあ、ケンタは」
熊の獣人のたくましい腕が、ケンタ少年を軽々も持ち上げ、少年を自身の肩の上に、よっこらせ、と座らせた。肩車だ。
「俺はな、ケンタやイヌガミと暮らせるだけで充分幸せだよ。いつもありがとうな」
その言葉に嘘はないように聞こえて、ケンタ少年は微笑んだ。バーゲストは少年を肩に乗せ、帰路につく。夕焼けに照らされ、彼らの影が長く伸びていた。
「おじさん」
「ん? どうした?」
「ぼくこそ……いつも、ありがとう」
肩の上の少年を、バーゲストは片腕で優しくポンポンと叩いた。
今日はケンタの好物を作ってやろうかな、と、熊のおじさんは、しみじみと喜びを噛み締めながら思うのだった。
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