千客万来の宴

「さあさ、そこのお席に腰掛けてくんなあ!」
 ゴエモンの威勢の良い声が響く。歌舞伎座の演目は石川ゴエモン……ではなかったが、ゴエモンことシュカクが主役を張り、客を大いに賑わせていた。かんらからから。その笑い声につられて、客もまた笑顔になる。
 ゴエモンはそこで、ふと客席の端に目をやった。むっつりと黙り込んだ客が一人、笑いもせずに芝居を見届けていた。
 幕が下りる。盛大な拍手に包まれる。歌舞伎座の面々が一様に頭を下げる中、ゴエモンはちらりと横目で笑わぬ客を見る。やはり、難しい顔をして、しかし一応拍手はして、そこに座っていた。
「なんだい、あのお客さんは?」
「ああ、あの人か。頑固な人なんだよ。笑ったところを見たことがない」
 ゴエモンからの問いに、同じく歌舞伎座で演技を学び、疲労していた者が答えた。なんでも、芝居を見に来るが、笑いも感動もせず、拍手だけはして帰るらしい。
 金はきちんと落としてくれるし、文句は言わないし、酒も飲まないし、良い客ではあるのだろうが、いまいち演じ甲斐を感じられない人なのだと皆は言った。
 へえ……。
 ゴエモンは、むっつりとした客を思い出して、そんな風に思った。ただの無表情ではない。なんというか……難しい顔つきだ。考え込みながら芝居を見ている。そんな気がした。
「芝居を見に来てんのに別のことで気が散ってるんじゃあ、世話ねえなあ」
 それはあまりにもったいない。
 ゴエモンは、次の日から趣向を変えてみた。

 台詞をとちってみた。
「待てい! 拙者、どこへ行くう!」
 大見得を切って二人称と一人称を取り違えたゴエモンに、客は大爆笑を起こした。あちゃあ、やべえ、という表情をわざと作ったゴエモンは、てへへ、と舌を出してさらに客からの親しみや笑いを誘う。
 ちらりと横目で見てみると、いつもの席に、むっつりとした顔つきの客がいた。
 笑ってはくれないようだ。

 アドリブを入れてみた。
「合点承知、百点満点のつんつくてんってなもんよお!」
 これには歌舞伎座の団員たちがずっこけて、客がその姿に笑った。舞台袖に引っ込む間際にいつもの席を見てみると、やはりその客はなにか考え事をしているのか、笑いもせずに座っていた。
 どうすれば笑ってくれるというのか。
 ゴエモンは眉間にシワを寄せた。

 格好良く決めてもダメだった。
 滑って転んでもダメだった。
 朗々と長い台詞を噛まずに終えても。
 その客は、むっつりと、ただ黙って拍手をするのみだった。リアクションを得られない。それがどうにも悔しいゴエモンである。

「もういいよ、シュカク」
 団員に声をかけられたのは、ゴエモンがその客を笑わせようと躍起になって一週間ほどたった頃だ。数人の団員たちが彼のもとへやって来て、慰めるように肩に手を置いた。
「あの人は笑ってくれないんだから、諦めよう。シュカクはよくやったよ。他の大勢のお客さんが笑ってくれてるんだからさ、それで良しとしようじゃないか」
 そうだよ、お前はよくやった、と口々に慰められた。皆、ゴエモンが愉快痛快を客に振り撒く者であると分かっていて、そう口にしていた。
 心がけひとつで自分自身を変えることはできる。しかし、他人を変えることなどできない。だから、もうあの客を笑わせようなんて……。
 無駄な足掻きをしているゴエモンに、憐憫の情を抱いたのだろうか。もういいよ、と周りは言うばかりだった。

 本当に?
 本当に、それでいいのかい?
 ゴエモンは首を捻る。
 いつも通り張り切って芝居をして、客たちを喜ばせて、頭を下げて。そうして日々を過ごしていったが、彼の胸の中にあるモヤモヤとした気持ちは晴れることなく溜まり続けた。
 いつもの席に、いつもの笑わない客が座って、いつも通りむっつりとした顔つきで芝居を見て、拍手をして、帰っていく。
 その姿に、ゴエモンはとうとう痺れを切らした。
 歌舞伎座からこっそり抜け出して、むっつり客の後をつけてみることにしたのだった。なぜ笑わないのか。いや、なぜ感情をひた隠しにするのか。自分が介入できることなど少ないだろうが、理由の一欠片だけでも知りたくて……。

 その客は、一軒家に住んでいるようだった。
 外からリビングがよく見える。塀もない、いたって普通な家屋だった。カーテンは古くて薄いのか、閉めている意味がないくらい部屋の中をよく見せてくれる。
「覗き込むのは……さすがに行儀が悪かあねえかな……」
 躊躇するゴエモンの耳に、ちーん、という甲高い音が、不意に届いた。
 視線を向ければ、むっつり客は仏壇の前に座っていた。手を合わせている。ゴエモンはその人に見つからないよう身を潜めると、漏れ聞こえてきた話し声に耳を澄ませた。
「毎日、お前が好きだった歌舞伎座の芝居を見に行っているよ」
 低く落ち着いた声が、外にも聞こえていた。
「お前が笑うだろうな、お前が喜ぶだろうなって、思い出しながら観劇していると、知らず知らずのうちに眉間に力が入ってね。ついぞ笑えないまま見終わってしまう」
 ああ、そうか。
 ゴエモンは腑に落ちた様子でその場を後にした。
 あの人は、亡くなったパートナーを思い出し、笑える心情になかったのだ。

 それからゴエモンは、座長に頭を下げて、あることを頼み込んだ。無理を言っているのは百も承知だが、それでも、ゴエモンの意地にかけて、こればかりは譲れなかった。
「あの客のためかい?」
 心配そうに声をかけられる。
「なんだってそんなに気遣うんだ」
「そうだよ、他のお客さんたちが喜んでくれてるんだから、それで充分だろう?」
「たった一人、笑わなくてもいいじゃないか」
 仲間たちの不安そうな物言いに、ゴエモンは少し、胸が痛んだ。彼らに無理をさせるのは忍びない。それでも……ああ、それでもだ。
「九九人が笑ってるからといって、残った一人が笑えねえのを、良しとはしたかあ、ねんだ」
 たった一人を取りこぼして、何が痛快だ。
 やれるだけやってみらあ。というゴエモンの言葉に、歌舞伎座の仲間たちはお互いの顔を見て、肩をすくめた。

 今度の演目は、夫婦が絆を断ち切られ、つらい境遇に身を置くことになるものだった。
 どんなにひどい目に遭わされようとも、夫婦はお互いのことを忘れず、常にお互いの健康と幸せを祈って、懸命に生きた。
「ああ、お前さん!」
「ああ、一目……一目、女房の笑顔を見られたら!」
 夫の役はゴエモンが演じた。いつもの大見得は切らず、ただ切ない気持ちを乗せて、会えない相手への恋しさと慈しみを演じきった。
 物語の最後では、夫婦は再開を果たす。
 やつれた姿の妻を抱き止め、夫は、貧しくとも、病におかされようとも、これから二人、手に手を取り合って生きていこう、死ぬまで、いや、死んでからも、この心はお前のそばに。と思いの丈を吐き出すのだ。
 場内では、すすり泣く声があちこちから聞こえてきた。
 盛大な拍手が場を包む。
 ゴエモンはいつもの席を見た。
 そうして、安心したように微笑みをこぼした。

 むっつりとした顔つきのあの客が、呆然と、拍手することも忘れて、涙を流していたのだから。

 それからも、その客は来た。
 ゴエモンの大見得に少しだけ喜びを表してくれるようになった。
 ゴエモンがこければ、それを見て笑ってくれた。
 もちろん、他の多数の客だって歓声を上げてくれるし、驚いてくれる。
「シュカク、お前、やったな」
 歌舞伎座の仲間が嬉しそうに祝ってくれるのに、ゴエモンは照れたような表情を見せていた。
 千両役者、と声をかけられ、おうよ! と返事をする。
 これからもゴエモンは、笑わないたった一人にも心を配るだろう。

 彼は役者である以前に、一人の、痛快をまき散らす者なのだから。
1/1ページ
    拍手