毒薬変じて薬となる

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 学園軍獄を、疾走する二つの影があった。

 予防接種。
 今は医療機関で行われるそれだが、軍獄と称されるこの学園の教職員は、学園内にある医務室で済ませることになっていた。
 バロールは己を死刑囚であると称して、外に出ることを厭う。仕方なく医務室で予防接種を済ませるのが通例になっている。
 そしてテスカトリポカ。彼には本来、体がない。義体に入れば注射もできるが、予防接種の時期になると義体から出て情報生命体に戻る、小賢しい一面を持っていた。
 どちらも学園軍獄から出ない。
 となれば、シンノウが追い回す他ない。

 今日は運よく……いや、良いのか悪いのかは分からないが、テスカトリポカが義体に入っていた。
 学生たちに体術を指南する役割があったからだろう。丁度良く、ワイシャツの袖をまくっていた。
 盛り上がった筋肉が日に照らされ、濃い陰影を肉体に落としているのが見える。
 シンノウは、見惚れてはいなかった。
 血管、太そうだな、と思っていた。
 予防接種の獲物……いや、クランケにしか見えていないのである。
 学園の予鈴が鳴る。休み時間が来る。さて……あの最前線指揮官を捕まえて、注射針を打ち込む時間が近づいてきた。
 ガチャリ、と巨大な注射器を構えて、足音を殺して近づいていった。
 その時だった。

 テスカトリポカが走った。
 シンノウから遠ざかるように。
 察していたのだ、軍医の奇襲を!
 そして、聞き逃さなかったのだ。
 注射器を構える音を!
 シンノウもまた走る!
 テスカトリポカ最前線指揮官をひっ捕らえ、今日こそ予防接種を受けさせねばならぬと、渾身の走りを見せていた!
「指揮官殿、止まってくれませんかねぇ!」
「君が! 先に! 止まるならね!!」
 最近、こんな調子である。

 注射が怖いのかと言われたら、テスカトリポカはノーと答えるだろう。体内に薬液を注ぎ込まれるのが怖いのかと聞かれても、おそらくノーと答えるに違いない。
 ならば何故逃げるのか。
 答えは簡単である。
 でかい注射器を担いで走ってくる軍医に、シンプルな身の危険を感じているからである。
 その巨大な注射器を抱えていなければ、まだ話もできただろうに。予防接種の時期になると年中担いでいるものだから、危ないし感心しないしで距離を置きたいのだ。
 まあ、あまり逃げすぎるとその巨大な注射器で刺されるので、そろそろいい加減にしたほうがいいのだが……。

「最前線指揮官殿! 往生際が悪いですよ!」

 後ろから響くシンノウの声に返るのは

「フハハハ! 私は体のすべてを捧げた男! 故に! 既に往生しているようなものだよ!」

 テスカトリポカの、楽しそうな屁理屈だった。
「というか私はもう肉体が残っていないのたから予防接種の対象外だと思うがね!」
「精巧な義体があるなら話は別ってもんでしょうが! 大人しく打たれやがれっての!」
 いつまで経っても距離が縮まらない追いかけっこ。シンノウは舌打ちし、テスカトリポカはそろそろ空でも飛ぼうかと考える、そんな時だった。
 ガタン、と、硬い何かが落ちる音がした。

「思いっきり、行きますからね」

 シンノウの声のあと、ダンッ! と地を強く踏みしめる音が一度だけ響いた。
 巨大な注射器を捨てたのだと察したテスカトリポカが、翼をはためかせて飛んだ次の瞬間。

「どこに行かれるんです? 指揮官殿?」

 テスカトリポカの手首を、シンノウが素手で掴んだ。
 走り回って汗が滲んでいるシンノウの素手から
 くらり
 目眩を起こす程度の
 毒……。
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