差し入れ

 寒さが体に染み込むようになってきた季節に、ふっくらと着込んだ狸が一人、真剣な表情で町中を歩いていた。ブツブツと何かを呟いている。呟くたびに白い息が細かく立ち昇る。
「そうは言ってもお前さん、この雨の中を……違うなあ? ぁ、そうは言ってもお前さん……こぉの雨の中を……これでもねえな」
 どうやら、次の舞台の台詞を練習しているらしい。彼の名はゴエモン。シュカクという本名があるが、彼はゴエモンを目指しているので、ゴエモンと呼ばれた方が嬉しいのである。
 ちょいと待ちねえ、と呟きながら、不意に手を伸ばした。役作りに夢中になりすぎた。
 気づいた時には、既に人にぶつかっていた。
「おっと! すまねえ、大丈夫かい?」
 慌てるゴエモン。唖然とする通行人。
 尻餅をついた状態で、通行人はポカンとゴエモンを見あげていた。買い物袋から芋やら大根やらが転げ出ていて、ゴエモンは申し訳ない気持ちになった。
「ちゃんと前を見てりゃ良かった……本当にすまねえ、この通りよ! さあ、立てるかい? この手に掴まってくんな!」
「ゴ」
「ゴ?」
 通行人が、ゴエモンの手を取って立ち上がる。そして、口をパクパクとさせて、それから足元に転がる野菜を拾おうか、ゴエモンと会話しようか迷い、再び口をパクパクさせた。
「おうおう、落ち着きねえ落ち着きねえ。おいらはどこにも行かねえからよぉ、まずは野菜を拾おうじゃあねえか?」
 通行人はカクカクと忙しく頷いて、それから勢いよくしゃがんだ。あまりにも緊張しているその振る舞い。ゴエモンはやや呆気にとられたが、元はと言えばゴエモンが通行人の彼にぶつかってしまったせいである。同じようにしゃがみ、野菜を拾い始めた。

「ゴエモン、さん、ですよね」
 買い物袋に根菜をしまい終えたその時、通行人の彼は思い切った様子で声をかけてきた。
「おうよ、おいらを知っててくれたのかい? ありがとうよ! 励みになるってもんだ!」
 ニカッと笑い、胸を張る。すると通行人の彼は感激した様子で拍手をして、それから、キラキラとした目で言うのだった。
「あなたのファンです!」
「かんらかんら! そりゃ有り難え! おいらの良さが分かるなんざ、あんた、通だね? ……なーんてな!」
 おどけたように、しかし嬉しさは隠せずに笑うゴエモンに、ファンだと名乗った彼は感極まっていた。感極まりすぎて、何かを貢ぎたくなったのだろうか、買い物袋をガサゴソと漁りだし、さつまいもが大量に入ったビニール袋を取り出しもしていた。
 少し落ち着いた方が良いかもしれない。
「あの! あの! 今はこれしかないんですけど、その! 美味しく食べて頂けたら!」

 良い奴だなあ、とゴエモンに言われて、ファンの彼はたまらなく嬉しそうな顔になっていた。
 固く握手を交わす。
 ファンの彼が、手を洗いたくない、などと言い出すので、ゴエモンは笑ってしまった。
「また芝居を見に来てくれよ! そうしたら、また握手しようじゃねえか! 約束だ!」
 はい! はい! 必ず見に行きます!
 彼は嬉しそうに告げると、嬉しそうなまま駆け足で去っていく。時折こちらを振り返るので、ゴエモンは笑顔で手を振り、見送った。

 さて、と片腕で抱えている物を見る。
 大量のさつまいもだ。
 一本一本が太い。こんなに良いものを貰ってしまって、本当に良かったのだろうか。
 今さら返すわけにもいかないので、受け取るほかないのだが、赤く艶めいた立派な芋に、なんだか申し訳無さが勝ってしまった。
「美味しく食べて頂けたら……か」

 ゴエモンの頭に真っ先に浮かぶのはサモナー。次に、エンタティナーズの面々。それから歌舞伎座の仲間たちのことも忘れるわけには行かない。
 みんなと分けて食べたほうが「美味しく」頂けるというものだ。なにせゴエモンは天下の大泥棒、義賊でお馴染み、あのゴエモンの名を継ぐ者なのである。美味い物は分けるに決まっていた。
 そうして、狸の彼はふっと笑う。

「もう少し買い足さねえと足りないねえ、こりゃ」

 彼の嬉しそうな呟きに、白い息がほわりと昇る。
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