爪を黒く塗る

 マニキュアの独特な匂いが、セーフハウスに漂っていた。一応、窓は開けてあるのだが、それでも臭うものは臭った。
 マニキュアの匂いの発生源はサモナーで、両手の爪を黒く塗っているのが見える。デコレーションなどは行わず、ただ黒くツヤツヤと輝く爪を見て、頷いていた。
「おっ、相棒、今日のバトルは本気なんだな」
 ケンゴがサモナーに話しかける。頷くサモナーに、気張っていけよ、と返している。
 サモナーが爪を黒く塗る日は、アプリバトルが苛烈になる日だと、サモナーズのメンバーはよく知っていた。

 本当はタトゥーの一つでも入れて、戦意を示したい。しかし校則違反なので出来ない。
 だからサモナーは、いつでも落とせる戦化粧としてマニキュアを選んだのである。
 戦化粧。
 テスカトリポカとの、約束の化粧。
 全身全霊、全力で戦うことの証だ。
 約束の時間が近づいてきたので、サモナーは自分の両頬を軽く叩き、鉄刀迭尾を手に、約束の場所へ一人で赴いた。
 全身全霊のバトルに付添人は不要だと、テスカトリポカも、サモナーも、そう思っていた。

「お待たせ」
 広場のような公園にサモナーが現れる。テスカトリポカは先に到着していた。この前のように、奇襲だ何だと言って空から飛び降りてくることはしなかったようだ。
「また爪を塗ってきたのかね?」
 エルドラドの世界代行者が、少し不満そうに高校生の指先を指さした。
「本当はケツァルコアトルの色にでも、塗ってほしかったものだがね」
 なぜ黒色に塗るのだ、という彼の言葉に、サモナーは笑う。カラカラと笑って、そして返した。

「ターコイズブルーにでも塗ったら、テスカはケツァルコアトルのことしか見なくなるだろ?」

 それは嫌だとサモナーは言った。
 サモナーの中にいるケツァルコアトル以外を見なくなる。それは歓迎できた事ではないと。
「今の自分を見てほしいんだ。今の自分と戦ってほしいんだ。言ってる意味、分かる?」
「分かるよ。ケツァルコアトルの代理で戦うのではなく、自分自身として挑みたいのだろう? その勇気、恐れ入るよ」
 テスカトリポカの答えに、サモナーは少し笑う。そうだけど、そうじやない。
 サモナーは、自分の中にいる何かに嫉妬していた。果たして本当に中にいるのかは分からない。痕跡だけが残っているのかも知れない。
 だが、それに嫉妬しているのは事実。
 ケツァルコアトルのような素振りを見せると、テスカトリポカはすぐにケツァルコアトルへと目を向けようとしてしまうから。
 遠い目をして過去のケツァルコアトルを見ようとし、まっすぐこちらを見ながらケツァルコアトルの幻影に呼びかけようとするから。
 堪らなく悔しかったから。
 今ここにいるのは、サモナーという一人の高校生であって、中に誰が詰め込まれていようが、こうして自我を持つ一人であって。
 テスカトリポカに無視されて、気持ち良い訳がなくて。寂しいでも悲しいでもなく、悔しくて。
 だからケツァルコアトルに対抗するかのように、関係ない色を塗っている。
 サモナーは、サモナーだ。

「まったく……ケツァルコアトルそっくりな戦い方をするね……剣の腹で張り倒してくることはないだろうに」
 横っ面を張られたエルドラドの黒いジャガーは、サモナーが今一番思い出してほしくない者の名を口にする。
 戦い方までは知らない高校生だ。
 変えようのない部分をそっくりだと指摘されて、とてつもなく複雑な思いを胸に抱えていた。
「サモナー、君、戦っている時だけケツァルを呼び出している事などないかね? あまりにも苛烈なのだよ」
「呼んでないよ、たぶん。知らないけど。戦化粧して来たんだから、本気で戦わないと失礼だと思って挑んでたけど」
「……君、ケツァルコアトルのこと、嫌いかね」
「……は?」
 唐突な問い。何を言ってるんだ、こいつは、とテスカトリポカを見るサモナー。そんな高校生に、黒いジャガーは腕を組んで物を言う。
「なあ、きょうだい。東京のきょうだい」
「はいはい、何だね、エルドラドのきょうだい」
「君を通してケツァルを見ていたのは事実だ」
 そうだろうた。
 サモナーは納得して頷いた。
 隙あらばケツァルコアトルを見ようとしていた。嫌でも分かる。分からないはずがない。
「今の自分を見てくれ、と君は言ったね。ならば見ようじゃないか。私のために、私の色を爪に乗せた、健気で律儀な愛しいきょうだいを!!」
「恥ずかしくなってきたから見なくていいよ」
「見るよ!? 私に言うだけ言わせて今のナシの方が酷いじゃないかね!!」
 堂々と言い放った男に、塩のような対応をした高校生がいた。途端に騒がしくなって、馬鹿らしくなった。

 サモナーズのセーフハウスに、マニキュアの匂いが立ち込める。
 アプリバトルなのだと、誰もが思った。今回も苛烈に戦うのだろうと、誰もが予想した。
「死闘を繰り広げるのはいいけれど、無茶はしないでくれよ」
 そう声を掛けるシロウに、サモナーは笑って首を横に振る。違うらしい。

 テスカトリポカと一緒に出かける、約束の時間。待ち合わせの場所に、サモナーが現れる。
「お待たせ」
 その手の爪は黒く塗られていて。

 全身全霊、全力で、今のサモナーと、今のテスカトリポカが向き合うのだと、そんな思いが込められた戦化粧に、彼ら二人が笑った。
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