クラシカル
自分ではない自分は、世界代行者であった。
豊洲で教授をしている男は、さざ波に足を洗われながら、遠く近い過去を思い起こしていた。
夜の葛西臨海公園は、冷たい風が吹きすさんでいる。ワイシャツとスラックス、そして革靴という出で立ちの男は、潮風に頬を撫でられつつ、夜空を仰ぐ。月が出ていた。
この月明かりは、かの世界に届いているのだろうか。海の底の世界……カナーンに。
もう一人の自分……カナーンを統べていたほうのダゴンが、彼の体を借りて、そっと息をついた。
傷ついた流者のため用意された舞台。あの子供が癒やされるまでの間、繰り返される世界。父祖として異邦の客を愛した。我が子同然に愛を注いだ。愛に溢れる世界で、悲劇を見届けた。
オールドワンズのダゴンは目を閉じる。冷たい海風が体に当たる。そっと目を開けて自身の手のひらを眺め、視線を海の方へと向ける。
暗い海はわずかばかりの月明かりを散らし、おぼろげに輝いていた。
オールドワンズのダゴンとは、引用・流用された存在である。ダゴンたちはそう認識している。
本来のあり方は、カナーンのダゴンのほうである。父祖として、カナーンの我が子たちへ惜しみない愛と慈悲を注ぐのである。
そのダゴンの名をとある方法で借り受けて生を得たのが、オールドワンズのダゴンだ。彼らは二つで一つの存在。一つの体を二つの記憶で共有し、親和性の高さから、神話性の高い彼らは、時にその記憶すらも融合させて暮らしていた。
ダゴンは、その器に大いなる愛を宿した神性だとも言えた。神性であるので、人の認識する愛とはまた違うのやもしれない。どこかズレているか、そのズレすらも飲み込むほどの深い愛であるのだろう。ダゴンたちの体には、そういった愛情と慈悲が詰まっているようだった。
波が革靴を撫でる。
もうこの靴は使い物にならないだろうが、どちらのダゴンにとっても、それはどうでもいいことだった。スラックスが濡れても動じない。
彼らは、もしくは、彼は。
月夜に揺らいでいた。
この詰まりに詰まった愛をどこへ注ごうかと、互いのルーツである海へと足を運んでいたのだ。
カナーンのダゴンは父祖である。
オールドワンズのダゴンは後裔である。
その差があれど、差を差とも思えないほど近しい彼らは、二人、脳裏をかすめる存在に思いを馳せている。
サモナー。
彼らが守るべき存在だ。
カナーンの彼は、異邦の客人であるサモナーを愛した。父から子へと愛を注ぐかのように。
若干、甘やかしたやもしれない。
オールドワンズの彼は、自身の父祖である■■■■を宿すサモナーを愛した。子から父へと愛を捧ぐかのように。
若干、甘やかしたやもしれない。
どちらにとっても、サモナーは重要で愛しい、丁重に扱うべき存在だった。
ダゴンは父である。
ダゴンは子である。
父祖であり、後裔である。
どちらの要素も有する、二つで一つの、一つで二つの存在である。
だからこそダゴンは揺らいでいた。
この愛を向けるべきは。
この愛を注ぐべきは。
この愛を捧ぐべきは。
どう注ぐ? 父祖としてか? 子としてか?
体は一つしかない。注ぎ方には細心の注意を払わねばなるまい。かの異邦の御方を壊さぬよう。
カナーンのダゴンは考える。
父祖として愛を授け、愛し子を育むようにサモナーを見守るべきである、と。
オールドワンズのダゴンは考える。
後裔として愛を捧げ、貴き御方をお守りするようにサモナーを見守るべきである、と。
結果は同じだが、過程が違う。
月光が海とダゴンを照らし、風が雲を運び、月を隠した。揺らぐ気持ちは晴れなかった。
どちらの愛も捧げれば良いではないか。
二人でそう考えたが、オールドワンズのダゴンが首を横に振った。
それは不敬ではないのか、と。
どちらか片方の愛を注ぐべきなのか。
二人でそう考えたが、カナーンのダゴンが首を横に振った。
どちらかの想いが脱落しては、ダゴンらしくはないのでは、と。
そうして、二人で気づいた。
敬愛とは、慈愛とは、これらの感情の区別なく注がれる、大いなるものなのだと。
笑ってしまった。
どちらのダゴンもだ。
どちらが先に生まれたなんて、どちらがどちらを引用しただなんて、意識の隅で己らを見比べて、愛すらも比べていた。
滑稽だった。
サモナーに。
■■■■に。
自身らが抱いた「愛」は、そんな小さなものではなかったはずだ。もっとどうしようもなく、深く大きく、この身に詰まったものであったはずだ。
さざ波が足を濡らす。
海風が体を冷やす。
自嘲にも似た笑みを浮かべ、ダゴンは再び目を閉じた。
海が、呼んでいる気がした。
豊洲で教授をしている男は、さざ波に足を洗われながら、遠く近い過去を思い起こしていた。
夜の葛西臨海公園は、冷たい風が吹きすさんでいる。ワイシャツとスラックス、そして革靴という出で立ちの男は、潮風に頬を撫でられつつ、夜空を仰ぐ。月が出ていた。
この月明かりは、かの世界に届いているのだろうか。海の底の世界……カナーンに。
もう一人の自分……カナーンを統べていたほうのダゴンが、彼の体を借りて、そっと息をついた。
傷ついた流者のため用意された舞台。あの子供が癒やされるまでの間、繰り返される世界。父祖として異邦の客を愛した。我が子同然に愛を注いだ。愛に溢れる世界で、悲劇を見届けた。
オールドワンズのダゴンは目を閉じる。冷たい海風が体に当たる。そっと目を開けて自身の手のひらを眺め、視線を海の方へと向ける。
暗い海はわずかばかりの月明かりを散らし、おぼろげに輝いていた。
オールドワンズのダゴンとは、引用・流用された存在である。ダゴンたちはそう認識している。
本来のあり方は、カナーンのダゴンのほうである。父祖として、カナーンの我が子たちへ惜しみない愛と慈悲を注ぐのである。
そのダゴンの名をとある方法で借り受けて生を得たのが、オールドワンズのダゴンだ。彼らは二つで一つの存在。一つの体を二つの記憶で共有し、親和性の高さから、神話性の高い彼らは、時にその記憶すらも融合させて暮らしていた。
ダゴンは、その器に大いなる愛を宿した神性だとも言えた。神性であるので、人の認識する愛とはまた違うのやもしれない。どこかズレているか、そのズレすらも飲み込むほどの深い愛であるのだろう。ダゴンたちの体には、そういった愛情と慈悲が詰まっているようだった。
波が革靴を撫でる。
もうこの靴は使い物にならないだろうが、どちらのダゴンにとっても、それはどうでもいいことだった。スラックスが濡れても動じない。
彼らは、もしくは、彼は。
月夜に揺らいでいた。
この詰まりに詰まった愛をどこへ注ごうかと、互いのルーツである海へと足を運んでいたのだ。
カナーンのダゴンは父祖である。
オールドワンズのダゴンは後裔である。
その差があれど、差を差とも思えないほど近しい彼らは、二人、脳裏をかすめる存在に思いを馳せている。
サモナー。
彼らが守るべき存在だ。
カナーンの彼は、異邦の客人であるサモナーを愛した。父から子へと愛を注ぐかのように。
若干、甘やかしたやもしれない。
オールドワンズの彼は、自身の父祖である■■■■を宿すサモナーを愛した。子から父へと愛を捧ぐかのように。
若干、甘やかしたやもしれない。
どちらにとっても、サモナーは重要で愛しい、丁重に扱うべき存在だった。
ダゴンは父である。
ダゴンは子である。
父祖であり、後裔である。
どちらの要素も有する、二つで一つの、一つで二つの存在である。
だからこそダゴンは揺らいでいた。
この愛を向けるべきは。
この愛を注ぐべきは。
この愛を捧ぐべきは。
どう注ぐ? 父祖としてか? 子としてか?
体は一つしかない。注ぎ方には細心の注意を払わねばなるまい。かの異邦の御方を壊さぬよう。
カナーンのダゴンは考える。
父祖として愛を授け、愛し子を育むようにサモナーを見守るべきである、と。
オールドワンズのダゴンは考える。
後裔として愛を捧げ、貴き御方をお守りするようにサモナーを見守るべきである、と。
結果は同じだが、過程が違う。
月光が海とダゴンを照らし、風が雲を運び、月を隠した。揺らぐ気持ちは晴れなかった。
どちらの愛も捧げれば良いではないか。
二人でそう考えたが、オールドワンズのダゴンが首を横に振った。
それは不敬ではないのか、と。
どちらか片方の愛を注ぐべきなのか。
二人でそう考えたが、カナーンのダゴンが首を横に振った。
どちらかの想いが脱落しては、ダゴンらしくはないのでは、と。
そうして、二人で気づいた。
敬愛とは、慈愛とは、これらの感情の区別なく注がれる、大いなるものなのだと。
笑ってしまった。
どちらのダゴンもだ。
どちらが先に生まれたなんて、どちらがどちらを引用しただなんて、意識の隅で己らを見比べて、愛すらも比べていた。
滑稽だった。
サモナーに。
■■■■に。
自身らが抱いた「愛」は、そんな小さなものではなかったはずだ。もっとどうしようもなく、深く大きく、この身に詰まったものであったはずだ。
さざ波が足を濡らす。
海風が体を冷やす。
自嘲にも似た笑みを浮かべ、ダゴンは再び目を閉じた。
海が、呼んでいる気がした。
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