我が愛すべき

 アプリバトルが終われば、時間は巻き戻る。
 発狂も、猛毒も、恐怖も、憑依も、怪我も、死も……全てが無かったことになる。
 記憶は残るが、それでも、時間とともに負った傷が綺麗に消えてなくなるのだ。
 その事に、テスカトリポカは不満げだった。
 つまらなそうだった。

 つまらなくて結構。
 死にたがりの馬鹿につける薬はない。
 命あっての物種という言葉を知らないのか。
 通称・学園軍獄で軍医として働いている牛の獣人は、退屈そうに、不満そうに、自身の身体を眺めている最前線指揮官に呆れた目を向けていた。
 死ななくていい者を掬い上げ、生きたがる者を救い上げる。それがシンノウドクターである。
 しかし学園軍獄には、死ななくていいというのに死にに行く馬鹿が、生きる覚悟をこそしてほしいのにサラリと命を捨てる馬鹿が、多すぎた。
 ため息を一つ。
 訓練で傷を負って医務室にやって来た生徒の手当てに、意識を向ける。

 テスカトリポカが怪我をしたと、シンノウが聞いたのは、何日か経ったある日の事だった。
 向かって右の眉の部分をざっくりと切る怪我をしていた。流血している。人工の血液は運良く目を避けて垂れていた。
 なんでこんな事に?
 軍獄の最前線指揮官に向かって暴力を振るえる命知らずが誰なのかは知らないが、シンノウはしばしポカンとテスカトリポカを見ていた。
 最前線指揮官は……笑っていた。
 どうやら、軍人を倒せる俺「たち」、という自己陶酔に浸りたいチンピラ集団に奇襲を受けたらしい。……しかし、テスカトリポカにとっては、奇襲でも何でもない素人の戯れとしか思えず、眉を切られただけで他に被害は無し。
 彼らは今頃ゴミ捨て場で眠っているだろうねえ、などと呑気に首をかしげる始末だった。

 シンノウは、眉間にシワを寄せる。

 大股で最前線指揮官に近づいていき、手袋をした手で無遠慮に司令官殿の腕を掴み、乱暴に医務室に連行した。
「痛いのだが?」
「そりゃあ強く握ってますからねえ」
 怒り心頭、といった様子で、有無を言わさずテスカトリポカを椅子に座らせ、止血をし、意味があるのか無いのかなど気にせず薬を塗り、ガーゼを当ててテープで止めた。
 ふう、と一息ついたあと。

「あんたは何を考えてるんですか!!」

 叱責。
 目を丸くしてそんなシンノウを見ていたテスカトリポカは、一喝が終わるとヘラッと笑い出した。
「何を笑ってんです!? あんた、自分の状況分かってるんですか? なんで護衛を一人も付けずに外に出るかな!!」
 腰に手を当てて上司を説教する軍医。
 軍医の権限は意外と強いのである。
「死ぬかもしれなかった! 血だって流れた! 痛覚だってあったろうに! 笑い事じゃないんですよ! 分かってますか!?」
 命を掬う者として、捨てられた命を必死に拾ってきた者として、譲れない思いでシンノウは怒鳴りつけた。
 分かれよ、伝われよ、少しでも、少しでもいい。
 どうか
「自分を大切にしてください! どうしてそれができないんだ!」

 それに返るのは、笑み。
 まるで、足掻く人民を眺めている神のように、ニコニコと笑う最前線指揮官の姿。
 何を笑ってるんだ。
 大切な話をしているのに。
 腹から怒りがせり上がって来るシンノウに、テスカトリポカが口を開く。

「君の言う通りだとも」

「……は?」
「は? とは何だね? 君の言う通りだと言ったのだよ、君は間違っていない」
 この男は……何を言っている?
 エルドラドの世界代行者として、生贄になり、自身を世界へ捧げ、自己犠牲により民たちを支えることこそ至高だと、普段ならばそう返してくるはずの、この男は。
 怪我をした事が嬉しいかのように、テスカトリポカは上機嫌で笑っていた。
 そうして、言うのだ。
「死ぬかもしれなかった! 血だって流れた! 痛覚だって勿論あったとも! その通り、笑い事ではない!」
 笑っているくせに。
 最前線指揮官は、誇らしそうである。
 シンノウの前で堂々と、
「今この瞬間において、私は周囲の民と同じ、ただの儚い命の一つに過ぎないのだよ!」
 そんな事を主張して、

「この平等を喜ばずして、何を尊べというのだね! なあ、軍医殿!」

 晴れやかな笑顔なものだから。

「だぁかぁらぁ! 最初から言いますけどね!」
 シンノウドクターからの全力の説教が、医務室に響くこととなった。
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