ブリオッシュの黄昏
ああ、これは夢だ。
サモナーは察した。
冷たい水が、足首までを浸している。
美しい神殿の庭は、見事に沈没していた。
その庭の真ん中で佇むサモナーは、この鮮やかな光景に見覚えがない。ふ
きっと、誰かの夢の中だ。
そう思った。
せせらぎのような静かな水の音が響くそこで、しばらく立っていた。ちゃぱちゃぱと注がれる冷たい水は、どこか懐かしい雰囲気をまとっていた。
誰が見ている夢なのか。
それは未だに分からないが、寂しくも凛とした世界で、確かに憧憬や崇拝の気配を感じていた。
少し歩く。
砂地が、サモナーの足を優しく受け止めた。
「夢見るままに待ちいたり」
歌。
いや、
声。
低くしゃがれたような、それでいて艶のあるような、海の底から響くような、水面を撫で付けるような、不可思議な声が聞こえてきた。
この夢の主だろう。
一度、挨拶に向かわなければ。
サモナーはなぜだかそう思い、声のする方まで、しゃぱり、しゃぱりと波紋を引き連れ、歩いていったのだった。
どの程度、歩いたか。
しばらくあるき続けていたような気がするが、そんなに歩いていなかったような気もする。
なんせ夢の中だ。
距離や時間などなんの意味も持たない。
さあん、さあん、という控えめな波の音が耳に優しい。その中を、しゃん、しゃん、と水の音をさせて歩いていたサモナーが、視線を上げて、よく見知った影を見つけた。
ダゴンだ。
沖に向かって、夢見るままに待ちいたり、と歌う彼が、ふと、何者かの気配に気づいたのだろう……こちらを向く。
「おや」
しゃがれたような、艶のあるような声が、サモナーにかけられた。
「我が世界へようこそ。ずっと……ずうっと、待っていたとも」
足首まで濡らす水は、冷たく、澄んでいた。
遠浅の海のように思えた光景だが、視線を移した先には、深い青緑が一面に広がっている。
急激に深くなる地形なのだろうか。
夢に考察など意味がないが。
「沖へ……行くつもりかな?」
隣に、ダゴンが立つ。
サモナーの顔を伺ってくる。
「やめておきなさい。戻れなくなったら、今のお前は、困るだろう……?」
深いものを抱えた笑み。ダゴンはそれを顔に浮かべて、サモナーに手を差し出した。
素直に手を取ったサモナーを連れて、浅瀬にある白い椅子へと誘導してくれる。
いつの間にか現れた白い丸テーブルの上には、紅茶のセットと、バスケットに入れられたパンが鎮座していた。
「細 やかながら、贈り物だ」
バスケットに入っているパンを、サモナーは一つ取り出した。このパンの名前は知っている。
クロワッサンだ。
三日月の形をした、サクサクした感触のそれを、ダゴンはサモナーに勧めていた。
一口かじる。
サクリ、ふわり。クロワッサン独特の食感が伝わり、夢の中だというのに、バターの香りが一瞬、鼻を抜けていった。
美味しい。
そう呟けば、ダゴンは表情を柔らかくさせる。
「どうせなら、ベーグルでも良かったのに」
サモナーは、無意識に口を開いていた。
どうしてそんな要望を口にしたのか自分でも分からないままに、深い青緑の沖を眺めながら言う。
「三日月より、満月のほうが……きっと狂える」
返るダゴンの声は落ち着いていた。
「ベーグルの語源は、馬の鐙 だ。父祖に乗り、足をかけ、進む道を指図するなど……私にはとても出来はしない」
ふうん。
気のない返事をしてクロワッサンを平らげるサモナーに、ダゴンは構わず笑っていた。
愛しいものを見るように。
眩しいものを見るように。
「この夢に呼んだのは、ダゴン先生ですか?」
紅茶をすする。やはり香りが鼻を抜ける。
夢らしからぬリアルさを味わいながら、サモナーは訊ねていた。
ダゴンは首を横に振る。ゆっくりと否定の意を示した彼は、さあん、という静かな波の音に目を伏せて、話し始めた。
「この夢は、本来ならば、誰もいない光景の中、私が一人でひたすらに待ち続ける、というものだったのだよ」
何度も同じ夢を見ていたのだろう。
慣れた様子で、落ち着いた様子で、ダゴンはこの夢の、海しか見えない光景を語る。
大切な海なのだろう。
「そこにお前が……いや、御前が訪ねてきてくれた。まったくの偶然か……はたまた、父祖のお恵みかは知らんがね」
どちらにせよ嬉しいことだ。
彼はそう言って笑った。
待ち続けていた甲斐があったよ。
待ち続けていた、甲斐が。
……まるで、今までの寂しさがすべて報われたかのように、彼は笑うのだ。
出来るならば、いつまでもここに居てほしい。
しかし、父祖を縛り付けるなど、眷属である自分にどうして出来ようか。
可能なら、少しでも長く、永く、共に居たい。
だが、父祖にそれを強要するなど不敬もいいところではないか。
たった一度。
たった一度の偶然で、報われたのだ。
これは奇跡で、思し召しで。
二度はない。
笑って、有り難く受け取るべき恩恵なのだ。
サモナーの耳に届いた潮騒は、そんなことを囁いていた気がする。
ここはダゴンの夢の中。
きっと彼の心が海を通して伝わってきたのだ。
物思いにふける彼を見て、サモナーはゆっくりと口を開いた。
「これは夢です。現実ではない」
「ああ。ああ。心得ているとも」
ダゴンの返しに、サモナーは頷いて……告げた。
「起きたら、今度はブリオッシュを焼いて下さい」
「……ブリオッシュを?」
「ええ。甘いパンが、食べたくて」
ダゴンはその申し出に、目を丸くしていた。
サモナーの真意が、汲み取れないようだった。
だからサモナーは言うのだ。
夢の中で言うのだ。
「現実でも、あなたを訪ねに行きますから」
ざん! と、波が一度だけ荒れた。
サモナーは察した。
冷たい水が、足首までを浸している。
美しい神殿の庭は、見事に沈没していた。
その庭の真ん中で佇むサモナーは、この鮮やかな光景に見覚えがない。ふ
きっと、誰かの夢の中だ。
そう思った。
せせらぎのような静かな水の音が響くそこで、しばらく立っていた。ちゃぱちゃぱと注がれる冷たい水は、どこか懐かしい雰囲気をまとっていた。
誰が見ている夢なのか。
それは未だに分からないが、寂しくも凛とした世界で、確かに憧憬や崇拝の気配を感じていた。
少し歩く。
砂地が、サモナーの足を優しく受け止めた。
「夢見るままに待ちいたり」
歌。
いや、
声。
低くしゃがれたような、それでいて艶のあるような、海の底から響くような、水面を撫で付けるような、不可思議な声が聞こえてきた。
この夢の主だろう。
一度、挨拶に向かわなければ。
サモナーはなぜだかそう思い、声のする方まで、しゃぱり、しゃぱりと波紋を引き連れ、歩いていったのだった。
どの程度、歩いたか。
しばらくあるき続けていたような気がするが、そんなに歩いていなかったような気もする。
なんせ夢の中だ。
距離や時間などなんの意味も持たない。
さあん、さあん、という控えめな波の音が耳に優しい。その中を、しゃん、しゃん、と水の音をさせて歩いていたサモナーが、視線を上げて、よく見知った影を見つけた。
ダゴンだ。
沖に向かって、夢見るままに待ちいたり、と歌う彼が、ふと、何者かの気配に気づいたのだろう……こちらを向く。
「おや」
しゃがれたような、艶のあるような声が、サモナーにかけられた。
「我が世界へようこそ。ずっと……ずうっと、待っていたとも」
足首まで濡らす水は、冷たく、澄んでいた。
遠浅の海のように思えた光景だが、視線を移した先には、深い青緑が一面に広がっている。
急激に深くなる地形なのだろうか。
夢に考察など意味がないが。
「沖へ……行くつもりかな?」
隣に、ダゴンが立つ。
サモナーの顔を伺ってくる。
「やめておきなさい。戻れなくなったら、今のお前は、困るだろう……?」
深いものを抱えた笑み。ダゴンはそれを顔に浮かべて、サモナーに手を差し出した。
素直に手を取ったサモナーを連れて、浅瀬にある白い椅子へと誘導してくれる。
いつの間にか現れた白い丸テーブルの上には、紅茶のセットと、バスケットに入れられたパンが鎮座していた。
「
バスケットに入っているパンを、サモナーは一つ取り出した。このパンの名前は知っている。
クロワッサンだ。
三日月の形をした、サクサクした感触のそれを、ダゴンはサモナーに勧めていた。
一口かじる。
サクリ、ふわり。クロワッサン独特の食感が伝わり、夢の中だというのに、バターの香りが一瞬、鼻を抜けていった。
美味しい。
そう呟けば、ダゴンは表情を柔らかくさせる。
「どうせなら、ベーグルでも良かったのに」
サモナーは、無意識に口を開いていた。
どうしてそんな要望を口にしたのか自分でも分からないままに、深い青緑の沖を眺めながら言う。
「三日月より、満月のほうが……きっと狂える」
返るダゴンの声は落ち着いていた。
「ベーグルの語源は、馬の
ふうん。
気のない返事をしてクロワッサンを平らげるサモナーに、ダゴンは構わず笑っていた。
愛しいものを見るように。
眩しいものを見るように。
「この夢に呼んだのは、ダゴン先生ですか?」
紅茶をすする。やはり香りが鼻を抜ける。
夢らしからぬリアルさを味わいながら、サモナーは訊ねていた。
ダゴンは首を横に振る。ゆっくりと否定の意を示した彼は、さあん、という静かな波の音に目を伏せて、話し始めた。
「この夢は、本来ならば、誰もいない光景の中、私が一人でひたすらに待ち続ける、というものだったのだよ」
何度も同じ夢を見ていたのだろう。
慣れた様子で、落ち着いた様子で、ダゴンはこの夢の、海しか見えない光景を語る。
大切な海なのだろう。
「そこにお前が……いや、御前が訪ねてきてくれた。まったくの偶然か……はたまた、父祖のお恵みかは知らんがね」
どちらにせよ嬉しいことだ。
彼はそう言って笑った。
待ち続けていた甲斐があったよ。
待ち続けていた、甲斐が。
……まるで、今までの寂しさがすべて報われたかのように、彼は笑うのだ。
出来るならば、いつまでもここに居てほしい。
しかし、父祖を縛り付けるなど、眷属である自分にどうして出来ようか。
可能なら、少しでも長く、永く、共に居たい。
だが、父祖にそれを強要するなど不敬もいいところではないか。
たった一度。
たった一度の偶然で、報われたのだ。
これは奇跡で、思し召しで。
二度はない。
笑って、有り難く受け取るべき恩恵なのだ。
サモナーの耳に届いた潮騒は、そんなことを囁いていた気がする。
ここはダゴンの夢の中。
きっと彼の心が海を通して伝わってきたのだ。
物思いにふける彼を見て、サモナーはゆっくりと口を開いた。
「これは夢です。現実ではない」
「ああ。ああ。心得ているとも」
ダゴンの返しに、サモナーは頷いて……告げた。
「起きたら、今度はブリオッシュを焼いて下さい」
「……ブリオッシュを?」
「ええ。甘いパンが、食べたくて」
ダゴンはその申し出に、目を丸くしていた。
サモナーの真意が、汲み取れないようだった。
だからサモナーは言うのだ。
夢の中で言うのだ。
「現実でも、あなたを訪ねに行きますから」
ざん! と、波が一度だけ荒れた。
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