今でも居座りし友の名は
その日の雨は蒸した。ぬるいそれは体温を奪わず、むしろ汗の蒸発を妨げて不愉快だった。
インベイダーズが拠点を設ける品川は厚い雲に覆われており、濃灰色の空は鬱々と雨を吐き出し続けていた。
時折吹く風もぬるい。まるで人が体を撫で回して来るような、不快な質量の風に、テムジンは一度身震いして弓を掴んだ。
具合が良くない。
それはいつものことなのだが、今日は特に。
大きな傘をさして歩くテムジンの前に、何者かの足が見えたその時、テムジンは今日という日がなぜこんなにも不愉快なのかを悟った。
傘のせいで相手の顔は見えない。
しかし、声は聞き馴染んだ者のそれだ。
「|盟友《アンダ》。久しぶりだな」
傘もささずに立つ友は、テムジンをそう呼んだ。
「何の用だ」
傘を深くさし、自分自身の顔を隠してテムジンが問う。おそらく今の顔は誰にも見せられない。ピリピリとひりつく空氣の中、訊ねられた男は静かにザナドゥの世界代行者を見ていた。
「我がオルドへ入る決意でもしたか」
憎々しげにテムジンが睨みつける。その視線を受けて、男は……ジャムカは、嬉しそうに笑った。
笑ったのだ。
テムジンの怒りと嘆きを、喜んだのだ。
「相変わらず蹂躙しているのだな、テムジン……草原の王よ」
笑顔のまま話しかけてくるジャムカに、テムジンが喉の奥で唸る。片手で持つ弓が音を立てた。
「貴様を許し、愛してやろうという我が慈悲を無下にし、尚も嘲笑いに来たか」
血を吐くように、蒼き狼は声を振り絞った。
「今更……何用だ、裏切り者」
「ああ、そうだ、|盟友《アンダ》よ。その言葉を聞きたかった。今でも私を裏切り者だと、許さずにいてくれるのだな」
品川のぬるい雨が、ジャムカをずぶ濡れにしている。彼の瞳はまっすぐにテムジンへと注がれていた。傘という薄い壁一枚で隔てられた向こう側へ、懐かしさと親しみを込めた視線が投げかけられる。
|泣涕如雨《きゅうていじょう》の如しだ。
空が泣いている。
テムジンの心も。
ジャムカの心も。
「お前はいつでも、愛妾に囲まれていたね。それがテムジン、お前の権能であることは、私はよく知っていた」
ジャムカの声は雨の中で響く。ざあと降る雨がジャムカの声を増幅してテムジンへと届ける。
小さな領域で、ジャムカは少し黙り込み、それから息を吸い込んで話し続けた。
「|盟友《アンダ》。忘れないでほしい。お前と唯一対等で、お前に唯一傷をつけた、お前にとっての唯一の裏切り者の名を」
他多数の愛妾たちへ向ける感情ではなく、たった一人、唯一である私に向けた激情を。
「……我は、貴様の思い描く通り、踊らされているということなのか、ジャムカよ」
今にも叫びだしそうな感情を噛み殺し、蒼き狼は手に持つ傘を投げ捨てた。
心地よいとは言えない雨が、テムジンを頭から濡らしていく。
病魔に冒された友が濡れるのを、ジャムカはあまり良い気持ちで見てはいなかったが、止める権利は自分にないと半ば諦めたようだった。
「私は……テムジンの心の奥底に、住み着いてしまいたかったのやも知れない」
旧友からの吐露に、ザナドゥの世界代行者は、少し恨めしげな目をした。今更だ、そんなもの。心の底からの信頼を置いていたのに。
愛を抱いていたのに。
「子を産んで、やがてその他大勢の中に埋もれて忘れられていく妾としてではなく」
「我が|盟友《アンダ》をその他大勢と混ぜ、識別できなくなると? 侮られたものだな」
「オルドに入ってしまったらな、テムジン。それは特別ではなくなるのだ。多数に等しい愛を、情を注ぐのは、誰にも特別な扱いをしないことと同義なのだ」
テムジンは、そこで顔をゆっくりと上げた。
目の前の友が、何を言わんとしているか。
それを察して。
「この、テムジンの……特別の座を欲したと?」
「他の誰より」
まっすぐに返ってくる言葉。お前の心に特等席を設けたかったと、ジャムカは告げた。
それが裏切りという形で残した爪痕であり、世界代行者である彼に、唯一こちらを向かせることができる|術《すべ》であった。……とでも言うように、ジャムカは、深く息を吐いて言ったのだ。
「許さないでほしい」
雨が弱くなっていく。ジャムカの声が、段々と聞き取りにくくなっていく。
ぬるいとはいえ雨に濡れたテムジンの体は、少しずつ冷えていった。明日は熱でも出るかもしれない。しかし今はどうだっていい。
「ああ……許さぬ」
小指を絡めて約束をするかのように、蒼き狼の彼はしっかりと返した。その目には怒りもこもっていたが、それとは別の何かも確かに宿っていて……。
それを見て、ジャムカが泣きそうに笑った。
「いつまでも、テムジン、お前の唯一でありたかった」
雲間から光が差し込んでくる。
ジャムカが立ち去ったあとの品川に、虹がかかり始めていた。
生ぬるい風に吹かれ、テムジンは目を伏せる。
「今更な話だ……今更な話なのだ……ジャムカ」
唯一でなかったことなど、あるものか。
インベイダーズが拠点を設ける品川は厚い雲に覆われており、濃灰色の空は鬱々と雨を吐き出し続けていた。
時折吹く風もぬるい。まるで人が体を撫で回して来るような、不快な質量の風に、テムジンは一度身震いして弓を掴んだ。
具合が良くない。
それはいつものことなのだが、今日は特に。
大きな傘をさして歩くテムジンの前に、何者かの足が見えたその時、テムジンは今日という日がなぜこんなにも不愉快なのかを悟った。
傘のせいで相手の顔は見えない。
しかし、声は聞き馴染んだ者のそれだ。
「|盟友《アンダ》。久しぶりだな」
傘もささずに立つ友は、テムジンをそう呼んだ。
「何の用だ」
傘を深くさし、自分自身の顔を隠してテムジンが問う。おそらく今の顔は誰にも見せられない。ピリピリとひりつく空氣の中、訊ねられた男は静かにザナドゥの世界代行者を見ていた。
「我がオルドへ入る決意でもしたか」
憎々しげにテムジンが睨みつける。その視線を受けて、男は……ジャムカは、嬉しそうに笑った。
笑ったのだ。
テムジンの怒りと嘆きを、喜んだのだ。
「相変わらず蹂躙しているのだな、テムジン……草原の王よ」
笑顔のまま話しかけてくるジャムカに、テムジンが喉の奥で唸る。片手で持つ弓が音を立てた。
「貴様を許し、愛してやろうという我が慈悲を無下にし、尚も嘲笑いに来たか」
血を吐くように、蒼き狼は声を振り絞った。
「今更……何用だ、裏切り者」
「ああ、そうだ、|盟友《アンダ》よ。その言葉を聞きたかった。今でも私を裏切り者だと、許さずにいてくれるのだな」
品川のぬるい雨が、ジャムカをずぶ濡れにしている。彼の瞳はまっすぐにテムジンへと注がれていた。傘という薄い壁一枚で隔てられた向こう側へ、懐かしさと親しみを込めた視線が投げかけられる。
|泣涕如雨《きゅうていじょう》の如しだ。
空が泣いている。
テムジンの心も。
ジャムカの心も。
「お前はいつでも、愛妾に囲まれていたね。それがテムジン、お前の権能であることは、私はよく知っていた」
ジャムカの声は雨の中で響く。ざあと降る雨がジャムカの声を増幅してテムジンへと届ける。
小さな領域で、ジャムカは少し黙り込み、それから息を吸い込んで話し続けた。
「|盟友《アンダ》。忘れないでほしい。お前と唯一対等で、お前に唯一傷をつけた、お前にとっての唯一の裏切り者の名を」
他多数の愛妾たちへ向ける感情ではなく、たった一人、唯一である私に向けた激情を。
「……我は、貴様の思い描く通り、踊らされているということなのか、ジャムカよ」
今にも叫びだしそうな感情を噛み殺し、蒼き狼は手に持つ傘を投げ捨てた。
心地よいとは言えない雨が、テムジンを頭から濡らしていく。
病魔に冒された友が濡れるのを、ジャムカはあまり良い気持ちで見てはいなかったが、止める権利は自分にないと半ば諦めたようだった。
「私は……テムジンの心の奥底に、住み着いてしまいたかったのやも知れない」
旧友からの吐露に、ザナドゥの世界代行者は、少し恨めしげな目をした。今更だ、そんなもの。心の底からの信頼を置いていたのに。
愛を抱いていたのに。
「子を産んで、やがてその他大勢の中に埋もれて忘れられていく妾としてではなく」
「我が|盟友《アンダ》をその他大勢と混ぜ、識別できなくなると? 侮られたものだな」
「オルドに入ってしまったらな、テムジン。それは特別ではなくなるのだ。多数に等しい愛を、情を注ぐのは、誰にも特別な扱いをしないことと同義なのだ」
テムジンは、そこで顔をゆっくりと上げた。
目の前の友が、何を言わんとしているか。
それを察して。
「この、テムジンの……特別の座を欲したと?」
「他の誰より」
まっすぐに返ってくる言葉。お前の心に特等席を設けたかったと、ジャムカは告げた。
それが裏切りという形で残した爪痕であり、世界代行者である彼に、唯一こちらを向かせることができる|術《すべ》であった。……とでも言うように、ジャムカは、深く息を吐いて言ったのだ。
「許さないでほしい」
雨が弱くなっていく。ジャムカの声が、段々と聞き取りにくくなっていく。
ぬるいとはいえ雨に濡れたテムジンの体は、少しずつ冷えていった。明日は熱でも出るかもしれない。しかし今はどうだっていい。
「ああ……許さぬ」
小指を絡めて約束をするかのように、蒼き狼の彼はしっかりと返した。その目には怒りもこもっていたが、それとは別の何かも確かに宿っていて……。
それを見て、ジャムカが泣きそうに笑った。
「いつまでも、テムジン、お前の唯一でありたかった」
雲間から光が差し込んでくる。
ジャムカが立ち去ったあとの品川に、虹がかかり始めていた。
生ぬるい風に吹かれ、テムジンは目を伏せる。
「今更な話だ……今更な話なのだ……ジャムカ」
唯一でなかったことなど、あるものか。
1/1ページ