リフレインナックル

 その日のサモナーは少し空気が違っていた。
 廊下を歩く様は堂々としており、今が授業中であることを忘れさせる気迫を放っていた。神宿学園の敷地を、さも当然と言わんばかりに出ていくその姿は、担任の教師をも唖然とさせた。
 追いかけてくるのは学級委員長である。サモナーの肩に手を置いて制止すると、彼は困ったように問いかける。
「どうしたんだ、サモナー。何があった?」
 要領を得ない質問だ。しかし無理もないだろう。訳がわかっていないのだから曖昧な問いにもなろうというものだ。
 サモナーはゆっくりと本居シロウのほうへと振り向く。その目は見開かれていた。四白眼といえばそれに近い目付きで、じっくりとシロウを眺めている。そして、サモナーは笑った。にんまりとした笑みだった。
「すまないな」
 自信に満ちた様子なのは、声からもわかる。何がすまないのか、本居シロウにはまるでわからない。
 ひとつわかるとすれば、それは、目の前のサモナーが、サモナーではない、ということだった。
「過ぎたことをどうこう言っても仕方ない。それはわかっているんだがね」
 目を半分ほど閉じてサモナーは言う。口許はにんまりと歪んでいる。まるでワニかヘビが笑っているようだ。
「思いだし怒りというやつだよ」
 くるりとシロウに背を向けて、サモナーは……いや、サモナーのような誰かは歩き出す。
 ぽかんとしていた本居シロウは、そこでようやく掠れた声を出したのだった。
「あなたは、いったい誰なんですか……」

 アポイントメントはお取りですか、とタネトモに尋ねられたサモナーらしき人物は、快活に笑って苛烈に答える。
「事前に約束を取り付けてしまっては、奇襲にならんよ!」
 その口ぶりがあまりにも自分の上司のそれと似通っていたからか、タネトモは呆れたようにサモナーのような誰かを見て、諦めたように通してくれた。ここに本居シロウがいたら、どうもすみませんを連発していたことだろう。
 牢が並ぶ光景を見ながら、ずかずかと力強く進んでいく誰か。ふぅん、と声を漏らして囚人たちを眺めつつ、本来の目的である彼のもとまでまっすぐ歩いていく。
 執務室の扉は勢いよく蹴り壊された。
 片足を高く上げた状態のサモナーのご登場に、やや驚いた様子で迎えるのは、仕事がつまらないのか小難しい内容を読んでいた途中なのか、頬杖をついたテスカトリポカだ。
 吹っ飛んだ扉などに興味はないのか、彼はサモナーのほうを凝視している。
 サモナーの見た目をした誰かもまた、扉に興味はないようで、ジャガー獣人の男と視線とかち合わせている。
 四白眼のごとき見開かれた目が、ぎゅ、と細められた。半目になったサモナーは、裂けんばかりに口許を笑みの形に歪め、足を下ろす。腕組みをして仁王立ちをした。
 テスカトリポカにはわかった。
 サモナーではない、と。
 いや、サモナーではあるのだ。しかし、本来の器の持ち主である高校生の人格が、見当たらないのである。別の何かが表に出ているような。その何かは間違いなく自分の縁者であるような。そんな直感が体の中から沸き起こっていた。
 表情に、動作に、にじみ出るのは懐かしいかな彼の……。
 テスカトリポカは高揚を……覚えない。
 少し眉間にシワを寄せて、小さく息を吐き出し、もっとも気にすべき点のみを口にする。
「サモナーは、どうしたね?」
 その体の持ち主はどこに行ったのか。
 その問いに、にんまり顔の人物は答える。
「私の中だ! 安心しろ! 悪いようにはしていないとも!」
「悪人の台詞なのだよ、それは」
「ふはは! さて、今、私は思いだし怒りというものをしていてな! 今すぐ解消しないと気が済まないのだが、どうするね!」
 テスカトリポカにはわかっていた。今、表出しているのが誰なのか。
 というか、自分目当てに訪ねてくる、ワニのようなヘビのような表情の、声がでかい人物など、ケツァルコアトル以外にいるわけがない。
「戦争をしに来た……訳ではなさそうだね、きょうだい?」
「無論だとも! 意味のない戦いは……嫌いじゃないが、それは今することじゃない!」
 思いだし怒りだったか。
 つまり、昔のことで話があるのだろう。
 ケツァルコアトル式の話し合いなので、恐らく拳が出るパターンの。
「用件は? 何について怒っているのだね、君は」
 立ち上がり、上着を脱ぎ捨て、グリーンのシャツの袖をまくりながらテスカトリポカは尋ねた。
「一発二発殴ったらそれで済む。わざわざ言わんよ、野暮用なのだからね」
 拳をもう片方の手で包んでバキボキと音を鳴らし、首をゆっくり回しながらケツァルコアトルは返した。
「一発二発で済むといいね?」
 最前線指揮官の言葉の直後、執務室に近づいてくる誰かの気配がした。

「お二方、まさか室内で暴れられるおつもりでは、ありませんよね?」

 目が笑っていない笑顔でお馴染みの……いや、そんな風にお馴染みにしてしまったのはテスカトリポカやサモナーが原因なのだが、置いといて……タネトモ参謀の到着だった。

「ふふっ、怖いな、お前のところの参謀とやらは!」
 高校生の姿をしたケツァルコアトルが面白そうに言う。二人で外に向かって歩いている途中でのことだった。
「いい部下だろう? まあ、私の専属ではないのだが」
 思いだし怒りはどこへいった。と言いたげな視線で隣を歩くケツァルを見る彼は、日々ジャイアントたちが走り込んでいるグランドへと進んでいく。
「そういえば、テスカトリポカ」
「何だね」
「牢獄の主となっているんだな? 戦士らしい戦士はさほど見受けられんし、ただ趣味が悪いとしか言えぬなあ?」
「色々あるのだよ、こちらにも」
「ほぉーん?」
 二人が外に出たときにはもう、グランドを使用している者たちは邪魔にならないよう脇に避けていた。固唾を飲んでテスカトリポカとケツァルコアトルを見守っている。
「さぁて、今一度、思いだし怒りといこうか、きょうだい……」
 ケツァルコアトルの声が一段低くなり、ちり、と空気が焼ける匂いがした。

 テスカトリポカは手を出しあぐねていた。
 サモナーの体を借り受けて表出しているケツァルコアトルが選んだのは、殴り合い。
 アプリバトルではないのだ。
 戦いが終われば時間が巻き戻るアプリバトルとは違い、ただの喧嘩は痕が残る。爪で皮膚を切り裂けば治癒までに時間がかかる。骨を折れば正しくくっつかないかもしれない。
 力を加減して殴り返す以外にない。
 それをわかっているのかいないのか。ケツァルコアトルは借り物の体を目一杯に動かし、テスカトリポカの急所に蹴りを入れ、左目を狙って拳をふるい、全力の飛び蹴りを見舞って自身も地面に墜落し、とやりたい放題だった。
「君ィ」
 ぎり、と歯を食い縛り、夜空の神は唸るように声を出す。
「あまり調子に乗るものでは、ないよ!」
 低い姿勢で地面を蹴る。翼をはためかせて足を払う。バランスを崩した人間の体を、テスカトリポカは太い腕で押さえ、地面に叩きつけた。
「こんな拘束、関節を外せばすり抜けられるじゃあないかね! テスカトリポカよ!」
「待った待った! サモナーの体なのだよ、きょうだい! そうバカバカ関節を外されたらサモナーが気の毒だろう?」
「むう……」
 不満げなケツァルコアトルが、そこでようやく大人しくなった。
「お前を殴れたことだし、よしとするか」
 で。なんの怒りなのだ。と尋ねる前に、ケツァルコアトルの意識は引っ込んだ。それはもう、さっさと引っ込んだ。テスカトリポカを殴ることだけが目的だったのだ。達成したら帰るに決まっている。
 しばらく、間が空いた。

「……え?」

 呆けた声が、グラウンドに響いた。
 テスカトリポカに押さえつけられる形で地面に横になっている高校生が、目を覚ましたのだ。ケツァルコアトルから交代させられたサモナーの目覚めだった。
「……たしか、授業中に眠くなって……で、起きたらこんなことになってるんだけど、なにこれ」
「君、居眠りをしている隙に体を乗っ取られたのかね」
「は? 乗っ取られたって何!? テスカが連れ去ったんじゃないの?」
「私は! 連れ去るんじゃなくて! 居座る派だよ!!」
「それも迷惑だよ! ていうかいつまで押さえつけてるんだ、離せ!」
 テスカトリポカがサモナーから離れる。まったくさ、と愚痴をこぼしつつ起き上がろうとしたサモナーの動きが、ピタリと止まった。
 動かない。
 動かない。
 いや、
 動けない。
「いっ……たぁ!! 身体中ばっきばきに痛!! 何!? 何してたんだ自分!?」
 目一杯蹴りを繰り出し、思い切り拳をふるい、飛び蹴りして地面に墜落していたのである。ケツァルコアトルの置き土産に悲鳴を上げるサモナーに、テスカトリポカはといえば

「……フッ……フグッ……フフフ」

 静かにウケていた。
「何笑ってんだこらぁ! お前あとで覚えとけよ!」
 結局、ケツァルコアトルが何に怒っていたのかは、まるでわからなかった。
 消化不良な喧嘩に多少のモヤモヤを抱えるテスカトリポカだが、それよりももっとモヤモヤしているのは、訳もわからずただ体が痛いサモナーのほうである。

 サモナーは三日ほどまともに体を動かせなかったという。
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