日記
北海道編3巻
2019/08/12 19:16るろ剣語り
皆様、お久しぶりです(*^o^*)お元気でいらっしゃいますでしょうか。
暑い日が続きますが、くれぐれもお気を付けてくださいね(>_<)
※この記事は北海道編3巻の内容を含んでいます(*´▽`*)
未読の方は閲覧ご注意くださいませ…
個人的に宗次郎に思ったこと。
【その前に】
キャラソンのJourneyが好き過ぎて…
特にアニメ54~61幕の宗次郎に影響受けてきた身なのですが、北海道編が始まるまでは旅立ち後の宗次郎はあの曲のイメージ。北海道編始まって登場してからも、今も宗次郎に抱いてる個人的なイメージはあの曲のままかなと考えています。
・Journey冒頭「あーあ、また一人ぼっちになっちゃったなぁ」
「でも、なんだかちっとも寂しくないんですよ」
宗次郎がそれまでに経験した「一人ぼっちだった時」とは。
勝手な妄想なのですが、宗次郎は米問屋に引き取られるまではお母さんと一緒に暮らしていたのかなぁと思ったりしています。で、お母さんが亡くなってしまい、世間体を気にした米問屋に引き取られた…とかかなと妄想しています。
「一人ぼっちだった時」は、一緒にいたお母さんがいなくなった時。
あとそれと、養父母に引き取られてからは誰も味方になってくれる、守ってくれる人がいなくて、一人でひたすらにこにこ虐待に耐えてた時。
この二つかなぁと考えています。
でも、当時その環境の中で宗次郎は寂しいと自覚していたってことですよね。
「でも、なんだかちっとも寂しくないんですよ」
「でも」からの「寂しくない」って。その事実にも泣けますが。
感情を封じてしまった後でも、その感情のこと気持ちのことを今も知っているんだと。そう思うと冒頭から胸が苦しくなります…(/_;)
・「僕は僕の場所に行こう、まだ何も見えないけれど」
…北海道編で宗次郎が再登場しましたが、どうやらまだ見つかっていないようなんですよね「僕の場所」…(/_;)
で、剣心や和尚達と再会して共闘することになりましたが。やはりそこは彼の場所じゃないと思うんですよね。5年前、今までしてきた生き方から生まれた縁に縋るのではなく、自分で自分の人生を切り拓く道を選んでいますから。
「僕の場所」はおそらく宗次郎の昔の仲間や知り合い(剣心や十本刀)など依存できてしまう人が近くにいる環境ではなり得ないのだと思います。
「たった一人で歩いていこう」「もう一度僕だけの時間で」というフレーズが出て来るように、自分の力で答えを導き出すまでは彼はずっと一人ぼっちなのかなと思います。それが架せられた彼の宿命なのかもしれないですね(/_;)
逆に言うと、一人できちんと答えを見出した過程を経てから幸せになれる、ということなのかもしれません。今はまだ一人で旅する道程の過程なのかな……
・「少し速く走り過ぎて何も見なかった気がしてる」
京都編後に出来た曲なので、勿論、志々雄さんの元にいた10年間のことを示しているのだと思います。
ただ、ふと思ったのですが、宗次郎の5年間の旅の方も実は当て嵌まったりするのかもと…。
文字通り「何も見てなかった」とは思いません。全国を周ってきたのだから、それはもう沢山の物事・情報を見てきたのだと思います。ただ、それだけに見落としてしまってるもの、見たけれど埋もれてしまったものが多すぎたのかもしれません。
北海道編では今まで見えなかったものを捉えることが出来るように、何か宗次郎にとっての発見があるといいですね…
【お待たせしました。3巻について】
・3巻の例のシーン
色々な解釈があるかもしれません…
個人的には宗次郎の彼本来の素直さ、自分で物事を考える力を感じて、感無量に近い状態でした…(/_;)
多分当時、宗次郎の中では栄次のことは「村人の中の一人」という位置付けだったのではないのでしょうか。
たしかに志々雄さんが実質支配していた村なのですが、直轄していたのは尖角ですし、訪れるのはたまに逗留に来る程度の頻度だったと思うので、こう言っては何なのですが、「自分の手による罪」という認識は薄いのではないでしょうか……。栄次の家族を殺したのも尖角ですし…。
おそらく栄次の悲劇は宗次郎にとっては罪の自覚をしにくい案件だったのではないでしょうか…。
流浪のきっかけとなった「これまでの自分の所業、罪」に「志々雄さんの手による罪」「自分が直接関与していない罪」は含まれにくいかなと。そういった状況にも起因しているのかなという気がします。
ただ。
罪の意識をしにくい案件ですが、でも、栄次が新月村の出身と聞くと、すぐ謝ったんですよね。
新月村の悲劇は志々雄さんの所業だけど、「当時志々雄さんの側近を務めていた己」には「謝る責務」があるとの考えに至ってのことだと思うのです…。
「誰だか知らないけど」はもしかすると栄次や読者にとっては不必要なフレーズだったかもしれませんが、栄次のことを覚えていない(ただ、覚えている可能性もあると思います。覚えていますが栄次がかなり成長しているので、その時の少年と見抜けなかった場合も十二分にあると思います。)ことが素直に出てしまっただけなのかなと思います。栄次の怒りの描写を濃くするための演出として描かれた面もあるかもしれませんが。
己の過去の経験や感情欠落が免罪符になるとは決して思えませんが、他人のことを強さ・弱さでのみ判断する癖(10年程そうしてきていると思うので癖と表現させていただきました。ただ、今もそうかどうかは現在の描写ではわかりかねますが。)を持っていた、そんな宗次郎が、自分が直接下したわけではない罪に対して自発的に謝罪を行った……。
新月村→志々雄さんが支配していた村→一派に属していた自分はこの少年に謝らなければならない。直接何かしたわけではないけど、それだけのことを自分「達」はしてしまっているから。
そういう思考が手にとって見えるようで。そういう意味で個人的には感激の方が大きかったです。
【再びJourneyの歌詞について述べます】
・歌詞「何を見つけられないんだろう」
「誰とわかり合えるだろう、誰を傷付けてしまうだろう」
栄次を傷付けたことに気付く展開が訪れた方が、栄次の為にもですが、宗次郎にとっても望ましいかもしれませんね…。
(宗次郎が変わってしまうこと…望ましいと思いながらも、私も何故か恐怖心があります(/_;)どうしてなのでしょうね。多分、宗次郎を信じたいが故の苦しみなのでしょうね…)
過去の経験や感情欠落、答え探しの旅の葛藤など、宗次郎のペースを愛したいです。
関心がないものや感情欠落故に他人の気持ちにあまり向き合えない(断定は出来ませんが、ひょっとするとそうなのかな…と思ったりしています。)という点が、どういう展開や或いは変化を辿るのか。読むのは怖いですが、見守りたいものです…(/_;)
ですが、栄次を傷付けてしまった事実。
宗次郎にとっての「見つけられなかった」ことではなく、いずれ「見つけられたこと」になる方がいいのかなと思います。
その方が、宗次郎はより幸せに近付けるのではないですかね…(*´人`*)
宗次郎に対して思うことや気持ちを整理したいと思い、書き連ねてみました。
長文乱文失礼致しました(*^^*)
お付き合いいただきありがとうございました♪</font>
暑い日が続きますが、くれぐれもお気を付けてくださいね(>_<)
※この記事は北海道編3巻の内容を含んでいます(*´▽`*)
未読の方は閲覧ご注意くださいませ…
個人的に宗次郎に思ったこと。
【その前に】
キャラソンのJourneyが好き過ぎて…
特にアニメ54~61幕の宗次郎に影響受けてきた身なのですが、北海道編が始まるまでは旅立ち後の宗次郎はあの曲のイメージ。北海道編始まって登場してからも、今も宗次郎に抱いてる個人的なイメージはあの曲のままかなと考えています。
・Journey冒頭「あーあ、また一人ぼっちになっちゃったなぁ」
「でも、なんだかちっとも寂しくないんですよ」
宗次郎がそれまでに経験した「一人ぼっちだった時」とは。
勝手な妄想なのですが、宗次郎は米問屋に引き取られるまではお母さんと一緒に暮らしていたのかなぁと思ったりしています。で、お母さんが亡くなってしまい、世間体を気にした米問屋に引き取られた…とかかなと妄想しています。
「一人ぼっちだった時」は、一緒にいたお母さんがいなくなった時。
あとそれと、養父母に引き取られてからは誰も味方になってくれる、守ってくれる人がいなくて、一人でひたすらにこにこ虐待に耐えてた時。
この二つかなぁと考えています。
でも、当時その環境の中で宗次郎は寂しいと自覚していたってことですよね。
「でも、なんだかちっとも寂しくないんですよ」
「でも」からの「寂しくない」って。その事実にも泣けますが。
感情を封じてしまった後でも、その感情のこと気持ちのことを今も知っているんだと。そう思うと冒頭から胸が苦しくなります…(/_;)
・「僕は僕の場所に行こう、まだ何も見えないけれど」
…北海道編で宗次郎が再登場しましたが、どうやらまだ見つかっていないようなんですよね「僕の場所」…(/_;)
で、剣心や和尚達と再会して共闘することになりましたが。やはりそこは彼の場所じゃないと思うんですよね。5年前、今までしてきた生き方から生まれた縁に縋るのではなく、自分で自分の人生を切り拓く道を選んでいますから。
「僕の場所」はおそらく宗次郎の昔の仲間や知り合い(剣心や十本刀)など依存できてしまう人が近くにいる環境ではなり得ないのだと思います。
「たった一人で歩いていこう」「もう一度僕だけの時間で」というフレーズが出て来るように、自分の力で答えを導き出すまでは彼はずっと一人ぼっちなのかなと思います。それが架せられた彼の宿命なのかもしれないですね(/_;)
逆に言うと、一人できちんと答えを見出した過程を経てから幸せになれる、ということなのかもしれません。今はまだ一人で旅する道程の過程なのかな……
・「少し速く走り過ぎて何も見なかった気がしてる」
京都編後に出来た曲なので、勿論、志々雄さんの元にいた10年間のことを示しているのだと思います。
ただ、ふと思ったのですが、宗次郎の5年間の旅の方も実は当て嵌まったりするのかもと…。
文字通り「何も見てなかった」とは思いません。全国を周ってきたのだから、それはもう沢山の物事・情報を見てきたのだと思います。ただ、それだけに見落としてしまってるもの、見たけれど埋もれてしまったものが多すぎたのかもしれません。
北海道編では今まで見えなかったものを捉えることが出来るように、何か宗次郎にとっての発見があるといいですね…
【お待たせしました。3巻について】
・3巻の例のシーン
色々な解釈があるかもしれません…
個人的には宗次郎の彼本来の素直さ、自分で物事を考える力を感じて、感無量に近い状態でした…(/_;)
多分当時、宗次郎の中では栄次のことは「村人の中の一人」という位置付けだったのではないのでしょうか。
たしかに志々雄さんが実質支配していた村なのですが、直轄していたのは尖角ですし、訪れるのはたまに逗留に来る程度の頻度だったと思うので、こう言っては何なのですが、「自分の手による罪」という認識は薄いのではないでしょうか……。栄次の家族を殺したのも尖角ですし…。
おそらく栄次の悲劇は宗次郎にとっては罪の自覚をしにくい案件だったのではないでしょうか…。
流浪のきっかけとなった「これまでの自分の所業、罪」に「志々雄さんの手による罪」「自分が直接関与していない罪」は含まれにくいかなと。そういった状況にも起因しているのかなという気がします。
ただ。
罪の意識をしにくい案件ですが、でも、栄次が新月村の出身と聞くと、すぐ謝ったんですよね。
新月村の悲劇は志々雄さんの所業だけど、「当時志々雄さんの側近を務めていた己」には「謝る責務」があるとの考えに至ってのことだと思うのです…。
「誰だか知らないけど」はもしかすると栄次や読者にとっては不必要なフレーズだったかもしれませんが、栄次のことを覚えていない(ただ、覚えている可能性もあると思います。覚えていますが栄次がかなり成長しているので、その時の少年と見抜けなかった場合も十二分にあると思います。)ことが素直に出てしまっただけなのかなと思います。栄次の怒りの描写を濃くするための演出として描かれた面もあるかもしれませんが。
己の過去の経験や感情欠落が免罪符になるとは決して思えませんが、他人のことを強さ・弱さでのみ判断する癖(10年程そうしてきていると思うので癖と表現させていただきました。ただ、今もそうかどうかは現在の描写ではわかりかねますが。)を持っていた、そんな宗次郎が、自分が直接下したわけではない罪に対して自発的に謝罪を行った……。
新月村→志々雄さんが支配していた村→一派に属していた自分はこの少年に謝らなければならない。直接何かしたわけではないけど、それだけのことを自分「達」はしてしまっているから。
そういう思考が手にとって見えるようで。そういう意味で個人的には感激の方が大きかったです。
【再びJourneyの歌詞について述べます】
・歌詞「何を見つけられないんだろう」
「誰とわかり合えるだろう、誰を傷付けてしまうだろう」
栄次を傷付けたことに気付く展開が訪れた方が、栄次の為にもですが、宗次郎にとっても望ましいかもしれませんね…。
(宗次郎が変わってしまうこと…望ましいと思いながらも、私も何故か恐怖心があります(/_;)どうしてなのでしょうね。多分、宗次郎を信じたいが故の苦しみなのでしょうね…)
過去の経験や感情欠落、答え探しの旅の葛藤など、宗次郎のペースを愛したいです。
関心がないものや感情欠落故に他人の気持ちにあまり向き合えない(断定は出来ませんが、ひょっとするとそうなのかな…と思ったりしています。)という点が、どういう展開や或いは変化を辿るのか。読むのは怖いですが、見守りたいものです…(/_;)
ですが、栄次を傷付けてしまった事実。
宗次郎にとっての「見つけられなかった」ことではなく、いずれ「見つけられたこと」になる方がいいのかなと思います。
その方が、宗次郎はより幸せに近付けるのではないですかね…(*´人`*)
宗次郎に対して思うことや気持ちを整理したいと思い、書き連ねてみました。
長文乱文失礼致しました(*^^*)
お付き合いいただきありがとうございました♪</font>
