〈第二章〉東京編
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“強ければ生き、弱ければ死ぬ。”
──私は私の弱肉強食の理念に基づき、その理念を実現させる。
その為になら、どんなことだってする。
「川路君。」
「は。なんでしょう。」
走る馬車の中で彼・大久保卿は傍の川路に尋ねる。
「斎藤君が神谷道場とやらに入ってそろそろどれくらいになる?」
「大体…四時間と半ですな。」
「そうか…手遅れになるかもしれんな。…浜坂君、あと十分で到着する様、馬車を急がせてくれ。」
「はい。」
御者に用件を告げてから、蛍も己の懐中時計を確認した。
──たしかに…四時間と…半か。
実際に剣を交えたことはないため憶測の範疇だが、あの斎藤一の剣腕が鈍いとは思えない。
つまり…彼と対峙できる程の力量が緋村にはまだ残っているということ。
* * * * *
「斎藤!」
「任務報告!
緋村“剣心”の方は全く使い物にならない。が、緋村“抜刀斎”ならそこそこいける模様──以上。」
外気がひんやりと斎藤の身を包む。
高まっていた熱が急激に下降していく感覚。
滞りなく押し寄せるのは一つの虚無感といったところか。
斎藤はぴたり、と足を止めた。
「!……」
「大丈夫ですか。藤田さん。」
馬車の前に佇んでいたのは蛍だった。
感情の揺れを感じさせない冷たい眼差し。
斎藤は息をついた。
「…虎視眈々と様子を窺っていましたというところか。」
「…あら。」
「随分と熱心なんだな。」
「…誤解のないよう。私はただの同伴ですし、たった今し方到着したところですよ。」
「昼間のことだ。ただの当て推量と思ってもらって結構だが。昼間の神谷道場や諸々で感じた視線もひょっとしたらと考えていたが。まあ確証はない。」
「…ふふ。それは否定しておくしかないですね。証拠もないのでは尚更。」
「…殺気も闘気も持ち合わせない人間の気配を読むのは一苦労でな。」
笑みの漏れた蛍の声音。だが、彼女は微笑んでいなかった。代わりに薄い笑みを取り繕って斎藤に言葉を返す。
「…こちらも単なる当て推量と思っていただいて構いませんが。…大久保卿の下に就くこととなった入省前、私の身辺調査を行ったのは藤田さん、あなたかと思ったのですが。」
「……」
「私の過去も調べてみたんでしょう?でも判明したのは、私が維新政府の元に就いてから今に至るまでの十年間の痕跡だけだった…。
たしかに新撰組と違って…歴史に残るような功績も記録もありません。いわば何をしてきたかわからない人間、と見受けられても致し方ありません。」
「肝心なことは全て抹消済みということか。」
「そうですね…誰かに揉み消されたのかもしれませんね?でも事実、怪しい点…たとえば政府以外との繋がりというものなどは見受けられなかったのでしょう?だからこうして振る舞えている。」
「……」
「…お忘れなく。」
にこり、と温度のない微笑みを向けられた。
「まあ、戯れ言ですけどね。任務お疲れ様でした。」
「…あ、そういえば。
怪しげな大柄な男が一人。たしか“早く渋海の旦那に”などと言っていたでしょうか。慌てて駆けて行きましたよ、あちらの方角へ。」
「…フン。」
──食えない女だな。
斎藤は蛍を後にし、その場を立ち去った。
その姿を見送り、蛍は踵を返す。
「…今一度、抜刀斎に挨拶した方がいいのかしら。…でも。」
蛍は立ち止まる。
開け放たれたままの道場の内部では、大久保と川路と向かい合い、緋村を囲むように鎮座する各々。
…薫のはっきりとした声が蛍の耳にも届いた。
「…今あなた方が“人斬り抜刀斎”を必要としている事はわかりました。けど、剣心は今…人斬りじゃないんです。」
今…人斬りではない、か…。
所詮人斬りは人斬り。そう、普通ならばそうなのだけれど。
彼の人斬りではない部分、そこに周囲の彼らは惹かれているのだろう。緋村はそうした生き方ができる人間だということ。──そうでなければ得られない言葉。修羅に生き続ける者にとっては、寄せられることのない感情。
奇しくも得ることのできた彼は…
「──私達は絶対に剣心を京都へ行かせません。」
強気でたじろぐことのない彼女の眼差し。
他の者達も同様だった。
蛍は顔色を変えずにその光景を眺めていた。
「…あちらに余裕はなさそうね。またの機会に置いておくことにしましょうか。」
──緋村は、幸せだと思った。
抜刀斎への豹変ぶりを目の当たりにしただろう薫をはじめ──周囲の人間も誰一人として揺るがない。
(悠長なことは言ってられないけど…でも、恵まれた環境にいたのね…緋村さん。)
道場から遠ざかり馬車へと向かう。
月が昇り始めた空を見上げた。
(…過去のしがらみに引かれるのか、それとも今を一緒に生きるあの人達の言葉を受けて留まるのか。答えは一週間後か…)