〈第二章〉東京編
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「あなたよね?政府の勅命を受け、間者として潜入していたのは。」
「…!志々雄やその直近ならいざ知らず、貴様のような者に追われるとは不覚…!」
夜の森。月明かりの遮られた闇の中、蛍は追い詰めた男と対峙する。
蛍は無言で距離を詰めていく。そして鍔を鳴らし、すうっと抜刀される刀。逃げ場を失った男の眼前に真っ直ぐ突きつけられる。
「…!」
「多分これからも聞き続けるのでしょうけど、何と浅薄な言葉。」
「…ま、待ってくれ!」
「生憎、ただの女とは違うのよ。…女だと捉えていたから、沽券が傷付いたとでも思ったのでしょう?」
蛍は薄らと冷たい作り笑いを浮かべ、眉間に剣先を滑らせる。その様子に男は冷や汗を流す。
「沽券より言い残す言葉を考えたら如何でしょう。…まあ、」
「…ぐあっ…!!」
「何も聞き入れてあげることは出来ないけれど。」
血を吸った血刀。見慣れたものだ。そして己の足元をこの緋色に染め続ける道からは逃れることは出来ないのだ、蛍はそう感じた。
(剣とはそういうもの…もう心に決めたことよ。)
そうっと血を拭ったが、生臭い臭いはついて回る。
そして臭いとは別に漂うある気配に蛍は立ち止まった。
「…」
近付く足音に呼吸の音。こちらに向かう何者か。
「──浜坂。」
草木を掻き分けて姿を現したのは、立派な体格だが僅かにまだあどけなさの残る若者。彼は彼女の同僚であり、幾何か先達の者だった。
「君を追って来たんだが…この男は?」
「……」
「死んでから間もないようだな…」
蛍の背後の死体を眺める彼だったが、ふと顔を歪めた。
「…これは確か、内務省に雇われた密偵…どういうことだ?」
「……私の行方を知ってるのは、あなた一人で?」
「ああ。」
「…そう。」
…ああ、可哀相。ついてこなければよかったのに。慈愛を表情に出すことはないものの、蛍はそう思った。
彼女は振り向き、冷たい眼差しを彼に向けた。
「…浜坂?」
彼は何かに気付き、そして悟りつつあるようだ。血の気が引いていく様子を蛍はしかと眼に焼き付ける。
「本当は、若い方を殺めるのは本望ではないのよね。だけど黙ってはいてくれないでしょう?」
「…!!君が…!?」
「せめて楽に死なせてあげる。」
蛍は再び刀を抜いた。
「見事ですね。」
ぱちぱちぱち、と乾いた音がした。振り返ると、喝采をしながらにこにこと微笑む宗次郎がいた。
「さすが志々雄さんが見込んだ人。太刀筋も見せず一瞬でしたね。」
だが、彼の言葉は蛍の心に届いていないようだった。
「…見事じゃないわ、無様よ。」
「?」
「つけられてることに気付かなかった…」
無表情のまま呟かれる言葉が何を意味するのか、哀の感情がない宗次郎にはわからない。己の微かな落ち度を嘆いているようにしか見えなかった。
「蛍さん?」
「せめて──間者の顔を見られなければ彼を殺す名分はなかった。」
新しい死体の元に跪き、その双瞼をそっと閉じさせる。暫し見つめていたが、やがて彼女は手を合わせた。
「宗次郎。」
「はい?」
「一つ聞くけど…あなたは誰のことも可哀相だなんて思わないんでしょう?」
突然の問い掛けに宗次郎は面食らう。…可哀相、か。多分感じないんだろうなと彼は直感で思った。
「まあ、おそらく。」
「…羨ましい。」
「羨ましい?」
「押し殺すことは出来るけど、でもやっぱり余計な感情なのよ。なくしてしまえたあなたがとても羨ましいわ。」
思わず吐露すると、彼女は踵を返した。
「…私は戻るわ。死体の始末、頼んでおいてね。」
「はい。」
揺れる黒髪を見つめながら、彼女の投げ掛けた言葉の意味を探る。
──蛍さんは笑わない。笑わずに常に何かと戦っているような気がする。僕と正反対だけれども、それでいて強い。じゃあ、その何かって…
「僕も、一つだけ聞いていいですか。」
流れるように言葉が口をついて出て来た。
「蛍さんにはまだ感情が残っているんですか?」
ぴたり、と彼女は足を止めた。
「──てっきり僕と同じなんだと思ってたけど。多分、違いますよね?」
「…だったらどうする?」
「うーん…どうもしませんけど。」
一々そんな気持ちに振り回されるなんて、僕なら御免だと思った。
表情の変わらない彼女の顔がこちらを見つめている。
「…見透かされてるようね。…前にあなたは自分と私が似てると言ったけど。私も感情が欠落している。」
でも「哀」という感情だけが残ってしまったと蛍は言った。
──哀というのは哀しみ、憂い、嘆き、それらの気持ちに寄り添うこと。
粛々と告げる彼女の言葉に、宗次郎は納得した。
「やっぱり…僕と似てるけど違う。」
「…非情を務めるには葛藤してる。可哀相と思う感情があるからこそ、決断と共に背負う覚悟が必要なのよ。」
「覚悟…」
それが彼女を形成しているのか。なんとなくそう感じた。そして、
「……なくしてしまえば楽なのに。」
気付けばそう口にしていた。
「…それが出来ないから、あなたが羨ましいって言ってるのよ。」
「ああ、なるほど。合点がいきました。」
宗次郎は微笑む。そうか、覚悟か…。それが蛍さんと僕の違い。
──もし、蛍さんの迷いがなくなれば、僕より強くなれるのでは。
彼女の無表情な顔を目にしながら、そんなことを考えていた。