宵火ともる下、めぐり逢い
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「じゃあさやか…もう行くね。」
明け方。薄暗がりの中、表に出た宗次郎はさやかに静かに告げた。
普段と変わらない笑顔。優しい声。
…永遠に会えなくなるわけではない。でも“彼と過ごす日常”はこれで終焉を迎える。
寂しくなるのは事実だが、自分たちには必要なこと。自分たちの幸せを願う上では避けられないこと──
「うん…宗次郎…」
さやかは微笑みを返した。心の中でそう自分に言い聞かせながら。
心臓がとくん、と響いているのを感じつつ…掲げた手のひらは宗次郎を見送り出すよう揺れる。
「…またね…」
こちらを見つめる眼差し。
彼の瞳に映る自分。
だけど、もうこれからは…その中に自分はいない。
──とくん。また胸の鼓動が響き渡る。
彼は穏やかに微笑みかけた。
「どうか、お元気で。」
「……気を付けてね、元気でね。」
にこりと微笑みながら。彼は身体を翻した。
爽やかな風のように去っていく宗次郎を目の当たりにして。
──ずきん、と胸の奥が重く苦しく疼く。
ずうっと見守ってくれていた人。
それでいて、今まで同じ歩みをしてきた人。
どうして道が違ってしまうのだろう。
この立ち位置を導いてくれたのは…彼の優しさだ。こうすることが私には必要だと見通していた彼が与えてくれた行く末。
その彼の背中を見送って、幸せを掴むこと。それが私に架せられた使命なのだろうと…今の今まで思っていた。僅かな燻りが胸の奥にあることに気付かず。
──“私の幸せ”って…?
「…?さやか?」
…私は。
今まで自分の独り善がりで彼を振り回しておいて。
ようやく宗次郎は自分のために自分自身の道を歩み出すこととなった。そんな時が訪れたというのに。
“待って…”
──そう思っていた。
くい、と着物の端を掴まれ宗次郎は振り返った。
「…さやか?」
戸惑いの色を浮かべながらも、こちらを見つめるさやかの瞳。
「ごめん、その…」
…宗次郎へと伸ばした手。
寂しいから?誰かに傍にいてほしいから?誰でもいいから…?
「私…」
…そう思われるかもしれない。
けど…
「…まだ…」
「…少し待ちますよ。焦らなくていいですよ。」
そんな私を穏やかに見下ろす優しい瞳。
「…あ…ありがと…」
「…気を患わせちゃいました?」
「えっ…?」
「いえ…僕の思い過ごしならいいんです。それで。」
「…」
「僕は嬉しかったですよ?さやかとの時間が増えたんだから。」
──だから気にしないで。
そう言われている気がする。
そんなに優しく微笑まれると泣きそうになる。
この人は…どうしてこうも暖かいんだろう。
弱味も見せずに…
思わず見つめていると、視線に気付いたのか少し頰を染める彼。
暫し、視線を泳がせたあと、ゆっくりこちらに焦点を定める。
──神妙な面持ち。
「…さやか。最後なんだから…もう隠し事はなしにしませんか?」
「え…?」
隠し事…宗次郎に伝えられていないこと…
「僕たちの仲なんだし。」
「…うん。」
「……本当にいい?」
「うん…」
それなら僕も、と宗次郎は穏やかに微笑みかけた。
「僕の本音…本当はこのまま伝えない方がいいかなって思ってたんだけど…」
「宗次郎の本音…?」
「…聴いてもらいたくなっちゃいました。」
「うん、聴かせてくれる…?」
じゃあ、と穏やかに遠くを見つめるように、宗次郎は心の内を拾い上げていった。
「どうしても…さやかを想う上で引け目のようなものがあって…」
照れるように髪をかき上げながら笑う。
「僕は志々雄さんより強くないし…志々雄さんみたいにさやかの心だって手にすることはできなかった。」
「……でも宗次郎は」
私の言葉を遮るように。
ふっと溜め息をつきながら、眉を下げて微笑む。
「ずっと…さやかをいの一番に守れる存在じゃないってこと…歯痒かった。」
「……」
「だけどあの時…さやかが僕のこと“志々雄さんの代わりではない”って言ってくれたこと…嬉しかった。多分、これが嬉しいってことなんだと思う。」
「宗次郎…」
「僕は僕でいいんだって思えるようになりました。だから感謝しています、さやか。
…自分のことを、志々雄さんを好きだったさやか自身のことを卑下したりしないで。
さやかには幸せになってほしい。」
そう彼は囁いた。
「…それで、やっぱり思ったんだ。」
そっと彼の手がさやかの頰を包む。
彼女の香りを手繰り寄せるように彼女を優しく見つめる。
手のひらから伝わる彼の想いに、耳に届く彼の呼吸。
狂おしいほどの眼差し。
「僕はね、さやかのことが好きです。」
「…もし一つだけ、何にも縛られずに、何も気にせずに本当の気持ち…あの時言えなかったことを言ってもいいのなら…」
「……」
躊躇しながらも──その頰を紅く染めてこちらを見つめる彼女。
さやか…
…あなたのすべてを掬い上げたい。何度だって。どこまでだって。
「一緒に…行こう?」
ずっと…一緒にいたい。
「……やっと言えた。本当の気持ち。」
切なげな表情を浮かべるさやかを宗次郎は愛おしいと感じながら見つめていた──
爽やかな風に包まれ…そして…
───その光景の中で宗次郎は佇んでいた。
「お久しぶりです、志々雄さん。」
──“あれ”から一年か。
この地からは見ることが出来ない比叡山に想いを馳せ、あの方角だったかな等と思わず考えてしまう。
宗次郎は再び、灯籠流しの時季の京都へ訪れていた。
「あれから…色々なことがあったんですよ。」
辺りで少しずつ灯り出す光源たちを視界に収めながら。
宗次郎は目の前の揺れる水面にそっと灯籠を浸し、流した。
彼の手を離れ、その暖かな光は波に流され漂っていく。
「答はまだ見出せていないけど…それでも僕はやっていこうと思います。」
そう囁きながら…ふと、宗次郎は思い留まった。
少し考えを巡らせながら、「あ、そっか」と一言だけ呟いた。漏れる穏やかな笑み。
そして…
「一つだけ、見つけたことがあるんです。それは──」
「……じゃあ、そろそろ。」
宗次郎は言葉を切った。
日が傾き、暗い色へと移り変わった水面。その上を渡り流れていく数々の灯火。その情景を瞳に焼き付けた。
「行ってきます。」
…どこにいるわけでもないことは知っている。
けれども、宗次郎は語りかけながら微笑みを浮かべた。
そして──
「さやか。」
宗次郎はゆっくりと声を発した。
そちらへ視線が定まると、愛しいものを目にした時のように、彼は優しく柔らかく微笑みを寄せた。
──今宵も。夜の闇を眩く彩る、灯籠の明かりが幾つも輝きながらたゆたっていた。あの時と同じように。
この光景は別れと、そして門出の…
『一緒に…行こう?』
──あの時、彼女に明かした本当の気持ち。
彼女を救うことは出来ない。縋りたいと手を差し出されてすらもいない。
でも、僕はそれでも…何度だって手を伸ばしたい。彼女の為なら。
『一緒にいて…いいの…?』
ぽつん、と絞り出された小さな声は微かに震えていた。
『私はまだ…あの人のことを想ってしまう…。“忘れられなくてもいい”、宗はそう言ってくれたよね…でも。』
『……』
『どんなに宗次郎が“構わない”と言ってくれたって、その気持ちがきっとまた…傷付ける。』
『…それでも僕はさやかと一緒にいたい。』
『……』
まっすぐな眼差しが彼女を射止める。
揺るぎない、彼の想い。
『宗…』
『…まあ、無意識と言えど…今まで度々傷付けられましたからね、さやかには。』
『う…』
『僕の気持ちにも気付かず…色々な表情を見せられたりとか…』
『う…うん…』
どんどん申し訳なさそうに顔を曇らせるさやかを見て、宗次郎は悪戯っぽく微笑んだ。
『……慣れっこです。言ったでしょ。そんなところも、さやかの志々雄さんへの想いも、すべてひっくるめて…さやかが大切だから。』
『……』
『…さやかが少しでも…僕との別れが名残惜しいというのなら。少しでも僕のこと大切だと思ってくれているのなら…それだけで僕はよかったと思えます。心から。』
『私……宗次郎のことずっと大切に思ってきたよ。一度だって…そう思わなかったことなんてない。』
さやかの声が小さく震える。
『ずっと一緒にいたい…この先も一緒に生きてたい。』
『……』
『いっぱい傷付けて酷いことしたけど…
これからは悲しい想いさせないから。
宗次郎の想いに報いてちゃんと生きていくから。
だから…一緒にいたい…ずっと宗次郎の傍にいたい…!』
ぽろぽろと涙をこぼしたさやか。手を差し伸べると、縋り付くように両手で固く握り締められた。
『…ああ、もう…泣き虫だなぁさやかは…』
『だって…』
『次泣いたら針千本飲ませますからね?』
『…なあに、それ。…ふふふっ。』
彼女は泣きながら、微笑んでいた。
──そして、今。
灯火を眺めていたさやかはこちらを振り返った。
負った悲しみは完全には癒えてはいない。
それでも、“かの人”を想っていた気持ちは──彼女の命を輝かせている。彼女が、そして宗次郎が慕っていた“かの人”。その篝火を継ぐように彼女は“生”を選んだ。
──私…これからも生きていきます。あなたに拾われ…あなたに尽くしていったこの命がある限り。
また…この次に訪れるその日まで…さようなら…
想いを馳せたさやかの澄んだ瞳が宗次郎を見つめる中。
宗次郎はにこりと微笑んだ。
「さやか、行こっか。」
「うん…!」
差し出された宗次郎の手。
さやかはゆっくりとその手を重ねた。
…宗次郎が心から惹かれて、ずっと取り戻したかった彼女の本当の笑顔。
その笑顔でさやかは笑いかけていた。
──志々雄さん。
一つだけ、見つけたことがあるんです。
それは…
さやかと一緒にいられることが…僕の幸せだなって。
宵 火 と も る 下 、 め ぐ り 逢 い
fin.
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