短編集
【短編用】名前変換
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何度目だろう。
眠る彼女を見下ろしながら、僕は唇を噛み締めた。
口の端に滲む血。
──また、名無しさんを殺せなかった。
刀を取りこぼした右手を握りしめる。
掌が裂けて血が滲んだが、寒さの為か……はたまた憤りの為か。痛みは感じなかった。
「…名無しさん。あなたはどうして…」
どうして僕を乱すんです?
穏やかな彼女の寝顔をいつまでも見下ろしていた。熱に浮かされながら意味もない笑顔を浮かべて……
「宗次郎、おはよう。」
彼女の明るい声がこだます。
ぼんやりと瞳を開くと、ようやく見慣れてきた天井。そして木漏れ日の光に包まれていることに気付く。
「…おはようございます。」
「夕べはよく眠れたのね。」
昨夜のことを何も知らずに笑う名無し。
「ええ…」
「熱、もう大丈夫かしら?」
彼女の影が落ちる。こちらに近付いたのだとわかった。そっと、遠慮がちに額にかざされる手のひら。
「…もう、下がったみたいだね。」
「そうですか…」
嬉しそうだけど、少し切なさも含んだ声。
ちら、と外の様子を窺う彼女。僕も後に続く。
「…そろそろ雪解けの始まる頃だと思うの。」
「そのようですね…」
「行ってしまうの…?」
朝霞に粉雪が眩く光る。
彼女の言葉には応えず、僕は問い掛ける。
「名無しさん。名無しさんは…」
「?」
「不思議な人ですね。…放っておけばいいのに、見ず知らずの僕をこうして助けてくれて。ましてや付きっきりで看病してくれたり。
…面倒だなんて思わなかったんですか?」
ふふ、と微笑みかけると彼女は真剣な眼差しを向け押し黙った。
「…僕を殺すことだってできたのに。」
静かに呟いた。
雪の日だった。
北の寒村に出かけていた僕は吹雪に遭ってしまい、たまたま通りがかった彼女によって救われた。そのまま体調を崩してしまった僕を彼女は介抱してくれた。
少しの間だけど一緒に暮らしていくにつれ、“あなたの暖かさが狂おしい”──そんな想いが芽生えたことを自覚していった。そんな気持ちは間違っていると思いながらも、彼女の元を去ることも、この気持ちを感じられなくなってしまうことも不安だった…
僕にはとても扱えない代物だとわかっていた。暖かくて…その心地よさにどうにかなってしまいそうだったから。
だから、自ら葬ってしまえば…。それかいっそ、彼女が僕を殺してくれたら…
そんなことを思っていたのだけど。
「……そんな悲しいこと、言わないで。」
「悲しいこと…?どうして悲しいんですか?」
彼女は言葉を詰まらせる。
「…私は宗次郎にいなくなってほしいだなんて思わないもの…」
「僕はね、名無しさんを殺してしまいたい。」
──瞳を見開いた彼女。息を飲む気配がした。
「本当は…あなたがほしい…。
でも。お人好しで優しいあなたは…僕には到底理解できない。何より僕が…」
負けそうになる。どうにかなりそうになる。
そう告げると、彼女は悲痛の色に表情を歪めた。
「…変なこと話してますよね。でも…本当です。それがすべてです。」
微笑みを浮かべた。
「でも、殺せなかった。」
「宗次郎…」
「……なので。」
沈痛な面持ちの彼女に、やがて告げる。
「さよなら…名無しさん。」
「……!」
彼女とは…一緒にいられない。
他方が死ぬこともできないのなら…道を違えるには。
「束の間だったけど…あなたの暖かい心に支えられて、僕は幸せでした。」
「……」
「もし…たとえば…」
──たとえば…修羅として生きる僕ではなく、普通の青年としてあなたと出逢えてたら。
あなたの隣に居座って…あなたの温もりにずっと包まれて…。そんな道を選択できたのかもしれないなぁ。
「宗次郎…?」
「…なんでもありません。」
──言ったところで何になりますか?
そう思った刹那──
一筋、流れ落ちた名無しの涙にはっとする。
思わず彼女の身体を抱き締めながら、緩み溢れそうになる何かを感じていた。
──心を弱くするわけにはいかない。
惹かれてやまない気持ちはあるけれど、僕は…
「名無しさん…」
しがみついてくる彼女の腕。でも、そっと振り解いていくと力なく離れる。
弱々しげな眼差しに映る僕自身の姿。彼女の肩に掛けた手を静かに離そうとすると。
「私の命…宗次郎に委ねていいよ…?」
「…!」
「それで宗次郎が満たされるのなら…」
「…どうして、そんなこと言うんです?」
「…私、あなたのことを…」
名無しは首を伸ばし、爪先立ちになる。
そのまま立ち尽くす彼にそっと近付き…
触れるだけの接吻。──微かに、だけど宗次郎の唇に温もりを灯した。
「名無しさん…」
「…だから…いいの…」
彼女を冷たい屍にしてしまえば…この不安から逃れられる…
そして僕の心はまた…
「構わない…」
「……名無しさん。」
穏やかな微笑みを浮かべたけど、彼女の眉は悲しげに寄せられたまま。
唇の温もりが溶けて温度を失うにつれて、僕は言葉を放つ。
「あなたは…いつまでもそのままの…優しい名無しさんでいて。」
「宗次郎…」
「だから…お元気で。」
「宗次郎っ…!」
雪の降りつもる白い景色。
粉雪に変わりつつあるその礫が髪を、肌を、そして僕の頰を濡らした。
──冷たいはずなのに、暖かいな。
頰を濡らすそれを払いのける。
何度も何度も…
やがて、彼は無表情という名の微笑みを浮かべながら雪の中へと消えていった。
白に続く小径
*****
「北か…これから暑くなるからちょうどいいかな。」
──僕がどうしても不殺に惹かれた理由の中に、もしかしたら…あなたの存在があったのかもしれない。
今更逢いに行こうだなんておこがましい。
一緒にいられるだなんて思わないけれど。
でも、一目でも…逢えるといいな…
名無しさん…
──薄雪草が咲く小道をまっすぐに進んだ。
「……宗次郎!?」
「…あれ、名無しさん?
本当に逢えた…!逢えるとは思わなかったなぁ。」
「……」
「すみません、えっと、何を話したらいいかなぁ…」
「…おかえりって言っていい?」
「え?」
「あなたの居場所になりたいって言ったら…?」
「……ただいま。」
END