短編集
【短編用】名前変換
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──名無しさんに、好きだと言われた。だから。
「じゃあ、付き合いますか。」
率直に返しただけなのに名無しさんは目を見開いて固まってしまって。その仕草が可愛らしく感じたから微笑んでしまった。
名無しさんが言ってきたことは気の迷いだと思ったし、そうでなくとも一過性の衝動的なものだろう、そう思っていた。
もちろんそのように考えたことにはしかとした理由があって──
恋をする、つまりは、他人を気にかけること──価値があるのだろうか。否、微塵にも、何の意義も持ち合わせていないと思う。
特段誰かに説いたことなどは一切ないが、一方で隠し通すつもりも毛頭ない。
そうやって、いつだって僕は正解を選び、何一つとして間違いは犯さなかった。僕は僕自身のままであり続けて来たのだ。
そんな僕に惚れた好いたなど、そんなことを言う人間がいようとは思わない。理解の範疇を越えている。
だから、名無しさんが僕に告げた想いは過ちであると同時に、何か一時的な誤解をしている、そう思った。
(じゃあ、なぜ名無しさんの言葉を受け入れたかって?)
「宗次郎。」
「あ、名無しさん。どうかしましたか?何か用事でも。」
「…今忙しい?」
「一応任務を言い遣ってますけど。」
「そっか、ううん、なんでもないの!頑張って。」
笑顔を見せながら弾ませる明るい声。
じゃあね、引き止めてごめんなさい、と手を振って彼女は背を向ける。
「名無しさん。」
「はい?…わっ。」
思いがけない行動に驚いたのだろう。宙に舞うように浮き立った名無しさんの声。声を掛けて振り返った彼女の体をそっと抱き止めたのだった。
暫くの間そのまま。
僕は名無しさんの背中に手を這わせて。名無しさんの両腕は突然のことに行き場を見出せず固まって静止していて。
そうしたまま互いの温もりを感じていたのだったが、やがて僕の肩口に顔を埋もれさせていた彼女はおずおず、とこちらを見上げた。
「あ、あの…どうしたの…?」
「別に…名無しさんいじらしいなぁと思ったからです。」
「えっ、え?」
「僕と一緒にいたかったんでしょ?なのに悲しい顔ひとつせずに無理やり笑ってるなんて。」
心を見透かされたことに戸惑っているようで。そして見定める方向をなくしたかのように目を伏せる。くすり、と僕は笑みを漏らした。
「そういうところ…好きですよ。」
「…えっ…」
「可愛いです、名無しさん。」
彼女が言葉を失っているのが目に見えたから。
言ったもの勝ち、奪ったもの勝ちという様に、優しく口吻を落とした。
(名無しさんを傍に置いているのは──単純明快、名無しさんが可愛らしいと思ったからです。)
でも、それは決して、愛や恋などといった感情ではない。喩えるならば、小さな子供が玩具を与えられた時のように。女子供がか弱く小さな仔猫を目にした時に感じる心の内のように。
言うなれば愛玩品や調度品に興味を持ち目を掛けている感覚、だった。
…“だった”というのは、それまでは確定事項であり揺るぎない事実であったということ。ずっとずっと、その調子を貫いていくと一度は確信していたということ。
(…そうなんだ。最近、どうもね…おかしいんですよね…)
──どうしてこんなことに杞憂してしまうのか。
必要以上に名無しさんに関わろうとしている自分がいる。…それは文字通りの意味を持つ。
基本的には彼女が接してくれば機械的に対応をしていた。決して冷たくする訳ではないけれども、彼女が何を欲しているか何を求めているか、先の先まで計算し尽くされた行動を選び取っていた。
そうしていた筈だったのに、自身から彼女に接触する機会が出来ているのだ。更には、一定の距離を、一線を越えてしまう自分がいた。
そして、時には──胸に淡い痛みを奔らせてさえいる己がいることをも感じていた。
(嫌だな…こんな僕はどうかしている。知らず知らずのうちに名無しさん如きに乱される僕なんかではないはずなのに。)
そんな葛藤をしていることすら許せなかったし、ましてや名無しさんに知られてしまうだなんてことはもってのほかだった。
──名無しさんが消えればいい。
そう思いそうになる思考回路。
ただ、その解を導き出すことは彼女に自分の心の隙を突かれているという状態を認めることほかならなかった。
(だけど、これはもう、名無しさんのせいだ。)
名無しさんの笑顔、頬を赤く染める姿、朗らかに響く声が──僕をおかしくさせているのかもしれない。…いや、そうなんだ。
(だから、消えてしまえばいい。名無しさん。)
けれども、どうしてもそれができない。
隣で何の警戒心もなく他愛ない話をしていたり、自分の価値を低く捉えているのだろう、自信のなさそうな様がふと垣間見えたり、癖のように僕を気遣うようにする、そんなただの脆い存在の彼女なのに。
──消えてしまったのは、僕の揺るぎない筈の信念の方だった。
腹の底から込み上げてくるような重くて不快なしこりのようなもの。咀嚼し上げて脳内に巡らせる様相を脳裏に思い浮かべた。
弱い自分自身に絆されるような気持ちを噛み締めながら──名無しさんの肩を引き寄せた。少し驚いたようにこちらを見上げた彼女にきっと僕は。悲しげな笑みを浮かべて、こう優しく呼び掛けたに違いない。
「消えないで。あなたが好きです。」