翼を持たない者へ捧ぐ
-Ⅶ-
翌日。僕は自分の小屋の窓から外を眺めていた。療養所を囲む森は夕日を受けて赤く染まっている。風が吹いて木々の葉が揺れ、さわさわと音を立てていた。
――ガシャン。
静かだったそこに、突如、ガラスが割れる大きな音が響いた。続いて、何かがひっくり返ったような音も聞こえた。
僕は驚いて窓枠にかけていた手を離し、慌てて音のした方へ向かった。
音がしたのはクリムの小屋からだった。扉を開き中に入ると床にはガラスの破片が散らばっていて、水桶や机、椅子が倒れている。そして、その中でうずくまるクリムの姿があった。
「クリム!? どうしたの、大丈夫!?︎」
ガラスに注意しながら駆け寄って声をかけると、クリムは顔を上げて僕を見た。その目は大きく見開かれ、恐怖の色に染まっていた。クリムは自身の腹を押さえながら苦し気な声を出す。
「おなか、痛い……っ」
「お、お腹?」
クリムの下腹部を確認すると、確かにそこには赤いシミが浮かんできていた。遅れて、微かに感じるそれ特有の匂い。
「な……なにがあったの」
クリムは僕の問いに対して必死に言葉を紡ごうとする。しかし、痛みに耐えることで精一杯なのか上手く話せないようだった。それでもどうにか僕に伝えようとしてくれたけれど、何を言っているのかは全くわからなかった。
「もういい、いいよ。無理しないで」
とりあえず、と僕は急いでクリムをベッドに運んで寝かせた。そして次に何をするべきか考える。……手当てだ。確か医務室に救急箱があったはず。
「ちょっと待ってて! すぐに戻ってくるから」
僕がそう言って立ち去ろうとした時、服の裾を引っ張られた。振り返ると、苦しそうに息をしながらクリムが僕の服を掴んでいた。
「いい、いいから……君は……にげ……」
クリムは途切れ途切れにそう言った。その額から汗が流れ落ち、頬を伝ってベッドの上に落ちた。クリムが何を言いたいのか僕には分からず、ただ苦しそうなクリムの声が耳に届くだけだった。クリムが何かを必死に伝えてくれているのはわかったけれど、今はクリムの治療が優先だ。わからないことは全部後回しだ。
「すぐ、すぐに戻ってくるから!」
クリムの腕を無理矢理剥がして、僕は駆け足で医務室を目指した。
医務室の鍵は開いていたが、せんせいはまだ戻っては居ない様子だった。尚更自分がしっかりしなければと気を引き締め直し、急いで壁際に置いてある棚の中から救急箱を取り出す。
早く戻らなければと思いつつも、開いていた引き出しが目に入った。引き出しの中には薬が入っている瓶が置いてあり、僕はその瓶を手に取った。せんせいが飲んでいるものだろうか。『Amazonite』と書かれた青い錠剤の入った瓶。中身はもうあと3粒だけで、何の薬かはわからなかった。
カラ、と錠剤と瓶の当たる音を立てて元の場所に戻し、僕はクリムの元へ急いだ。
僕がクリムの小屋に戻って来ると、中から物音が聞こえた。自分の他にも様子を見に来た人がいるのだろうか、と少しだけ開いていた扉の隙間から中を確認する。
――クリムの目の前に立っていたのは、一人の少女だった。
バロメッツではない。胸のあたりまで伸びた紫の髪の毛を持つ、見知らぬ少女。
クリムは相変わらず苦しそうに腹を抱えてベッドの上に寝そべっていた。そんなクリムを目の前にして、少女はゆっくりと手を上げる。
その手には――ナイフが握られていた。
「……え」
止める間もなかった。
少女はなんの迷いもなくクリムの心臓をめがけてナイフを振り下ろした。気味の悪い音が小屋に響く。少女は何度も何度も、それを繰り返す。刺された箇所から赤い液体が噴き出し、少女は返り血で真っ赤に染まっていった。クリムはすでに動かなくなっていた。
しばらくすると少女はナイフを持っていた手の動きを止め、代わりにもう片方の手をクリムの中へと差し込んだ。ぐちゃ、という音を鳴らして赤く濡れた肉塊を引き抜く。引き抜いたそれを口元へ運び、口に含む。部屋の中に咀しゃく音が響く。ごくんと飲み込み、少女はうっとりとした表情を浮かべた。
――何が、起こっているのだろう?
目から勝手に出てくる涙が止まらなかった。嗚咽が漏れそうになる。それを必死に抑え、歯を食いしばった。耐えなければ、ここで音を立ててしまえば僕がここに居ることがバレてしまう。
――バレたら、僕も……。
逃げなければ。そう思いはしたが、僕はその光景から目を逸らすことができなかった。
少女はしばらく食事を楽しんでいた様子だったが、突然咀嚼をやめると「あ」と小さな声を漏らした。その声は徐々に大きくなっていき、彼女はそのまま叫び声をあげながら頭を抱えてうずくまった。「う」とか「あ」とか意味のない声を上げて叫び続ける。彼女の座り込んでいる場所には赤い水溜まりができていた。
僕は相変わらずその場から動けなかったが、頭はやっと動かせるようになってきた。
こんなところで、ぼーっと見ている場合ではない。他の皆に知らせなきゃ、急いでここから逃げなければいけない。
僕が一歩後ずさると、壁ではない、柔らかい何かにぶつかった。
「やぁ、ヴィオレッタ」
そして聞き慣れた声が聞こえる。驚いて振り向くと、そこに立っていたのはせんせいだった。
「せ、んせい?」
僕が掠れた声でそう呼ぶと、せんせいは僕の肩に手を置いていつもと変わらない笑みを向けてきた。それを見た僕は安心して、その場に崩れ落ちてしまう。せんせいはそんな僕を見て微笑みを浮かべると、自身の膝を地面につけて僕と目線を合わせた。
せんせいは僕を心配して優しい言葉をかけてくれる。――そう思っていたが、せんせいは何も言わずに僕を見つめてくるだけだった。
「……せんせい?」
僕は不安になって無意識にせんせいを呼んだ。するとせんせいは、ゆっくりと口を開いた。
「君は、どうしてそうあいつに惹かれるのかな。何度も、何度も、何度も……」
それだけ言うと立ち上がり、クリムの小屋の扉へと向かっていった。僕は何を言われたかわからず、反応も出来ずにせんせいを見上げた。
せんせいは扉の前で立ち止まると振り返った。その顔には先程までの笑顔はなかった。
「遠ざけられただろう? 拒絶されただろう? それでもしつこく追いかけ回していたんだから、よっぽど気に入っていたんだね」
「な、なんの話を、しているんですか……? そ、れよりもせんせい、部屋の中で、クリムがっ……!」
慌てて説明しようとする僕を無視して、せんせいは話し続ける。
「あいつもお前を心から拒絶はできなかった。あの子は優し……いや、違うか。いい加減、寂しくなったのか。それともあいつと重ねてしまったのかな?」
「だ、だから、何のことを……ねえ、早く! クリムが死んじゃう!」
せんせいは自分の言いたい事だけ言うと、僕のことは無視して嬉しそうに笑いながら扉に手をかけて大きく開いた。その姿はいつものせんせいとはまるで違っていて、まるで欲しいものが手に入ったときの幼い子供の様に喜んでいた。
「……せんせい?」
僕は震える足になんとか力を入れて立ち上がり、その背中を追うようにして小屋に入った。
部屋の中はなにも変わっていなかった。クリムの身体には穴があいていて、そこからいろいろな体液が流れ出ていて、その前には少女が座り込んでいる。
せんせいは少女に近づくと、その顔を覗き込んだ。
「ああ、頑張ったね。えらいじゃないか。一人でもできたんだね」
少女は焦点の定まらない目でせんせいを見た。その瞳からは涙が流れている。せんせいはそんな少女の頭を撫でながらねっとりと微笑んだ。
「それじゃあ、もう一仕事。お願いね?」
そう言ってせんせいはゆっくりと背後に居た僕を指さした。少女はゆっくりと顔をあげ、その目が僕を捉える。少女は小刻みに首を横に振る。それでもせんせいは少女を立ち上がらせ、背中を押した。
「大丈夫、もうすぐ帰ってこられるんだから。そうだろ? ……――」
せんせいが何かを言いかけた――その時、僕の背後から不意に何かが飛び出してきた。
それはせんせいの腕を掴み、そのままの勢いで床に押し倒し首元にナイフを突きつけた。僕は突然の出来事に混乱しながら、倒れたせんせいの上に馬乗りになっている人影を見た。
「……コリン?」
それはコリンだった。コリンはせんせいの首元にナイフを当てたまま、鋭く睨みつける。せんせいは驚いた表情を浮かべながら彼の名前を呼ぶ。
「どうした……」
「せんせい、ごめんなさい」
せんせいの声を遮って、コリンは言い放つ。そしてナイフを持つ手に力を込めると、せんせいの顔色が少し変わった。
「どういうつもりだ?」
「ごめんなさい」
コリンは抑揚のない声色で、ただそう告げる。僕は呆然とその様子を眺めているだけだった。少女も目を見開いてその光景を見ているだけだった。
「ナイフを捨てろ。お前にそんな物騒なものは似合わないよ」
コリンは何も答えず、ナイフをさらにせんせいの首に押し付ける。せんせいはそんな様子のコリンをみて、困ったように笑った。
「ああ、もしかして……気付いてしまった?」
そう呟いて、ため息をつく。そしてせんせいは抵抗をやめた。
コリンはその様子を見て、さらに強くせんせいの喉元にナイフを食い込ませる。せんせいの首から赤い液体が流れ出る。それを見てはっとした僕は思わず声を上げた。
「ちょっ、ちょっと待って。なんなんだよ。どういうこと? 二人とも、どうして、こんな……」
せんせいもコリンも僕の声は聞こえていないと言わんばかりに無視をして、睨み合っている。
「ねえ、ってば!!」
僕は慌てて二人の傍に駆け寄り、ナイフを持ったコリンの手を掴む。
「やめてっ、邪魔しないで!」
「落ち着いてよ、コリン! こんなの君らしくな――」
「――『良い夢を 』」
僕のおかげで隙のできたコリンにせんせいは指を突き立て、なにかの呪文を唱えた。――その瞬間、コリンは意識を失い、僕に倒れ込んできた。
「っ、コリン……!?」
僕は咄嗟にコリンを抱き止める。コリンの邪魔が無くなったことで自由になったせんせいは、ゆっくりと立ち上がる。首元についた傷口からぼたぼたと血が流れているが、それを気にすることもなくせんせいは僕を視界に入れて微笑んだ。
そしてコリンの時と同じように人差し指を僕に向けた。
「――、っ」
せんせいが口を開くのと同時に、肉が切れる音がした。
少し間を置いて、せんせいは口から血を吐いて倒れた。
せんせいの背後に立っていたのは、紫の髪の少女だった。少女が持っていたナイフはクリムの乾きかけていた血の上に新しい血を浴び、鮮やかな赤に染まっている。少女は恐怖なのか、憎悪なのか。はっきりとしない感情を瞳に表しながら、せんせいを見下ろしている。
僕は驚いてまた言葉を失う。コリンをかばいながら、倒れたせんせいをじっと見つめた。
「はは」
小さく、笑い声が聞こえた。せんせいは身体を動かして仰向けになりながら笑っていた。その仕草はやはりどこか子供じみていて、不気味な印象を受けた。
「ははは、ははははは! ……そう、そうか。そういうことなんだね。それがお前の望みか? ああ、ああ……良いよ。お前の一部になれるなら、本望だ。……これで、帰ってきてくれるんだもんね」
そう言い切るとせんせいは目を閉じて、少女に対して口を開いた。
「……――僕を喰え。『イチル』」
せんせいのその言葉を聞いた瞬間、少女の瞳孔が開いた。
目には見えない速さで少女の手がせんせいへと伸び、その手はせんせいの胸元に入り込んでいた。せんせいはさらに口から血を吐き、それでもなお少女を抱きしめるようにして笑っていた。
「やっと、また……」
少女はせんせいの言葉を待たずに、その心臓を掴んで引き抜いた。せんせいの何も無くなったそこから血が溢れ出る。少女はその心臓を口に運ぶ。せんせいの体が痙攣する。少女はそれを気にせず、ひたすらに食べ続ける。
せんせいの黄金の髪の色は少しずつ色を失っていき、最後には真っ黒になって――そして静かに、少しずつ。せんせいは動かなくなっていった。
僕はその様子をただ見つめていた。瞬きが出来ずに、目を閉じることもせずに、ただ見ていた。
そして乾いた目で、瞬きを一つした。
――たったその瞬間。
少女はその身体から眩しいほどの光を放ち始めた。僕は思わず目を瞑る。それでも視界は明るかった。それほどの光だった。
――
やがて光が収まった気配がして、僕はゆっくりと瞼を上げた。
まず目に入ったのは、陽が昇る空の色。いつの間にか夜は明けていた。空が見えたのは部屋の壁が粉々だったからで、外からの風が頬を撫ぜた。
「……は?」
音もなく、衝撃もなかった。それなのに。いつの間にかクリムの小屋の壁は大きく破壊されていて、そこから綺麗な朝焼けが見えた。
――そして、それを背景に立ち尽くしている少女がいる。
その足元には髪の黒い男性が倒れていて、彼女はただその亡骸を見ていた。彼女の顔はなんとなく憑き物が落ちたような、晴れやかな表情をしている。僕の視線に気が付いたようで、振り返った。そして僕を見て泣きそうな顔をしながらぎこちなくに笑って、口を開いた。
「――はじめ、まして」
翌日。僕は自分の小屋の窓から外を眺めていた。療養所を囲む森は夕日を受けて赤く染まっている。風が吹いて木々の葉が揺れ、さわさわと音を立てていた。
――ガシャン。
静かだったそこに、突如、ガラスが割れる大きな音が響いた。続いて、何かがひっくり返ったような音も聞こえた。
僕は驚いて窓枠にかけていた手を離し、慌てて音のした方へ向かった。
音がしたのはクリムの小屋からだった。扉を開き中に入ると床にはガラスの破片が散らばっていて、水桶や机、椅子が倒れている。そして、その中でうずくまるクリムの姿があった。
「クリム!? どうしたの、大丈夫!?︎」
ガラスに注意しながら駆け寄って声をかけると、クリムは顔を上げて僕を見た。その目は大きく見開かれ、恐怖の色に染まっていた。クリムは自身の腹を押さえながら苦し気な声を出す。
「おなか、痛い……っ」
「お、お腹?」
クリムの下腹部を確認すると、確かにそこには赤いシミが浮かんできていた。遅れて、微かに感じるそれ特有の匂い。
「な……なにがあったの」
クリムは僕の問いに対して必死に言葉を紡ごうとする。しかし、痛みに耐えることで精一杯なのか上手く話せないようだった。それでもどうにか僕に伝えようとしてくれたけれど、何を言っているのかは全くわからなかった。
「もういい、いいよ。無理しないで」
とりあえず、と僕は急いでクリムをベッドに運んで寝かせた。そして次に何をするべきか考える。……手当てだ。確か医務室に救急箱があったはず。
「ちょっと待ってて! すぐに戻ってくるから」
僕がそう言って立ち去ろうとした時、服の裾を引っ張られた。振り返ると、苦しそうに息をしながらクリムが僕の服を掴んでいた。
「いい、いいから……君は……にげ……」
クリムは途切れ途切れにそう言った。その額から汗が流れ落ち、頬を伝ってベッドの上に落ちた。クリムが何を言いたいのか僕には分からず、ただ苦しそうなクリムの声が耳に届くだけだった。クリムが何かを必死に伝えてくれているのはわかったけれど、今はクリムの治療が優先だ。わからないことは全部後回しだ。
「すぐ、すぐに戻ってくるから!」
クリムの腕を無理矢理剥がして、僕は駆け足で医務室を目指した。
医務室の鍵は開いていたが、せんせいはまだ戻っては居ない様子だった。尚更自分がしっかりしなければと気を引き締め直し、急いで壁際に置いてある棚の中から救急箱を取り出す。
早く戻らなければと思いつつも、開いていた引き出しが目に入った。引き出しの中には薬が入っている瓶が置いてあり、僕はその瓶を手に取った。せんせいが飲んでいるものだろうか。『Amazonite』と書かれた青い錠剤の入った瓶。中身はもうあと3粒だけで、何の薬かはわからなかった。
カラ、と錠剤と瓶の当たる音を立てて元の場所に戻し、僕はクリムの元へ急いだ。
僕がクリムの小屋に戻って来ると、中から物音が聞こえた。自分の他にも様子を見に来た人がいるのだろうか、と少しだけ開いていた扉の隙間から中を確認する。
――クリムの目の前に立っていたのは、一人の少女だった。
バロメッツではない。胸のあたりまで伸びた紫の髪の毛を持つ、見知らぬ少女。
クリムは相変わらず苦しそうに腹を抱えてベッドの上に寝そべっていた。そんなクリムを目の前にして、少女はゆっくりと手を上げる。
その手には――ナイフが握られていた。
「……え」
止める間もなかった。
少女はなんの迷いもなくクリムの心臓をめがけてナイフを振り下ろした。気味の悪い音が小屋に響く。少女は何度も何度も、それを繰り返す。刺された箇所から赤い液体が噴き出し、少女は返り血で真っ赤に染まっていった。クリムはすでに動かなくなっていた。
しばらくすると少女はナイフを持っていた手の動きを止め、代わりにもう片方の手をクリムの中へと差し込んだ。ぐちゃ、という音を鳴らして赤く濡れた肉塊を引き抜く。引き抜いたそれを口元へ運び、口に含む。部屋の中に咀しゃく音が響く。ごくんと飲み込み、少女はうっとりとした表情を浮かべた。
――何が、起こっているのだろう?
目から勝手に出てくる涙が止まらなかった。嗚咽が漏れそうになる。それを必死に抑え、歯を食いしばった。耐えなければ、ここで音を立ててしまえば僕がここに居ることがバレてしまう。
――バレたら、僕も……。
逃げなければ。そう思いはしたが、僕はその光景から目を逸らすことができなかった。
少女はしばらく食事を楽しんでいた様子だったが、突然咀嚼をやめると「あ」と小さな声を漏らした。その声は徐々に大きくなっていき、彼女はそのまま叫び声をあげながら頭を抱えてうずくまった。「う」とか「あ」とか意味のない声を上げて叫び続ける。彼女の座り込んでいる場所には赤い水溜まりができていた。
僕は相変わらずその場から動けなかったが、頭はやっと動かせるようになってきた。
こんなところで、ぼーっと見ている場合ではない。他の皆に知らせなきゃ、急いでここから逃げなければいけない。
僕が一歩後ずさると、壁ではない、柔らかい何かにぶつかった。
「やぁ、ヴィオレッタ」
そして聞き慣れた声が聞こえる。驚いて振り向くと、そこに立っていたのはせんせいだった。
「せ、んせい?」
僕が掠れた声でそう呼ぶと、せんせいは僕の肩に手を置いていつもと変わらない笑みを向けてきた。それを見た僕は安心して、その場に崩れ落ちてしまう。せんせいはそんな僕を見て微笑みを浮かべると、自身の膝を地面につけて僕と目線を合わせた。
せんせいは僕を心配して優しい言葉をかけてくれる。――そう思っていたが、せんせいは何も言わずに僕を見つめてくるだけだった。
「……せんせい?」
僕は不安になって無意識にせんせいを呼んだ。するとせんせいは、ゆっくりと口を開いた。
「君は、どうしてそうあいつに惹かれるのかな。何度も、何度も、何度も……」
それだけ言うと立ち上がり、クリムの小屋の扉へと向かっていった。僕は何を言われたかわからず、反応も出来ずにせんせいを見上げた。
せんせいは扉の前で立ち止まると振り返った。その顔には先程までの笑顔はなかった。
「遠ざけられただろう? 拒絶されただろう? それでもしつこく追いかけ回していたんだから、よっぽど気に入っていたんだね」
「な、なんの話を、しているんですか……? そ、れよりもせんせい、部屋の中で、クリムがっ……!」
慌てて説明しようとする僕を無視して、せんせいは話し続ける。
「あいつもお前を心から拒絶はできなかった。あの子は優し……いや、違うか。いい加減、寂しくなったのか。それともあいつと重ねてしまったのかな?」
「だ、だから、何のことを……ねえ、早く! クリムが死んじゃう!」
せんせいは自分の言いたい事だけ言うと、僕のことは無視して嬉しそうに笑いながら扉に手をかけて大きく開いた。その姿はいつものせんせいとはまるで違っていて、まるで欲しいものが手に入ったときの幼い子供の様に喜んでいた。
「……せんせい?」
僕は震える足になんとか力を入れて立ち上がり、その背中を追うようにして小屋に入った。
部屋の中はなにも変わっていなかった。クリムの身体には穴があいていて、そこからいろいろな体液が流れ出ていて、その前には少女が座り込んでいる。
せんせいは少女に近づくと、その顔を覗き込んだ。
「ああ、頑張ったね。えらいじゃないか。一人でもできたんだね」
少女は焦点の定まらない目でせんせいを見た。その瞳からは涙が流れている。せんせいはそんな少女の頭を撫でながらねっとりと微笑んだ。
「それじゃあ、もう一仕事。お願いね?」
そう言ってせんせいはゆっくりと背後に居た僕を指さした。少女はゆっくりと顔をあげ、その目が僕を捉える。少女は小刻みに首を横に振る。それでもせんせいは少女を立ち上がらせ、背中を押した。
「大丈夫、もうすぐ帰ってこられるんだから。そうだろ? ……――」
せんせいが何かを言いかけた――その時、僕の背後から不意に何かが飛び出してきた。
それはせんせいの腕を掴み、そのままの勢いで床に押し倒し首元にナイフを突きつけた。僕は突然の出来事に混乱しながら、倒れたせんせいの上に馬乗りになっている人影を見た。
「……コリン?」
それはコリンだった。コリンはせんせいの首元にナイフを当てたまま、鋭く睨みつける。せんせいは驚いた表情を浮かべながら彼の名前を呼ぶ。
「どうした……」
「せんせい、ごめんなさい」
せんせいの声を遮って、コリンは言い放つ。そしてナイフを持つ手に力を込めると、せんせいの顔色が少し変わった。
「どういうつもりだ?」
「ごめんなさい」
コリンは抑揚のない声色で、ただそう告げる。僕は呆然とその様子を眺めているだけだった。少女も目を見開いてその光景を見ているだけだった。
「ナイフを捨てろ。お前にそんな物騒なものは似合わないよ」
コリンは何も答えず、ナイフをさらにせんせいの首に押し付ける。せんせいはそんな様子のコリンをみて、困ったように笑った。
「ああ、もしかして……気付いてしまった?」
そう呟いて、ため息をつく。そしてせんせいは抵抗をやめた。
コリンはその様子を見て、さらに強くせんせいの喉元にナイフを食い込ませる。せんせいの首から赤い液体が流れ出る。それを見てはっとした僕は思わず声を上げた。
「ちょっ、ちょっと待って。なんなんだよ。どういうこと? 二人とも、どうして、こんな……」
せんせいもコリンも僕の声は聞こえていないと言わんばかりに無視をして、睨み合っている。
「ねえ、ってば!!」
僕は慌てて二人の傍に駆け寄り、ナイフを持ったコリンの手を掴む。
「やめてっ、邪魔しないで!」
「落ち着いてよ、コリン! こんなの君らしくな――」
「――『
僕のおかげで隙のできたコリンにせんせいは指を突き立て、なにかの呪文を唱えた。――その瞬間、コリンは意識を失い、僕に倒れ込んできた。
「っ、コリン……!?」
僕は咄嗟にコリンを抱き止める。コリンの邪魔が無くなったことで自由になったせんせいは、ゆっくりと立ち上がる。首元についた傷口からぼたぼたと血が流れているが、それを気にすることもなくせんせいは僕を視界に入れて微笑んだ。
そしてコリンの時と同じように人差し指を僕に向けた。
「――、っ」
せんせいが口を開くのと同時に、肉が切れる音がした。
少し間を置いて、せんせいは口から血を吐いて倒れた。
せんせいの背後に立っていたのは、紫の髪の少女だった。少女が持っていたナイフはクリムの乾きかけていた血の上に新しい血を浴び、鮮やかな赤に染まっている。少女は恐怖なのか、憎悪なのか。はっきりとしない感情を瞳に表しながら、せんせいを見下ろしている。
僕は驚いてまた言葉を失う。コリンをかばいながら、倒れたせんせいをじっと見つめた。
「はは」
小さく、笑い声が聞こえた。せんせいは身体を動かして仰向けになりながら笑っていた。その仕草はやはりどこか子供じみていて、不気味な印象を受けた。
「ははは、ははははは! ……そう、そうか。そういうことなんだね。それがお前の望みか? ああ、ああ……良いよ。お前の一部になれるなら、本望だ。……これで、帰ってきてくれるんだもんね」
そう言い切るとせんせいは目を閉じて、少女に対して口を開いた。
「……――僕を喰え。『イチル』」
せんせいのその言葉を聞いた瞬間、少女の瞳孔が開いた。
目には見えない速さで少女の手がせんせいへと伸び、その手はせんせいの胸元に入り込んでいた。せんせいはさらに口から血を吐き、それでもなお少女を抱きしめるようにして笑っていた。
「やっと、また……」
少女はせんせいの言葉を待たずに、その心臓を掴んで引き抜いた。せんせいの何も無くなったそこから血が溢れ出る。少女はその心臓を口に運ぶ。せんせいの体が痙攣する。少女はそれを気にせず、ひたすらに食べ続ける。
せんせいの黄金の髪の色は少しずつ色を失っていき、最後には真っ黒になって――そして静かに、少しずつ。せんせいは動かなくなっていった。
僕はその様子をただ見つめていた。瞬きが出来ずに、目を閉じることもせずに、ただ見ていた。
そして乾いた目で、瞬きを一つした。
――たったその瞬間。
少女はその身体から眩しいほどの光を放ち始めた。僕は思わず目を瞑る。それでも視界は明るかった。それほどの光だった。
――
やがて光が収まった気配がして、僕はゆっくりと瞼を上げた。
まず目に入ったのは、陽が昇る空の色。いつの間にか夜は明けていた。空が見えたのは部屋の壁が粉々だったからで、外からの風が頬を撫ぜた。
「……は?」
音もなく、衝撃もなかった。それなのに。いつの間にかクリムの小屋の壁は大きく破壊されていて、そこから綺麗な朝焼けが見えた。
――そして、それを背景に立ち尽くしている少女がいる。
その足元には髪の黒い男性が倒れていて、彼女はただその亡骸を見ていた。彼女の顔はなんとなく憑き物が落ちたような、晴れやかな表情をしている。僕の視線に気が付いたようで、振り返った。そして僕を見て泣きそうな顔をしながらぎこちなくに笑って、口を開いた。
「――はじめ、まして」
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