翼を持たない者へ捧ぐ
-Ⅴ-
毎日のように同じ夢を見た。
夢の中で僕は見知らぬ教会に居る。ステンドグラスから光が差し込んで、床一面にその色が広がっている。その光の中で誰かが泣いている。声を押し殺して、肩を震わせて、膝を抱えて泣いている。近づくとその人は顔を上げて僕を見る。胸辺りまである長い髪が揺れ、黒い瞳が潤んでいる。
僕は何も言わない。否、何も言えないのだ。夢の中の僕はまるで僕じゃないみたいで身体が動かない。ただ、じっとその人の顔を見て立ち尽くすだけだ。
――そうしているうちに目が覚める。
いつもと同じ、朝が来る。
――
その日は雨が降っていた。当番である書庫の掃除をあっという間に終えてしまい、することがなにもなくなった。昼まではまだ時間がある。掃除道具を片付けながら何をして過ごそうかと考えていると、遠くから小さく叫び声のようなものが聞こえた。
声のする方へ向かうとそこは倉庫だった。中は埃っぽく奥の方では物が散乱していて、その中心には埃まみれになって蹲っているバロメッツの姿があった。
「バロン! どうしたの、大丈夫?」
僕が驚いて駆け寄ると、バロメッツはゆっくりと顔を上げた。
「ヴィイ。あのね、上にあるものを取ろうとしたらね、たくさん落ちてきちゃって」
そう言ってバロメッツは眉を下げて頭を掻きながら笑う。
「怪我はない?」
「うん、平気だよ!」
バロメッツは僕が差し出した手を掴み立ち上がり服についた埃を雑に払うと、床に散らばっていた物を拾い始めた。僕も手伝おうとしゃがみこみ、落ちていた一つを手に取る。
白い封筒だった。宛先も差出人も書いていないけれど切手だけは貼ってあるようだ。消印は押されていないから投函はしていないものなのだろう。
「ヴィイ、ありがとう」
どうしてこんなものが倉庫に置かれているのか気にはなったけれど、バロメッツに話しかけられたことで僕の意識はその手紙から逸れた。
「気にしないで。丁度暇だったし」
そう返事をしてテキパキと落ちていた荷物を元に戻していく。
「それで、何を取ろうとしていたの?」
「えっとね……あの箱!」
少し迷ってからバロメッツが指さしたのは床に転がっていた古びた木箱だった。
蓋を開けてみると中にはたくさんの瓶が入っていた。この箱も棚から落ちたようだが、運が良いことに中身の瓶は割れなかったようだ。
「これ何?」
「わからない。せんせいに持ってくるように言われたの」
僕は瓶の一つを手に取った。中には不思議な色の液体が入っている。振ってみると、とぷんと音がした。箱の中にはまだ結構な数の瓶が入っていた。
バロメッツはその箱を持とうとしたが重たかったようで、その足取りはふらふらとしていた。落としかねないと思い、僕が箱を代わりに持つことにした。バロメッツは申し訳なさそうにしていたけれど中身がぐちゃぐちゃになるよりはましだろう、と言い聞かせた。
二人で倉庫を出て医務室へと向かう。僕はバロメッツの歩幅に合わせてゆっくり歩いた。
医務室の扉を叩きせんせいの返事を聞いてから扉を開け、中に足を踏み入れた。
「せんせえ、言われたもの持ってきました!」
僕たちが医務室に入るとせんせいは机に向かっていて、何か書き物をしている最中だった。
「ありがとう……おや、ヴィオレッタも手伝ってくれたのかい。当番の仕事は終わったの?」
「はい、書庫の掃除でした。バロメッツ一人じゃあ大変そうだったので」
僕は持っていた箱をせんせいに受け渡しながら答えた。
「そうか、それは助かったよ。頼んでから彼女には重たい荷物だったかなと思っていたからね。お礼にお茶でも淹れようか。二人とも、座って待っていて」
そう言うとせんせいは部屋の隅に置いてあるティーセットに手を伸ばす。僕とバロメッツは言われた通りに椅子に座って待った。しばらくしてせんせいが僕たちの目の前にティーカップを置いてくれる。カップの中には暖かい紅茶が注がれていた。ふわりといい匂いが立ち込める。お礼を言うと、せんせいは優しく微笑んだ。
紅茶を一口飲む。温かくて美味しい。ほっとする味がした。
隣を見ると、バロメッツも同じように紅茶を飲んでいて、僕と目が合うと彼女は嬉しそうに笑った。
「おいしいね」
「うん、そうだね」
しばらくそんな風にバロメッツと紅茶を楽しんでいたが、不意に真夜中に現れる教会とそこに居る少女のことを思い出した。
「せんせい。聞きたいことがあるんですけど」
せんせいに聞けば何かわかるだろうか。そう考えて僕は切り出した。いつの間にか机に戻っていたせんせいは、僕の声を聞くと視線を僕に向けて首を傾げた。
「なんだい?」
せんせいは僕の話を静かに聞いてくれた。
夜に目覚めてしまうこと。村のはずれに教会を見つけたこと。そこにいた少女の事。その教会は朝になると無くなっているけれど、また夜になると現れるということ。
話を聞き終えるとせんせいは顎に手を当てて少し考え込むような仕草を見せた。バロメッツは僕の顔を不思議そうに見つめる。
「わたし、教会があるなんて知らなかった」
「うん、僕も。でも確かにあったんだ」
せんせいはしばらく黙っていたけれど、僕たちの傍に歩み寄りソファに座るとゆっくりと口を開いた。
「ヴィオレッタ、バロメッツも聞いてくれ。君たちは魔力欠乏症という病気を患っている。それはわかっているね?」
「うん。だからわたしたちはこの療養所で暮らしているんだよね」
バロメッツがそう言うとせんせいは頷いて話を続けた。
「魔力欠乏症というのは魔法を使いすぎた時に起こる。魔法を使うにはもちろん魔力が必要だ。でも魔法を使いすぎると魔力を蓄積している場所がキャパオーバーを起こして、壊れてしまう。この病気はそういう仕組みで起こるものなんだ」
僕とバロメッツと一緒にこくりと相槌を打つ。せんせいの話は続いた。
「そしてこの病気には多くの合併症がある。頭痛や嘔吐、発熱や幻覚、妄想、記憶障害。これらの症状を併発することが多い」
バロメッツは不安そうな表情を浮かべた。せんせいは壊れ物を扱うようにバロメッツにそっと触れて、彼女の頭を優しく撫でた。バロメッツはそれを気持ちよさそうに受け入れている。
「ヴィオレッタのそれはおそらく幻覚や妄想の類だろう。それに夜中に目が覚めてしまうことも、症状の一つだね」
せんせいは立ち上がると棚の中から小さな瓶を取り出した。中には赤い錠剤が入っている。それを数粒取り出して、手ごろな瓶に入れると僕に手渡した。
「今日はそれを飲んでから寝てみなさい。それで改善されなければ、また相談して」
ようやくせんせいは口を閉じた。この話はこれで終わりなのだろう。それは僕の想像していたような答えではなく、正直に言うとがっかりした。でもせんせいがそういうのならきっとそうなのだろう。それが現実なのだろう。そう納得するしかなかった。
「わかりました」
僕は瓶を受け取りながらそう返事をした。
「バロメッツも、何か異変を感じたらすぐに相談するように」
「はい!」
肩を落とす僕の横でバロメッツはしっかりと大きな声で返事をした。せんせいは満足そうに微笑むと、自分の席に戻って仕事の続きを始めた。
残りの紅茶を飲み切ると僕たちは医務室を後にした。もうすぐ昼食の時間だな、と思いながら僕は雨の降る森を見つめる。教会はどこにも見えなかった。
――
書庫の掃除をしていた時、本棚の一部がごっそりとなくなっていることに気が付いた。誰かが持っていったのか、とその時はそれ以上気にせずそのままにしていた。けれど数日経っても、本は返されなかった。
書庫にある本を持ち出したままずっと返していない人がいる。
僕はそれが異様に気になって療養所のみんなに本の行方を聞いて回ったけれど、誰も見に覚えはないと答えた。
「あそこにあった本? えっと、確か……魔導書、だったかな?」
最後にコリンに同じことを尋ねると、彼はさらりとそう答えた。
「魔導書?」
「うん、そう。古い魔導書だったはずだよ。分厚いやつがたくさん。内容は詳しく知らないけど」
コリンは眉を下げて笑った。
魔導書というのは、魔法に関する知識や呪文などが載っている本のことだ。魔導書を読んだからと言って全員が魔法を使えるようになるわけではない。魔法が使えない今の僕らがそんなものを読んだところでなんの意味もないはずだ。――それなのに誰が、あんなに大量の魔導書を持ち出したのだろう。
考え込む僕の隣で、話に飽きたらしいコリンは呑気にあくびを漏らしていた。
――
魔導書を持ち出した犯人が誰かわからないまま数日が過ぎた。
その日は久々に夜中に目を覚ましてしまった。せんせいから貰った薬を飲んだからだろうか、目覚めはしたが頭の中に霧がかかったようにぼーっとした感じが続いている。この様子なら目を瞑ればもう一度眠ることができるかもと思ったがそう簡単にはいかず、時間が経っても意識を手放すことはできなかった。
眠ることを諦めて大きなあくびをしながらベッドを抜け出し窓を開けた時――視界の端に何かが入り込んだ。視線を向けると、月明かりに照らされた小さな人影があった。
「……え?」
こんな真夜中に外を出歩く人はいないだろう。幽霊かもしれないと驚いたが、人影はぱっと振り返ると、僕を見た。距離はあったけれど、確実に目が合ったのがわかった。黒い瞳が揺れ、手にはランタンが握られている――その姿は、いつも夢で見るあの少女の姿にそっくりだった。
僕は、反射的に走り出していた。
村と森との境界には見慣れぬ教会が建っていて、少女はそこに逃げ込んだ。息を切らして教会にたどり着き扉を開けようとしたけれど、硬く閉ざされていて開かない。感覚から鍵がかかっているわけではないことがわかる。立て付けが悪いのか、それとも内側から誰かが押さえつけているのか。この時の僕は何故だか、とにかく必死だった。夢に見るあの少女が誰なのか、どうして泣いているのかを知りたかった。
僕は扉を乱暴に叩き大声で叫んだ。
「ねえ! そこにいるの?」
問いかけに答えはなかった。僕は扉を押す力を弱め、扉に手を付けたまましばらくそこに佇んだ。教会の中からは声も、物音さえしない。冷たい風が吹いてきて頭が冷めていく。
諦めてその場を離れようとしたその時、中から微かに音が聞こえた。とっさに扉に耳を澄ませると、確かにくぐもった声が聞こえてくる。
「君は誰なの! なんで……なんでこんなところに居るの!?」
僕が声をかけると教会の中はまた静かになってしまう。しかし確実に、この扉の奥に彼女はいる。僕は力づくでも扉を開けようと立て付けの悪い扉に向けて力を込めたが、それは軋む音をたてながらいとも簡単に開いた。
そしてその扉の向こうに立っていたのは、真っ黒なローブに身を包んだ人物。俯いていたためその表情までは見えなかった。
「君は……」
僕がそう呟いたと同時に少女はゆっくりと頭を上げ、鋭い視線が僕を捉えた。
――やっぱり、あの子だ。
夢の中のあの子と同じ顔をしていた。長い髪も黒い瞳も同じだった。ただ一つ、雰囲気だけは全く違っていたけれど。夢の中の彼女はいつも泣いていて、弱くて儚げな感じだ。けれど今、僕の前に立つ少女は鋭い目つきで僕を睨みつけてきている。それだけで夢のあの子とはまるで別人のようだった。
「何しに、来たの」
その時、僕は初めてはっきりと彼女の声を聴いた。思っていたよりも少し低い声だった。
「あ、えっと……何しに、というと……」
いざとなると話したいことが沢山あって、うまく言葉が出てこない。何から話したものかと頭の中で必死に考えをまとめる。
「帰って」
僕がもたもたとしているうちに、彼女はしびれを切らしたのかぴしゃりとそう言い放った。
よく見ると少女は分厚い本を抱えている。なんの本だろうと少しだけ考えて、それが魔導書であるということに気が付いた。
「それ、魔導書……だよね」
よくよく見ると、教会の中にも大量に似たような本が散乱していた。おそらく書庫からごっそりとなくなっていた例の魔導書だ。まさか彼女が持ち出していたとは思わなかった。僕が魔導書について指摘すると、彼女はその魔導書を隠すように持ち直した。
「君、魔法が使えるの? 」
「帰って」
発せられた言葉は相変わらずそれだけで、それ以上会話を続ける気がないということが伝わってくる。
「僕、ヴィオレッタっていうんだ。君の名前も教えてくれないかな」
彼女は小さく首を横に振るが、僕はめげなかった。だって知りたかったのだ。どうして彼女が夜中にこんな所で魔導書を読んでいるのか。どうしてそんなに悲しそうな眼をしているのか。
「君のことが、知りたいんだ」
そんな僕の思いとは裏腹に、少女は冷たく突き放すような視線を向けてくるだけだった。口を閉ざしたまま、頑なに言葉を発しようとはしなかった。僕はいよいよ諦めて、彼女に背を向けた。
「また明日、来てもいい?」
返事はなかった。
「きっと、来るから」
それだけを告げて、教会を後にする。
少し歩いたところで後ろを振り返ると少女はまだ教会の扉のところで立ち尽くしていた。僕はできるだけ笑顔を作って軽く手を振った。
――
その日から。僕は夜中に目を覚ますとこっそりと部屋を抜け出し、誰にも見つからないように教会へと向かった。
教会の扉を開けてくれないときは窓から中へ入った。窓も閉ざされていたときは教会の外から彼女に話しかけた。
彼女はいつまで経っても僕に心を開いてはくれなかった。
彼女のことも、教会のことも、誰にも教えなかった。せんせいにさえ言わなかった。
自分だけの秘密にしておきたかったのだ。
――
昼間にバロメッツに強請られて裏庭で作ったクローバーの花冠を持って、その夜も教会へと足を運んだ。
「こんばんは」
扉が開いていたから素直に扉から入り、僕はいつものように彼女に挨拶をする。今日も彼女は返事をしないし、顔を上げてはくれないだろう。そんなこといつものことで、慣れてきた僕にはいっそこの態度が可愛らしくさえ思えてきていた。
「これ、あげる」
僕は持ってきた花冠を読書に集中している彼女の勝手に頭に乗っけた。
彼女は少しだけ動きを止めた後、これまでになく驚いた様子で最初に会った時以来に僕を見た。花冠は想像通り彼女にとても似合っていたし、それを身に着けている彼女の姿はとても可愛らしかった。彼女はとても傷ついたような顔をして、それからすぐに視線を落とした。
「これ、は」
そしてそう言うと頭の花冠を震えた手で乱雑に掴んだ。
「今日、作ったんだ。君に似合うと思ったから、持ってきた」
少女は頭に乗った花冠を掴んだまま固まってしまった。浮かれていた僕はそこでようやく彼女の様子に気が付き、どうしたのかと不思議に思って首を傾げる。
少女は何も言わずに花冠をそっと撫でた。そして小さく息を吐いた。
「……そう」
いつも通りの無表情だったけれど、少しだけ嬉しそうな声色をしていた。僕は驚いた。初めて見た彼女の一面に胸が高鳴った。
「そうだ! 裏庭、花が沢山咲いていてとっても綺麗なんだよ。今から行ってみようよ!」
彼女にそう告げると、僕は返事も聞かずに強引に彼女の腕を引いて教会の外へ連れ出した。
僕たちは手をつないだまま静まり返った療養所を抜けて、目的地へと向かった。
月明かりに照らされた花畑は綺麗で、土と花の香りが風に乗ってあたりに漂っていた。花畑の中心まで来たところで、僕は彼女の手を離した。
「ね、綺麗でしょ? 友達がここがお気に入りで、よく連れてこられるんだ」
顔を覗き込むと、何故だか少女は泣きそうな顔をしていた。僕は彼女に笑って欲しくて、努めて明るく話しかける。
なんだか手持ち無沙汰に感じて、僕はその場にしゃがみ込んで目の前の花を一輪摘む。白い小さな花は風に揺れる度に優しく甘い匂いを振りまいた。
「ねえ、ほら。この花可愛い」
僕は積んだ花を彼女にあげようと振り返った。
彼女は僕を見つめて目を見開き、苦しそうに呼吸を繰り返していた。 荒い息遣いが聞こえる。頭を抱え、徐々に体勢が崩れていって、遂にはうずくまった。
「え、大丈夫? どこか痛……」
僕はそう問いかけながら彼女に近づき肩に手を置いた瞬間――彼女と僕を中心にして地面から炎が吹き出した。火柱が立ち上ぼり、熱風が巻き起こり、花畑が燃えていく。
咄嵯の出来事に動けず、僕はただ呆然と立ち尽くした。そして理解する。肌に感じるこの感覚。これは――魔法だ。彼女の魔法。やっぱり使えたんだ。
「あ、あああ、あああああああああああああああッ!」
呑気にそんなことを考えている間にも、彼女の様子は尋常じゃない程になっていく。
なんとかしなければと、僕は彼女の肩に置いたままだった手に力を込める。
「ねぇ、ねえ! 大丈夫? どうしたの? しっかりして!」
僕がそう話しかけ続けると、彼女はゆっくりと顔を上げて僕の顔を見つめた。目が合った瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
彼女の目はあまりにも虚ろで、そこに光は一切なかった。瞳の奥にはただただ、深い闇が広がっている。
「……、……さい」
そして彼女は口を開いた。あまりにも小さいその声は周りの炎の嵐のせいで僕の耳には届かなかったけれど、何か言っていることは確かだった。僕は彼女の言葉を聞き取ろうと耳を澄ませた。
「――離れ、ないで」
それはあまりにか細い声で聞き取りづらかったけれど、確かに彼女はそう言った。そして彼女の様子に僕は目を丸くした。彼女は泣いていたのだ。ぽたり、と涙が頬を伝って落ちる。
「淋しいよ……会いたいよ……」
誰かに向けられているであろうその言葉に、背筋が凍るような感覚がした。苦しげに吐き出された彼女の声は震えている。
「僕を、ひとりに……」
そう言いかけて、言葉が止まる。そしてまたぶつぶつと呟きながら頭を抱え、髪をぐちゃぐちゃに掻き乱し始めた。
「ぁ……、ち、違う! ちがうちがう!」
彼女は身体を小刻みに震わせて、何かから必死に逃げようとしていた。
「それは、ちが……僕じゃ、僕じゃない! ……僕、は……っ」
彼女の混乱に反応するかのように、周りの炎はより強く燃え盛る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
このままでは本当にまずいと本能がそう訴えかけてくる。僕はより強く彼女の腕を掴んだ。
――瞬間。
びくりと大きく震えて動きを止めたかと思うと糸が切れたように彼女の身体から力が抜け、それと同時に周りの炎も消えた。僕は地面に倒れこむ寸前で彼女を抱き留める。彼女は意識を失っていた。
「お転婆」
そして突然、僕の背後からよく知った声が聞こえた。驚いて振り向くとそこに居たのはせんせいだった。せんせいは僕の腕の中で気を失っている少女を見て、ため息をついた。
「せっかく綺麗に咲いていたのに。ひどいことをするよね」
そう言いながらも、せんせいの声色は怒りを含んではいなかった。むしろ楽しそうに笑っていた。
周りを見渡す。当然先程まであった花畑は影も形もなくなっていて、代わりに辺り一面に黒い灰が広がっていた。風が吹くとまるで雪のように舞い散るそれを眺めながら、僕は呆然としていた。
せんせいは花畑だった場所を歩いて僕たちに近づくと、僕に目を向けることもなく僕から少女を奪いとり軽々と持ち上げた。
「え、あのっ」
僕は咄嵯に手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。
「なに?」
せんせいはいつものように僕の顔を見て笑った。いつもと同じ声色、いつもと同じ笑顔のはずのせんせいがなぜだか今はひどく不気味に思えた。僕が思わず顔を歪めると、それすらも可笑しいと言いたげにさらに笑って見せた。
「なにも心配しなくていい、これは夢だよ。大丈夫。花畑もこの子のことも、すぐに忘れてしまうから」
せんせいは僕を安心させようとしているのか、柔らかい口調でそう告げた。せんせいのその言葉が嘘だということを僕は知っていた。だって彼女の熱をあんなに痛いほどに感じていたのだから——あれが、夢なわけがない。僕は少女の腕を掴む力をさらに強める。それを見たせんせいは困ったように眉を下げた。
「ヴィオレッタ、手を離して。帰って、もう寝なさい」
僕は首を横に振って拒否した。ここで手を離したらもう二度と彼女に会えない気がした。せんせいは首を傾げ、小さく溜息をつく。
「わかった。少しだけ話をしようか」
そう言ってせんせいは僕の手を握り比較的灰のない場所まで誘導し、そこに座るように促した。
僕の頬にせんせいの手が当てられ、ひんやりとしたせんせいの手に僕の体温が奪われていく感覚がする。少女はせんせいの膝の上で穏やかに寝息を立てていた。
「ヴィオレッタは今、幸せ?」
唐突に投げかけられた質問の趣旨がいまいち理解できず、僕は首を捻る。せんせいはそんな僕の反応を楽しむように目を細め、眠っている少女の頭を撫でながら口を開いた。
「そのままの意味で受け取ってくれて構わないよ。毎日ご飯を食べられて、暖かい布団で眠れて、友達と一緒に遊べて、好きなことができる。そんな今の生活をヴィオレッタはどう思う?」
改めて問われて、僕は考える。
この療養所での日々が好きだ。別にそれまでの暮らしに不満なんかは無かったけれど。みんなと過ごす時間は楽しくて、ずっとこのまま続いてほしいとさえ思った。
「はい。……幸せ、です」
そう考えると、質問の答えはこれしか思いつかなかった。僕がそう答えるとせんせいは満足気に微笑んだ。
「良かった」
せんせいはそう言いながら僕の頭を撫でた。その戯れに喜びを感じてしまう。先程までのせんせいへの感情との起伏に戸惑いながらも、心地よいと思ってしまう自分がいた。せんせいの手は僕の頭から少し下へと移動して、僕の首筋を這う。くすぐるような感覚に身体が小さく跳ねる。そして指先で顎を持ち上げられ上を向くと、先生の瞳の中には僕の姿が映っていた。抵抗する気は起きなかった。それどころかだんだん意識が曖昧になってきて頭がぼんやりとしてくる。せんせいの顔が少しずつ迫り、唇と唇の距離があと数センチでゼロになるくらいまで近づいて、せんせいの動きが止まった。
「それなら、今はもう眠りなさい」
――僕の額にせんせいの手が当てられた。途端に強い睡魔に襲われ、必死に抗おうとしてもどんどん眠くなる。
「――――」
せんせいが何か言っているけれど、聞き取れなかった。瞼が閉じていくのを、意識が遠のくことを止めることができない。
最後に瞳に映ったのはせんせいの楽しげな表情と、せんせいの後ろに咲き誇っている真っ赤な薔薇の花だった。
毎日のように同じ夢を見た。
夢の中で僕は見知らぬ教会に居る。ステンドグラスから光が差し込んで、床一面にその色が広がっている。その光の中で誰かが泣いている。声を押し殺して、肩を震わせて、膝を抱えて泣いている。近づくとその人は顔を上げて僕を見る。胸辺りまである長い髪が揺れ、黒い瞳が潤んでいる。
僕は何も言わない。否、何も言えないのだ。夢の中の僕はまるで僕じゃないみたいで身体が動かない。ただ、じっとその人の顔を見て立ち尽くすだけだ。
――そうしているうちに目が覚める。
いつもと同じ、朝が来る。
――
その日は雨が降っていた。当番である書庫の掃除をあっという間に終えてしまい、することがなにもなくなった。昼まではまだ時間がある。掃除道具を片付けながら何をして過ごそうかと考えていると、遠くから小さく叫び声のようなものが聞こえた。
声のする方へ向かうとそこは倉庫だった。中は埃っぽく奥の方では物が散乱していて、その中心には埃まみれになって蹲っているバロメッツの姿があった。
「バロン! どうしたの、大丈夫?」
僕が驚いて駆け寄ると、バロメッツはゆっくりと顔を上げた。
「ヴィイ。あのね、上にあるものを取ろうとしたらね、たくさん落ちてきちゃって」
そう言ってバロメッツは眉を下げて頭を掻きながら笑う。
「怪我はない?」
「うん、平気だよ!」
バロメッツは僕が差し出した手を掴み立ち上がり服についた埃を雑に払うと、床に散らばっていた物を拾い始めた。僕も手伝おうとしゃがみこみ、落ちていた一つを手に取る。
白い封筒だった。宛先も差出人も書いていないけれど切手だけは貼ってあるようだ。消印は押されていないから投函はしていないものなのだろう。
「ヴィイ、ありがとう」
どうしてこんなものが倉庫に置かれているのか気にはなったけれど、バロメッツに話しかけられたことで僕の意識はその手紙から逸れた。
「気にしないで。丁度暇だったし」
そう返事をしてテキパキと落ちていた荷物を元に戻していく。
「それで、何を取ろうとしていたの?」
「えっとね……あの箱!」
少し迷ってからバロメッツが指さしたのは床に転がっていた古びた木箱だった。
蓋を開けてみると中にはたくさんの瓶が入っていた。この箱も棚から落ちたようだが、運が良いことに中身の瓶は割れなかったようだ。
「これ何?」
「わからない。せんせいに持ってくるように言われたの」
僕は瓶の一つを手に取った。中には不思議な色の液体が入っている。振ってみると、とぷんと音がした。箱の中にはまだ結構な数の瓶が入っていた。
バロメッツはその箱を持とうとしたが重たかったようで、その足取りはふらふらとしていた。落としかねないと思い、僕が箱を代わりに持つことにした。バロメッツは申し訳なさそうにしていたけれど中身がぐちゃぐちゃになるよりはましだろう、と言い聞かせた。
二人で倉庫を出て医務室へと向かう。僕はバロメッツの歩幅に合わせてゆっくり歩いた。
医務室の扉を叩きせんせいの返事を聞いてから扉を開け、中に足を踏み入れた。
「せんせえ、言われたもの持ってきました!」
僕たちが医務室に入るとせんせいは机に向かっていて、何か書き物をしている最中だった。
「ありがとう……おや、ヴィオレッタも手伝ってくれたのかい。当番の仕事は終わったの?」
「はい、書庫の掃除でした。バロメッツ一人じゃあ大変そうだったので」
僕は持っていた箱をせんせいに受け渡しながら答えた。
「そうか、それは助かったよ。頼んでから彼女には重たい荷物だったかなと思っていたからね。お礼にお茶でも淹れようか。二人とも、座って待っていて」
そう言うとせんせいは部屋の隅に置いてあるティーセットに手を伸ばす。僕とバロメッツは言われた通りに椅子に座って待った。しばらくしてせんせいが僕たちの目の前にティーカップを置いてくれる。カップの中には暖かい紅茶が注がれていた。ふわりといい匂いが立ち込める。お礼を言うと、せんせいは優しく微笑んだ。
紅茶を一口飲む。温かくて美味しい。ほっとする味がした。
隣を見ると、バロメッツも同じように紅茶を飲んでいて、僕と目が合うと彼女は嬉しそうに笑った。
「おいしいね」
「うん、そうだね」
しばらくそんな風にバロメッツと紅茶を楽しんでいたが、不意に真夜中に現れる教会とそこに居る少女のことを思い出した。
「せんせい。聞きたいことがあるんですけど」
せんせいに聞けば何かわかるだろうか。そう考えて僕は切り出した。いつの間にか机に戻っていたせんせいは、僕の声を聞くと視線を僕に向けて首を傾げた。
「なんだい?」
せんせいは僕の話を静かに聞いてくれた。
夜に目覚めてしまうこと。村のはずれに教会を見つけたこと。そこにいた少女の事。その教会は朝になると無くなっているけれど、また夜になると現れるということ。
話を聞き終えるとせんせいは顎に手を当てて少し考え込むような仕草を見せた。バロメッツは僕の顔を不思議そうに見つめる。
「わたし、教会があるなんて知らなかった」
「うん、僕も。でも確かにあったんだ」
せんせいはしばらく黙っていたけれど、僕たちの傍に歩み寄りソファに座るとゆっくりと口を開いた。
「ヴィオレッタ、バロメッツも聞いてくれ。君たちは魔力欠乏症という病気を患っている。それはわかっているね?」
「うん。だからわたしたちはこの療養所で暮らしているんだよね」
バロメッツがそう言うとせんせいは頷いて話を続けた。
「魔力欠乏症というのは魔法を使いすぎた時に起こる。魔法を使うにはもちろん魔力が必要だ。でも魔法を使いすぎると魔力を蓄積している場所がキャパオーバーを起こして、壊れてしまう。この病気はそういう仕組みで起こるものなんだ」
僕とバロメッツと一緒にこくりと相槌を打つ。せんせいの話は続いた。
「そしてこの病気には多くの合併症がある。頭痛や嘔吐、発熱や幻覚、妄想、記憶障害。これらの症状を併発することが多い」
バロメッツは不安そうな表情を浮かべた。せんせいは壊れ物を扱うようにバロメッツにそっと触れて、彼女の頭を優しく撫でた。バロメッツはそれを気持ちよさそうに受け入れている。
「ヴィオレッタのそれはおそらく幻覚や妄想の類だろう。それに夜中に目が覚めてしまうことも、症状の一つだね」
せんせいは立ち上がると棚の中から小さな瓶を取り出した。中には赤い錠剤が入っている。それを数粒取り出して、手ごろな瓶に入れると僕に手渡した。
「今日はそれを飲んでから寝てみなさい。それで改善されなければ、また相談して」
ようやくせんせいは口を閉じた。この話はこれで終わりなのだろう。それは僕の想像していたような答えではなく、正直に言うとがっかりした。でもせんせいがそういうのならきっとそうなのだろう。それが現実なのだろう。そう納得するしかなかった。
「わかりました」
僕は瓶を受け取りながらそう返事をした。
「バロメッツも、何か異変を感じたらすぐに相談するように」
「はい!」
肩を落とす僕の横でバロメッツはしっかりと大きな声で返事をした。せんせいは満足そうに微笑むと、自分の席に戻って仕事の続きを始めた。
残りの紅茶を飲み切ると僕たちは医務室を後にした。もうすぐ昼食の時間だな、と思いながら僕は雨の降る森を見つめる。教会はどこにも見えなかった。
――
書庫の掃除をしていた時、本棚の一部がごっそりとなくなっていることに気が付いた。誰かが持っていったのか、とその時はそれ以上気にせずそのままにしていた。けれど数日経っても、本は返されなかった。
書庫にある本を持ち出したままずっと返していない人がいる。
僕はそれが異様に気になって療養所のみんなに本の行方を聞いて回ったけれど、誰も見に覚えはないと答えた。
「あそこにあった本? えっと、確か……魔導書、だったかな?」
最後にコリンに同じことを尋ねると、彼はさらりとそう答えた。
「魔導書?」
「うん、そう。古い魔導書だったはずだよ。分厚いやつがたくさん。内容は詳しく知らないけど」
コリンは眉を下げて笑った。
魔導書というのは、魔法に関する知識や呪文などが載っている本のことだ。魔導書を読んだからと言って全員が魔法を使えるようになるわけではない。魔法が使えない今の僕らがそんなものを読んだところでなんの意味もないはずだ。――それなのに誰が、あんなに大量の魔導書を持ち出したのだろう。
考え込む僕の隣で、話に飽きたらしいコリンは呑気にあくびを漏らしていた。
――
魔導書を持ち出した犯人が誰かわからないまま数日が過ぎた。
その日は久々に夜中に目を覚ましてしまった。せんせいから貰った薬を飲んだからだろうか、目覚めはしたが頭の中に霧がかかったようにぼーっとした感じが続いている。この様子なら目を瞑ればもう一度眠ることができるかもと思ったがそう簡単にはいかず、時間が経っても意識を手放すことはできなかった。
眠ることを諦めて大きなあくびをしながらベッドを抜け出し窓を開けた時――視界の端に何かが入り込んだ。視線を向けると、月明かりに照らされた小さな人影があった。
「……え?」
こんな真夜中に外を出歩く人はいないだろう。幽霊かもしれないと驚いたが、人影はぱっと振り返ると、僕を見た。距離はあったけれど、確実に目が合ったのがわかった。黒い瞳が揺れ、手にはランタンが握られている――その姿は、いつも夢で見るあの少女の姿にそっくりだった。
僕は、反射的に走り出していた。
村と森との境界には見慣れぬ教会が建っていて、少女はそこに逃げ込んだ。息を切らして教会にたどり着き扉を開けようとしたけれど、硬く閉ざされていて開かない。感覚から鍵がかかっているわけではないことがわかる。立て付けが悪いのか、それとも内側から誰かが押さえつけているのか。この時の僕は何故だか、とにかく必死だった。夢に見るあの少女が誰なのか、どうして泣いているのかを知りたかった。
僕は扉を乱暴に叩き大声で叫んだ。
「ねえ! そこにいるの?」
問いかけに答えはなかった。僕は扉を押す力を弱め、扉に手を付けたまましばらくそこに佇んだ。教会の中からは声も、物音さえしない。冷たい風が吹いてきて頭が冷めていく。
諦めてその場を離れようとしたその時、中から微かに音が聞こえた。とっさに扉に耳を澄ませると、確かにくぐもった声が聞こえてくる。
「君は誰なの! なんで……なんでこんなところに居るの!?」
僕が声をかけると教会の中はまた静かになってしまう。しかし確実に、この扉の奥に彼女はいる。僕は力づくでも扉を開けようと立て付けの悪い扉に向けて力を込めたが、それは軋む音をたてながらいとも簡単に開いた。
そしてその扉の向こうに立っていたのは、真っ黒なローブに身を包んだ人物。俯いていたためその表情までは見えなかった。
「君は……」
僕がそう呟いたと同時に少女はゆっくりと頭を上げ、鋭い視線が僕を捉えた。
――やっぱり、あの子だ。
夢の中のあの子と同じ顔をしていた。長い髪も黒い瞳も同じだった。ただ一つ、雰囲気だけは全く違っていたけれど。夢の中の彼女はいつも泣いていて、弱くて儚げな感じだ。けれど今、僕の前に立つ少女は鋭い目つきで僕を睨みつけてきている。それだけで夢のあの子とはまるで別人のようだった。
「何しに、来たの」
その時、僕は初めてはっきりと彼女の声を聴いた。思っていたよりも少し低い声だった。
「あ、えっと……何しに、というと……」
いざとなると話したいことが沢山あって、うまく言葉が出てこない。何から話したものかと頭の中で必死に考えをまとめる。
「帰って」
僕がもたもたとしているうちに、彼女はしびれを切らしたのかぴしゃりとそう言い放った。
よく見ると少女は分厚い本を抱えている。なんの本だろうと少しだけ考えて、それが魔導書であるということに気が付いた。
「それ、魔導書……だよね」
よくよく見ると、教会の中にも大量に似たような本が散乱していた。おそらく書庫からごっそりとなくなっていた例の魔導書だ。まさか彼女が持ち出していたとは思わなかった。僕が魔導書について指摘すると、彼女はその魔導書を隠すように持ち直した。
「君、魔法が使えるの? 」
「帰って」
発せられた言葉は相変わらずそれだけで、それ以上会話を続ける気がないということが伝わってくる。
「僕、ヴィオレッタっていうんだ。君の名前も教えてくれないかな」
彼女は小さく首を横に振るが、僕はめげなかった。だって知りたかったのだ。どうして彼女が夜中にこんな所で魔導書を読んでいるのか。どうしてそんなに悲しそうな眼をしているのか。
「君のことが、知りたいんだ」
そんな僕の思いとは裏腹に、少女は冷たく突き放すような視線を向けてくるだけだった。口を閉ざしたまま、頑なに言葉を発しようとはしなかった。僕はいよいよ諦めて、彼女に背を向けた。
「また明日、来てもいい?」
返事はなかった。
「きっと、来るから」
それだけを告げて、教会を後にする。
少し歩いたところで後ろを振り返ると少女はまだ教会の扉のところで立ち尽くしていた。僕はできるだけ笑顔を作って軽く手を振った。
――
その日から。僕は夜中に目を覚ますとこっそりと部屋を抜け出し、誰にも見つからないように教会へと向かった。
教会の扉を開けてくれないときは窓から中へ入った。窓も閉ざされていたときは教会の外から彼女に話しかけた。
彼女はいつまで経っても僕に心を開いてはくれなかった。
彼女のことも、教会のことも、誰にも教えなかった。せんせいにさえ言わなかった。
自分だけの秘密にしておきたかったのだ。
――
昼間にバロメッツに強請られて裏庭で作ったクローバーの花冠を持って、その夜も教会へと足を運んだ。
「こんばんは」
扉が開いていたから素直に扉から入り、僕はいつものように彼女に挨拶をする。今日も彼女は返事をしないし、顔を上げてはくれないだろう。そんなこといつものことで、慣れてきた僕にはいっそこの態度が可愛らしくさえ思えてきていた。
「これ、あげる」
僕は持ってきた花冠を読書に集中している彼女の勝手に頭に乗っけた。
彼女は少しだけ動きを止めた後、これまでになく驚いた様子で最初に会った時以来に僕を見た。花冠は想像通り彼女にとても似合っていたし、それを身に着けている彼女の姿はとても可愛らしかった。彼女はとても傷ついたような顔をして、それからすぐに視線を落とした。
「これ、は」
そしてそう言うと頭の花冠を震えた手で乱雑に掴んだ。
「今日、作ったんだ。君に似合うと思ったから、持ってきた」
少女は頭に乗った花冠を掴んだまま固まってしまった。浮かれていた僕はそこでようやく彼女の様子に気が付き、どうしたのかと不思議に思って首を傾げる。
少女は何も言わずに花冠をそっと撫でた。そして小さく息を吐いた。
「……そう」
いつも通りの無表情だったけれど、少しだけ嬉しそうな声色をしていた。僕は驚いた。初めて見た彼女の一面に胸が高鳴った。
「そうだ! 裏庭、花が沢山咲いていてとっても綺麗なんだよ。今から行ってみようよ!」
彼女にそう告げると、僕は返事も聞かずに強引に彼女の腕を引いて教会の外へ連れ出した。
僕たちは手をつないだまま静まり返った療養所を抜けて、目的地へと向かった。
月明かりに照らされた花畑は綺麗で、土と花の香りが風に乗ってあたりに漂っていた。花畑の中心まで来たところで、僕は彼女の手を離した。
「ね、綺麗でしょ? 友達がここがお気に入りで、よく連れてこられるんだ」
顔を覗き込むと、何故だか少女は泣きそうな顔をしていた。僕は彼女に笑って欲しくて、努めて明るく話しかける。
なんだか手持ち無沙汰に感じて、僕はその場にしゃがみ込んで目の前の花を一輪摘む。白い小さな花は風に揺れる度に優しく甘い匂いを振りまいた。
「ねえ、ほら。この花可愛い」
僕は積んだ花を彼女にあげようと振り返った。
彼女は僕を見つめて目を見開き、苦しそうに呼吸を繰り返していた。 荒い息遣いが聞こえる。頭を抱え、徐々に体勢が崩れていって、遂にはうずくまった。
「え、大丈夫? どこか痛……」
僕はそう問いかけながら彼女に近づき肩に手を置いた瞬間――彼女と僕を中心にして地面から炎が吹き出した。火柱が立ち上ぼり、熱風が巻き起こり、花畑が燃えていく。
咄嵯の出来事に動けず、僕はただ呆然と立ち尽くした。そして理解する。肌に感じるこの感覚。これは――魔法だ。彼女の魔法。やっぱり使えたんだ。
「あ、あああ、あああああああああああああああッ!」
呑気にそんなことを考えている間にも、彼女の様子は尋常じゃない程になっていく。
なんとかしなければと、僕は彼女の肩に置いたままだった手に力を込める。
「ねぇ、ねえ! 大丈夫? どうしたの? しっかりして!」
僕がそう話しかけ続けると、彼女はゆっくりと顔を上げて僕の顔を見つめた。目が合った瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
彼女の目はあまりにも虚ろで、そこに光は一切なかった。瞳の奥にはただただ、深い闇が広がっている。
「……、……さい」
そして彼女は口を開いた。あまりにも小さいその声は周りの炎の嵐のせいで僕の耳には届かなかったけれど、何か言っていることは確かだった。僕は彼女の言葉を聞き取ろうと耳を澄ませた。
「――離れ、ないで」
それはあまりにか細い声で聞き取りづらかったけれど、確かに彼女はそう言った。そして彼女の様子に僕は目を丸くした。彼女は泣いていたのだ。ぽたり、と涙が頬を伝って落ちる。
「淋しいよ……会いたいよ……」
誰かに向けられているであろうその言葉に、背筋が凍るような感覚がした。苦しげに吐き出された彼女の声は震えている。
「僕を、ひとりに……」
そう言いかけて、言葉が止まる。そしてまたぶつぶつと呟きながら頭を抱え、髪をぐちゃぐちゃに掻き乱し始めた。
「ぁ……、ち、違う! ちがうちがう!」
彼女は身体を小刻みに震わせて、何かから必死に逃げようとしていた。
「それは、ちが……僕じゃ、僕じゃない! ……僕、は……っ」
彼女の混乱に反応するかのように、周りの炎はより強く燃え盛る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
このままでは本当にまずいと本能がそう訴えかけてくる。僕はより強く彼女の腕を掴んだ。
――瞬間。
びくりと大きく震えて動きを止めたかと思うと糸が切れたように彼女の身体から力が抜け、それと同時に周りの炎も消えた。僕は地面に倒れこむ寸前で彼女を抱き留める。彼女は意識を失っていた。
「お転婆」
そして突然、僕の背後からよく知った声が聞こえた。驚いて振り向くとそこに居たのはせんせいだった。せんせいは僕の腕の中で気を失っている少女を見て、ため息をついた。
「せっかく綺麗に咲いていたのに。ひどいことをするよね」
そう言いながらも、せんせいの声色は怒りを含んではいなかった。むしろ楽しそうに笑っていた。
周りを見渡す。当然先程まであった花畑は影も形もなくなっていて、代わりに辺り一面に黒い灰が広がっていた。風が吹くとまるで雪のように舞い散るそれを眺めながら、僕は呆然としていた。
せんせいは花畑だった場所を歩いて僕たちに近づくと、僕に目を向けることもなく僕から少女を奪いとり軽々と持ち上げた。
「え、あのっ」
僕は咄嵯に手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。
「なに?」
せんせいはいつものように僕の顔を見て笑った。いつもと同じ声色、いつもと同じ笑顔のはずのせんせいがなぜだか今はひどく不気味に思えた。僕が思わず顔を歪めると、それすらも可笑しいと言いたげにさらに笑って見せた。
「なにも心配しなくていい、これは夢だよ。大丈夫。花畑もこの子のことも、すぐに忘れてしまうから」
せんせいは僕を安心させようとしているのか、柔らかい口調でそう告げた。せんせいのその言葉が嘘だということを僕は知っていた。だって彼女の熱をあんなに痛いほどに感じていたのだから——あれが、夢なわけがない。僕は少女の腕を掴む力をさらに強める。それを見たせんせいは困ったように眉を下げた。
「ヴィオレッタ、手を離して。帰って、もう寝なさい」
僕は首を横に振って拒否した。ここで手を離したらもう二度と彼女に会えない気がした。せんせいは首を傾げ、小さく溜息をつく。
「わかった。少しだけ話をしようか」
そう言ってせんせいは僕の手を握り比較的灰のない場所まで誘導し、そこに座るように促した。
僕の頬にせんせいの手が当てられ、ひんやりとしたせんせいの手に僕の体温が奪われていく感覚がする。少女はせんせいの膝の上で穏やかに寝息を立てていた。
「ヴィオレッタは今、幸せ?」
唐突に投げかけられた質問の趣旨がいまいち理解できず、僕は首を捻る。せんせいはそんな僕の反応を楽しむように目を細め、眠っている少女の頭を撫でながら口を開いた。
「そのままの意味で受け取ってくれて構わないよ。毎日ご飯を食べられて、暖かい布団で眠れて、友達と一緒に遊べて、好きなことができる。そんな今の生活をヴィオレッタはどう思う?」
改めて問われて、僕は考える。
この療養所での日々が好きだ。別にそれまでの暮らしに不満なんかは無かったけれど。みんなと過ごす時間は楽しくて、ずっとこのまま続いてほしいとさえ思った。
「はい。……幸せ、です」
そう考えると、質問の答えはこれしか思いつかなかった。僕がそう答えるとせんせいは満足気に微笑んだ。
「良かった」
せんせいはそう言いながら僕の頭を撫でた。その戯れに喜びを感じてしまう。先程までのせんせいへの感情との起伏に戸惑いながらも、心地よいと思ってしまう自分がいた。せんせいの手は僕の頭から少し下へと移動して、僕の首筋を這う。くすぐるような感覚に身体が小さく跳ねる。そして指先で顎を持ち上げられ上を向くと、先生の瞳の中には僕の姿が映っていた。抵抗する気は起きなかった。それどころかだんだん意識が曖昧になってきて頭がぼんやりとしてくる。せんせいの顔が少しずつ迫り、唇と唇の距離があと数センチでゼロになるくらいまで近づいて、せんせいの動きが止まった。
「それなら、今はもう眠りなさい」
――僕の額にせんせいの手が当てられた。途端に強い睡魔に襲われ、必死に抗おうとしてもどんどん眠くなる。
「――――」
せんせいが何か言っているけれど、聞き取れなかった。瞼が閉じていくのを、意識が遠のくことを止めることができない。
最後に瞳に映ったのはせんせいの楽しげな表情と、せんせいの後ろに咲き誇っている真っ赤な薔薇の花だった。