翼を持たない者へ捧ぐ
-Ⅲ-
夜中に目が覚めた。またかと思いながらため息を吐いて起き上がる。
いつからそうなったのかは忘れたし、理由もわからない。こうなるともう一度寝ようとしてもうまく寝付けず、再び眠くなるまで窓から外を眺めたりベッドに寝転がったりして待つことしかできない。
最近はこの時間さえ楽しもうと思いなおし、天気がいいときは外に出て梯子をかけて屋根の上に登り腰掛けたりしてみている。周りに何もなく夜中は極めて暗い療養所では空を見上げると無数の星がチカチカと輝いていて、とても綺麗なのだった。
――
その日は月もなかったからか、特に星が良く見えた。何も考えずに空を見上げて眠くなるまで待っていたけれど、徐々に夜の終わりを知らせるように空の端の方からうっすらと明るくなってきた。そんな空を見上げてから、視線を下に落としていく。淵の方から色づいていく立派な山々と、その手前に広がる療養所を囲む暗い森。
――その暗闇の森に一つだけ、小さくオレンジの光が見えた。
「……?」
療養所の周りには僕たち以外には誰も住んでいない、はずだった。そう聞かされていた。ならば療養所に居る誰かがこんな時間に出歩いているのだろうか。
その光がどうしても気になり、僕は慎重に屋根から降りると森の中へと足を進めた。
なぜだか、今の今までまったく気が付かなかったのだ。
療養所から少し森に入った場所には小さな教会がぽつんと建っていて、光はそこから漏れていた。
教会の重たい扉に手を当てて力を込めると難なく開いた。少しだけ開けて中を覗くと、そこにはたくさんの長椅子が乱雑に置かれていて、正面には何かの彫像が掲げられていた。埃っぽい匂いがどこか落ち着く。
僕が小屋から見たであろう灯りはその大量の椅子の中の一つに置かれていた。蝋燭の火が揺れ、教会全体にぼんやりとした影を作り出している。そしてその灯りに照らされる一つの人影があった。フードを被っていて顔はよく見えないけれど少女のようだった。その少女はぼそぼそと何かを呟いている。他に誰かいるのかもしれないと思ったがどれだけ耳を澄ませても彼女以外の声は聞こえないし、姿も見えない。もう一度教会の中を見渡したけれどやはり他に誰かが居る訳でもない。正真正銘、少女が一人で喋っているだけだった。その声はとても小さく、何を言っているのかまでは僕の位置からでは聞き取れない。
気味が悪い、という気持ちは一瞬にして消えた。彼女がなにを口にしているのかという好奇心の方が大きくなったのだ。僕は夢中になって、彼女を扉の隙間から見つめた。
――どれくらい時間が経ったのだろうか。
しばらくすると、彼女はふぅーっと息を吹きかけ蝋燭の火を消した。目が暗闇に慣れていたからか彼女の輪郭だけは微かに確認できたが、いまにも闇の中に溶け込んで消えてしまいそうだった。
僕はそこでようやくハッとした。そして彼女にばれないように音を立てずにゆっくりと後ずさり、急いでそこから逃げ出した。小屋へ戻るために走っている途中に空を見上げると空はすこしずつ白んできていて、夜の終わりを感じさせた。
――
「寝ぼけて何かと見間違えたんじゃないか?」
昨晩、と言ってももう明け方だったけれど。
自分の小屋へと戻った途端に眠気が襲ってきたから少しだけ眠り、いつも通りの時間に起きて(正確にはクリムに起こされて)朝食を食べた。その日はせんせいが留守だったからみんなでわいわいと会話をしながらの和やかな食事だった。
食事を終えて、本日の当番である洗濯に取り掛かる。冷たく感じるようになってきた水に手を浸しながら昨夜起こった出来事を同じ当番だったクリムに話した。クリムはくだらない、という感情を隠すことなく表情や声色に出しながらも僕の話を聞いてくれた。
「確かに見たんだよ! 僕の目は完全に覚めていたし、教会があったし、あれは絶対に人間だった!」
僕がそう言うとクリムは洋服を洗う手を止めて何度目かのため息を吐き、立ち上がると村の外を見つめた。
「君はとことん信じ込む性格みたいだから言っておくけどね……ヴィイ」
そしてもう一度、今度は先程より大きくため息を吐いてから濡れた手で僕の額にじりじりと指を押しつけながら顔を近づけてきた。
「教会なんてここにはない。仮にあったとして、じゃあなんで今は見えないんだよ」
「そ……れは」
「それにね、そこに居たって人が療養所に住んでる人間じゃあなかったんな居る訳がないんだよ。この辺は滅多に外の人なんて来ないんだ。諸々、住むには条件が悪いからね。居たとして、それは幽霊や妖精の類のものなんじゃない? それも居るわけがないんだから、結局君がおかしいって結論に至るわけだけど」
「ゆ、ゆうれい……」
確かに、言われてみればそうだった。食堂へと向かう前に昨晩の教会へと向かってみたがそんなものはどこにもなかったし、夜の森なんて不気味な場所、わざわざ行きたいとは思わない。それにあの少女は僕と同じくらいの歳だろうに、一人きりだった。
昨晩の出来事には、ぬぐい切れないほどの違和感があった。
「で、でも! 確かに、見たのに……灯りだって持っていたし、何かと喋っていたんだ」
それでも実際に体験した僕には、その違和感をなかったことにできる程の確信もあった。
「だから。それも全部ヴィイの見間違い、聞き間違いだよ」
「でも……」
まだ食い下がってくる僕に、クリムはこれまでで一番大きなため息をついた。そして突然立ち上がり近くにあったバケツを手に取ると湖の水を汲んで僕の元に戻ってきた。クリムは目を閉じて息を一つ吐くと、バケツに張られた水に手をかざした。
「ヴィイ、手」
ぽかんと口を開けつつ、僕は言われるがままに自分の手を差し出した。
クリムは僕の手をバケツの中の水に少しだけ触れさせる。水面は僕の指によって波紋を描き、揺れた。それをしばらく眺め、クリムは頷いた。
「悪い形は出ていない。でも君が心配するほど事態は悪化するよ。もう忘れた方がいい」
素っ気なくそう言い切ると、クリムはバケツの水を捨てた。
クリムは水を使った占いが得意だった。
彼曰く(僕には違いが判らないけれど)その日、その時によって水が創り出す波紋は人それぞれなのだという。そして彼の占いは結構当たるらしいのだ。そういうモノが好きなビーバームなんかには、クリムのこの特技は人気だった。
「何回も言うけど、療養所の周りで教会なんて一度も見たことがない。絶対に君の見間違いか、もしくは夢だよ。それよりも眠れていないことの方が重大だろ。せんせいが帰ってきたらきちんと相談しなよね。……ほら、もういいから手を動かしてくれ。さっさと終わらせよう」
クリムはバケツを元の場所に戻してからそう言い立てると、洗濯物の元に戻っていった。
「……うん」
僕は未だ釈然としない気持ちのままだったがこれ以上しつこいといよいよ怒らせてしまうもしれないと思い、黙って言われた通り洗濯の続きを始めた。
――
その日の夜。毎度の事目が覚めてしまい、仕方が無いので起き上がる。
昨夜の出来事が気になって仕方がなかった僕は小屋を抜け出し教会のあった方角へ向かった。
月は在るのか無いのか分からないくらいの細さで、星が輝いている夜空の下。森の中には教会がぽつんと建っていて、今日も明りは灯っていた。
扉の前に立って自分の頬をつねった。痛みを感じる。ということは、夢ではない。
「やっぱり、あるじゃないか」
扉に手をかけてそっと開く。中では相変わらず蝋燭の灯りが揺れていたけれど、昨日と違ってそこに少女の姿は無かった。ほっとすると同時に残念だとも感じた。矛盾する二つの思いを抱えながら教会に忍び込み、扉の近くにあった椅子に座る。ひんやりとした空気が辺りを漂っていた。
蝋燭の灯りをぼんやりと眺めているうちに眠くなってきてしまい、僕はゆっくりと息を吐きながら意識を手放した。
「ヴィイ! 朝食の時間だ、いい加減に起きろ!」
――次に目を覚ました時には僕は自分の部屋にいて、いつものようにクリムが僕を叩き起こしに来ていた。
夜中に目が覚めた。またかと思いながらため息を吐いて起き上がる。
いつからそうなったのかは忘れたし、理由もわからない。こうなるともう一度寝ようとしてもうまく寝付けず、再び眠くなるまで窓から外を眺めたりベッドに寝転がったりして待つことしかできない。
最近はこの時間さえ楽しもうと思いなおし、天気がいいときは外に出て梯子をかけて屋根の上に登り腰掛けたりしてみている。周りに何もなく夜中は極めて暗い療養所では空を見上げると無数の星がチカチカと輝いていて、とても綺麗なのだった。
――
その日は月もなかったからか、特に星が良く見えた。何も考えずに空を見上げて眠くなるまで待っていたけれど、徐々に夜の終わりを知らせるように空の端の方からうっすらと明るくなってきた。そんな空を見上げてから、視線を下に落としていく。淵の方から色づいていく立派な山々と、その手前に広がる療養所を囲む暗い森。
――その暗闇の森に一つだけ、小さくオレンジの光が見えた。
「……?」
療養所の周りには僕たち以外には誰も住んでいない、はずだった。そう聞かされていた。ならば療養所に居る誰かがこんな時間に出歩いているのだろうか。
その光がどうしても気になり、僕は慎重に屋根から降りると森の中へと足を進めた。
なぜだか、今の今までまったく気が付かなかったのだ。
療養所から少し森に入った場所には小さな教会がぽつんと建っていて、光はそこから漏れていた。
教会の重たい扉に手を当てて力を込めると難なく開いた。少しだけ開けて中を覗くと、そこにはたくさんの長椅子が乱雑に置かれていて、正面には何かの彫像が掲げられていた。埃っぽい匂いがどこか落ち着く。
僕が小屋から見たであろう灯りはその大量の椅子の中の一つに置かれていた。蝋燭の火が揺れ、教会全体にぼんやりとした影を作り出している。そしてその灯りに照らされる一つの人影があった。フードを被っていて顔はよく見えないけれど少女のようだった。その少女はぼそぼそと何かを呟いている。他に誰かいるのかもしれないと思ったがどれだけ耳を澄ませても彼女以外の声は聞こえないし、姿も見えない。もう一度教会の中を見渡したけれどやはり他に誰かが居る訳でもない。正真正銘、少女が一人で喋っているだけだった。その声はとても小さく、何を言っているのかまでは僕の位置からでは聞き取れない。
気味が悪い、という気持ちは一瞬にして消えた。彼女がなにを口にしているのかという好奇心の方が大きくなったのだ。僕は夢中になって、彼女を扉の隙間から見つめた。
――どれくらい時間が経ったのだろうか。
しばらくすると、彼女はふぅーっと息を吹きかけ蝋燭の火を消した。目が暗闇に慣れていたからか彼女の輪郭だけは微かに確認できたが、いまにも闇の中に溶け込んで消えてしまいそうだった。
僕はそこでようやくハッとした。そして彼女にばれないように音を立てずにゆっくりと後ずさり、急いでそこから逃げ出した。小屋へ戻るために走っている途中に空を見上げると空はすこしずつ白んできていて、夜の終わりを感じさせた。
――
「寝ぼけて何かと見間違えたんじゃないか?」
昨晩、と言ってももう明け方だったけれど。
自分の小屋へと戻った途端に眠気が襲ってきたから少しだけ眠り、いつも通りの時間に起きて(正確にはクリムに起こされて)朝食を食べた。その日はせんせいが留守だったからみんなでわいわいと会話をしながらの和やかな食事だった。
食事を終えて、本日の当番である洗濯に取り掛かる。冷たく感じるようになってきた水に手を浸しながら昨夜起こった出来事を同じ当番だったクリムに話した。クリムはくだらない、という感情を隠すことなく表情や声色に出しながらも僕の話を聞いてくれた。
「確かに見たんだよ! 僕の目は完全に覚めていたし、教会があったし、あれは絶対に人間だった!」
僕がそう言うとクリムは洋服を洗う手を止めて何度目かのため息を吐き、立ち上がると村の外を見つめた。
「君はとことん信じ込む性格みたいだから言っておくけどね……ヴィイ」
そしてもう一度、今度は先程より大きくため息を吐いてから濡れた手で僕の額にじりじりと指を押しつけながら顔を近づけてきた。
「教会なんてここにはない。仮にあったとして、じゃあなんで今は見えないんだよ」
「そ……れは」
「それにね、そこに居たって人が療養所に住んでる人間じゃあなかったんな居る訳がないんだよ。この辺は滅多に外の人なんて来ないんだ。諸々、住むには条件が悪いからね。居たとして、それは幽霊や妖精の類のものなんじゃない? それも居るわけがないんだから、結局君がおかしいって結論に至るわけだけど」
「ゆ、ゆうれい……」
確かに、言われてみればそうだった。食堂へと向かう前に昨晩の教会へと向かってみたがそんなものはどこにもなかったし、夜の森なんて不気味な場所、わざわざ行きたいとは思わない。それにあの少女は僕と同じくらいの歳だろうに、一人きりだった。
昨晩の出来事には、ぬぐい切れないほどの違和感があった。
「で、でも! 確かに、見たのに……灯りだって持っていたし、何かと喋っていたんだ」
それでも実際に体験した僕には、その違和感をなかったことにできる程の確信もあった。
「だから。それも全部ヴィイの見間違い、聞き間違いだよ」
「でも……」
まだ食い下がってくる僕に、クリムはこれまでで一番大きなため息をついた。そして突然立ち上がり近くにあったバケツを手に取ると湖の水を汲んで僕の元に戻ってきた。クリムは目を閉じて息を一つ吐くと、バケツに張られた水に手をかざした。
「ヴィイ、手」
ぽかんと口を開けつつ、僕は言われるがままに自分の手を差し出した。
クリムは僕の手をバケツの中の水に少しだけ触れさせる。水面は僕の指によって波紋を描き、揺れた。それをしばらく眺め、クリムは頷いた。
「悪い形は出ていない。でも君が心配するほど事態は悪化するよ。もう忘れた方がいい」
素っ気なくそう言い切ると、クリムはバケツの水を捨てた。
クリムは水を使った占いが得意だった。
彼曰く(僕には違いが判らないけれど)その日、その時によって水が創り出す波紋は人それぞれなのだという。そして彼の占いは結構当たるらしいのだ。そういうモノが好きなビーバームなんかには、クリムのこの特技は人気だった。
「何回も言うけど、療養所の周りで教会なんて一度も見たことがない。絶対に君の見間違いか、もしくは夢だよ。それよりも眠れていないことの方が重大だろ。せんせいが帰ってきたらきちんと相談しなよね。……ほら、もういいから手を動かしてくれ。さっさと終わらせよう」
クリムはバケツを元の場所に戻してからそう言い立てると、洗濯物の元に戻っていった。
「……うん」
僕は未だ釈然としない気持ちのままだったがこれ以上しつこいといよいよ怒らせてしまうもしれないと思い、黙って言われた通り洗濯の続きを始めた。
――
その日の夜。毎度の事目が覚めてしまい、仕方が無いので起き上がる。
昨夜の出来事が気になって仕方がなかった僕は小屋を抜け出し教会のあった方角へ向かった。
月は在るのか無いのか分からないくらいの細さで、星が輝いている夜空の下。森の中には教会がぽつんと建っていて、今日も明りは灯っていた。
扉の前に立って自分の頬をつねった。痛みを感じる。ということは、夢ではない。
「やっぱり、あるじゃないか」
扉に手をかけてそっと開く。中では相変わらず蝋燭の灯りが揺れていたけれど、昨日と違ってそこに少女の姿は無かった。ほっとすると同時に残念だとも感じた。矛盾する二つの思いを抱えながら教会に忍び込み、扉の近くにあった椅子に座る。ひんやりとした空気が辺りを漂っていた。
蝋燭の灯りをぼんやりと眺めているうちに眠くなってきてしまい、僕はゆっくりと息を吐きながら意識を手放した。
「ヴィイ! 朝食の時間だ、いい加減に起きろ!」
――次に目を覚ました時には僕は自分の部屋にいて、いつものようにクリムが僕を叩き起こしに来ていた。