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翼を持たない者へ捧ぐ

-Ⅱ-


 「失礼します」
 いつものように扉を数回ノックをしてから医務室に入る。薄暗い部屋の奥では優しく光が灯っており、その光に照らされて笑顔を浮かべたせんせいは立派な風貌の椅子に腰掛けながら静かに僕を見つめていた。

 患者である僕たちは定期的に『健康診断』を受けにせんせいの医務室を訪れることになっている。
 その内容は世間話をしながらお茶やお菓子を振る舞われるというもので、診察と呼べるものなのかはよくわからない。案の定、今日もテーブルには紅茶とクッキーが用意されていた。

 せんせいは僕に椅子に座るように促すと、手元にあったノートを捲りながら口を開いた。
「気分は?」
「良いです」
 せんせいは満足げに頷くと僕に紅茶とクッキーを勧めた。お礼を言って僕はクッキーに手を伸ばす。
「ここでの生活には慣れたかい?」
 せんせいは視線をノートに落とし何かを記しながらそう問いかけて来た。
「はい。みんな優しいし、楽しいです。……あ、クリムがほとんど毎朝起こしてくれるんですけど、少し乱暴なのがちょっと嫌です」
 僕の愚痴を聞いたせんせいは眉を下げて笑った。
「治るかはわからないけれど、クリムに伝えておくよ」
「あ、いや……後が怖いので、やっぱりいいです」
 せんせいにチクったとかなんとか言って逆切れされそうだからと伝えると、せんせいは笑いながら呑み込んでくれた
「ヴィオレッタは療養所ここに馴染んでくれたみたいで安心したよ。……問題は、ピンクッションだ」
 せんせいのその言葉に、僕はピンクッションの普段の様子を思い出していた。

 ピンクッションはいつも一人だった。
 話しかけても返事は無く、ただこちらを睨みつけてくるだけ。彼女のあの態度は僕に向けてだけではなく、せんせいや療養所に居る全員に対して平等に変わらない。近寄るな、関わるなという雰囲気でこれでもかと言うほどの拒絶を示してくるのだ。

「どうしても、人を疑う癖が抜けないみたいだけど……」
 せんせいは顎に手を当てて困ったように眉毛を下げた。
 
 僕とピンクッションは同じタイミングでこの療養所にやってきた。
 僕が初めてピンクッションに会った時、彼女は今よりもだいぶやつれていてボロボロだった。一目見ただけで彼女が普通に暮らしていたわけではないということがわかってしまう程に、ひどい有様だったのだ。
 挨拶は礼儀だと思い「はじめまして」と話しかけた僕にピンクッションが返した言葉は数秒間をおいてからの「話しかけてこないで」だった。

 それ以降、ピンクッションに対する苦手意識が拭えないでいた。しかしどうやら、扱いづらいと思っていたのは僕だけではなかったようだ。
「彼女、何があったんですか?」
 ずっと疑問に思ったことを問いかけてみると、せんせいは申し訳なさそうな顔をした。
「私も詳しくは知らないんだ。ひどい目に遭っていたのは、確かだろうけどね」
 せんせいは何か迷っている様子で机を指で数回叩き、そして意を決したのか僕へと視線を向けた。
「ねぇヴィオレッタ。よかったら彼女のこと、少し気にかけてあげてくれないかな」
 せんせいの言葉を聞いて、クッキーを頬張っていた僕は咀嚼を止めて数回瞬きをする。せんせいは頬杖をつきながら僕を見ていた。
「僕が、ですか?」
「もちろん無理にとは言わないし、強制もしない。君が彼女と関わりたくないなら今の言葉は聞かなかったことにしてくれて構わない」
「か、関わりたくないとかじゃないです、けど……」
 ピンクッションは僕たちに対して明確な『拒絶』という壁を作っている。そんな人への上手な接し方を僕は知らなかった。それに、彼女にとってそれが望ましい形ならそっとしておいてあげる方がいいのではないかとも思った。
「……できる限り、やってみます」
 ――それでも、せんせいに頼まれたとなると簡単には断れなかった。療養所にいる以上、みんなが仲良く楽しく過ごせるに越したことはない。そのための行為だ。そう考えるようにして、僕はせんせいの頼みを承諾した。
「ああ、よかった。ありがとう。ヴィオレッタ」
 僕の返事にせんせいは安心した顔をして優しく微笑んでくれた。その笑顔が嬉しくて、僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。


――


 都合が良いのか悪いのか。その日は僕とピンクッションの二人が洗濯当番の日だった。
 湖の畔に向かうとピンクッションは既にそこに居た。彼女は大きな洗濯籠を抱えていて、中にはたくさんのシーツが入っているようだ。僕が来たことに気付くや否や、彼女はいつものように僕を睨みつけてきた。
「おはよう、ピンクッション」
「…………」
 とりあえずあいさつをしてみたけれど、予想通りなにも返っては来ない。不機嫌そうな顔でただじっと睨みつけてくるだけだ。まあこれくらいは日常茶飯事。これくらいで心が折れたりはしない。やり場のない笑顔を顔に張り付けたまま、桶の中に湖の水を溜める。そして洗濯物を水に浸しながらせんせいに言われたことを思い出していた。
 確かに、ずっとこのままだと色々と不便だろう。せめて少しくらい会話を成り立たせたいものだ。そう思いひっそりと気合いを入れなおすと、僕はまた口を開いた。
「えっと……いい天気だね」
「…………」
「昨日はほら、雨だったから。こうやって外に洗濯物を干せるとやっぱり気持ちいいよね」
「…………」
「あー……そうだ! この前、ビリィがクッキーを作ってくれたんだけど。あれすごく美味しかったんだ。ピンクッションは食べた?」
「…………」
「あれ、また食べたいなぁ……って……」
 駄目だった。全く相手にされなかった。話しかければ話しかけるほど空気が悪く、重たくなっていく。ピンクッションは僕の問いかけが聞こえていないか如く無視し、ひたすらに洗濯物を洗っている。
 僕はずっと釣り上げたままだった頬を、ようやくゆっくりと下げた。
 ――なんだか、バカみたいだ。
 気付かれない程の小さな溜息をついてから、再び洗濯物に手をつけた。


――


 誰も居ない談話室の机に突っ伏した。
 結局あの後も何も進展はなく、洗濯物はあっという間に全て片付いてしまった。ピンクッションは仕事を終えると一目散にどこかへと去ってしまい、僕は湖に一人取り残されたのだった。
 はあ、とため息をついたタイミングで談話室の扉が開く。その音を聞いて扉へ視線を向けると、部屋に入ってきたのはコリンだった。コリンは僕が居ることに気が付くと、近づいてきて心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「ヴィイ大丈夫? すっごく疲れた顔してるけど」
 顔を上げる元気はなかったが、心配をかけたくなくてそのままの体勢でコリンに向かって笑ってみせた。コリンはそんな僕を見てさらに首を傾げる。だめだ、コリンにさえ何も伝わらない。とうとう取り繕う元気もなくなり、目を伏せた。
「コリンはさぁ、ピンクッションと話したことある?」
 突然の質問にコリンは困惑した顔で僕を見た。
「え? うん。そりゃあるけど」
「どんな話、するの」
「どんなって言われてもなあ。挨拶とか、世間話とか? まあ、返事はしてくれないけど。……あれ、もしかしてあれって会話とは言えないのかな?」
 コリンはピンクッションとの会話を思い出したのか、そう言いながらケラケラと笑った。相変わらず呑気なものだ。僕が黙り込んでいると、コリンは笑うのをやめて再び僕を見つめた。
「どうしたの? ピニィと喧嘩でもした?」
「喧嘩にもならないよ」
 空気だけ吐くように力なく笑った。そんな僕を見てコリンはより一層不思議そうな表情を作った。
「ピンクッションって、ほら……あんな感じ、じゃないか。だからどうにかならないかって……せんせいに言われて」
「……ああ」
 コリンは僕が困っていた理由を理解し納得したようで、苦笑いを浮かべた。そして「うぅん」と少し悩む素振りを見せてから口を開く。
「無理して仲良くしようとしなくてもいいんじゃない?」
 良いことを思いついた! と言わんばかりのテンションでそう告げられ、僕は音を立てて机に額をぶつけた。
「いくらせんせいに言われたからって。彼女自身、人と関わりたくなさそうだし。あんまり無理強いすると返って嫌われちゃうかもしれないよ」
「せんせいにも無理はするなって言われたよ。……けどさあ」
 歯切れ悪くそう言うと、コリンはなにか閃いたようで意地悪そうな顔をして笑った。
「な、なんだよ……」
 コリンはすすす、と静かに僕の横に移動してきたかと思うと僕の肩を抱いてから耳打ちをした。
「ヴィイはピニィに好かれたいんだ」
 コリンの言葉を聞いて僕は口を開けたまま固まってしまった。
「でもしつこくしてピニィに嫌われたくないんでしょ」
 こいつは何を言ってるんだ。根本的なところで見当違いな誤解をされている気がする。呆れて何も言えずにいたが無言だと肯定ととられかねないと思い、僕は急いで言葉を紡いだ。
「そ、それはそうでしょ。嫌われて良い気にはならない。相手が誰であっても」
 コリンは僕の言葉を聞くとまた笑った。
 なんだか馬鹿にされているようで不愉快に感じ、コリンから視線を逸らす。コリンは「ごめんね」と言いながらもまだクスクスと笑っていた。僕はコリンのその態度にさらにイラついてじとりとした目でコリンを見つめた。
「あ、居たわ!」
 ちょうどその時。
 談話室の扉の隙間からひょこ、と顔を出てきたのはビーバームだった。彼女は楽しそうにスキップをしながら僕たちの傍に寄って来る。
「ねえねえねえ、これからお茶会をするのよ! 二人も一緒にどうかしら?」
 ビーバームの陽気な雰囲気に、先程までの機嫌の悪さは少しだけ薄らいだ。薄らいだ、けれど……。
「また? 君、昨日も一昨日もその前もずっと『お茶会』してたじゃないか」
 どうやらお茶会がビーバームの今のマイブームらしい。連日続くお茶会の誘いに僕は再びげんなりとしてしまう。
「当り前よ、お茶は毎日飲みたくなるもの!」
 そんな僕のことなどお構いなしにビーバームはふふんと得意げな顔をしてみせる。
「僕はお邪魔させてもらおうかな」
 渋る僕の横でコリンはあっさりとビーバームの誘いに乗った。彼は基本的に人がいいから誘いを断ることは滅多に無い。それを知っているからこそ、ビーバームは彼に声を掛けたのだろう。
「ヴィーも来るでしょう?」
 そしてビーバームは満面の笑みを浮かべて僕の返事を待った。
 正直に言って今はあまりそういう気分ではなかった。ピンクッションのこともあったし、お茶会だって昨日も一昨日も付き合っていた。ビーバームと違って毎日優雅にお茶を飲みたいとも思わない。
 どうしようかな、と迷っているうちにコリンと目が合う。コリンは何か思いついたようで、ニタと目を細めるとビーバームに話しかけた。
「ビリィ、まだ人数が増えても大丈夫?」
 ビーバームは賑やかなことが好きだ。他にも楽しいこと、美味しいもの、嬉しいこと。そういったことを過剰に愛する少女だった。
「ええ、もちろん!」
 そんな少女にそんな質問をしたら、当然こう返ってくる。
「じゃあすぐに行くから、先に行って待っていて」
「わかったわ!」
 僕が口を挟む間もなく二人は会話を繰り広げ、ビーバームは上機嫌で談話室を去って行った。扉が閉まる音が聞こえてから僕はちら、と横に居るコリンを見る。
「コリン、一体誰を…… 」
 誘うの、と口にしようとしたところで僕はなんとなく後の展開が想像できてしまい、言葉を途切れさせた。
「さあ、ヴィイ。ピニィを誘いに行こうか」
 予想的中。
 恨みがましくコリンを睨みつけたが、彼は何にも伝わっていないのかはたまた僕の文句をわざと無視しているのかずっと笑顔のままだった。こうなったコリンには何を言っても無駄だ。僕は大きくため息を吐いた。
「わかったよ。行くよ。誘えばいいんだろ……どうせ断られるだろうけど」


――


「行かない」
 一刀両断。
 ピンクッションはなにか縫い物をしながら僕に見向きもせずにそう言った。予想通りだったけれど、少し傷ついた。

「いいかいヴィイ。誘いに乗らせることが目的ではなくて、誘うこと自体が大事なんだよ。ほら、会話も出来たじゃないか!」
 慰めのつもりか、コリンは僕の背中に手を置いてそう言った。会話と言えるのか、あれが。
「ご、ごめん、ヴィイ。そんなに落ち込むとは思わなくて」
「落ち込んでないし……」
「その言い分は無理があるよ」
 嘘をつくのが下手で感情が隠せないのは昔からの癖だった。この癖のおかげで「正直で良い」と言われ褒められたことが幾度もあったが、損をした記憶の方が遥かに多い。まさに今とか。
「まあ、断られたものは仕方がないよね。ビリィのところに行こうか」
 未だ落ち込む僕を他所にコリンは勝手に開き直り(そもそも彼は落ち込んでなど居なかったのだけれど)、僕の手を引いて足を進ませた。


――


「いらっしゃい、ゆっくりしていってね」
 ビーバームの小屋の傍の庭。たくさんの花が咲くそこにはシンプルだけど洒落ていて、上等そうなテーブルと椅子が置いてあった。テーブルの上にはお菓子がたくさん乗っているケーキスタンドと、空のティーセット。いつものビーバームのお茶会の光景だ。当のビーバームはテーブルの周りをパタパタと歩き回っていた。僕とコリンに気が付くと彼女は手を振って迎えてくれた。
「あれ、リアムが居るなんて珍しいね」
 そこにはビーバームともう一人。ちょこん、と借りて来た猫のように座る(彼の場合、常にそんな感じではあるが)リアムが居た。リアムは俯きがちに体を縮めながら居心地が悪そうな顔をして一心不乱に紅茶を口に運んでいた。
「ちょうどそこで会ったのよ。ね、リアム!」
 話を振られたリアムはビク、と肩を震わせたあとせわしなく何度も首を縦に振った。断れなかったんだろうなぁ、と少しだけ同情の視線をリアムに向ける。

 リアムはとても内気な性格の少年だった。それでいてとても優しい、のだと思う。出会ったばかりの頃は何をそんなに怯えているのかと少し苛ついたこともあったけれど、それは怯えではなく『助走』であるということに最近気が付いた。リアムはこちら側のアクションにきちんと何かしらを返してくれるのだ。決して一方的な交流にはならない。
 故に今日は、ビーバームに出会ってしまった時点でリアムの負けは決まっていた。彼は誘われたらなんだかんだと押され、結果断れないのだ。

 ビーバームに促されてリアムの隣の空いている席に座ると、目の前にカチャンと音を立ててティーカップが置かれる。
「あら? 二人だけ?」
 コリンがあんなことを言ったからてっきりもう一人居るつもりだったのだろう。ビーバームはきょろきょろと周りを見渡した。
「あぁ、ピニィを誘ったんだけどね。来てくれなかったんだ」
 コリンが申し訳なさそうにそう告げる。
「あらら、そうなの。あのこ、外に出たがらないものね」
 ティーカップを一つ片付けながら、少し寂しそうにビーバームは言った。
「わたし、ピニーが笑っているところを見てみたいわ。いつもつまらなさそうな顔をしているでしょう? なんとなく近づき辛くてあまりお話ができないけれど……。ピニーは笑顔が絶対に可愛いもの!」
 お茶会の支度が済んだようでビーバームは空いていた席に座るとケーキスタンドからクッキーを一つ摘んで口へと放った。
「彼女、どうしてあんな感じなんだろうね」
 コリンの言葉を聞いて、ピンクッションも悩む動作をする。
「なにか嫌なことがあったのかしら」
「理由が分かれば少しは寄り添ってあげられるかもしれないけど、それを本人に聞くのは……逆効果になりかねないし」
「せんせーなら何か知っているんじゃないかしら?」
「せんせいも詳しい理由は知らないみたいだったよ」
「そう……」
 発展しない会話の内容。とうとう途切れてしまい、この話もここまでかなと各々が新しい話題を頭の中で考えていた。
 そんなとき。

「……きっと、まだ」

 ぽつり、と。それまでずっと黙って僕たちの話を聞いていたリアムが、半分程まで中身の減ったティーカップを見つめながら小さな声で呟いた。その小さな声が耳に入り、僕たちは彼へと視線を向けた。
「心の準備が、出来ていない、だけ。……誰を信じていいか、わからないだけ……だと思う。ぼく、ピンクッションの気持ち、なんとなく、わかるんだ……な、なんでかは、よくわからない、けど」
 リアムは自信なさげにそう口にした。しかし普段あまり喋らない彼だからこそ、不思議とその言葉には確かな説得力があった。
「だから、接してあげて……敵じゃないって、怖くないって。……遠ざけられると、お互いに何もわからない、ままだから」
 リアムは視線を上げると真っ直ぐに僕を見つめた。その瞳はどこまでも澄んでいて、とても綺麗だった。リアムの言葉を聞き僕たちは黙り込む。リアムはその何とも言えない雰囲気を感じ取ったのか、はっとした後、いつものように落ち着きなく慌て始めた。
「ご、ご、ごごごごめん……! ……なさい! え、偉そうに、語っちゃっ……ぼ、ぼくの言うこと、なんて、気にしない、で!」
 そう言い残すとリアムは音を立てて立ち上がり、逃げるように庭から立ち去ってしまった。
「行っちゃったわ」
 ビーバームはまた残念そうにそう呟き、紅茶を一口飲んだ。
「で、どうするの?」
 コリンは微笑みを携えて僕に問いかけてきた。
「どうするって?」
「ピニィのこと。別にやめてもいいんでしょ」
 そう問われ、僕は紅茶を飲みながら考えた。
 先程のリアムの言葉を聞いた後にこの質問をしてくるなんて、今日のコリンはなんだか意地悪だ。
「もう少し、どうにかしてみる。……どうするかは、これから考えるよ」
 コリンは僕の返事に納得したようで、「そっか」と返事をするとそれ以上は何も言わずただ紅茶を飲んでいた。
「それならお菓子を持って行くといいわ! 女の子はみんな甘いものが好きだもの!」
 ビーバームは呑気そうにそう言うとスコーンを頬張った。
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