翼を持たない者へ捧ぐ
-Ⅰ-
微睡み、夢心地。そんな言葉がぴったりだった。
ふわふわとしてなにかに揺られるような感覚。まっさらで、何もない。
ふと、思い出したかのように空気を肺に吸い込み、呼吸をする。
徐々に自分の輪郭を思い出す――世界から、自分だけが切り離される。
目をゆっくりと開く。暗かった視界が白く、明るくなっていく。
自分が今寝ているベッドと小さなテーブル、椅子、ランプと窓と扉。特別なものは何もない簡素な部屋。最低限の生活感がある部屋の中に自分は寝かされていた。
無意識に自分の手を顔の前に移動させ、見つめる。握ったり解いたりを数回繰り返す。思い通りにきちんと動く。自分の身体だ。
首を動かすと、金色の髪の毛の男性が椅子に座っているのが視界に入る。
少し骨張った手で頭を撫でられその心地よさにたまらず見上げると、その人は僕の顔を見つめて柔らかく微笑んでいた。
――
「……ィイ、ヴィイ」
呼ぶ声がする。
声変わりの済んだ少し低い、落ち着いた、聞き慣れた声。
「ヴィオレッタ。起きろ、朝だよ」
名前を呼ばれている気がするけれど、寝起きでうまく頭が働かない。返事をしようともぞもぞとベッドの中で体を動かしながら、僕は口を開いた。
「ん……起きてる……起きてるよ」
そう言いながらも再びベッドの中に潜っていこうとする僕を見て、声の主である彼は掛布団を思いっきり引き剝がした。
「……さむい」
冷たい空気が僕の身体を包み込む。その冷たさに耐えられなくて咄嗟に身体を縮めて暖を取った。
僕の布団を剝いだ張本人はその布団を丁寧に畳み僕の足元に置いてから、再び僕の近くへと歩み寄り自身の腕を組んだ。
「おはよう」
いい加減に怒りだしそうな声色。
僕は観念して重たい瞼を上げる。朝の光が眩しくて思わず手で目元を隠した。
「おはよう、クリム」
不機嫌そうな顔の栗毛色の髪の少年――クリムは、僕が起きたことを確認すると口を開いた。
「すぐ朝食の時間だよ。遅れないようにね」
それだけを告げるとクリムは早足に小屋を出て行ってしまった。
一人になった小屋の中はとても静かだった。遠くから聞こえる会話や食器がぶつかる音、足音がその静けさをより強調させる。
険しい山と山の間、森の奥深く。大きな湖の傍にある村、のような場所。かつては本当に村だったのだろうけれど、今は僕たち以外は誰も住んで居ない。『療養所 』と呼ばれたここは『魔力欠乏症』を治すための施設だった。
魔力欠乏症とは魔法が使える種族『モータル』が稀に患う病気であり、症状としては魔法が使えなくなってしまう。
原因は様々あるが主に魔力の使い過ぎで発病する。魔力を酷使すると身体の中にある『魔力蓄積器官』が壊れてしまい魔法が使えなくなってしまうのだ。治療法はまだ見つかっておらず、現段階では治すには安静にすることが一番だと言われている。
魔力欠乏症だと診断された僕たちはこの療養所に送られ療養の日々を過ごしていた。
――僕の名前はヴィオレッタ。
――魔力欠乏症を治すためにここに居る。
――家に帰るには病気を治さなければいけない。
――今日も朝が来たということは、起きて、活動をしなければならないということ。
頭の中で自分について確認をする。それが日課の一つになっていた。
目が覚めてから数分後、そうしてようやく僕の意識ははっきりとしてくる。
ゆっくりと起き上がりベッドに腰掛け、ちいさく伸びをしてから床に足をつける。クリムがカーテンを開けてくれたのだろう。窓からは太陽の光が燦々と差し込み床に落ちていた本を明るく照らしていた。
どうして本なんて落ちているんだろう、と床の本をぼんやりと見つめながら本を拾い上げ表紙を眺める。『魔導士大全』と書かれたその本はどこかで見たことがあるような気がしたけれど、どこで見たのかは全く思い出せない。それどころか持って来た記憶も無いのだが。なにも思い出せないのだけれど、きっと書庫の本だろう。あとで戻しておこう。そう結論付けてその分厚い本を机の上に置いた。
窓を開けると朝の爽やかな風と湿った土の匂いが全身を包み込む。何もない場所だけれど、この朝の空気は気に入っていた。
「ヴィー、おはよう」
窓の外からふわふわとした声で誰かが僕を呼んだ。見ると、小屋の近くの花壇で銀のじょうろを片手に花に水をあげている少女が居た。
「おはよう、ビリィ。もう朝食の時間だって」
「ええ、わかっているわ。さっきクリムにも言われたもの。ちゃんと間に合うように食堂に行く、から……」
水やりをしていた少女――ビーバームは口に手を当てておしとやかに笑った。彼女の桃色の髪の毛がご機嫌そうに揺れる。
「……? どうしたの?」
「ヴィー、寝ぐせがついているわ。直してから行った方がいいわね」
そう言われて確認するために手を伸ばすと、確かに髪の毛は不自然な方向に跳ねていた。
「本当だ。ありがとう、ビリィ」
「どういたしまして」
ビーバームはお礼を言われたからか嬉しそうな顔をした後、水やりの続きを始めた。花壇の花は雫が光を受けてきらめいていて、とても綺麗だった。
――
服を着替え身なりを整えて、外へと繋がる扉を開けた。
療養所の患者は一人一軒小屋をあてがわれ、そこで生活をしている。僕の小屋の周りにも何件か小屋があり他の患者が住んでいるのだが、見た限りどこも静かで今は誰もいない。おそらくすでに食堂に向かっているのだろう。
砂利道を踏みしめ、僕も食堂へと向かった。
食堂にはおいしそうな匂いが満ちていた。中央に大きな長方形の形のテーブルが堂々と置いてあり、その上にはすでに料理がいくつか並んでいる。
「ヴィイ」
扉を開けたまま立ち尽くしていた僕に、一人の青年が声をかけてくれる。
「おはよう、コリン」
銀色の髪の毛を持った少年――コリンは、いつもと同じ場所に座っていた。彼は足が悪くいつも魔導椅子に乗って移動をしているため、出入りがしやすいという理由から今座っている入口の近くの席が彼の定位置となっていた。
僕はコリンに挨拶をしながら彼の正面の席に座る。二人の視線の高さが同じになったとこであれ、とコリンが小さく呟いた。
「髪の毛、寝ぐせがついてるよ」
「えぇ……おかしいなぁ。ちゃんと直したはずなのに……」
髪の毛を当てもなくガシガシといじっていると、後ろから頭を軽く叩かれる。
「ここよ」
振り返ると、水やりを終えたらしいビーバームが僕の後ろに立っていた。ビーバームは僕の頭を丁寧に触り、どこから出したのか櫛を使って寝ぐせを直してくれる。
「ヴィーの髪の毛はふわふわね」
ビーバームに髪の毛をいじられている最中。ふと気配を感じて横を見ると、薄い青色の髪の毛の少年が黙々とテーブルにフォークを並べているのが目に入った。どうやら今日の食事当番は彼だったらしい。
「おはよう、リアム」
僕が声をかけると少年――リアムは小さく肩を震わせた。話しかけられると思っていなかったのだろう。彼は持っていた残りのフォークを握り締めながら恐る恐る、といった様子で口を開いた。
「……お……おは、よ、ぅ……っ!」
なんとか絞り出したのであろうその言葉を言い終わると同時に、リアムは早足でキッチンの方に駆けて行ってしまった。
「あ、まってリアム! わたしも準備手伝うわ」
ビーバームはそう言うとリアムの後を追ってキッチンへと向かった。
リアムの俊敏さに唖然としていると、コリンは薄く笑って頬杖をついた。テーブルに乗っていた皿の一つからひょい、と野菜をつまみそのまま口へと運ぶ。
「あ、つまみ食い」
「バレないバレない」
「バレてるよコリン。行儀が悪いぞ」
いつの間にか僕たちの横にはエプロン姿のクリムが不機嫌そうな顔をして立っていた。
「あはは、ごめん」
コリンは反省の色ひとつ見られない謝罪をしてクリムを見上げた。クリムは小さくため息を吐いてから、手に持っていた皿を机に置いて僕を見た。
「ヴィイ、暇ならせんせいを呼んできてくれ。もうすぐ食事の支度が出来るから」
それだけ告げると、クリムは僕の返事を待たずにキッチンへと戻っていった。その様子にコリンはまた呆れたように笑っていた。
――
「失礼します」
数回ノックをして医務室に入る。大きな本棚がたくさん置いてあるこの部屋はいつ来ても圧迫感があった。
部屋の奥で立派な椅子に腰かけ本を読んでいる人物を見つけ、僕は近くへと足を進めた。
モータルは見た目だけで年齢を判断することは難しいから正確な年齢は誰も知らないけれど、 すらりと背が高くてとても綺麗な顔をしている。髪は見事な金髪で、まるで絵本に出てくる王子様みたいな人だった。
この療養所の院長。みんなからは『せんせい』と呼ばれ慕われている。忙しい人のようで留守にしていることも多いけれど、今朝は療養所に居たらしい。
「せんせい」
せんせいは僕が居たことに気付いていなかったようで、僕の声を聞くと素早く顔を上げて僕の顔を見つめた。その目は見開かれていて、もしかして驚いているのか、と珍しい様子のせんせいを見られたことに僕もまた驚いていた。彼は、基本的に落ち着いているから。
「ヴィオレッタ……すまない、本に集中しすぎていたみたいだ」
「あ……僕も、驚かせてごめんなさい」
小さく笑いながら互いに軽く謝り合う。穏やかな空気が二人の間に流れた。
「それで、何か用事かな?」
そう問われ、答えようとしたと同時に僕の腹の音が鳴った。とっさに自分の腹部を抑えたがそんなものは全く無意味であり、静かな部屋にその間抜けな音は容赦なく鳴り響いた。顔に熱が集まっていくのを感じる。
恥じる僕をよそにせんせいは窓を見つめて「ああ、もうそんな時間か」と呟いた。
「朝食だね。呼びに来てくれたのかい?」
「あ……は、はい」
せんせいは小さく伸びをしてから立ち上がると、僕の頭に手を置いた。
「行こうか。これ以上お腹を空かせていたら可哀想だ」
可笑しそうに微笑むせんせいに僕の恥ずかしさは限界を超えて何も言うことが出来ず、ただ小さく頷いた。
――
食堂に戻るとさっきまでキッチンでせわしなく動いていたみんなもテーブルの席につき、僕たちを待っていた。僕は急いで先程も座っていたコリンの向かいの席へと座る。
一方、せんせいは金色の髪を靡かせてゆっくりと歩みを進め奥の空いている席に腰掛ける。そして僕たちの顔を見回してから口を開いた。
「おはよう、みんな。食事にしようか」
落ち着いた声色が食堂に響く。せんせいのその言葉を合図に、それぞれが食器に手を伸ばす。
今日のメニューはパンとスープ、サラダにスクランブルエッグ。いつも通りの朝食だった。
パンをちぎり、口へと運ぶ。
咀しゃくして飲み込む。
フォークでスクランブルエッグをつつく。
サラダにドレッシングをかけて口に放る。
咀しゃくして飲み込む。
スープをスプーンですくい上げて飲む。
またパンを食べる。
咀しゃくして飲み込む。
各々、淡々と食事を済ませていく。普段はみんなが揃うとそれなりに賑やかなのだけれど、せんせいが居るときの食事中は誰も話をしようとはしない。これもいつも通りのことだった。
僕はふと食事を摂る手を止めてさり気なくせんせいの方を見た。
「!」
ふとせんせいと目が合った。せんせいは僕と目を合わせたまま数回瞬きをした後、優しい顔をして笑ってから全員を見回した。
「みんな、今日の当番はきちんと把握しているかな」
そして口を開く。それと同時に、みんなの食事をとる手も止まった。
当番というのは、療養所に居る間患者に与えられる仕事のことだ。
最低一日一つ、食事の準備や掃除などそれぞれに簡単な仕事を任されることになっていた。クリムやリアムが食事の準備をしていたのもこの当番制の仕事からだ。
ちなみにコリンは足が悪かったり具合が悪いことが多いことからか、あまり任されていない。たまにせんせいに言われて仕事を手伝っているのを見るくらいだった。
「はあい!」
誰が返事をしようか、とみんなでアイコンタクトをしている中。ビーバームは待っていましたと言わんばかりに手をあげて自身を主張をした。
「わたし、お花の水やりはごはんの前に終わらせてきたわ!」
椅子から立ち上がりながら高らかにそう告げる。せんせいはそんなビーバームを見て柔らかく微笑んだ。
「そうか。偉いね、ビーバーム」
「ふふ。ありがとう、せんせー」
ビーバームはせんせいに褒められたのが嬉しかったのか、頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
そのやりとりを皮切りに、食堂に漂っていた緊張はいつの間にか無くなっていた。僕は止めていた食事の手を再び動かしながらみんなの会話を聞いていた。
「僕とリアムは食事当番と洗濯当番です」
「あ、えっと……です」
ビーバームに続いてクリムがそう答え、それに同調してリアムが慌てつつ控えめに口を開いた。
「ヴィオレッタとピンクッションは掃除当番だからね」
クリムは僕を見つめてそう告げた。僕はクリムの言葉に頷きながら朝食を口に運んだ。
咀嚼をしながら僕の横に座っている少女をこっそりと見た。
青い髪の少女――ピンクッションは僕と同じように静かに朝食を食べていた。僕に気が付いたピンクッションは僕のことを睨みつけ、何も言わずにまた朝食を食べ始めた。
せんせいは口々に喋り出すみんなを制止するようにパン、と手を叩いてからまた話し出す。話の内容は毎日、特に変わらない。それでもきちんと聞かなければ、と感じるのだ。
せんせいの話が終わり朝食を食べ終わると、各々が自由に行動を始める。
――療養所での平和で平穏な一日が、今日も始まるのだった。
微睡み、夢心地。そんな言葉がぴったりだった。
ふわふわとしてなにかに揺られるような感覚。まっさらで、何もない。
ふと、思い出したかのように空気を肺に吸い込み、呼吸をする。
徐々に自分の輪郭を思い出す――世界から、自分だけが切り離される。
目をゆっくりと開く。暗かった視界が白く、明るくなっていく。
自分が今寝ているベッドと小さなテーブル、椅子、ランプと窓と扉。特別なものは何もない簡素な部屋。最低限の生活感がある部屋の中に自分は寝かされていた。
無意識に自分の手を顔の前に移動させ、見つめる。握ったり解いたりを数回繰り返す。思い通りにきちんと動く。自分の身体だ。
首を動かすと、金色の髪の毛の男性が椅子に座っているのが視界に入る。
少し骨張った手で頭を撫でられその心地よさにたまらず見上げると、その人は僕の顔を見つめて柔らかく微笑んでいた。
――
「……ィイ、ヴィイ」
呼ぶ声がする。
声変わりの済んだ少し低い、落ち着いた、聞き慣れた声。
「ヴィオレッタ。起きろ、朝だよ」
名前を呼ばれている気がするけれど、寝起きでうまく頭が働かない。返事をしようともぞもぞとベッドの中で体を動かしながら、僕は口を開いた。
「ん……起きてる……起きてるよ」
そう言いながらも再びベッドの中に潜っていこうとする僕を見て、声の主である彼は掛布団を思いっきり引き剝がした。
「……さむい」
冷たい空気が僕の身体を包み込む。その冷たさに耐えられなくて咄嗟に身体を縮めて暖を取った。
僕の布団を剝いだ張本人はその布団を丁寧に畳み僕の足元に置いてから、再び僕の近くへと歩み寄り自身の腕を組んだ。
「おはよう」
いい加減に怒りだしそうな声色。
僕は観念して重たい瞼を上げる。朝の光が眩しくて思わず手で目元を隠した。
「おはよう、クリム」
不機嫌そうな顔の栗毛色の髪の少年――クリムは、僕が起きたことを確認すると口を開いた。
「すぐ朝食の時間だよ。遅れないようにね」
それだけを告げるとクリムは早足に小屋を出て行ってしまった。
一人になった小屋の中はとても静かだった。遠くから聞こえる会話や食器がぶつかる音、足音がその静けさをより強調させる。
険しい山と山の間、森の奥深く。大きな湖の傍にある村、のような場所。かつては本当に村だったのだろうけれど、今は僕たち以外は誰も住んで居ない。『
魔力欠乏症とは魔法が使える種族『モータル』が稀に患う病気であり、症状としては魔法が使えなくなってしまう。
原因は様々あるが主に魔力の使い過ぎで発病する。魔力を酷使すると身体の中にある『魔力蓄積器官』が壊れてしまい魔法が使えなくなってしまうのだ。治療法はまだ見つかっておらず、現段階では治すには安静にすることが一番だと言われている。
魔力欠乏症だと診断された僕たちはこの療養所に送られ療養の日々を過ごしていた。
――僕の名前はヴィオレッタ。
――魔力欠乏症を治すためにここに居る。
――家に帰るには病気を治さなければいけない。
――今日も朝が来たということは、起きて、活動をしなければならないということ。
頭の中で自分について確認をする。それが日課の一つになっていた。
目が覚めてから数分後、そうしてようやく僕の意識ははっきりとしてくる。
ゆっくりと起き上がりベッドに腰掛け、ちいさく伸びをしてから床に足をつける。クリムがカーテンを開けてくれたのだろう。窓からは太陽の光が燦々と差し込み床に落ちていた本を明るく照らしていた。
どうして本なんて落ちているんだろう、と床の本をぼんやりと見つめながら本を拾い上げ表紙を眺める。『魔導士大全』と書かれたその本はどこかで見たことがあるような気がしたけれど、どこで見たのかは全く思い出せない。それどころか持って来た記憶も無いのだが。なにも思い出せないのだけれど、きっと書庫の本だろう。あとで戻しておこう。そう結論付けてその分厚い本を机の上に置いた。
窓を開けると朝の爽やかな風と湿った土の匂いが全身を包み込む。何もない場所だけれど、この朝の空気は気に入っていた。
「ヴィー、おはよう」
窓の外からふわふわとした声で誰かが僕を呼んだ。見ると、小屋の近くの花壇で銀のじょうろを片手に花に水をあげている少女が居た。
「おはよう、ビリィ。もう朝食の時間だって」
「ええ、わかっているわ。さっきクリムにも言われたもの。ちゃんと間に合うように食堂に行く、から……」
水やりをしていた少女――ビーバームは口に手を当てておしとやかに笑った。彼女の桃色の髪の毛がご機嫌そうに揺れる。
「……? どうしたの?」
「ヴィー、寝ぐせがついているわ。直してから行った方がいいわね」
そう言われて確認するために手を伸ばすと、確かに髪の毛は不自然な方向に跳ねていた。
「本当だ。ありがとう、ビリィ」
「どういたしまして」
ビーバームはお礼を言われたからか嬉しそうな顔をした後、水やりの続きを始めた。花壇の花は雫が光を受けてきらめいていて、とても綺麗だった。
――
服を着替え身なりを整えて、外へと繋がる扉を開けた。
療養所の患者は一人一軒小屋をあてがわれ、そこで生活をしている。僕の小屋の周りにも何件か小屋があり他の患者が住んでいるのだが、見た限りどこも静かで今は誰もいない。おそらくすでに食堂に向かっているのだろう。
砂利道を踏みしめ、僕も食堂へと向かった。
食堂にはおいしそうな匂いが満ちていた。中央に大きな長方形の形のテーブルが堂々と置いてあり、その上にはすでに料理がいくつか並んでいる。
「ヴィイ」
扉を開けたまま立ち尽くしていた僕に、一人の青年が声をかけてくれる。
「おはよう、コリン」
銀色の髪の毛を持った少年――コリンは、いつもと同じ場所に座っていた。彼は足が悪くいつも魔導椅子に乗って移動をしているため、出入りがしやすいという理由から今座っている入口の近くの席が彼の定位置となっていた。
僕はコリンに挨拶をしながら彼の正面の席に座る。二人の視線の高さが同じになったとこであれ、とコリンが小さく呟いた。
「髪の毛、寝ぐせがついてるよ」
「えぇ……おかしいなぁ。ちゃんと直したはずなのに……」
髪の毛を当てもなくガシガシといじっていると、後ろから頭を軽く叩かれる。
「ここよ」
振り返ると、水やりを終えたらしいビーバームが僕の後ろに立っていた。ビーバームは僕の頭を丁寧に触り、どこから出したのか櫛を使って寝ぐせを直してくれる。
「ヴィーの髪の毛はふわふわね」
ビーバームに髪の毛をいじられている最中。ふと気配を感じて横を見ると、薄い青色の髪の毛の少年が黙々とテーブルにフォークを並べているのが目に入った。どうやら今日の食事当番は彼だったらしい。
「おはよう、リアム」
僕が声をかけると少年――リアムは小さく肩を震わせた。話しかけられると思っていなかったのだろう。彼は持っていた残りのフォークを握り締めながら恐る恐る、といった様子で口を開いた。
「……お……おは、よ、ぅ……っ!」
なんとか絞り出したのであろうその言葉を言い終わると同時に、リアムは早足でキッチンの方に駆けて行ってしまった。
「あ、まってリアム! わたしも準備手伝うわ」
ビーバームはそう言うとリアムの後を追ってキッチンへと向かった。
リアムの俊敏さに唖然としていると、コリンは薄く笑って頬杖をついた。テーブルに乗っていた皿の一つからひょい、と野菜をつまみそのまま口へと運ぶ。
「あ、つまみ食い」
「バレないバレない」
「バレてるよコリン。行儀が悪いぞ」
いつの間にか僕たちの横にはエプロン姿のクリムが不機嫌そうな顔をして立っていた。
「あはは、ごめん」
コリンは反省の色ひとつ見られない謝罪をしてクリムを見上げた。クリムは小さくため息を吐いてから、手に持っていた皿を机に置いて僕を見た。
「ヴィイ、暇ならせんせいを呼んできてくれ。もうすぐ食事の支度が出来るから」
それだけ告げると、クリムは僕の返事を待たずにキッチンへと戻っていった。その様子にコリンはまた呆れたように笑っていた。
――
「失礼します」
数回ノックをして医務室に入る。大きな本棚がたくさん置いてあるこの部屋はいつ来ても圧迫感があった。
部屋の奥で立派な椅子に腰かけ本を読んでいる人物を見つけ、僕は近くへと足を進めた。
モータルは見た目だけで年齢を判断することは難しいから正確な年齢は誰も知らないけれど、 すらりと背が高くてとても綺麗な顔をしている。髪は見事な金髪で、まるで絵本に出てくる王子様みたいな人だった。
この療養所の院長。みんなからは『せんせい』と呼ばれ慕われている。忙しい人のようで留守にしていることも多いけれど、今朝は療養所に居たらしい。
「せんせい」
せんせいは僕が居たことに気付いていなかったようで、僕の声を聞くと素早く顔を上げて僕の顔を見つめた。その目は見開かれていて、もしかして驚いているのか、と珍しい様子のせんせいを見られたことに僕もまた驚いていた。彼は、基本的に落ち着いているから。
「ヴィオレッタ……すまない、本に集中しすぎていたみたいだ」
「あ……僕も、驚かせてごめんなさい」
小さく笑いながら互いに軽く謝り合う。穏やかな空気が二人の間に流れた。
「それで、何か用事かな?」
そう問われ、答えようとしたと同時に僕の腹の音が鳴った。とっさに自分の腹部を抑えたがそんなものは全く無意味であり、静かな部屋にその間抜けな音は容赦なく鳴り響いた。顔に熱が集まっていくのを感じる。
恥じる僕をよそにせんせいは窓を見つめて「ああ、もうそんな時間か」と呟いた。
「朝食だね。呼びに来てくれたのかい?」
「あ……は、はい」
せんせいは小さく伸びをしてから立ち上がると、僕の頭に手を置いた。
「行こうか。これ以上お腹を空かせていたら可哀想だ」
可笑しそうに微笑むせんせいに僕の恥ずかしさは限界を超えて何も言うことが出来ず、ただ小さく頷いた。
――
食堂に戻るとさっきまでキッチンでせわしなく動いていたみんなもテーブルの席につき、僕たちを待っていた。僕は急いで先程も座っていたコリンの向かいの席へと座る。
一方、せんせいは金色の髪を靡かせてゆっくりと歩みを進め奥の空いている席に腰掛ける。そして僕たちの顔を見回してから口を開いた。
「おはよう、みんな。食事にしようか」
落ち着いた声色が食堂に響く。せんせいのその言葉を合図に、それぞれが食器に手を伸ばす。
今日のメニューはパンとスープ、サラダにスクランブルエッグ。いつも通りの朝食だった。
パンをちぎり、口へと運ぶ。
咀しゃくして飲み込む。
フォークでスクランブルエッグをつつく。
サラダにドレッシングをかけて口に放る。
咀しゃくして飲み込む。
スープをスプーンですくい上げて飲む。
またパンを食べる。
咀しゃくして飲み込む。
各々、淡々と食事を済ませていく。普段はみんなが揃うとそれなりに賑やかなのだけれど、せんせいが居るときの食事中は誰も話をしようとはしない。これもいつも通りのことだった。
僕はふと食事を摂る手を止めてさり気なくせんせいの方を見た。
「!」
ふとせんせいと目が合った。せんせいは僕と目を合わせたまま数回瞬きをした後、優しい顔をして笑ってから全員を見回した。
「みんな、今日の当番はきちんと把握しているかな」
そして口を開く。それと同時に、みんなの食事をとる手も止まった。
当番というのは、療養所に居る間患者に与えられる仕事のことだ。
最低一日一つ、食事の準備や掃除などそれぞれに簡単な仕事を任されることになっていた。クリムやリアムが食事の準備をしていたのもこの当番制の仕事からだ。
ちなみにコリンは足が悪かったり具合が悪いことが多いことからか、あまり任されていない。たまにせんせいに言われて仕事を手伝っているのを見るくらいだった。
「はあい!」
誰が返事をしようか、とみんなでアイコンタクトをしている中。ビーバームは待っていましたと言わんばかりに手をあげて自身を主張をした。
「わたし、お花の水やりはごはんの前に終わらせてきたわ!」
椅子から立ち上がりながら高らかにそう告げる。せんせいはそんなビーバームを見て柔らかく微笑んだ。
「そうか。偉いね、ビーバーム」
「ふふ。ありがとう、せんせー」
ビーバームはせんせいに褒められたのが嬉しかったのか、頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
そのやりとりを皮切りに、食堂に漂っていた緊張はいつの間にか無くなっていた。僕は止めていた食事の手を再び動かしながらみんなの会話を聞いていた。
「僕とリアムは食事当番と洗濯当番です」
「あ、えっと……です」
ビーバームに続いてクリムがそう答え、それに同調してリアムが慌てつつ控えめに口を開いた。
「ヴィオレッタとピンクッションは掃除当番だからね」
クリムは僕を見つめてそう告げた。僕はクリムの言葉に頷きながら朝食を口に運んだ。
咀嚼をしながら僕の横に座っている少女をこっそりと見た。
青い髪の少女――ピンクッションは僕と同じように静かに朝食を食べていた。僕に気が付いたピンクッションは僕のことを睨みつけ、何も言わずにまた朝食を食べ始めた。
せんせいは口々に喋り出すみんなを制止するようにパン、と手を叩いてからまた話し出す。話の内容は毎日、特に変わらない。それでもきちんと聞かなければ、と感じるのだ。
せんせいの話が終わり朝食を食べ終わると、各々が自由に行動を始める。
――療養所での平和で平穏な一日が、今日も始まるのだった。