華の章
薄暗い森の中の道を軽快に走り抜ける一つの影。その少年は泥だらけの身体で小さな明かりを灯し、時折地面につまづきながらも目的地へと足を進める。
森の中に忽然と建った屋敷の大きな扉を開けて中に入り、迷うことなく薄暗い廊下を駆け、見慣れた扉の前で立ち止まると大きく息を吸いながら手を添えて強く押した。
「院長先生!」
少年は大きな声でそう告げたがそれ以上言葉が続くことはなく、笑顔のまま動きを止めた。
部屋に入った少年を三対の瞳が捉えていた。一つは優しい黄色、一つは冷たい焦げ茶色。最後の一つはくすんだ赤色。
「だれ?」
その赤を見つめたまま、少年は小さく呟いた――直後、少年の頭が派手な音を立てて叩かれる。
「いったぁ!!!!」
「無礼者、ノックを忘れたか。それにそんな格好で室内をうろつくなと何度言えば……」
扉から近い位置に居た焦げ茶色の瞳と灰色の髪を持った青年は、呆れたようにそう告げた。素手であったがそれでも強烈だったらしい痛みに蹲って耐えながらも、少年は鋭い目を青年に向けた。
「ヴィエルジュ! 痛いじゃないか……!」
「痛くしたんだ。刺激を与えればおまえでも少しは利口になるだろう」
「これ以上馬鹿になったらどうするんだよっ!」
青年――ヴィエルジュは少年に向かって薄く笑いながら答えた。
「それ以上、馬鹿になる余地が?」
その言葉を聞いた少年はみるみる顔を真っ赤にして、ついにはヴィエルジュに掴みかかろうとした。
「客人の前でみっともないことはやめなさい」
それを戒めたのは第三の人物。奥の椅子に座っていた黄色の髪の少女のような風貌の人物だった。少女は微笑みを浮かべてはいたが、その見た目と相反して放たれている威圧感に二人は静かに口を閉ざした。
ヴィエルジュは「すみませんでした」と少女に向かって丁寧にお辞儀をしながら謝罪をして、元居た扉の傍に戻った。一方、少年はその場で立ち尽くしたまま俯いていた。
緊張した空気が部屋中に張り詰めていたが、それを解いたのは小さな笑い声だった。
「ヴィエルジュは、すっかり『おかあさん』……だね?」
聞き慣れないその声を聞いて、少年はゆっくりと顔を上げる。
「せめて、父親で」
背後からヴィエルジュのばつの悪そうな声が聞こえる。少年の瞳は目の前の人物を捉えていた。
暗く、しかしはっきりと赤だと解る瞳。落ち着いた紫色の肩程まである髪。背は少年と同じくらいだろう。その人物は少年の後ろに立っているヴィエルジュを見つめながら、未だにクスクスと笑っていた。
「きゃく、じん……って、ことは……」
少年が口を開いたことに気が付いたのか、その人は視線を移して少年を見つめた。
「――外から、来た人?」
その返事を聞く前に、少年に二度目の衝撃が与えられた。
ギギ、と音が聞こえるかの如く、少年はゆっくりと頭を抱えて唸った。
「まずは挨拶、次に自己紹介。そして速やかにこの部屋から立ち去れ」
ヴィエルジュの冷たい声が少年の上から降ってくる。
紫の少年は少しだけ目を見開き驚いた表情を見せ、少女は態度を変えることなくただその光景を見つめていた。
少年は痛みに耐えたのち、おずおずと口を開いた。
「ご機嫌よう、初めまして。私はノーチェ・ブエナと申します……ご歓談中、大変失礼しました」
少年――ノーチェは、早口にそれだけを告げると俯いたまま駆け足で部屋を出て行った。
「おい、室内は走るな……」
「もういいよ、ヴィエルジュ」
少女はヴィエルジュをその一言で制してから一つため息を吐くと、客人に向き直った。
「ごめんね。騒がしくて」
ノーチェが出て行った扉を見つめていた紫の少年は、少女に向き直し首を横に振った。
「子供はあれくらい元気なほうがいいよ。退屈も、しない」
「ん……一緒にはしゃげたらそうかもだけど、監督としての立場となると……どうだろう。思い通りに動いてくれないと、なんとも言えない気持ち」
その言葉にヴィエルジュは大きく頷いた。紫の少年はまた笑い、労わるような口調で告げた。
「大変だね、院長先生」
「どぉも」
――
暗闇の森の中で、膝を抱えて蹲る。
酷く侮辱されたと感じたと同時に、院長に言われた通り自分がいかに無礼であったかということも理解していた。思考に感情が追い付いてくることはなく、いよいよ堪えられなかった涙が溢れた。
「ごめんね」
しばらくそうしていたが、突然、自分以外の声が聞こえたことにノーチェは肩を振るわせた。
声の方に振り向くと、先程の紫髪の少年が木に手を添えて立っていた。闇の中、光を受けたその顔はとても凛として見えた。
「僕が居たから君が怒られてしまった、でしょ? だから、ごめんね」
泣かないで、と付け足してからその少年は口を閉じた。ノーチェはゆっくりと視線を落としていき、自嘲気味に笑った。
「私は怒られてばかりなので。特別、君のせいとかではないです」
少年はノーチェの返事を聞くと、一歩一歩ゆっくりと近づいてノーチェの隣に腰を下ろした。泣き顔を見られたくないと思い、ノーチェは少年から少しだけ顔を背ける。
「大事な話とか、そういうのは全くしていなかったんだよ。……ヴィエルジュは、怒りすぎだった」
少年はそう言いながらノーチェの顔を覗き込んできた。目が合いそうになり、ノーチェは一層背を丸めて顔を背けた。その様子に少年は首を傾げながら数回瞬きをして、また顔を覗いてくる。
「あの……」
どこまでも追いかけてくる少年にしびれを切らしたノーチェが文句を言おうと口を開いたと同時に、あ、と少年が呟いた。
「そう言えば、まだ名乗っていなかった。ヴィエルジュに言わせると、僕も大概『無礼』だ」
すっ、と体勢を引き紫の少年は静かに息を吸う。
――その瞬間。周りに吹いていた風も、それに揺られる葉の音も、不気味な鳥の声もすべてが聞こえなくなる。ノーチェにとって、目の前の少年の声だけがはっきりと認識できるものだった。
「僕はリス。リス・プファンクーヘン」
そして少年――リスは柔らかく微笑んでノーチェへと手を差し出した。
――
「だれ、あの人」
ノーチェが自室に戻ると、ベッドの上で丸くなっている人物が目に入った。その人物は「ただいま」と挨拶をしても返事をせず、もぞもぞと動いた後、ぶっきらぼうな声色でノーチェにそう問いかけて来たのだった。
「あの人?」
「さっきまでノーチェと一緒に居た人。……だれ?」
「なんだ。ルート、見てたの。来ればよかったのに」
ノーチェがそう言うと、ルートと呼ばれた同室の少年――ルテオルブラは毛布に包まり膝を抱えて頬を膨らます。そして声色を強くして再び「だれ?」と問いかけた。ルテオルブラのその態度にはいよいよ慣れたもので、ノーチェは特に気にすることなく話を続けた。
「院長先生の古いご友人。外から来たらしくて。だからいろいろ話を聞いてたんだ」
ノーチェが楽しそうにそう話すと、ルテオルブラは一層頬を膨らませて拗ねた。
「外の話くらい、僕だってできる」
「それが、ルートの話とは全然違う外の話だったんだって!」
聞いてよ、と笑いかけながらルテオルブラの横に勢いよく腰掛けると、ノーチェは意気揚々と話を始めた。
――明るい光、青い天井、白い綿、大きな湖。笑顔の人々。
それは、広く高く、とても鮮やかな世界の話だった。
一通り話を終えたノーチェは頬を紅潮させてはあ、と息を吐いた。
「私も見て見たいな。外の世界」
そしてそう小さく呟きながら、ノーチェは窓を見つめた。
その窓から明るい光が差し込んだことはまだ一度もない。空はいつまでも、どこまでも暗いままだった。
「嘘だよ、そんなの」
突然体重をかけられたノーチェは体勢を崩しそのままベッドに横になった。体重をかけてきた本人であるルテオルブラは、眉間に深い谷のような皴を寄せてあからさまに不機嫌であった。
「そんな話信じちゃだめ。忘れなよ。ノーチェは僕とずっと居るんだから、どこにも行っちゃだめ」
そしてノーチェに抱き着き声を籠もらせながらそう呟いた。
ルテオルブラは時折こうして小さな子供のように駄々をこねる。また始まった、と思いながらノーチェは少し考えて口を開いた。
「じゃあ、その時は一緒に行こう。ルートとなら、期待外れだったとしても退屈しないだろうし」
その言葉を聞いた瞬間、ルテオルブラは一変してぱっと笑顔になり急いでノーチェの腕を引っ張って起き上がらせた。
「やくそく?」
「うん。約束」
そう言い合いながら手を握る。
互いの熱を交換し合うように強く握られたその手を見つめながら、ルテオルブラは幸せそうに目を閉じた。
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