起
「お疲れ様です。浄化は完了しました。四名全員侵蝕ありとの報告を受けています」
あくる日、潜書から帰還した直後、小林は司書を前にして動けなくなった。他の三人のところにはスタッフの壱から参がついている。小林のところにだけ、司書がいる。
「珍しいことも……あるもんだな。アンタが、手ずからとは」
国木田はまだ荒い呼吸を整えながら言う。田山は両膝に手をついて支えにし、ようやく立っていたのを、スタッフの一人が近寄って支える。潜書は苦戦し、全員何らかの負傷をしてきたところで、それは小林も例外ではない。小林の膝は何によるものか、大きく震えている。
「スタッフ。こちらは無視しなさい」
『承知しました』
「小林先生。補修を行います。本を貸してください」
スタッフたちは一斉に、三人の本を預かった。小林の所へも司書が近寄る。小林は「要らない」と言いながら後退した。
「なんでアンタが。普段ここに寄りつきもしないくせに」
「近頃、戦闘中の動作に深刻な不調、不良があると報告があります。原因は明白ですが、なぜ断るのでしょうか」
「アンタの手を煩わせるつもりは無い」
スタッフたちは部屋を出ていく。田山を抱えたスタッフが出ていくと、わざわざ扉を閉めていった。
「スタッフも無力感で落ち込んでいます」
「知らない」
「自分たちは信用に置けないようだ、と。何かが小林先生のお眼鏡に叶わないようですね。しかしそれではスタッフたちも仕事になりません。私の時間もこうして奪われている」
小林は更に一歩下がった。下がるにつれて室内が一見で見渡せるようになっていくが、逃走のための最短ルートを割り出すのに必死だった。そう広くもない室内、傷ついた同僚は三人、扉は閉ざされた。同僚たちの場所が悪い。突き飛ばしていけば司書は撒ける可能性があったが、狭い部屋では満足に動けない。何より、薬を飲んでも治らない頭痛が、ますます酷い。秀のことを考えてもいないのに。
「俺は、補修を、受けない。そこを通してくれ」
「私は道を塞ぎに来たのではありません。仕事を全うしに来たのです。それよりも私程度の体格の人間を排除できないと直感するほど弱っているようですね」
何を言っても揚げ足を取られる。小林はまた下がるが、司書からの距離は少しずつ離れるのに、逃げ道は無くなる一方だ。
「頭痛はまだあるようですね。幻聴や幻覚が出ていますか? 私が化け物のようにでも見えますか?」
耳鳴りがする。次に小林が下がると、司書が大股で一歩近づいてきた。それで離したはずの距離がぐんと縮まる。小林の目の前に、清潔な白衣が壁のように立ちはだかる。
「自分で、何とかする」
「ほう。どのように?」
焦燥と切迫のためか、視界が暗くなってきた。視野の隅に粘ついた黒い泥がある。そこからいつでもあの怨み言が湧き出し、耳を覆い始める。
「俺は」
渦巻く臭い泥の中で、司書の視線だけがギラギラと光って見えた。薬を投与したネズミを眺める者はこういう目をするのだろう。生きるのか、死ぬのか、その結果以外に興味のない人間の眼差しだ。小林は、司書のそれが嫌いで、苦手だ。
司書が無言で手を伸ばし、小林の本へ伸びた。白手袋に覆われた手の甲が割れ、覗いた目玉が小林を見据えた。反射的に叩き、直後に息を飲んでも遅い。手のひらに覚えた痛みだけを握り込み、口を噤む。
「……」
「症状でしょうか」
何を決めつけているのか、勝手なことを言う司書に呼応して、怨み言が耳元で囁いた。【突き飛ばして逃げた方が良い。どこへ逃げる? どこまでも、地の底まで。】お前は自由だ。自由を守るためには、戦うか、逃げるしかない。戦えないなら、逃げるしかない。二十一分、次はどこへ隠れる? と。それが小林の精神を蝕む侵蝕による、破滅へ導く手であると理解できてしまう。小林は、ふらりと二歩下がった。すると背が壁にぶつかる。待ってましたと言わんばかりに距離を詰めた司書は、小林の本を固定するベルトに手をかけた。
「今の貴方は精神病患者です。拒否権はありません」
司書の骨のような手が、素早くベルトを解き、本を奪った。その本には、本来の鮮やかなオレンジを覆い尽くすほどの黒が、おぞましく蠢いている。無数の蟻が砂糖に集るように、小林の本に蓄積された侵蝕や負の感情が、小林の魂を削っていくひとつの形だ。
「ここまでよく立っていられました。貴重な症例です。こうなるに至るまで放置した先例はありません」
「……」
「そこまでして補修を拒む理由をお聞かせください。風聞を耳にしましたか? それとも独自の考えで? 幻覚や幻聴が原因である可能性がありますが、小林先生はそれ以前から補修を受け付けませんでした。私が手を引いていても同然ということは、私への忌避感ではない。何を鵜呑みにしていますか? 貴方にとっての重要な真実とはどのような」
「なあもういいか?」
低くドスの効いた声が割り込んだ。しゃがみ込んだ国木田が、それまでじっと気配を消していた所へ、急に口を開いた上に司書の方を睨み上げている。司書が言葉を止めると、舌打ちまで重ねた。
「黙って聞いていれば気分が悪くなる一方だ。用が済んだならさっさと仕事をしてくれ。こっちはただでさえ気が滅入るんだ」
文句を言いながらも、口を薄ら開けて息をする姿は苦しげだ。不愉快を顕にしながら脂汗もかいている。
司書は、背後から刺してきた声を肩越しに振り返って、そのままじっと見た。国木田も受けつつ黙って視線を返した。小林はちょっと顔を上げて国木田の方を見たが、細身の体にはあちこちに、裂かれた傷がある。そこに青黒い穢れもこびりついている。途中頭痛のあまり動けなくなった小林を庇い、近接戦にまで臨む羽目になったことによる負傷を、随分食らっていたはずだった。そこまでの傷を負わせた要因は自分であると、小林は否が応でも自覚させられ、凝り固まった反発心が力を失っていく。
「……ふむ」
俯いた小林を一瞥した司書は、それで背を向けた。後は何も言わずに退室する。扉が軽い音を立てて閉まると、「あーーー、」と国木田がため息混じりに天井へ雄叫びを上げた。
「言い方が悪かった! すまん!」
小林は面食らった。するとその声で弾けたように田山が笑い出す。困惑する小林の元へ、国木田はふらふらとやって来て、両肩をがっしりとおさえた。
「悪い。気を悪くしてたら謝る。あの司書の物言いが気に食わなかっただけなんだが、お前に文句を言ったように聞こえたかもしれん」
「あ、頭を上げてくれ……実際、俺がもっとしっかりしていたら良かったんだ。変な意地を張らずに、言うことを聞けば……」
尻すぼみになる小林に、国木田は「いいや」と顔を上げ、真っ直ぐ目を見た。
「お前の気持ちは皆知ってるさ。俺だってよく知ってる、何よりお前が一番よくやって来たんだ。あんな言い方をされる謂れはない」
それを何だ、あいつ、と悪態をつきながら、国木田はちぇっと舌打ちまでして、床を音立てて踏んだ。そっと手から離れて一歩距離をとる小林に気づかず、閉じた扉に指を指し指し、
「自分の怠慢が招いたことだろうに、責任転嫁ばかりで全く腹が立つ! ナメやがって、次顔を合わせたら小一時間詰めてやりたいよ。どうせ修復作業だってスタッフ任せなんだ、一言物申したっていいだろ」
「まーまーそんぐらいにしとけよ、な!」
国木田の元へほとんど突進する勢いの田山は、のしかかるように肩へ腕を回し、深い谷を作る眉間を指先で伸ばす。
「侵蝕が酷くて気が立ってる時に、人に喧嘩を売るのは精神衛生上良くないぜ」
「んなこと、アンタに言われなくたってわかってるが」
「それよりさあ、独歩、お前すげぇかっこよかったぜ! 用が済んだならさっさと仕事をしてくれ、ってさ!」
疲労困憊の様子はどこへやら、どことなく誇張した声真似は少し似ていて、小林はふっと少し笑った。
「ビシッと言ってやったな! オレも清々したよ」
「花袋はやけに元気だな……傷は?」
「お前らほどじゃないし、スカッとしたら元気が出てきた! 今ならお前ら二人とも抱え上げて、医務室に連れて行くぐらい出来るぞ」
田山は上腕二頭筋を盛り上げて鼻息を荒くする。弓を使うからには腕に疲労がかなり残っているはずなのに、敢えてそういう素振りをするのが彼だ。小林は笑みを浮かべて、緩く首を振った。
「気持ちは嬉しいけど、俺は大丈夫」
「俺も遠慮する。途中で落とされちゃたまらん」
「んなことしねぇって!」
「二人は先に医務室に行ってくれ。俺は少し、一人になりたいから」
国木田の表情が曇る。田山は国木田と小林を順に見て何かを察しつつ、「平気なのか?」と小林を案じる。
「司書の言葉を信じるわけじゃないけどさ、相当しんどいんじゃ」
「そうでもないんだ。だから、大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ……アンタ、今日まで毎日あんなに前線で戦っておいて、そうでもないなんてことがあるか?」
毎回戦闘に出る小林と違い、国木田は四回に一回程度だ。それでも共に戦う時は、よく小林を支え、助けてくれた。近くで見ていることが多いからこそ、知っていることも多い。それで何かを言いかけたが、扉が閉まる音に遮られた。
「え」
驚いた三人は一斉に振り返った。だが誰もいない。
「今のは……」
「中島サン、ひょっとして、ずっと俺たちを待っていたのか」
会派四人目の中島は、いつも何も言わずに一人で立ち去る。小林はてっきり、司書と同時ぐらいに出て行ったものと思っていたのだが。
「外から誰かが覗き込んだ……んでなければ、中島だな。俺たちの様子を伺っていたのか?」
「……出るタイミングを見計らっていたが、堪えきれなくなったのかもしれない。そうだとしたら申し訳ないな」
「そんなことを気にするような人じゃねーだろ。しょっちゅう人のこと睨んでくるし、平和ボケだのなんだのと言ってくるし……あいてて……」
田山は国木田に回さない方の手で脇腹を抑えた。それを見て、国木田は逡巡したが、
「……じゃあ、先に行くが。良ければ後で、食堂とかで話そう。アンタも……一人で抱え込むなよ」
そう言って、頷いた小林の肩を二度叩き、田山と引きずり合いながら出て行った。ぼうっと見送った小林の目の前で、扉が閉まり、途端訪れる静寂に押しつぶされるように、ゆっくりとその場で座り込んだ。昨日まで、この時間の静寂は安寧だった。だが今は不安と恐怖を心に満たす、恐ろしい激流に似ていた。
「なんで、こんなに怖いんだろう」
己の魂を清めるのが補修だ。受ければ不調が夢のように治る。それを怖がる文豪など、この世にどれだけいるのだろうか。それも、子どもが何も無い闇を恐れるように、謂れもなく。
「そんなひとが、俺の他に……いるものか」
小林はフードに頭を隠し、体をなるべく縮め、灯りから逃れるように視界を腕と床で塞いだ。客観的に見れば惨めな姿だろう。こうでもしなければ、自分が何をするか分からなかったのだ。衝動に任せるなら、今すぐに廊下に飛び出し、窓を割って二階から飛び出し、あの本の影響範囲から逃れたいのだ。だが、それをしてはいけない。だから、いつ施されるとも知れない静かな改変を、じっと黙ってやり過ごす他ない。
「何故……?」
あの暗い書庫を思った。太陽も月も、蟹が歩く砂浜もない場所だ。母の迎えを待つ雨さえ降らないが、誰の目もない書庫だ、さびしいところだ。あんな暑苦しく凍えそうな場所を、安息のために求める日が来るなど、昨日までは思いもしなかったのに。
「……怖い」
蹲り、目を瞑った。闇の中では、同じことに過ぎない。
【冷たく固い感触の上に、膝を立てて座っている。身を寄せる硬さは石のようだ。手を伸ばせば向こうの壁に触れる。とても狭い、石の壁だ。
ここには、窓も灯りもない。その必要も無いのか、格子さえない。目はいくら闇に慣れようと、何も映さない。だが何となく、同じ空間に、自分以外に閉じ込められたものがある。少し身動きをすれば、腰の辺りや伸ばした指先に、重くぬるっとしたざらつく液体がへばりつくのだ。粘度の非常に高い泥などはこんな風だろうか。
自分は、いつも通りの服を着ている。垢と血の染みたぼろは長く着たせいで擦り切れている。手首や足首が露出していて、頻繁に泥を被る。頭に覆うものが何もないのが落ち着かない。こんなに狭くては、隠れられない。何かに見つかった時、すぐに立ち上がることもままならない。
身を縮こめていると、耳に何か這いずる音が触れた。怖気が走り顔を上げると頭をぶつけそうになる。その頭に、重く冷たい泥が塊で落ちた。伝う水分から臭気が鼻をつく。いつからだろうか、この臭いがこんなに近づくまで、気づきもしなかったとは。
泥がまた落ちて、肩や背中を汚す。いちいち重い。いつの間にか足を浸してぬるくなった泥が、調子に乗って這い上がってくる。気色が悪い。声を出そうと口を開けたが、何故か掠れた吐息しか出なかった。
泥が次第に潰しにかかる。手についたものを無闇矢鱈に振り回して払ったが、むしろその手に泥がかかる。臭い。逃れることが出来ない。こんなに狭い部屋では、どこにも行けない。乾ききった喉では、声も出せない。石の壁では、何をしても仕方がない。
目の前がふと、いっそう黒くなった。いよいよ顔まで泥に浸かるかと思ったが、違う。泥には違いないが、だらぁと垂れ落ちて目の前に伸びてきた、人の頭ほどの大きさの泥であった。泡が弾けて口をつくり、臭い息を吹き付けてくる。
【どこへ?】
その声に、覚えがなかった。声は、導火線に火のついた、怒りを露わにしている。そんな怒りを向けられる覚えはなかった。もしや、これが負の感情の真の姿なのだろうか。不要と切り捨てた愚かな人間へ、復讐に来たとでも言うのだろうか。そうだとして──何ができるというのか。
「いやだ」
思わず言った口に泥が入る。気道が塞がり咳さえ出来ない。肺腑の酸素を奪われ頭が沸騰する。一人ここにいることを、誰も知らない。
頭が熱い。神経が冷たい。失いそうな意識はいやに鮮明だ。泥に浮かんだ怒りが大きく口を開けた。死にかけの哀れな男へ、明らかに何かを、
【わすれたか】 と。】
は、と顔を上げた。
うつ伏せになった腰が痛む。硬い床に這いつくばりながら室内を見回した。偽物の火がある。誰もいない。扉は閉まっている。己を確かめるために深呼吸をした。床につけた腕と腹が冷たい。心臓は、暫く拍動がうるさかったが、そのうち落ち着いてきた。
「今のは、夢?」
嫌な夢だった、と思ったが、もう上手く思い出せない。最後に言われた言葉だけはまだ耳に残っている。
「……わすれた、か……? 何を?」
不快感が残る気分に不思議を思いながら体を起こしたが、床で眠ったせいか気怠さが残っていた。ふと袂を探った手に気づき、当たり前に空をかいた指先に苦笑する。
「癖になってる」
ふと、自室に置いてきた文庫本を読みたくなった。だがよくよく考えると、本当に読みたいのはあの本ではないような気がする。小林は首を捻った。秀呼優という作家の著書は、今のところ『新星』とあの文庫本以外を知らない。だが、知らないはずの『何か』が、確かに読みたかった。勿論、何の心当たりもない。
「また、調べないと……んん」
少し体を伸ばすと、上げた腕がごく軽いことに気づいた。常に粘度の高い泥を被って動いているかのような重さや動けなさが、さっぱり無くなっている。
「はは、……」
立ち上がると、補修の効果がより明確になった。体は本来こういうものだと思い出す軽さで、頭痛も全く無い。当然怨み言も押し黙っているし、何を言われていたのかも覚えていない。気兼ねなく散歩が出来た後のように穏やかで、清々しい気分だった。つまり、補修が成功したことを意味している。
「……弄られてないといいな」
呟いたのは先刻までの名残だ。自分で言ったことだが、小林は自嘲した。
「なんて。どうしてこんなことを思ったんだろう」
とはいえ、他人に本を預けたままなのは落ち着かない。早く本を返してもらいたいが、と思った時、折良く全館放送を意味する鐘の音がどこからともなく鳴り響いた。
『──職員番号、二十七番。お越しください。繰り返します。職員番号、二十七番。お越しください』
放送の声はスタッフのものだ。放送室につきっぱなしと噂の者がいて、広くないが一人を見つけるには難儀する図書館全体へ、細部を隠して呼び出しを行う。職員番号は文豪に割り当てられた番号だ。小林は苦笑混じりに目を伏せた。
「二十七番、か。……良かった。ちゃんとこの呼び方は、好きじゃない」
しばらく近づかなかった補修室に今更来ると、それだけで妙に緊張する。小林は意を決して三度戸を叩いた。中から司書の声が「どうぞ」と促す。冷たいドアノブを握るのも、少し勇気がいるのがおかしい。
中に入って真っ先に目に入るのは、壁一面の収納だ。古い薬屋の設えにも似た一つ一つにはラベルが貼ってあり、筆でも細いのや太いのに分かれる細かさで、それぞれに補修用の道具が収まっている。
反対の壁には腰の高さに作業台があり、そこに座ると正面の透明な硝子窓から向こうの部屋が見えるようになっていた。向こうの部屋は医務室で、今は誰も寝ていない。
「ここへ入るのは初めてでしたか」
目を逸らしていた相手から声をかけられ、小林の心臓が跳ねた。慌てて向き直る。作業台に座る特務司書が、静かに小林を見つめていた。
「……いや」
「補修は終了しています。どうぞ」
「……あり、がとう」
司書は一瞥したが、すぐに外し、作業台の上にあった本を片手で小林に差し向けた。小林は近づき、さっと取り、すぐに開いた。表紙は間違いなく小林の著作だが、中を見ても読めない文字列しか詰まっていない。どこに何が書いてあるのか、文豪には読むことが出来ない。分かるのはただ、文字に滲みが無く、文字列内の不自然な空白がなく、整然としていることだけだ。小林は諦めて本を閉じ、定位置に収めた。不安はまだ拭えないが、身体に感じる明らかな調子の良さが全てを物語っている。
「身体感覚や知覚の異常、記憶の混濁といった症状はありませんか」
「……何も無い」
小林は警戒しつつ答えた。司書の問いは矢継ぎ早である。
「幻覚や幻聴は?」
「ない」
「熱心にご自身の本を見ていましたが、読むことはできますか」
「読めない。だがアンタが変なことをしていないか、見ているんだ」
「成程。良い心がけですね」
「……もういいか?」
「生前の貴方は本を書いていたようですが、本を作る方の業務に覚えは?」
「は?」
突拍子もない質問だ。小林の驚きを、司書は顔を向けて見つめた。
「何故そんなことを」
「知らないので、お尋ねしました。覚えは?」
「……必要な質問?」
「答えられないようですね」
司書はあっさり打ち切った。小林の答えなど最初から求めていないかのように。それで小林は不快を隠しつつ、
「……作る方と言っても広い。何が聞きたいの」
と、自ら踏み込んでみる。司書に何かを尋ねたことは、これが初めてのような気がした。
「大したことではありません。書籍に見られる皆様の文章には、草稿時点からどの程度手を加えられるものなのかと、疑問を感じまして」
「……推敲、もしくは編集? 編集者にでもなりたいなら、やめておいた方がいい。アンタの手にかかった本はきっとつまらなくなる」
「それは何故? 編集作業とは統一された基準に従い行われるのではないのですか」
小林は、本を括った右足を自然と後ろへ引いていた。
「作家も個人だし、編集者も最終的には一人の人間だ。社の方針に則ったやり方はするだろうが、統一できる基準なんて表記上のものぐらいだろ。編集は読者の視点に立った視点が要求される。時には作家自身には見えていない可能性を提示することもある」
「ふむ」
「作家と共に作品を面白く、より多くの人の手に渡るようにする大切な役割だ。アンタ、そういうことに興味があるのか?」
「作家と共に、ですか。そういうものですか。成程」
「……」
小林は、司書を苦手とする理由を、段々と思い出した。この煙に巻くような物言い。肝心なことだけは説明せず、自らの好奇心を満足させるためだけのような問い方。結論を補強するための実践。この司書は初めて顔を合わせた時からそうだった。初めて──一体どれほど時間が経ったのかも、暦が無いため分からない。これも司書の結論ありきの賜物だ。
『皆様は情報を基にする人工の概念体です。基盤である情報が不変である限り、皆様の意識や感覚もまた不変です。当館は最小限の資源で運用するように設定されました。御協力ください』
まるで耳元に聞こえたような記憶だ。小林は、もう一歩下がった。すると不躾な司書が問う。
「幻聴ですか?」
司書こそ不変だ。ずっとこうだ。小林には、司書にこそ人間を感じられない。彼にとって図書館は研究施設だ。研究対象は文豪たちで、捌き切れる十名に収めつつ行動や変調を観察している。はっきりそうと言われたことは無いが、一線を引いた態度が告げている。
(ああ、そうだ)
小林は今更ながら、身の軽さを恨んだ。一体何を見られて、何が奪われたが故の軽さなのか。それを知る術は、自分たちにあるのか。
(だから、補修を受けたくなかった)
司書は、よく小脇に抱えているバインダーを開いて何か書き付けた後、嫌悪感をもって見つめる小林を見上げ、
「では、作家である皆様をより良い未来へ導く立場である我々もまた、編集者であると言うことができますね」
と宣い、小林が反駁する前に重ねた。
「では提言します。小林先生は当分全ての潜書を取りやめてください」
「は?」
「スタッフにはこちらから通達しておきます。よろしいですね」
「なんの権限があって」
「政府より派遣された公務員たる特務司書、その権限をもっての提言です。分かりづらいなら……命令と言い換えても構いません。近頃の貴方のご様子を見れば、当然の処置でしょう。使い物にならなくなっては貴方も困るはずです」
取り付く島もない。小林はいつの間にか、体の疲労感と引き換えに、崖の縁に追い詰められていることに気づいた。あと一歩下がればどこまでも【堕ちる】。唯一の退路には、特務司書の【目がどこまでもついてくる】。
「潜書禁止の解除時期は追ってお伝えします。休暇をお過ごしください。本など読んではいかがですか。ここには幾らでもある」
「……ここの、蔵書数を、知っての言い方か」
「読み返すことも理解に有用です。それでは退室してください。お疲れ様でした」
司書はバインダーに向いて、もう何も言わない。やむなく小林は補修室を出た。足が重い。
「よ」
声がかかる。顔をあげると、腕組をした志賀が壁に寄りかかり立っていて、柔和な微笑で小林を迎えていた。
「あんまり遅えから来ちまった。具合はどうだ?」
「……直哉サン」
いつの間にか無くしていた温度が、胸に戻ってくる。ふと目の奥がツンと痛むのが不思議だった。志賀直哉という男は、小林が足元を見失った時にはいつも、風のように駆けつけてくる。ましてや、三人、四人しかいなかった頃を共に支えあった同士ともなれば。
「アンタはいつも、そうなんですね」
「どうした、急に。俺はいつでも俺だぜ」
「潜書を禁じられました」
志賀の表情が消えた。端的な事実以上のことが伝わったのだ。小林は薄ら笑って見せたが、笑えていたかわからなかった。
「何でだ。そんなに……体は」
「好調です。……」
「俺が話してやる」
「やめてください。無駄です」
小林は、本当に直訴に行きかねない勢いで近づいてきた志賀の前に立ち塞がった。それから志賀に目配せをして、廊下の端、階段の踊り場を示して、もう一度目を合わせる。志賀は小林よりも動揺し、何度か補修室の扉を気にしたが、最後には小林の言う通りにした。
二人だけで踊り場に立つと、今更になって汗が滲んだ。世界はまだ暑い時期が続くらしい。食堂の方が空調が効くが、小林が人目を気にして、ここでいいと手すりにもたれた。
「……さっきは悪かった」
「いえ。気持ちは嬉しかったです」
「禁止は、いつまでなんだ」
「さあ」
「さあ、ってどういうことだ。そういうのは大体期間を決めてやるはずだ。無理をした分の休暇だってんなら、二週間……か、一ヶ月ぐれえか?」
「分かりません。追って伝えると言ってましたが……本当にその気があるのかどうか」
「そんな適当な話があるか! 仮にも仕事だろうが」
「飼っている鼠や猫が、一旦回復したからと言って、いちいち期間を決めて様子見をしますか。変化がないかどうか、それから逐一観察し、調べながら、手の届く範囲で過ごさせるはずです。不審な動きをするなら、二週間どころか、一年、それ以上だってそうするでしょう。それと同じだ……あの人にとって俺たちは、動物と同じ。ただ違うのは、情が関与しないことです」
手すりを掴む。金属製の直角が掌に刺さり、生ぬるさが伝わる。直線状の格子の足元は綺麗で、埃一つ数えられない。志賀も隣で手すりを掴み、不必要なまでに強く握った。
「……力になれなくて、すまないな」
「俺の方こそ。しばらく、皆には迷惑をかけます。欠員補充は、俺の方で探しておきますから」
「俺が出る。それならいいだろ」
「……感謝します」
「それで……これから、どうするかは決めたのか」
小林は黙った。先程から、未来について具体的なことを考えることが難しかった。
「……すみません。何も」
「そうか。……そうだろうな」
小林の頭に重みが乗った。フード越しに掌を感じる。目を向けなくても心が伝わる。小林は初めて少し涙ぐみそうになった。
「……直哉サン、俺」
「こんばんはー」
背後からの声に身がすくむ。スタッフの声だ。
「小林多喜二サマ、志賀直哉サマ、何かございましたか?」
「あー、問題ない。何もな」
志賀が小林のフードをより深く被るように引いた。小林はじっとそこに動かずにいた。
「何かございましたか?」
「風に当たってんだ。ここはどこも窓が開いてねえだろ。もう本館も閉まっちまう頃合だ」
「そうでしたか。ご不便おかけして申し訳ありません。ご理解ください。何かございましたらいつでもお声がけくださいね。失礼します」
足音が遠のく。暫くしてから、小林の頭から重みが離れた。ようやく顔を上げると、志賀は思いもよらず顔を顰めて、階段上の方を見上げている。
「……直哉サン?」
小声をかけた。志賀は小林の頭をぽんぽんとやって、手すりに背中をもたせかけ、
「ああ言うんなら外出許可のひとつも出せってな」
と、軽口を言う。小林は少し吹き出した。
「本当に、そうですね」
「しっかし、ここにいちゃスタッフが彷徨いてやがる。本館は人の目がある。自室に引きこもろうにも限界がある」
「それなんですが、俺は暫く日中、書庫に篭ろうと思います」
「書庫?」
頷き、「ちょうど調べていたこともあるので」と付け足す。すると何故か数瞬の間があった。
「……何を?」
「まだ、言えません。すみません」
「俺にも、言えないようなことか?」
「はい。直哉サンにも、言えないようなことです」
「そりゃよっぽどのことだ。分かったよ。お前を信じる、が」
首を傾げた小林の額に志賀の指打が当たった。意外に痛みが鋭く、呻く小林に笑う。
「ちゃんと飯は食え。あと頼れ。いいな?」
あくる日、潜書から帰還した直後、小林は司書を前にして動けなくなった。他の三人のところにはスタッフの壱から参がついている。小林のところにだけ、司書がいる。
「珍しいことも……あるもんだな。アンタが、手ずからとは」
国木田はまだ荒い呼吸を整えながら言う。田山は両膝に手をついて支えにし、ようやく立っていたのを、スタッフの一人が近寄って支える。潜書は苦戦し、全員何らかの負傷をしてきたところで、それは小林も例外ではない。小林の膝は何によるものか、大きく震えている。
「スタッフ。こちらは無視しなさい」
『承知しました』
「小林先生。補修を行います。本を貸してください」
スタッフたちは一斉に、三人の本を預かった。小林の所へも司書が近寄る。小林は「要らない」と言いながら後退した。
「なんでアンタが。普段ここに寄りつきもしないくせに」
「近頃、戦闘中の動作に深刻な不調、不良があると報告があります。原因は明白ですが、なぜ断るのでしょうか」
「アンタの手を煩わせるつもりは無い」
スタッフたちは部屋を出ていく。田山を抱えたスタッフが出ていくと、わざわざ扉を閉めていった。
「スタッフも無力感で落ち込んでいます」
「知らない」
「自分たちは信用に置けないようだ、と。何かが小林先生のお眼鏡に叶わないようですね。しかしそれではスタッフたちも仕事になりません。私の時間もこうして奪われている」
小林は更に一歩下がった。下がるにつれて室内が一見で見渡せるようになっていくが、逃走のための最短ルートを割り出すのに必死だった。そう広くもない室内、傷ついた同僚は三人、扉は閉ざされた。同僚たちの場所が悪い。突き飛ばしていけば司書は撒ける可能性があったが、狭い部屋では満足に動けない。何より、薬を飲んでも治らない頭痛が、ますます酷い。秀のことを考えてもいないのに。
「俺は、補修を、受けない。そこを通してくれ」
「私は道を塞ぎに来たのではありません。仕事を全うしに来たのです。それよりも私程度の体格の人間を排除できないと直感するほど弱っているようですね」
何を言っても揚げ足を取られる。小林はまた下がるが、司書からの距離は少しずつ離れるのに、逃げ道は無くなる一方だ。
「頭痛はまだあるようですね。幻聴や幻覚が出ていますか? 私が化け物のようにでも見えますか?」
耳鳴りがする。次に小林が下がると、司書が大股で一歩近づいてきた。それで離したはずの距離がぐんと縮まる。小林の目の前に、清潔な白衣が壁のように立ちはだかる。
「自分で、何とかする」
「ほう。どのように?」
焦燥と切迫のためか、視界が暗くなってきた。視野の隅に粘ついた黒い泥がある。そこからいつでもあの怨み言が湧き出し、耳を覆い始める。
「俺は」
渦巻く臭い泥の中で、司書の視線だけがギラギラと光って見えた。薬を投与したネズミを眺める者はこういう目をするのだろう。生きるのか、死ぬのか、その結果以外に興味のない人間の眼差しだ。小林は、司書のそれが嫌いで、苦手だ。
司書が無言で手を伸ばし、小林の本へ伸びた。白手袋に覆われた手の甲が割れ、覗いた目玉が小林を見据えた。反射的に叩き、直後に息を飲んでも遅い。手のひらに覚えた痛みだけを握り込み、口を噤む。
「……」
「症状でしょうか」
何を決めつけているのか、勝手なことを言う司書に呼応して、怨み言が耳元で囁いた。【突き飛ばして逃げた方が良い。どこへ逃げる? どこまでも、地の底まで。】お前は自由だ。自由を守るためには、戦うか、逃げるしかない。戦えないなら、逃げるしかない。二十一分、次はどこへ隠れる? と。それが小林の精神を蝕む侵蝕による、破滅へ導く手であると理解できてしまう。小林は、ふらりと二歩下がった。すると背が壁にぶつかる。待ってましたと言わんばかりに距離を詰めた司書は、小林の本を固定するベルトに手をかけた。
「今の貴方は精神病患者です。拒否権はありません」
司書の骨のような手が、素早くベルトを解き、本を奪った。その本には、本来の鮮やかなオレンジを覆い尽くすほどの黒が、おぞましく蠢いている。無数の蟻が砂糖に集るように、小林の本に蓄積された侵蝕や負の感情が、小林の魂を削っていくひとつの形だ。
「ここまでよく立っていられました。貴重な症例です。こうなるに至るまで放置した先例はありません」
「……」
「そこまでして補修を拒む理由をお聞かせください。風聞を耳にしましたか? それとも独自の考えで? 幻覚や幻聴が原因である可能性がありますが、小林先生はそれ以前から補修を受け付けませんでした。私が手を引いていても同然ということは、私への忌避感ではない。何を鵜呑みにしていますか? 貴方にとっての重要な真実とはどのような」
「なあもういいか?」
低くドスの効いた声が割り込んだ。しゃがみ込んだ国木田が、それまでじっと気配を消していた所へ、急に口を開いた上に司書の方を睨み上げている。司書が言葉を止めると、舌打ちまで重ねた。
「黙って聞いていれば気分が悪くなる一方だ。用が済んだならさっさと仕事をしてくれ。こっちはただでさえ気が滅入るんだ」
文句を言いながらも、口を薄ら開けて息をする姿は苦しげだ。不愉快を顕にしながら脂汗もかいている。
司書は、背後から刺してきた声を肩越しに振り返って、そのままじっと見た。国木田も受けつつ黙って視線を返した。小林はちょっと顔を上げて国木田の方を見たが、細身の体にはあちこちに、裂かれた傷がある。そこに青黒い穢れもこびりついている。途中頭痛のあまり動けなくなった小林を庇い、近接戦にまで臨む羽目になったことによる負傷を、随分食らっていたはずだった。そこまでの傷を負わせた要因は自分であると、小林は否が応でも自覚させられ、凝り固まった反発心が力を失っていく。
「……ふむ」
俯いた小林を一瞥した司書は、それで背を向けた。後は何も言わずに退室する。扉が軽い音を立てて閉まると、「あーーー、」と国木田がため息混じりに天井へ雄叫びを上げた。
「言い方が悪かった! すまん!」
小林は面食らった。するとその声で弾けたように田山が笑い出す。困惑する小林の元へ、国木田はふらふらとやって来て、両肩をがっしりとおさえた。
「悪い。気を悪くしてたら謝る。あの司書の物言いが気に食わなかっただけなんだが、お前に文句を言ったように聞こえたかもしれん」
「あ、頭を上げてくれ……実際、俺がもっとしっかりしていたら良かったんだ。変な意地を張らずに、言うことを聞けば……」
尻すぼみになる小林に、国木田は「いいや」と顔を上げ、真っ直ぐ目を見た。
「お前の気持ちは皆知ってるさ。俺だってよく知ってる、何よりお前が一番よくやって来たんだ。あんな言い方をされる謂れはない」
それを何だ、あいつ、と悪態をつきながら、国木田はちぇっと舌打ちまでして、床を音立てて踏んだ。そっと手から離れて一歩距離をとる小林に気づかず、閉じた扉に指を指し指し、
「自分の怠慢が招いたことだろうに、責任転嫁ばかりで全く腹が立つ! ナメやがって、次顔を合わせたら小一時間詰めてやりたいよ。どうせ修復作業だってスタッフ任せなんだ、一言物申したっていいだろ」
「まーまーそんぐらいにしとけよ、な!」
国木田の元へほとんど突進する勢いの田山は、のしかかるように肩へ腕を回し、深い谷を作る眉間を指先で伸ばす。
「侵蝕が酷くて気が立ってる時に、人に喧嘩を売るのは精神衛生上良くないぜ」
「んなこと、アンタに言われなくたってわかってるが」
「それよりさあ、独歩、お前すげぇかっこよかったぜ! 用が済んだならさっさと仕事をしてくれ、ってさ!」
疲労困憊の様子はどこへやら、どことなく誇張した声真似は少し似ていて、小林はふっと少し笑った。
「ビシッと言ってやったな! オレも清々したよ」
「花袋はやけに元気だな……傷は?」
「お前らほどじゃないし、スカッとしたら元気が出てきた! 今ならお前ら二人とも抱え上げて、医務室に連れて行くぐらい出来るぞ」
田山は上腕二頭筋を盛り上げて鼻息を荒くする。弓を使うからには腕に疲労がかなり残っているはずなのに、敢えてそういう素振りをするのが彼だ。小林は笑みを浮かべて、緩く首を振った。
「気持ちは嬉しいけど、俺は大丈夫」
「俺も遠慮する。途中で落とされちゃたまらん」
「んなことしねぇって!」
「二人は先に医務室に行ってくれ。俺は少し、一人になりたいから」
国木田の表情が曇る。田山は国木田と小林を順に見て何かを察しつつ、「平気なのか?」と小林を案じる。
「司書の言葉を信じるわけじゃないけどさ、相当しんどいんじゃ」
「そうでもないんだ。だから、大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ……アンタ、今日まで毎日あんなに前線で戦っておいて、そうでもないなんてことがあるか?」
毎回戦闘に出る小林と違い、国木田は四回に一回程度だ。それでも共に戦う時は、よく小林を支え、助けてくれた。近くで見ていることが多いからこそ、知っていることも多い。それで何かを言いかけたが、扉が閉まる音に遮られた。
「え」
驚いた三人は一斉に振り返った。だが誰もいない。
「今のは……」
「中島サン、ひょっとして、ずっと俺たちを待っていたのか」
会派四人目の中島は、いつも何も言わずに一人で立ち去る。小林はてっきり、司書と同時ぐらいに出て行ったものと思っていたのだが。
「外から誰かが覗き込んだ……んでなければ、中島だな。俺たちの様子を伺っていたのか?」
「……出るタイミングを見計らっていたが、堪えきれなくなったのかもしれない。そうだとしたら申し訳ないな」
「そんなことを気にするような人じゃねーだろ。しょっちゅう人のこと睨んでくるし、平和ボケだのなんだのと言ってくるし……あいてて……」
田山は国木田に回さない方の手で脇腹を抑えた。それを見て、国木田は逡巡したが、
「……じゃあ、先に行くが。良ければ後で、食堂とかで話そう。アンタも……一人で抱え込むなよ」
そう言って、頷いた小林の肩を二度叩き、田山と引きずり合いながら出て行った。ぼうっと見送った小林の目の前で、扉が閉まり、途端訪れる静寂に押しつぶされるように、ゆっくりとその場で座り込んだ。昨日まで、この時間の静寂は安寧だった。だが今は不安と恐怖を心に満たす、恐ろしい激流に似ていた。
「なんで、こんなに怖いんだろう」
己の魂を清めるのが補修だ。受ければ不調が夢のように治る。それを怖がる文豪など、この世にどれだけいるのだろうか。それも、子どもが何も無い闇を恐れるように、謂れもなく。
「そんなひとが、俺の他に……いるものか」
小林はフードに頭を隠し、体をなるべく縮め、灯りから逃れるように視界を腕と床で塞いだ。客観的に見れば惨めな姿だろう。こうでもしなければ、自分が何をするか分からなかったのだ。衝動に任せるなら、今すぐに廊下に飛び出し、窓を割って二階から飛び出し、あの本の影響範囲から逃れたいのだ。だが、それをしてはいけない。だから、いつ施されるとも知れない静かな改変を、じっと黙ってやり過ごす他ない。
「何故……?」
あの暗い書庫を思った。太陽も月も、蟹が歩く砂浜もない場所だ。母の迎えを待つ雨さえ降らないが、誰の目もない書庫だ、さびしいところだ。あんな暑苦しく凍えそうな場所を、安息のために求める日が来るなど、昨日までは思いもしなかったのに。
「……怖い」
蹲り、目を瞑った。闇の中では、同じことに過ぎない。
【冷たく固い感触の上に、膝を立てて座っている。身を寄せる硬さは石のようだ。手を伸ばせば向こうの壁に触れる。とても狭い、石の壁だ。
ここには、窓も灯りもない。その必要も無いのか、格子さえない。目はいくら闇に慣れようと、何も映さない。だが何となく、同じ空間に、自分以外に閉じ込められたものがある。少し身動きをすれば、腰の辺りや伸ばした指先に、重くぬるっとしたざらつく液体がへばりつくのだ。粘度の非常に高い泥などはこんな風だろうか。
自分は、いつも通りの服を着ている。垢と血の染みたぼろは長く着たせいで擦り切れている。手首や足首が露出していて、頻繁に泥を被る。頭に覆うものが何もないのが落ち着かない。こんなに狭くては、隠れられない。何かに見つかった時、すぐに立ち上がることもままならない。
身を縮こめていると、耳に何か這いずる音が触れた。怖気が走り顔を上げると頭をぶつけそうになる。その頭に、重く冷たい泥が塊で落ちた。伝う水分から臭気が鼻をつく。いつからだろうか、この臭いがこんなに近づくまで、気づきもしなかったとは。
泥がまた落ちて、肩や背中を汚す。いちいち重い。いつの間にか足を浸してぬるくなった泥が、調子に乗って這い上がってくる。気色が悪い。声を出そうと口を開けたが、何故か掠れた吐息しか出なかった。
泥が次第に潰しにかかる。手についたものを無闇矢鱈に振り回して払ったが、むしろその手に泥がかかる。臭い。逃れることが出来ない。こんなに狭い部屋では、どこにも行けない。乾ききった喉では、声も出せない。石の壁では、何をしても仕方がない。
目の前がふと、いっそう黒くなった。いよいよ顔まで泥に浸かるかと思ったが、違う。泥には違いないが、だらぁと垂れ落ちて目の前に伸びてきた、人の頭ほどの大きさの泥であった。泡が弾けて口をつくり、臭い息を吹き付けてくる。
【どこへ?】
その声に、覚えがなかった。声は、導火線に火のついた、怒りを露わにしている。そんな怒りを向けられる覚えはなかった。もしや、これが負の感情の真の姿なのだろうか。不要と切り捨てた愚かな人間へ、復讐に来たとでも言うのだろうか。そうだとして──何ができるというのか。
「いやだ」
思わず言った口に泥が入る。気道が塞がり咳さえ出来ない。肺腑の酸素を奪われ頭が沸騰する。一人ここにいることを、誰も知らない。
頭が熱い。神経が冷たい。失いそうな意識はいやに鮮明だ。泥に浮かんだ怒りが大きく口を開けた。死にかけの哀れな男へ、明らかに何かを、
【わすれたか】 と。】
は、と顔を上げた。
うつ伏せになった腰が痛む。硬い床に這いつくばりながら室内を見回した。偽物の火がある。誰もいない。扉は閉まっている。己を確かめるために深呼吸をした。床につけた腕と腹が冷たい。心臓は、暫く拍動がうるさかったが、そのうち落ち着いてきた。
「今のは、夢?」
嫌な夢だった、と思ったが、もう上手く思い出せない。最後に言われた言葉だけはまだ耳に残っている。
「……わすれた、か……? 何を?」
不快感が残る気分に不思議を思いながら体を起こしたが、床で眠ったせいか気怠さが残っていた。ふと袂を探った手に気づき、当たり前に空をかいた指先に苦笑する。
「癖になってる」
ふと、自室に置いてきた文庫本を読みたくなった。だがよくよく考えると、本当に読みたいのはあの本ではないような気がする。小林は首を捻った。秀呼優という作家の著書は、今のところ『新星』とあの文庫本以外を知らない。だが、知らないはずの『何か』が、確かに読みたかった。勿論、何の心当たりもない。
「また、調べないと……んん」
少し体を伸ばすと、上げた腕がごく軽いことに気づいた。常に粘度の高い泥を被って動いているかのような重さや動けなさが、さっぱり無くなっている。
「はは、……」
立ち上がると、補修の効果がより明確になった。体は本来こういうものだと思い出す軽さで、頭痛も全く無い。当然怨み言も押し黙っているし、何を言われていたのかも覚えていない。気兼ねなく散歩が出来た後のように穏やかで、清々しい気分だった。つまり、補修が成功したことを意味している。
「……弄られてないといいな」
呟いたのは先刻までの名残だ。自分で言ったことだが、小林は自嘲した。
「なんて。どうしてこんなことを思ったんだろう」
とはいえ、他人に本を預けたままなのは落ち着かない。早く本を返してもらいたいが、と思った時、折良く全館放送を意味する鐘の音がどこからともなく鳴り響いた。
『──職員番号、二十七番。お越しください。繰り返します。職員番号、二十七番。お越しください』
放送の声はスタッフのものだ。放送室につきっぱなしと噂の者がいて、広くないが一人を見つけるには難儀する図書館全体へ、細部を隠して呼び出しを行う。職員番号は文豪に割り当てられた番号だ。小林は苦笑混じりに目を伏せた。
「二十七番、か。……良かった。ちゃんとこの呼び方は、好きじゃない」
しばらく近づかなかった補修室に今更来ると、それだけで妙に緊張する。小林は意を決して三度戸を叩いた。中から司書の声が「どうぞ」と促す。冷たいドアノブを握るのも、少し勇気がいるのがおかしい。
中に入って真っ先に目に入るのは、壁一面の収納だ。古い薬屋の設えにも似た一つ一つにはラベルが貼ってあり、筆でも細いのや太いのに分かれる細かさで、それぞれに補修用の道具が収まっている。
反対の壁には腰の高さに作業台があり、そこに座ると正面の透明な硝子窓から向こうの部屋が見えるようになっていた。向こうの部屋は医務室で、今は誰も寝ていない。
「ここへ入るのは初めてでしたか」
目を逸らしていた相手から声をかけられ、小林の心臓が跳ねた。慌てて向き直る。作業台に座る特務司書が、静かに小林を見つめていた。
「……いや」
「補修は終了しています。どうぞ」
「……あり、がとう」
司書は一瞥したが、すぐに外し、作業台の上にあった本を片手で小林に差し向けた。小林は近づき、さっと取り、すぐに開いた。表紙は間違いなく小林の著作だが、中を見ても読めない文字列しか詰まっていない。どこに何が書いてあるのか、文豪には読むことが出来ない。分かるのはただ、文字に滲みが無く、文字列内の不自然な空白がなく、整然としていることだけだ。小林は諦めて本を閉じ、定位置に収めた。不安はまだ拭えないが、身体に感じる明らかな調子の良さが全てを物語っている。
「身体感覚や知覚の異常、記憶の混濁といった症状はありませんか」
「……何も無い」
小林は警戒しつつ答えた。司書の問いは矢継ぎ早である。
「幻覚や幻聴は?」
「ない」
「熱心にご自身の本を見ていましたが、読むことはできますか」
「読めない。だがアンタが変なことをしていないか、見ているんだ」
「成程。良い心がけですね」
「……もういいか?」
「生前の貴方は本を書いていたようですが、本を作る方の業務に覚えは?」
「は?」
突拍子もない質問だ。小林の驚きを、司書は顔を向けて見つめた。
「何故そんなことを」
「知らないので、お尋ねしました。覚えは?」
「……必要な質問?」
「答えられないようですね」
司書はあっさり打ち切った。小林の答えなど最初から求めていないかのように。それで小林は不快を隠しつつ、
「……作る方と言っても広い。何が聞きたいの」
と、自ら踏み込んでみる。司書に何かを尋ねたことは、これが初めてのような気がした。
「大したことではありません。書籍に見られる皆様の文章には、草稿時点からどの程度手を加えられるものなのかと、疑問を感じまして」
「……推敲、もしくは編集? 編集者にでもなりたいなら、やめておいた方がいい。アンタの手にかかった本はきっとつまらなくなる」
「それは何故? 編集作業とは統一された基準に従い行われるのではないのですか」
小林は、本を括った右足を自然と後ろへ引いていた。
「作家も個人だし、編集者も最終的には一人の人間だ。社の方針に則ったやり方はするだろうが、統一できる基準なんて表記上のものぐらいだろ。編集は読者の視点に立った視点が要求される。時には作家自身には見えていない可能性を提示することもある」
「ふむ」
「作家と共に作品を面白く、より多くの人の手に渡るようにする大切な役割だ。アンタ、そういうことに興味があるのか?」
「作家と共に、ですか。そういうものですか。成程」
「……」
小林は、司書を苦手とする理由を、段々と思い出した。この煙に巻くような物言い。肝心なことだけは説明せず、自らの好奇心を満足させるためだけのような問い方。結論を補強するための実践。この司書は初めて顔を合わせた時からそうだった。初めて──一体どれほど時間が経ったのかも、暦が無いため分からない。これも司書の結論ありきの賜物だ。
『皆様は情報を基にする人工の概念体です。基盤である情報が不変である限り、皆様の意識や感覚もまた不変です。当館は最小限の資源で運用するように設定されました。御協力ください』
まるで耳元に聞こえたような記憶だ。小林は、もう一歩下がった。すると不躾な司書が問う。
「幻聴ですか?」
司書こそ不変だ。ずっとこうだ。小林には、司書にこそ人間を感じられない。彼にとって図書館は研究施設だ。研究対象は文豪たちで、捌き切れる十名に収めつつ行動や変調を観察している。はっきりそうと言われたことは無いが、一線を引いた態度が告げている。
(ああ、そうだ)
小林は今更ながら、身の軽さを恨んだ。一体何を見られて、何が奪われたが故の軽さなのか。それを知る術は、自分たちにあるのか。
(だから、補修を受けたくなかった)
司書は、よく小脇に抱えているバインダーを開いて何か書き付けた後、嫌悪感をもって見つめる小林を見上げ、
「では、作家である皆様をより良い未来へ導く立場である我々もまた、編集者であると言うことができますね」
と宣い、小林が反駁する前に重ねた。
「では提言します。小林先生は当分全ての潜書を取りやめてください」
「は?」
「スタッフにはこちらから通達しておきます。よろしいですね」
「なんの権限があって」
「政府より派遣された公務員たる特務司書、その権限をもっての提言です。分かりづらいなら……命令と言い換えても構いません。近頃の貴方のご様子を見れば、当然の処置でしょう。使い物にならなくなっては貴方も困るはずです」
取り付く島もない。小林はいつの間にか、体の疲労感と引き換えに、崖の縁に追い詰められていることに気づいた。あと一歩下がればどこまでも【堕ちる】。唯一の退路には、特務司書の【目がどこまでもついてくる】。
「潜書禁止の解除時期は追ってお伝えします。休暇をお過ごしください。本など読んではいかがですか。ここには幾らでもある」
「……ここの、蔵書数を、知っての言い方か」
「読み返すことも理解に有用です。それでは退室してください。お疲れ様でした」
司書はバインダーに向いて、もう何も言わない。やむなく小林は補修室を出た。足が重い。
「よ」
声がかかる。顔をあげると、腕組をした志賀が壁に寄りかかり立っていて、柔和な微笑で小林を迎えていた。
「あんまり遅えから来ちまった。具合はどうだ?」
「……直哉サン」
いつの間にか無くしていた温度が、胸に戻ってくる。ふと目の奥がツンと痛むのが不思議だった。志賀直哉という男は、小林が足元を見失った時にはいつも、風のように駆けつけてくる。ましてや、三人、四人しかいなかった頃を共に支えあった同士ともなれば。
「アンタはいつも、そうなんですね」
「どうした、急に。俺はいつでも俺だぜ」
「潜書を禁じられました」
志賀の表情が消えた。端的な事実以上のことが伝わったのだ。小林は薄ら笑って見せたが、笑えていたかわからなかった。
「何でだ。そんなに……体は」
「好調です。……」
「俺が話してやる」
「やめてください。無駄です」
小林は、本当に直訴に行きかねない勢いで近づいてきた志賀の前に立ち塞がった。それから志賀に目配せをして、廊下の端、階段の踊り場を示して、もう一度目を合わせる。志賀は小林よりも動揺し、何度か補修室の扉を気にしたが、最後には小林の言う通りにした。
二人だけで踊り場に立つと、今更になって汗が滲んだ。世界はまだ暑い時期が続くらしい。食堂の方が空調が効くが、小林が人目を気にして、ここでいいと手すりにもたれた。
「……さっきは悪かった」
「いえ。気持ちは嬉しかったです」
「禁止は、いつまでなんだ」
「さあ」
「さあ、ってどういうことだ。そういうのは大体期間を決めてやるはずだ。無理をした分の休暇だってんなら、二週間……か、一ヶ月ぐれえか?」
「分かりません。追って伝えると言ってましたが……本当にその気があるのかどうか」
「そんな適当な話があるか! 仮にも仕事だろうが」
「飼っている鼠や猫が、一旦回復したからと言って、いちいち期間を決めて様子見をしますか。変化がないかどうか、それから逐一観察し、調べながら、手の届く範囲で過ごさせるはずです。不審な動きをするなら、二週間どころか、一年、それ以上だってそうするでしょう。それと同じだ……あの人にとって俺たちは、動物と同じ。ただ違うのは、情が関与しないことです」
手すりを掴む。金属製の直角が掌に刺さり、生ぬるさが伝わる。直線状の格子の足元は綺麗で、埃一つ数えられない。志賀も隣で手すりを掴み、不必要なまでに強く握った。
「……力になれなくて、すまないな」
「俺の方こそ。しばらく、皆には迷惑をかけます。欠員補充は、俺の方で探しておきますから」
「俺が出る。それならいいだろ」
「……感謝します」
「それで……これから、どうするかは決めたのか」
小林は黙った。先程から、未来について具体的なことを考えることが難しかった。
「……すみません。何も」
「そうか。……そうだろうな」
小林の頭に重みが乗った。フード越しに掌を感じる。目を向けなくても心が伝わる。小林は初めて少し涙ぐみそうになった。
「……直哉サン、俺」
「こんばんはー」
背後からの声に身がすくむ。スタッフの声だ。
「小林多喜二サマ、志賀直哉サマ、何かございましたか?」
「あー、問題ない。何もな」
志賀が小林のフードをより深く被るように引いた。小林はじっとそこに動かずにいた。
「何かございましたか?」
「風に当たってんだ。ここはどこも窓が開いてねえだろ。もう本館も閉まっちまう頃合だ」
「そうでしたか。ご不便おかけして申し訳ありません。ご理解ください。何かございましたらいつでもお声がけくださいね。失礼します」
足音が遠のく。暫くしてから、小林の頭から重みが離れた。ようやく顔を上げると、志賀は思いもよらず顔を顰めて、階段上の方を見上げている。
「……直哉サン?」
小声をかけた。志賀は小林の頭をぽんぽんとやって、手すりに背中をもたせかけ、
「ああ言うんなら外出許可のひとつも出せってな」
と、軽口を言う。小林は少し吹き出した。
「本当に、そうですね」
「しっかし、ここにいちゃスタッフが彷徨いてやがる。本館は人の目がある。自室に引きこもろうにも限界がある」
「それなんですが、俺は暫く日中、書庫に篭ろうと思います」
「書庫?」
頷き、「ちょうど調べていたこともあるので」と付け足す。すると何故か数瞬の間があった。
「……何を?」
「まだ、言えません。すみません」
「俺にも、言えないようなことか?」
「はい。直哉サンにも、言えないようなことです」
「そりゃよっぽどのことだ。分かったよ。お前を信じる、が」
首を傾げた小林の額に志賀の指打が当たった。意外に痛みが鋭く、呻く小林に笑う。
「ちゃんと飯は食え。あと頼れ。いいな?」
