起
「はい、きつねうどんですね。お呼びしますから、お席でお待ちくださーい」
食券を受け取ったスタッフが厨房に消え、小林と中野はカウンターを離れて志賀の座るテーブルに向かった。きつねうどんはそう時間がかからない。すぐに呼ばれるだろう。小林は中野に先立つため、カウンターの方に気を配りながら、志賀の目の前の席に座って肩を縮めた。
「何をそうかしこまってるんだ? 今から鬼上司にでもいびられるのか?」
「いえっ、そんなつもりでは……」
小林を揶揄った志賀はからから笑い、「そう怯えなくて良い」と、自分のきつねうどんを啜った。志賀のうどんはとっくに冷めている。二人が来るのを待ち過ぎたせいだろう。少しするとカウンターから「三番でお待ちのせんせーい、お食事のご用意ができましたー」との声が飛び、小林が腰を上げようとするとすかさず中野が立ち、「多喜二は疲れているんだから座ってて」とさっさとカウンターへ行ってしまった。そうされてはもう何もできない。小林は肩を落として座り直した。
「司書に会った時の話の続きを、また聞かせてくれるか?」
「……えっと、どこまで話しましたっけ……確か、声をかけられて……」
「声をかけられたところまでだな。どんな話をした?」
小林が本題の話をしている間に、中野がひとつの盆に二人分のうどんを載せて運んできた。志賀が空けておいたスペースに危なげなく盆を載せ、小林の前にうどん鉢を置き、割り箸と蓮華を手渡し、紙ナプキンを置いた。
「薬味もあるよ。使って」
「ありがとう、すまない……」
「いいよ。いただきます」
「二人共、トッピングの玉子とかが欲しけりゃ遠慮なく言えよ」
文豪の食事は、週の頭に一週間分配布される引換券で回数が管理されている。メニューは決まっていて、和洋それぞれ幾つかの種類があり、自由に選ぶことができるが、うどんへの玉子やそばへのネギなどのトッピングは、引換券とは別に追加注文が必要だった。これは潜書や館内の庶務などをこなすことによって追加支給される金貨による支払いになる。小林も金貨は貯まっているが、あまり使うことが無く、いつも部屋の空き瓶に入れて忘れることが多かった。志賀もそれを知っていて、事あるごとに小林に奢ろうとした。二人は軽く頭を下げて礼を言い、小林は辞退したが、中野はネギの追加を申し出た。志賀は「よし来た」と立ち、カウンターへ行ってスタッフへ何事か話し、刻みネギが幾らか入った小皿を二つ持ってきて、二人の前にそれぞれ置いた。
「直哉サン……」
「ついでだ。要らねぇなら俺が貰うからくれ」
「……ありがとうございます」
小林は恐縮しながら、小皿のネギをまだ温かいうどんつゆにあけた。中野は礼を口にしてから、小林の見えないうちに志賀にウィンクをして、自分のネギもうどんにあけて軽く混ぜる。コシの強いうどんに細かく刻まれたネギが絡み、一気に啜るとかつおだしの風味にネギの香りがアクセントになった。触感も加わり美味しい。黙々と啜っていると、先に箸を置いた志賀が「毎日毎日、よく作るもんだ」とカウンターを見ながら言った。中野は小林が食事を中断する前に「彼らがですか?」と問い返した。
「ああ。和洋それぞれ十ずつ、手の込んだもんばかり。甘味も合わせりゃもっとある。どれも頼んで十五分と待たせずに出せるのは天晴だ。しかもムラが無い」
「志賀さんは料理をするんですよね。そんな方だからこそ、彼等の凄さがより分かりますか」
「ああ。機械みたいに正確な出来だ。いつ来て食っても、予想した通りの味がする」
志賀の鉢にはつゆが半分程残っていた。透明な水面には笑んでこそいるがどことなくつまらなそうな志賀の顔が揺らいでいた。
「食堂付のスタッフは七人、五番から十一番、毎日ああして働いてる。それ自体は立派だ。俺たちがここに転生して一年半、一度も人数が欠けたところを見たことがないんだから、勤勉っぷりには目を瞠る。俺にはちょっと真似できねぇ。人間ならたまには休みたいときがあるし、休まなくちゃならない時もある。だがあいつらにはそういう時がないらしい。雇う側からすりゃ理想的な労働者だろう」
「また、スタッフへの皮肉ですか。程々にしてあげてくださいよ」
中野は笑って、箸を動かし始めた。だが代わりに小林が手を止めて、志賀をじっと見ながら話を聞いている。こういうことは度々あった。志賀が物申す相手は決まって、食堂、補修、清掃、特務司書補佐、生活、それぞれに携わるスタッフたちだった。全員同じ見た目をしていて、違うのが役割ごとの制服と、首にかけた札の番号だけなのを、しょっちゅう不気味がってぶつぶつ言う。中野が笑ってやんわりと宥め、小林はそれを黙って聞いている。カウンターの向こうで片付けをしているはずのスタッフたちがどう思うかを小林も気にしないことはなかったが、彼らならばなんとも思わないだろうとも思っていた。志賀の言葉通り、年中メニューは変わらず、味も常に均質で、皆早々に全てのメニューの組み合わせを食べ終えて飽いており、近頃は味わって食べる人間の方が珍しい。
「俺に作らしてくれりゃいい。全員の舌を唸らせる自信がある」
「直哉サンの手料理……食べてみたいな」
小林が小さく呟いたのを志賀は聞き逃さなかった。にっこり笑い、「作ったら真っ先にお前に食わせてやるからな、多喜二」と言い、被ったままのフードに飛んだつゆを指先で拭った。その時小林は先程綺麗に洗ったはずの頬を気にして、指を手拭いで拭うついでにそっと頬も拭いておいた。
「しかし、厨房ひとつ使うのにも面倒な手続きがいるってのは何とかならねえもんか。俺たちの行動のいちいちに手続き、許可、手続き、許可だ。一目外を見るのもままならんってのはつくづく参る」
「噂ですが、田山さんと国木田さんが三日前に、何人か誘って司書に外出制限の緩和を直訴に行ったとか。中には若山さんもいたそうですよ」
「へえ、意外だな。あの酒仙が出てくるとは」
「室内でしか酒が飲めないのも飽きてくるのかもしれませんね」
「お前らは行ったのか?」
小林は首を振った。「多分その時は書庫にいました……そんな争議があると知っていたなら必ず行ったのに」とも付け足したが、小林自身は本当にそのつもりだった。今中野が言うまで、あったことさえ知らなかったのだ。中野も「僕も後から知ったので」と言い、首を振った。
「なんだあいつら、見る目がないな。この俺にも一声もかけないで。気を遣ったにしろ……愚策だ」
志賀が小林を一瞥したのが答えだろう。国木田たちは小林の状態を知っていて、敢えて小林に事を知られないように手を回したに違いない、と、小林は苦しくなった。全ては小林個人の補修拒否、つまり我儘から始まっているかのように思え、心なしか目の前が暗くなっていく。志賀は中野に、「結果はどうなった」と尋ねた。
「駄目だったそうです。混乱を来しかねない、全館共通の規則です、で終いだったと」
「そら見ろ。今度国木田たちを見かけたら言っといてくれ……そういうのは全員で行くのが良いんだ。雁首揃えて睨みつけりゃ、あの男も流石に、一言二言じゃ終われないはずだ、ってな」
中野は「覚えておきます」と苦笑した。志賀はまた俯いた小林へ、「さっきのお前たちにも、そんな対応だったのか」と声をかける。小林は小さく首を振った。
「少し違います……俺のやっていることは自殺行為だと」
「ああ、それはそうだな」
志賀はあっさり肯定した。小林は何も言い返せず、膝の上で緩く拳を握る。中野は「志賀さん」と宥めたが、志賀は「お前だってこのままでいいとは言わないだろ」と言い、中野も黙ってしまう。
「……直哉サンも、あの特務司書と同じことを思いますか」
絞り出した声音は弱々しい。志賀は小林にとって師であり、尊敬に値する人物であり、分かってくれる人だった。
「結果的に同じことになっちまうかどうかもしれねえが、たった一言二言で括られちまうのは不本意だ。お前の最近を振り返ってみろ……転生した奴は十人、少ねぇ人数で毎日会派を組むわけだから、たまに出ずっぱりになっちまう奴もいるが、それでもお前の潜書回数には誰も敵わない。お前が作って提出してる一週間分の潜書計画書で、お前は全部の潜書に名前を書いてるな」
「……俺の勝手で決めるわけですから、皆に負担をかけるわけにはいきません」
「負担ってのはな、分散して持つもんだ。誰か一人が責任を取らなきゃならないってのは偉いやつの役目だ。お前は特務司書でも館長でもないだろ」
「でも、俺が言い出したことですから。毎日、必ず一度以上は潜書して、蔵書の内部点検を行うべきだ、と、俺が特務司書に進言したんです」
「それがこの組織の意義であり仕事だ。お前が進言しない限りやらないでいる方が責任を放棄している。お前のやっていることは正しい。だが、それとお前が自分で全ての潜書に自ら出るのは話が別だ。俺が代わると言っても、お前は断っちまう」
「理由は志賀さんもご存知でしょう」
中野は空になったうどん鉢に手を合わせ、水を入れたコップに手をかけてから言った。
「擬似的とはいえ外に出られる機会を独占している、と取られても仕方がないかもしれませんが、あまり皮肉ばかり言うのは酷いですよ」
「そう聞こえたか?」
志賀は笑んでいる。中野は水を煽って空にしたコップを、小さな音を立てて盆に置いた。
「曲解でしたか、すみません。転生した瞬間から一緒だという自転車で、自由に駆け回る場所が欲しいのかと思ってしまいました」
「重治……!」
小林が流石にと顔を上げて止めようとした言葉を、志賀の大笑が覆った。ひとしきり笑って、腹まで抱えた後で、志賀も水を一口流し込み、「はあ笑った笑った」とまだおかしそうに声を震わせた。
「なるほど、そりゃそうだ。実際にそういう側面もあったかもしれん。確かに嫌味にも聞こえるか」
「いや、俺はそうとは……」
「だが、そうだな。まず、本の中に自転車は、恐らく持ち込めない。これは誰も確かめちゃいないが、潜書の時は何も持たずに行くってのが決まりだ。仮に持ち込めるんだとしたら、俺たち一人一人に銃火器でも持たせて潜書させりゃ話が早いはずだが、それをしないってことは物理的に、持ち込むことが出来ない、と考えるのが自然な流れだな」
「志賀さんの自転車だけは特別、という可能性もありますが」
「それと、これは余計な話だが、俺の自転車は今手元に無い」
「手元に無い?」
「特務司書の徴収に遭ったんだよ」
中野は微笑したまま黙った。志賀は中野の眼鏡の奥で三日月の形を成している目を正面から見つめる。
「だから俺が求めるなら、まずは自転車を返してもらうことだ。走る場所はその次。だが俺は積極的に談判したことはない。今はチャリで走るよりも大事なことがある、と思っているからだ」
「……」
「何だと思う。お前たちが腹いっぱいに食いたいって素直に言えるようになる場所を取り戻すことだ。お前もだぞ、中野」
二人の前に並ぶ一杯分の鉢を指さし、「お前ら二人とも、無意識なのか知らんが、食欲が無いだろ」と話す様は不思議に自信に満ちている。小林は確かに、記憶よりも食べる量は落ち着いていた。腹一杯に食べると動きづらくなるから意図的に減らしているつもりだったが、その考えが食欲不振より先か後かと考えると、確かに区別がつかない。
「お前らの食欲を取り戻すには、環境を変えるのが早い。スタッフに牛耳られた生活じゃなく、もうちっと俺たちの自主性に任せた生活になるようにしなくちゃならないと俺は考えてる。ここまで、異論はあるか?」
「……いえ。僕は」
「だよな。お前も普段は大人しいが、心の底では現状に不満がある、いわば同士だ。その意味で……俺は多喜二に倒れられちゃ困ると思ってるんだが、どうだ?」
「それは僕も同じですが、それとこれとは」
「別、本当にそうか? 俺はそうとは思わねえな」
志賀は席を立った。盆を片手に持ち、二人を見下ろし、
「俺はもっと周りに頼れって言いたいだけだ。本の中しか逃げ込める隙間が無いってのは寂しすぎんだろ……俺ならいつでも、背中でも懐でも空けてやる。中野……守りたいのは分かるが、肯定するだけじゃ見えなくなるものは多いぜ。目の前の同士を見るべきだ」
言うだけ言って、盆を返却台に返し、食堂を出て行った。
中野はじっと、膝の上の手を見ていた。小林はなんと声をかけるべきかも分からず、黙っているしかなかった。すると開いている扉の向こうから、
「──だから俺今度は絶対に、藤村を推薦するって決めてる! あいつの力を知れば、司書もきっと転生に乗り気になるって!」
快活な声が聞こえてきた。中野がちょっと振り向き、「田山さんだ。補修、終わったのかな」と呟くと、ちょうど田山と国木田が並んで通り過ぎていく。
「俺としちゃ秋声にもぜひ来てもらいたいがね。癖の強い連中をうまく折衝してまとめられる奴といえば、秋声が一番だろ。むしろ何で未だにいないんだか……」
「あー確かに! やっぱ地味だから見つからないのかもしれない……司書さんに秋声のことをアピールしてみるか?」
「それを言うならもっと転生させるべき人は大勢いる。とにかく仲間を探す機会をもっと増やして欲しいな……十人じゃ何かあった時に対応しきれん……」
二人は小林たちに気付かずに通り過ぎていく。空腹はないのか、或いは国木田が見舞いの品でも医務室に持ち込んだのか。話し声が遠のき、小林が中野に向き直ると、幾分和らいだ微笑が浮かんでいた。
「島崎藤村さんと、徳田秋声さんかな。二人とも確かに、転生したら頼もしいだろうね」
「……そうだな。重治は……会いたい人は、いる?」
小林がおずおずと問うと、中野は「そうだね」と考え、やがて指を折り始めた。両手を使って更に折り返し始め、小林はつい吹き出してしまう。
「そんなに」
「そりゃあね、勿論。直にもまた会いたいし、辰が会いたがってる人も沢山いる。あぁ……白秋さんはどうだろう」
「ああ、北原白秋か。あのひとに会えたら心強いな……室生サンも喜ぶ。室生さんがよく言ってる朔……萩原朔太郎さんも、きっと来て欲しい」
「大いに詩の話ができるようになるだろうね。今は若山さんと高村さんしか詩を主体にした人がいないし、二人とも自分の世界があるから、なかなか話しかけづらいし」
「あの人たちも志を同じくして転生してきたはずだ……けど、高村サンはなるべく戦いたくなさそうにしていて、若山サンは……話は聞いてくれるけれど」
「呑まされるよね」
小林はこくこくと頷き、中野は笑った。空になったコップを持ちかけ、見つめ、「啄木さんが来てくれたら、あの二人も和らぐのかな」と呟く。啄木の名前に小林は初めて身を乗り出した。
「啄木……石川啄木か? そういえば重治、啄木サンに関する文章を」
「あれ、多喜二も? ……それはそうか、納得したよ。あの人も来てくれたら良いのにね」
「……ああ、本当にそうだ」
「ふふ、数えだしたらキリがないな。まだ会ったことのない作家たちも転生しているんだろう? 会ってみたいよね」
「……うん」
小林は椅子に座り直し、飲みきれなかったつゆを眺めた。冷めきって落ち着いたまろい色味のつゆに浮かぶのは、司書に言われても志賀に言われても否定しきれないぐらぐらとした自分の情けない顔だけだった。
本の中にしか逃げ込めない。ある側面では事実だった。小林にはもうひとつの逃げ場所もあったが、そのことについては仲間たちにほとんど話していない。ふと、その逃げ場所につきものの名前──秀呼優のことを思った。調べ物の時には懐に持ち歩く文庫本を、今は自室に置いてある。潜書時に余計なものは持ち込めない、という理由もそうだが、スタッフや司書の目に入る可能性のある場所に持っては行けない、と強く思い、地下書庫に潜る時以外は自室に隠しておくようにしていた。思えばあの本も、秀という作家が書いたものだ。つまり、
(彼も、転生することはできるんだろうか)
と、自然な想像をしただけだったが、途端にズキンと鋭い痛みが頭に走る。不意のことで顔を顰めてしまい、すぐに気づいた中野が「大丈夫かい」とすぐに椅子を立ってまで傍に寄った。
「……大丈夫、偏頭痛だから……」
「偏頭痛……体調が良くないのは、やっぱり本当……いや、君、苦しそうだよ。ただの頭痛じゃないだろう」
「う、ぐ……」
小林が目を固く瞑ると、程なく耳元で幻聴が唸り始める。この症状への対処は、じっと堪える以外にない。何故、と思った。空気の薄い地下書庫でもなし。唯一可能性があるとすれば──秀呼優の名前を考えたことくらいだった。
「やっぱり休んだ方がいい。補修はしなくても、診てもらうべきだ。医務室へ……」
医務室、と聞いた瞬間、どくんと緊張性の拍動が強く鳴った。
【気を許してはいけない】。
「嫌だ」
「……でも」
「あそこは、スタッフたちがいるから」
「……」
中野は、苦しそうに眉を歪め、背中をさすろうと伸ばしかけた手を力なく下ろした。何か言おうとして唇を震わせ、しかしやがて噛む。小林は彼にそういう顔をさせる度に痛かった。恐らく自分のせいだと、ぼんやりとだけでも知っていた。
「……部屋に戻る」
「うん。……お疲れ様。ゆっくり休んで。食器は片付けておくから」
「すまない……また話そう」
小林はふらりと席を立った。頭痛は止まず視界まで歪んだ。何とか真っ直ぐ歩いたが、気を抜けば床に倒れ込みたい衝動に勝てなくなることが目に見えた。そのくらい、身体までもが重いのだ。まるで泥を頭から被った男にでも、しがみつかれているかのように。
誰かが幻聴を通して怨み言を連ねている。【気を許してはいけない】。【見られてはいけない】。【逃げ出さなければならない】。【なぜ逃げなければならない】。【なぜ逃げられない】? 【誰がこんな世界にした】。【なぜこんな世界にまた生まれなければならないのか】──まるで自分だけがお前をわかっているぞ、とでも言うように。
「アンタが、秀サンなのか?」
苦悶の表情で問うても、怨み言しか続かない。いつものことだった。
小林は這う這うの体で部屋に戻った。階段を五十六段も一気に上がって、最後の方は手すりにしがみつきながら這い蹲るようだったが、誰にも会わずに済んだのは僥倖、否、必然だ。部屋に入った小林は、暫く敷きっぱなしの寝床に掛け布団も掛けず倒れ込むと、そのまま指先一つ動かさずにじっとしていた。
どれ程経ったか、ふと覚醒し、身体を起こした。扉の反対側に位置する窓は常に濃い曇りに覆われていて、ぼんやりとした光しか通さないが、今はその光すらなく、暗かった。夜になったらしい。幸い頭痛は止んだようだが、寝すぎた代償に寝るべき時間に眠ることが出来なくなったようだった。曇った窓は暗く、夜だと分かる。時計を見ると、もう間もなくほんとうに眠るのにちょうど良い時間だったが、覚醒したばかりでは無論眠れそうにない。
「……はぁ」
寝床を立ち、水場へ向かう。顔を洗い、ヤカンで水を火にかける。沸くまでの間に、侵蝕者の放った洋墨で汚れた上着を脱ぐと、少しさっぱりとした涼しさが内着越しに肌を通った。
洗面所の横に便所と一体の洗い場がある。風呂釜の中に置いた桶へ水を流していると、やがて湯になる。この設備自体は有難かった。溜めた湯に上着を沈め、洗剤の欠片も放り込んでおく。これで暫く待たなくてはならない。洗い終わって干し、小林自身が風呂を使う頃には深夜になるだろうが、それが毎日のことだった。
窓に向いた文机へ戻り、座布団を敷いてどっかりと座り込んだ。机の上には、昨晩の続きが広がっている。手帳の下端からは栞紐が、人に借りた本の上端からは細長い紙切れがはみ出していた。本を読み、これはと思う情報を手帳に書き留める個人的な仕事を、毎晩眠くなるまで続けるのが、ここ暫くの小林の習慣だった。例の文庫本は、文机の左に隣接して据え付けた二段しかない本棚の、下の段に立ててある。それも取り出して机に載せておき、資料の本を開いた。それはこの図書館には無い、秀に関する研究書で、佐竹という名の、一号棟に務める背の低い眼鏡の男性事務員に借りたものだ。小林はこれで秀の名の読みを知り、人としての秀が通過した大方の経歴を知り、知ることの出来ない経歴上の空白があることを知り、『新星』という著作に関するあらましを知った。
読んでいるうちに、湯が沸く。立って、冷蔵庫から安物の茶葉を出し、急須に三杯も入れ、湯を注ぐ。少し待ってから湯呑みに注ぐと、まだ少し薄い水色が揺らめいた。
湯呑みひとつと共に机に戻る。座ってからひとくち啜ったが、やはりまだ薄かった。これから眠るのだからと納得させてから、本に戻る。そうして暫く読んだ。やがて区切りをつける頃には、茶もすっかり冷めていた。
「……この本のおかげで、秀サンの履歴は大方わかる……けど、やっぱりいつ、どんな作品を書いたのかは、あまり書いてないか……」
湯呑みに残った分を飲み干し、一旦目を休めるために顔を上げた。目の前には何も映らない曇り硝子だけがあり、向こう側の夜闇の深さだけを見せてくる。その暗さが、小林の知りたいことの在処を指すような気分がして、重苦しい溜息を吐いた。
「……俺一人では限界がある……佐竹サンがいなかったら、この本にだって辿り着けなかった。……でも」
人は頼れない。小林が調べている全てのことについては、今のところ佐竹以外の誰にも言っていない。中野にも、志賀にさえも。理由は決まっている。
「【見つかってはいけない】……」
この言葉は、自室で文庫本を初めて見つけ、手に取った瞬間強く頭に焼き付いた。当時は、何故、と思ったが、中身に目を通すと納得もいった。それは名前を何度も変えながら、各地を転々と逃げ続ける主人公が、その最中に何度も繰り返すフレーズだった。
小林は、本のことも著者のことも知らなかったのに、その言葉を見、先の焼き付きを納得したことで(俺はこの作品を【知っている】)と確信した。それは一ヶ月経った今も揺るぎない。だがなぜ知っているのかは未だわからず、思い出すことも出来ないままだ。それで、ひょっとすれば彼の存在は小林自身の過去とも関わるのではと考え、著作の他に著者自身のことも念を入れて調べている。
もし、こんなことをあの男──特務司書などに知られでもすれば、根掘り葉掘り聞き出され、文庫本は回収されるだろう。研究は奪われ、小林の元には結論は愚か、秀の著作に触れる機会さえ、それきり無くなるだろう、と小林は考えていた。だから、【見つかってはいけない】。司書に伝わる可能性がある限り、希望であっても、司書以外に対しても内密にしなくてはならない。隠すことに罪悪感はあったが、仕方なかった。【隠さなければ、奪われ、きっと燃やされる】のだから。
「……でも、本当は」
研究書から目を離し、文庫本を一瞥する。立派な厚い研究書と並べると、遥かに薄っぺらく、ぼろきれのような弱々しい本だ。
「……アンタにも、出会えたらいいのに、と、思っているんだ。秀サン。そのためには、本当は俺以外の人達にも、アンタのことが知られてなくちゃならない……」
中野には言えなかったことを呟き、ほつれの目立つ表紙を指で撫でた。
誰にも知られぬうちに、いつかこの著者についての空白──犯罪者たる秀の人生から切り離され、どの本にも語られることのない、作家としての秀の生き様──を知り、本の欠けたところを見つけ、本来の形を取り戻すこと。それからやっと、皆に秀呼優という作家がいたことを話すことができるだろう。そうすれば、いつか秀の魂さえも、見つけ出すことも出来るはずだ、と、小林はずっと考えている。
「アンタはそんなこと、望んでないのかもしれないけど……あぁ、もうそろそろか」
浸けておいた上着を世話する時間だ。小林は本に紙片を挟んで机を離れた。
人気の無くなり涼しさが増した文机の上、はめ殺しの曇り硝子にぼんやりと映る文庫本から、小さく黒い炎が溢れ、音もなく消えた。
食券を受け取ったスタッフが厨房に消え、小林と中野はカウンターを離れて志賀の座るテーブルに向かった。きつねうどんはそう時間がかからない。すぐに呼ばれるだろう。小林は中野に先立つため、カウンターの方に気を配りながら、志賀の目の前の席に座って肩を縮めた。
「何をそうかしこまってるんだ? 今から鬼上司にでもいびられるのか?」
「いえっ、そんなつもりでは……」
小林を揶揄った志賀はからから笑い、「そう怯えなくて良い」と、自分のきつねうどんを啜った。志賀のうどんはとっくに冷めている。二人が来るのを待ち過ぎたせいだろう。少しするとカウンターから「三番でお待ちのせんせーい、お食事のご用意ができましたー」との声が飛び、小林が腰を上げようとするとすかさず中野が立ち、「多喜二は疲れているんだから座ってて」とさっさとカウンターへ行ってしまった。そうされてはもう何もできない。小林は肩を落として座り直した。
「司書に会った時の話の続きを、また聞かせてくれるか?」
「……えっと、どこまで話しましたっけ……確か、声をかけられて……」
「声をかけられたところまでだな。どんな話をした?」
小林が本題の話をしている間に、中野がひとつの盆に二人分のうどんを載せて運んできた。志賀が空けておいたスペースに危なげなく盆を載せ、小林の前にうどん鉢を置き、割り箸と蓮華を手渡し、紙ナプキンを置いた。
「薬味もあるよ。使って」
「ありがとう、すまない……」
「いいよ。いただきます」
「二人共、トッピングの玉子とかが欲しけりゃ遠慮なく言えよ」
文豪の食事は、週の頭に一週間分配布される引換券で回数が管理されている。メニューは決まっていて、和洋それぞれ幾つかの種類があり、自由に選ぶことができるが、うどんへの玉子やそばへのネギなどのトッピングは、引換券とは別に追加注文が必要だった。これは潜書や館内の庶務などをこなすことによって追加支給される金貨による支払いになる。小林も金貨は貯まっているが、あまり使うことが無く、いつも部屋の空き瓶に入れて忘れることが多かった。志賀もそれを知っていて、事あるごとに小林に奢ろうとした。二人は軽く頭を下げて礼を言い、小林は辞退したが、中野はネギの追加を申し出た。志賀は「よし来た」と立ち、カウンターへ行ってスタッフへ何事か話し、刻みネギが幾らか入った小皿を二つ持ってきて、二人の前にそれぞれ置いた。
「直哉サン……」
「ついでだ。要らねぇなら俺が貰うからくれ」
「……ありがとうございます」
小林は恐縮しながら、小皿のネギをまだ温かいうどんつゆにあけた。中野は礼を口にしてから、小林の見えないうちに志賀にウィンクをして、自分のネギもうどんにあけて軽く混ぜる。コシの強いうどんに細かく刻まれたネギが絡み、一気に啜るとかつおだしの風味にネギの香りがアクセントになった。触感も加わり美味しい。黙々と啜っていると、先に箸を置いた志賀が「毎日毎日、よく作るもんだ」とカウンターを見ながら言った。中野は小林が食事を中断する前に「彼らがですか?」と問い返した。
「ああ。和洋それぞれ十ずつ、手の込んだもんばかり。甘味も合わせりゃもっとある。どれも頼んで十五分と待たせずに出せるのは天晴だ。しかもムラが無い」
「志賀さんは料理をするんですよね。そんな方だからこそ、彼等の凄さがより分かりますか」
「ああ。機械みたいに正確な出来だ。いつ来て食っても、予想した通りの味がする」
志賀の鉢にはつゆが半分程残っていた。透明な水面には笑んでこそいるがどことなくつまらなそうな志賀の顔が揺らいでいた。
「食堂付のスタッフは七人、五番から十一番、毎日ああして働いてる。それ自体は立派だ。俺たちがここに転生して一年半、一度も人数が欠けたところを見たことがないんだから、勤勉っぷりには目を瞠る。俺にはちょっと真似できねぇ。人間ならたまには休みたいときがあるし、休まなくちゃならない時もある。だがあいつらにはそういう時がないらしい。雇う側からすりゃ理想的な労働者だろう」
「また、スタッフへの皮肉ですか。程々にしてあげてくださいよ」
中野は笑って、箸を動かし始めた。だが代わりに小林が手を止めて、志賀をじっと見ながら話を聞いている。こういうことは度々あった。志賀が物申す相手は決まって、食堂、補修、清掃、特務司書補佐、生活、それぞれに携わるスタッフたちだった。全員同じ見た目をしていて、違うのが役割ごとの制服と、首にかけた札の番号だけなのを、しょっちゅう不気味がってぶつぶつ言う。中野が笑ってやんわりと宥め、小林はそれを黙って聞いている。カウンターの向こうで片付けをしているはずのスタッフたちがどう思うかを小林も気にしないことはなかったが、彼らならばなんとも思わないだろうとも思っていた。志賀の言葉通り、年中メニューは変わらず、味も常に均質で、皆早々に全てのメニューの組み合わせを食べ終えて飽いており、近頃は味わって食べる人間の方が珍しい。
「俺に作らしてくれりゃいい。全員の舌を唸らせる自信がある」
「直哉サンの手料理……食べてみたいな」
小林が小さく呟いたのを志賀は聞き逃さなかった。にっこり笑い、「作ったら真っ先にお前に食わせてやるからな、多喜二」と言い、被ったままのフードに飛んだつゆを指先で拭った。その時小林は先程綺麗に洗ったはずの頬を気にして、指を手拭いで拭うついでにそっと頬も拭いておいた。
「しかし、厨房ひとつ使うのにも面倒な手続きがいるってのは何とかならねえもんか。俺たちの行動のいちいちに手続き、許可、手続き、許可だ。一目外を見るのもままならんってのはつくづく参る」
「噂ですが、田山さんと国木田さんが三日前に、何人か誘って司書に外出制限の緩和を直訴に行ったとか。中には若山さんもいたそうですよ」
「へえ、意外だな。あの酒仙が出てくるとは」
「室内でしか酒が飲めないのも飽きてくるのかもしれませんね」
「お前らは行ったのか?」
小林は首を振った。「多分その時は書庫にいました……そんな争議があると知っていたなら必ず行ったのに」とも付け足したが、小林自身は本当にそのつもりだった。今中野が言うまで、あったことさえ知らなかったのだ。中野も「僕も後から知ったので」と言い、首を振った。
「なんだあいつら、見る目がないな。この俺にも一声もかけないで。気を遣ったにしろ……愚策だ」
志賀が小林を一瞥したのが答えだろう。国木田たちは小林の状態を知っていて、敢えて小林に事を知られないように手を回したに違いない、と、小林は苦しくなった。全ては小林個人の補修拒否、つまり我儘から始まっているかのように思え、心なしか目の前が暗くなっていく。志賀は中野に、「結果はどうなった」と尋ねた。
「駄目だったそうです。混乱を来しかねない、全館共通の規則です、で終いだったと」
「そら見ろ。今度国木田たちを見かけたら言っといてくれ……そういうのは全員で行くのが良いんだ。雁首揃えて睨みつけりゃ、あの男も流石に、一言二言じゃ終われないはずだ、ってな」
中野は「覚えておきます」と苦笑した。志賀はまた俯いた小林へ、「さっきのお前たちにも、そんな対応だったのか」と声をかける。小林は小さく首を振った。
「少し違います……俺のやっていることは自殺行為だと」
「ああ、それはそうだな」
志賀はあっさり肯定した。小林は何も言い返せず、膝の上で緩く拳を握る。中野は「志賀さん」と宥めたが、志賀は「お前だってこのままでいいとは言わないだろ」と言い、中野も黙ってしまう。
「……直哉サンも、あの特務司書と同じことを思いますか」
絞り出した声音は弱々しい。志賀は小林にとって師であり、尊敬に値する人物であり、分かってくれる人だった。
「結果的に同じことになっちまうかどうかもしれねえが、たった一言二言で括られちまうのは不本意だ。お前の最近を振り返ってみろ……転生した奴は十人、少ねぇ人数で毎日会派を組むわけだから、たまに出ずっぱりになっちまう奴もいるが、それでもお前の潜書回数には誰も敵わない。お前が作って提出してる一週間分の潜書計画書で、お前は全部の潜書に名前を書いてるな」
「……俺の勝手で決めるわけですから、皆に負担をかけるわけにはいきません」
「負担ってのはな、分散して持つもんだ。誰か一人が責任を取らなきゃならないってのは偉いやつの役目だ。お前は特務司書でも館長でもないだろ」
「でも、俺が言い出したことですから。毎日、必ず一度以上は潜書して、蔵書の内部点検を行うべきだ、と、俺が特務司書に進言したんです」
「それがこの組織の意義であり仕事だ。お前が進言しない限りやらないでいる方が責任を放棄している。お前のやっていることは正しい。だが、それとお前が自分で全ての潜書に自ら出るのは話が別だ。俺が代わると言っても、お前は断っちまう」
「理由は志賀さんもご存知でしょう」
中野は空になったうどん鉢に手を合わせ、水を入れたコップに手をかけてから言った。
「擬似的とはいえ外に出られる機会を独占している、と取られても仕方がないかもしれませんが、あまり皮肉ばかり言うのは酷いですよ」
「そう聞こえたか?」
志賀は笑んでいる。中野は水を煽って空にしたコップを、小さな音を立てて盆に置いた。
「曲解でしたか、すみません。転生した瞬間から一緒だという自転車で、自由に駆け回る場所が欲しいのかと思ってしまいました」
「重治……!」
小林が流石にと顔を上げて止めようとした言葉を、志賀の大笑が覆った。ひとしきり笑って、腹まで抱えた後で、志賀も水を一口流し込み、「はあ笑った笑った」とまだおかしそうに声を震わせた。
「なるほど、そりゃそうだ。実際にそういう側面もあったかもしれん。確かに嫌味にも聞こえるか」
「いや、俺はそうとは……」
「だが、そうだな。まず、本の中に自転車は、恐らく持ち込めない。これは誰も確かめちゃいないが、潜書の時は何も持たずに行くってのが決まりだ。仮に持ち込めるんだとしたら、俺たち一人一人に銃火器でも持たせて潜書させりゃ話が早いはずだが、それをしないってことは物理的に、持ち込むことが出来ない、と考えるのが自然な流れだな」
「志賀さんの自転車だけは特別、という可能性もありますが」
「それと、これは余計な話だが、俺の自転車は今手元に無い」
「手元に無い?」
「特務司書の徴収に遭ったんだよ」
中野は微笑したまま黙った。志賀は中野の眼鏡の奥で三日月の形を成している目を正面から見つめる。
「だから俺が求めるなら、まずは自転車を返してもらうことだ。走る場所はその次。だが俺は積極的に談判したことはない。今はチャリで走るよりも大事なことがある、と思っているからだ」
「……」
「何だと思う。お前たちが腹いっぱいに食いたいって素直に言えるようになる場所を取り戻すことだ。お前もだぞ、中野」
二人の前に並ぶ一杯分の鉢を指さし、「お前ら二人とも、無意識なのか知らんが、食欲が無いだろ」と話す様は不思議に自信に満ちている。小林は確かに、記憶よりも食べる量は落ち着いていた。腹一杯に食べると動きづらくなるから意図的に減らしているつもりだったが、その考えが食欲不振より先か後かと考えると、確かに区別がつかない。
「お前らの食欲を取り戻すには、環境を変えるのが早い。スタッフに牛耳られた生活じゃなく、もうちっと俺たちの自主性に任せた生活になるようにしなくちゃならないと俺は考えてる。ここまで、異論はあるか?」
「……いえ。僕は」
「だよな。お前も普段は大人しいが、心の底では現状に不満がある、いわば同士だ。その意味で……俺は多喜二に倒れられちゃ困ると思ってるんだが、どうだ?」
「それは僕も同じですが、それとこれとは」
「別、本当にそうか? 俺はそうとは思わねえな」
志賀は席を立った。盆を片手に持ち、二人を見下ろし、
「俺はもっと周りに頼れって言いたいだけだ。本の中しか逃げ込める隙間が無いってのは寂しすぎんだろ……俺ならいつでも、背中でも懐でも空けてやる。中野……守りたいのは分かるが、肯定するだけじゃ見えなくなるものは多いぜ。目の前の同士を見るべきだ」
言うだけ言って、盆を返却台に返し、食堂を出て行った。
中野はじっと、膝の上の手を見ていた。小林はなんと声をかけるべきかも分からず、黙っているしかなかった。すると開いている扉の向こうから、
「──だから俺今度は絶対に、藤村を推薦するって決めてる! あいつの力を知れば、司書もきっと転生に乗り気になるって!」
快活な声が聞こえてきた。中野がちょっと振り向き、「田山さんだ。補修、終わったのかな」と呟くと、ちょうど田山と国木田が並んで通り過ぎていく。
「俺としちゃ秋声にもぜひ来てもらいたいがね。癖の強い連中をうまく折衝してまとめられる奴といえば、秋声が一番だろ。むしろ何で未だにいないんだか……」
「あー確かに! やっぱ地味だから見つからないのかもしれない……司書さんに秋声のことをアピールしてみるか?」
「それを言うならもっと転生させるべき人は大勢いる。とにかく仲間を探す機会をもっと増やして欲しいな……十人じゃ何かあった時に対応しきれん……」
二人は小林たちに気付かずに通り過ぎていく。空腹はないのか、或いは国木田が見舞いの品でも医務室に持ち込んだのか。話し声が遠のき、小林が中野に向き直ると、幾分和らいだ微笑が浮かんでいた。
「島崎藤村さんと、徳田秋声さんかな。二人とも確かに、転生したら頼もしいだろうね」
「……そうだな。重治は……会いたい人は、いる?」
小林がおずおずと問うと、中野は「そうだね」と考え、やがて指を折り始めた。両手を使って更に折り返し始め、小林はつい吹き出してしまう。
「そんなに」
「そりゃあね、勿論。直にもまた会いたいし、辰が会いたがってる人も沢山いる。あぁ……白秋さんはどうだろう」
「ああ、北原白秋か。あのひとに会えたら心強いな……室生サンも喜ぶ。室生さんがよく言ってる朔……萩原朔太郎さんも、きっと来て欲しい」
「大いに詩の話ができるようになるだろうね。今は若山さんと高村さんしか詩を主体にした人がいないし、二人とも自分の世界があるから、なかなか話しかけづらいし」
「あの人たちも志を同じくして転生してきたはずだ……けど、高村サンはなるべく戦いたくなさそうにしていて、若山サンは……話は聞いてくれるけれど」
「呑まされるよね」
小林はこくこくと頷き、中野は笑った。空になったコップを持ちかけ、見つめ、「啄木さんが来てくれたら、あの二人も和らぐのかな」と呟く。啄木の名前に小林は初めて身を乗り出した。
「啄木……石川啄木か? そういえば重治、啄木サンに関する文章を」
「あれ、多喜二も? ……それはそうか、納得したよ。あの人も来てくれたら良いのにね」
「……ああ、本当にそうだ」
「ふふ、数えだしたらキリがないな。まだ会ったことのない作家たちも転生しているんだろう? 会ってみたいよね」
「……うん」
小林は椅子に座り直し、飲みきれなかったつゆを眺めた。冷めきって落ち着いたまろい色味のつゆに浮かぶのは、司書に言われても志賀に言われても否定しきれないぐらぐらとした自分の情けない顔だけだった。
本の中にしか逃げ込めない。ある側面では事実だった。小林にはもうひとつの逃げ場所もあったが、そのことについては仲間たちにほとんど話していない。ふと、その逃げ場所につきものの名前──秀呼優のことを思った。調べ物の時には懐に持ち歩く文庫本を、今は自室に置いてある。潜書時に余計なものは持ち込めない、という理由もそうだが、スタッフや司書の目に入る可能性のある場所に持っては行けない、と強く思い、地下書庫に潜る時以外は自室に隠しておくようにしていた。思えばあの本も、秀という作家が書いたものだ。つまり、
(彼も、転生することはできるんだろうか)
と、自然な想像をしただけだったが、途端にズキンと鋭い痛みが頭に走る。不意のことで顔を顰めてしまい、すぐに気づいた中野が「大丈夫かい」とすぐに椅子を立ってまで傍に寄った。
「……大丈夫、偏頭痛だから……」
「偏頭痛……体調が良くないのは、やっぱり本当……いや、君、苦しそうだよ。ただの頭痛じゃないだろう」
「う、ぐ……」
小林が目を固く瞑ると、程なく耳元で幻聴が唸り始める。この症状への対処は、じっと堪える以外にない。何故、と思った。空気の薄い地下書庫でもなし。唯一可能性があるとすれば──秀呼優の名前を考えたことくらいだった。
「やっぱり休んだ方がいい。補修はしなくても、診てもらうべきだ。医務室へ……」
医務室、と聞いた瞬間、どくんと緊張性の拍動が強く鳴った。
【気を許してはいけない】。
「嫌だ」
「……でも」
「あそこは、スタッフたちがいるから」
「……」
中野は、苦しそうに眉を歪め、背中をさすろうと伸ばしかけた手を力なく下ろした。何か言おうとして唇を震わせ、しかしやがて噛む。小林は彼にそういう顔をさせる度に痛かった。恐らく自分のせいだと、ぼんやりとだけでも知っていた。
「……部屋に戻る」
「うん。……お疲れ様。ゆっくり休んで。食器は片付けておくから」
「すまない……また話そう」
小林はふらりと席を立った。頭痛は止まず視界まで歪んだ。何とか真っ直ぐ歩いたが、気を抜けば床に倒れ込みたい衝動に勝てなくなることが目に見えた。そのくらい、身体までもが重いのだ。まるで泥を頭から被った男にでも、しがみつかれているかのように。
誰かが幻聴を通して怨み言を連ねている。【気を許してはいけない】。【見られてはいけない】。【逃げ出さなければならない】。【なぜ逃げなければならない】。【なぜ逃げられない】? 【誰がこんな世界にした】。【なぜこんな世界にまた生まれなければならないのか】──まるで自分だけがお前をわかっているぞ、とでも言うように。
「アンタが、秀サンなのか?」
苦悶の表情で問うても、怨み言しか続かない。いつものことだった。
小林は這う這うの体で部屋に戻った。階段を五十六段も一気に上がって、最後の方は手すりにしがみつきながら這い蹲るようだったが、誰にも会わずに済んだのは僥倖、否、必然だ。部屋に入った小林は、暫く敷きっぱなしの寝床に掛け布団も掛けず倒れ込むと、そのまま指先一つ動かさずにじっとしていた。
どれ程経ったか、ふと覚醒し、身体を起こした。扉の反対側に位置する窓は常に濃い曇りに覆われていて、ぼんやりとした光しか通さないが、今はその光すらなく、暗かった。夜になったらしい。幸い頭痛は止んだようだが、寝すぎた代償に寝るべき時間に眠ることが出来なくなったようだった。曇った窓は暗く、夜だと分かる。時計を見ると、もう間もなくほんとうに眠るのにちょうど良い時間だったが、覚醒したばかりでは無論眠れそうにない。
「……はぁ」
寝床を立ち、水場へ向かう。顔を洗い、ヤカンで水を火にかける。沸くまでの間に、侵蝕者の放った洋墨で汚れた上着を脱ぐと、少しさっぱりとした涼しさが内着越しに肌を通った。
洗面所の横に便所と一体の洗い場がある。風呂釜の中に置いた桶へ水を流していると、やがて湯になる。この設備自体は有難かった。溜めた湯に上着を沈め、洗剤の欠片も放り込んでおく。これで暫く待たなくてはならない。洗い終わって干し、小林自身が風呂を使う頃には深夜になるだろうが、それが毎日のことだった。
窓に向いた文机へ戻り、座布団を敷いてどっかりと座り込んだ。机の上には、昨晩の続きが広がっている。手帳の下端からは栞紐が、人に借りた本の上端からは細長い紙切れがはみ出していた。本を読み、これはと思う情報を手帳に書き留める個人的な仕事を、毎晩眠くなるまで続けるのが、ここ暫くの小林の習慣だった。例の文庫本は、文机の左に隣接して据え付けた二段しかない本棚の、下の段に立ててある。それも取り出して机に載せておき、資料の本を開いた。それはこの図書館には無い、秀に関する研究書で、佐竹という名の、一号棟に務める背の低い眼鏡の男性事務員に借りたものだ。小林はこれで秀の名の読みを知り、人としての秀が通過した大方の経歴を知り、知ることの出来ない経歴上の空白があることを知り、『新星』という著作に関するあらましを知った。
読んでいるうちに、湯が沸く。立って、冷蔵庫から安物の茶葉を出し、急須に三杯も入れ、湯を注ぐ。少し待ってから湯呑みに注ぐと、まだ少し薄い水色が揺らめいた。
湯呑みひとつと共に机に戻る。座ってからひとくち啜ったが、やはりまだ薄かった。これから眠るのだからと納得させてから、本に戻る。そうして暫く読んだ。やがて区切りをつける頃には、茶もすっかり冷めていた。
「……この本のおかげで、秀サンの履歴は大方わかる……けど、やっぱりいつ、どんな作品を書いたのかは、あまり書いてないか……」
湯呑みに残った分を飲み干し、一旦目を休めるために顔を上げた。目の前には何も映らない曇り硝子だけがあり、向こう側の夜闇の深さだけを見せてくる。その暗さが、小林の知りたいことの在処を指すような気分がして、重苦しい溜息を吐いた。
「……俺一人では限界がある……佐竹サンがいなかったら、この本にだって辿り着けなかった。……でも」
人は頼れない。小林が調べている全てのことについては、今のところ佐竹以外の誰にも言っていない。中野にも、志賀にさえも。理由は決まっている。
「【見つかってはいけない】……」
この言葉は、自室で文庫本を初めて見つけ、手に取った瞬間強く頭に焼き付いた。当時は、何故、と思ったが、中身に目を通すと納得もいった。それは名前を何度も変えながら、各地を転々と逃げ続ける主人公が、その最中に何度も繰り返すフレーズだった。
小林は、本のことも著者のことも知らなかったのに、その言葉を見、先の焼き付きを納得したことで(俺はこの作品を【知っている】)と確信した。それは一ヶ月経った今も揺るぎない。だがなぜ知っているのかは未だわからず、思い出すことも出来ないままだ。それで、ひょっとすれば彼の存在は小林自身の過去とも関わるのではと考え、著作の他に著者自身のことも念を入れて調べている。
もし、こんなことをあの男──特務司書などに知られでもすれば、根掘り葉掘り聞き出され、文庫本は回収されるだろう。研究は奪われ、小林の元には結論は愚か、秀の著作に触れる機会さえ、それきり無くなるだろう、と小林は考えていた。だから、【見つかってはいけない】。司書に伝わる可能性がある限り、希望であっても、司書以外に対しても内密にしなくてはならない。隠すことに罪悪感はあったが、仕方なかった。【隠さなければ、奪われ、きっと燃やされる】のだから。
「……でも、本当は」
研究書から目を離し、文庫本を一瞥する。立派な厚い研究書と並べると、遥かに薄っぺらく、ぼろきれのような弱々しい本だ。
「……アンタにも、出会えたらいいのに、と、思っているんだ。秀サン。そのためには、本当は俺以外の人達にも、アンタのことが知られてなくちゃならない……」
中野には言えなかったことを呟き、ほつれの目立つ表紙を指で撫でた。
誰にも知られぬうちに、いつかこの著者についての空白──犯罪者たる秀の人生から切り離され、どの本にも語られることのない、作家としての秀の生き様──を知り、本の欠けたところを見つけ、本来の形を取り戻すこと。それからやっと、皆に秀呼優という作家がいたことを話すことができるだろう。そうすれば、いつか秀の魂さえも、見つけ出すことも出来るはずだ、と、小林はずっと考えている。
「アンタはそんなこと、望んでないのかもしれないけど……あぁ、もうそろそろか」
浸けておいた上着を世話する時間だ。小林は本に紙片を挟んで机を離れた。
人気の無くなり涼しさが増した文机の上、はめ殺しの曇り硝子にぼんやりと映る文庫本から、小さく黒い炎が溢れ、音もなく消えた。
