「多喜二!!」
 誰かの呼ぶ声がしたが、目の前が真っ黒になったせいで、誰の声なのかが分からなかった。咄嗟に目の周りを袖でさっと拭うと、辛うじて視界が戻る。眼前にはバケツと洋墨を操る侵蝕者、そしてそれに向かっていく虎縞の毛皮。
「すまない、中島サン! 俺も行く!!」
 ある程度見えれば十分だ。武器を握り直して大地を蹴る。隣に並んで刃を振るう小林を一瞥した中島敦は、フンと一笑に付し、目にかかる前髪をかき上げ、
「雑魚はこれで最後だ。足手まといになるなよ」
と、侵蝕者の放つ洋墨の塊を断ち切りながら言い捨てた。
「分かってる」
 遭遇した敵は計九体、うち八体はきぃきぃと耳障りに軋む小物で、既に倒した。残る一体、眼前の少年型を倒せば浄化が終わる。三対一、こちらが優勢。しかし周囲には敵の放った洋墨の塊が飛び散っており、ぬめぬめとした水溜まりとして、こちらの足を捉えようとしてくる。
「援護する!」
 後ろから矢が飛来し、侵蝕者の動きを確定させてくれる。すかさず懐へ踏み込んだ中島がバケツを手の甲で弾き返す。瞬間足元に噴射された洋墨で足を滑らすが、その勢いをあえて殺さずに、片手の刀を大きく振るう。切っ先は侵蝕者の首元を掠め、洋墨溜りに片手をついた。
「そら、鬼さんこちら!」
 声より先に矢が行く。今度は牽制に留まらず、侵蝕者の利き腕側の肩を射抜いた。敵の細身が大きく傾き、眼光が間違いなく国木田を向いた瞬間、中島は獣のような眼差しで、
「余所見か。余裕だな」
ちょうど低いところから敵の足を切り払った。立ち上がりがてらの返す刀で胴体へも一閃入れた。侵蝕者の、言葉にならない唸り声が耳を劈く。
「国木田サンは田山サンを見ていてくれ!!」
 小林は迷いなく踏み込み、中島の脇を低くすり抜け、両手で刃を振り上げた。飛んでいかないように強く握り、
「俺たちは、お前たちには負けない!!」
振り下ろし、トドメを刺す。断末魔は憎々しげで、どこか物悲しい響きを残し、侵蝕者と辺りの洋墨諸共、砂のように変わって消えていった。
「終わった、か?」
「……つまらん戦いだった」
 束の間放心する小林を余所に、中島は刀を振って洋墨を解き、それから手を離した。それだけで刀は落ちる前に光の粒に分解され、持ち主である中島の手の中へ、集まり、本の形を取る。小林も地面に突き立てたままの刃を解除し、支えを求める手を膝にあてがった。右脚太腿の外側へ収まる本は、小林の代表作と同じ表紙をしている。
「……はぁっ、はぁっ」
 終わったと思うと気が抜け、小林は全身に押し寄せた疲労でうっかり倒れかけるのを何とか堪えた。足音が遠ざかる。もう帰還の光は降り注いでいるらしい。膝に手をついたまま背後を向くと、あの目立つ鮮やかなピンクの人影が、地面から何かを引きずりあげている。
「……国木田サン。田山サンは、大丈夫か?」
「あー大丈夫大丈夫、さっき派手に顔面やられてたから脳震盪を起こしてるらしいが、大したことない。補修すればすぐ良くなるさ。それより、アンタの方が重傷そうだぜ? 目元、真っ黒だ」
 小林は袖を捲り、目元を拭った。ずるりと腕に引きずった洋墨はまだ湿り気も残っていて、敵の目眩しをもろに受けたのが分かる。
「……俺は、大丈夫。ただの汚れだよ……手を貸そうか?」
 申し出を、国木田は明るく「遠慮するよ。志賀にどやされる」と断った。愛想笑いを浮かべてから前を向く。眼前には神々しく降り注ぐ光が柱のように立ち上っている。膝の支えを不要とする前に、戦いの中で知らず外れていたフードを額の下まで下げた。
「……大丈夫。行こう」
 独りごち、前を向いて、一歩踏む。眺めた国木田は、眉尻下げて肩も落とし、
「さながら出立前の兵士の横顔、ってな」
「うー……俺は……うぅ……」
「お、ちょっと起きたか? じゃあ立って歩いてくれんかね、無理? しょうがない奴だな……」
やれやれ、と鉛の足を引きずった。空に吸い上げられていた文字は解放され、異邦の戦士たちの上に降り注ぎ始める。雨に降られる前に光の中へ踏み入れば、ぐんと上へ無理に引っ張られる感覚を経て、本の中の世界から抜け出し、現実世界への帰還を果たせる。
「……多喜二にとっちゃ、果たしてしまう、ってとこなんだろーな……」
「……どっぽぉ……?」
「あぁスマン、行くよ」





「一〇一から一〇四検知結果異常ナシ、再構築結果異常ナシ、通常状態への遷移完了……潜書業務の完了を確認。お疲れ様でした。小林多喜二サマ」
 板張りの床はよく磨かれていて、青白い光をよく反射し、眩しい。ようやく光が落ち着き、木の木目までよく見えるようになる頃、顔を上げると目の前にはもう、小林より頭二つ分背の低い、少年と青年の狭間くらいの男が微笑を貼りつけて待ち受けている。小林と、中島と、田山と国木田、それぞれの前に、一人ずつ。
「補修のため、本をお預かりします」
 横に真っ直ぐ切りそろえた栗色の前髪の下から、人の良さそうな真っ直ぐな目を細めて、にっこりと笑って両手を差し出す。男たちは皆同じような童顔で、服装も全員一律に濃い緑の制服を着ていて、同じセリフを言いながら、文豪に魂の宿った本を渡せと急かす。首に下がった名札には番号しか書かれていない。小林の前にいるのは肆。彼らは、スタッフ、と呼ばれている。
「田山花袋サマを引き取ります。国木田独歩サマ、ここまでありがとうございました」
「おお、頼むぜ。それと、ほい、俺の本だ」
 田山はまた気を失ったのか、ぐったりとしている。気絶した青年を、弐の番号を下げたスタッフは顔色ひとつ変えずに右肩に担いだ。参のスタッフが国木田の本を受け取り、軽く頭を下げ、連れ立って先に部屋を出ていく。いつの間にか扉が開いていて、中島ともうひとりのスタッフの姿は無かった。
「小林多喜二サマ。本をお預け下さい」
 潜書室、と呼ばれている部屋に残っているのは、小林と肆番のスタッフだけになった。もう周囲のどこへも、気を逸らせるものは無い。出入口は開いているが、小林が一歩右へ踏めばスタッフも正面になるよう一緒に動く。どんなタイミングで動こうと、対応してくる。
「……俺は、いい」
 半歩、後退る。
「衰弱の傾向が見られます。早急の補修を推奨します。放置した場合、本の侵蝕が進行し……」
「大丈夫だから」
 スタッフの声を遮った。しかし、微笑で固めたスタッフは、項の辺りに真っ直ぐ切り揃えられた髪や、首元まで閉めたボタンのように几帳面だった。
「小林多喜二サマは耗弱状態です。本来戦うことの出来る状態ではありません」
「……」
「補修を推奨します。衰弱が進行し、喪失状態に移行した場合、時間経過のみで構成情報の崩壊に至る恐れがあります」
 文豪たちは、人間ではない。一冊の本に込められた魂──いわゆる『著者』が紡いだ文学に込めた想い、それを手に取った読者が抱いた想い、遺された様々な文献に連なる『個人』という宇宙──から、人の姿を構成することを『転生』と呼ぶ。構成されたものが、『著者』と同様の意識を自覚して動きだしたものが『文豪』と呼ばれる。文豪たちは、物理的な身体に囚われない。いわゆる情報そのものだからこそ、本に書かれた世界へ潜り、その中で自我を保ち続けることができるのだ。──そう説明したのは、誰だったか。
「本をお預け下さい、小林多喜二サマ。自主的な引渡しを期待できない場合、先生の存続を優先させるため、強制的な回収を実行……」
 スタッフの言葉は、今度は誰も用が無くなったはずの扉の方から勢いよく足音が飛び込んできて遮られた。それだけに留まらない。
「多喜二、まだここに居たのかよ! なかなか戻ってこねぇから、心配したぞ」
 部屋いっぱいに、さっぱりとした涼しい声。誰もが振り向き、その人物を目にすれば息を呑む。志賀直哉は、そういう男だ。今も苦々しく、スタッフがゆっくりと振り向き、つかつかと歩み寄る志賀を見上げては、ふぅと肩を落とした。
「……私共はいつでも、補修室でお待ちしています」
 志賀の横を抜けて退室していくスタッフを見送った。志賀は手で払うような仕草をしてから、小林に歩み寄った。小林はまだスタッフとの会話の名残を引きずって、顔の強張りを解けていなかったが、志賀は一向気にせず、小林の肩を叩いてやる。
「怪我は?」
「……今回は、ほとんど受けてません。顔に洋墨をかけられて、目潰しをされたぐらいで」
「それで袖が真っ黒なのか。ここもまだ黒いぞ」
 志賀が無造作に袖を小林の顔に近づけるので、小林は大きく顔を逸らして避けた。
「逃げるんじゃない」
「だめです、汚れてしまう」
「俺はいいんだ。このぐらいすぐに落ちる」
「そんな……」
「お前の方がこれから大変だろ。洗面器に石鹸で手ずから洗濯、毎日のこととはいえ労働だ。このぐらい拭わせてくれ」
「いえ、袖で拭けば一緒です」
「その袖で拭いたらお前の顔の方が汚れる」
 問答しながら押し合って、結局志賀が小林の腕を捕まえてしまい、拘束を解く前に志賀の袖、ではなく白いハンカチーフが小林の顔を拭った。あぁ、と気が抜けた声を漏らす小林は、諦めてされるままになる。志賀は、小林の顔から濃い疲労の色がとれるように、丁寧に拭ってやった。
「気にすんな。お前はもうちょっと、人に頼れ」
「……」
「よし、綺麗になった」
 ハンカチーフを代償に取り戻した清潔さは少し心地悪かった。小林は口を結び、俯く。その肩をまた叩いていく志賀の手は優しい。
「先に食堂に行ってるからな。今日の戦いの話を聞かせてくれ……早く来いよ。待ってるからな」
 志賀はひとりで補修室を後にする時、廊下へ一歩出てすぐ「あちぃ……」と零し、扉を閉めずに出て行った。あの誰にも慕われる人を一人で食堂に向かわせる罪悪感が小林にも一抹はあったが、ようやく手に入れた静けさには抗えず、見送った後に一度小林は自分で扉を閉めた。廊下へ近づいた時には、確かに生ぬるい空気の壁を感じた。
 潜書室はその名の通り、有碍書──侵蝕者に侵された本──や、通常の本へ潜書するために必ず使用する部屋で、精密な機構が集められているため長居しないのが吉とされている。機構はスタッフが動かすもので文豪が一人でいようと独断で潜書することは不可能だし、機構は一冊置き去りにしたまま沈黙している。明日は次のページからまた潜るので開いたままにしてあった。誰かが読みかけにして忘れていったのに近い寂しさがある。これを少しの間眺めたり、ちゃんとこれまでの部分が浄化されているかなどを確かめてから、やっと補修室を出るのを個人的に決まりにしていた。
「……直哉サンは、優しすぎる」
 一通り確認し終えてしまうと、いよいよ留まる理由がなくなり、小林は深く呼吸をした。扉に向かって取手を掴み、捻る前にもう一度息を吸い、一瞬止めて取手を捻る。押す時に少し力がいって、開けると熱波が顔に直撃した。思わず「うわ」と飛び出したのを恥じて、フードを深く被り直し、手早く後ろ手に扉を閉めて右手へ早足で進み出した。腹が減っている。志賀は食堂で待っている。食堂は左へ行った方が近かったが、補修室と医務室の前を通らなければならなくなるので小林は極力避けていた。廊下の外向きの壁には窓が連なっていて、どれも曇り硝子がはめ殺しになっていた。換気は窓を使わず行われ、これが風をまるで感じない。気温は常に一定なのに、少し室温が低い潜書室から出た一瞬だけ、地下書庫のような暑さを感じる。小林はフードの内側に流れる汗を堪えながら、早くこの気温を体が思い出すように願った。
 夏が来ている。あの高い空をまた見られれば、どんなに晴れ晴れとするだろう、と思った。足が重いのも本の中を除けば天井以外の空を見ていないからだ、とつまらぬことを考えた。視線は自分の影に向けたままのくせ空のことを考えるのも滑稽だ、と自虐もしたが、それで気分良くもならない。足元にチラチラと見える自分の本のように、どす黒く恐ろしい感じが背中に纏わりついている。
「なにか腹に入れたら、また書庫に行かなければ……」
 頭が痛み、躓きそうになって壁に手をついた。その手には洋墨がまだ幾らか付いていて、純白の壁に跡が残る。小林の胸が幾らか軽くなった。それで、じっと見つめた手で、自分の頬を痒くもないのに拭った。罪悪感が胸の内をくすぐった。
 廊下の突き当たりに階段がある。右に行けば上り、文豪たちの部屋がある階に行く。左に曲がってゆっくり降り始めた。足の気怠さは階段で一層増し、薄氷を踏むように慎重に降りなければ足を滑らして転げ落ちそうだった。銀の手摺はぬるく、曇っている。階段の隅には薄ら埃が積もっていた。間もなく一斉掃除が行われる日になるだろう。十四段降りると踊り場に出て、手摺に従い左へ回ればもう十四段が待っている。
「多喜二」
 下から声がかかった。小林が足を止めると、降りた先の階段の影から、中野重治がぬっと現れて小林を見上げた。
「お疲れ様。こっちから来ると思ったよ」
「重治。お疲れ」
 中野は小林の同士だ。昔も今も同じく、共に戦えること自体が喜ばしい。この図書館では仲間がいない文豪の方が多いのに、中でもプロレタリア派の作家が二人も揃うことは不思議なことだった。心を許せる友の前だが、それでも小林はフードを取るわけにはいかない。周囲を目で確認してから、口角を上げて、とんとんと階段を降り中野に並ぶ。並んだ後も同じように周りを警戒することを忘れることは出来なかった。
「もしかして、ずっと待っていたの?」
 中野は小林の足を一瞥したが、何も言わずに顔を上げて「大して待ってないよ」と答えた。
「食堂?」
「そのつもり。重治も? もう遅いのに」
「食べそびれてしまって。志賀さんも待ってるよ」
「ああ……」
 小林の歯切れが悪いせいか、中野は小林の背にそっと手を添え、「今日はどうだった」と穏やかに尋ねた。気遣いが痛い。小林が答えようと口を開いた、ちょうどそこへ靴音の硬い響きが重なるが聞こえる。規則的で少し早い歩調は主が決まっていて、小林はその主を避けるためなら何でもしたかった。今すぐ小走りをして立ち去るかと考えたが、それを見透かしたように低い声が立て板に水で答えた。
「適性存在は十五体出現しました。うち一体は人型、通称は排除スル嫉妬心。接敵した結果、約一名が重傷、他三名は軽傷を負いました。現在は重傷者と軽傷者一名を同時補修しており、もう一名は医務室で待機しています。もう一名は、そこにいらっしゃいますね」
 何を言うにも、つまらない本を朗読するように淡々と、言葉の区切れだけはきっぱりとするのは特務司書の話し方だ。中野は驚いた顔で小林の後ろを見ているので、観念して勢いよく振り返ると、白衣を着ていかにも学者然とした眼鏡の男が小林の目の前に立っている。室内で汚れ一つない革靴、黒いバインダーを持つ手には薄い手袋を嵌めており、何かの実験帰りかと思わせるが、特務司書はいつもこう、だ。
「……今日もスタッフ任せか。監督もしないで、良い身分だな……特務司書」
 小林は敵を睨むのと同様に、特務司書を睨み上げた。白衣の内側に皺ひとつなく着込んだ漆黒のスーツの襟元には、桜の印章があり、彼の身分を示していた。文豪たちを転生させ、管理する存在として、彼は何の疑いもなく君臨している。小林より僅かに背が高く、銀縁の細い眼鏡の向こうから、関心の薄い眼差しを小林に無遠慮に注いできた。
「補修業務に特化させたスタッフを配置しています。軽傷ならば効率的に、重傷であれば慎重に、負担のない補修作業を遂行します。その際の機密は守られます。そのために私は業務をスタッフに任せ、研究を続けていましたが、何か」
「同じことだ。彼らもアンタの手製だろ」
「先生方とて、同じこと」
 拳を握った小林を、中野が間に入って制止した。
「司書さん、僕たちはまだ昼を食べていないんだ。もし話があるなら後から行くから、今は許してくれないかな」
 小林への助け舟だった。噛み付く体力が残っていない小林は、まだ気が済まないものの、それで口をつぐもうとする。しかし司書はそんなことは知らないとばかりに言葉を続けた。
「近頃食欲も減退しているのでは」
「……」
「残党処理に毎日勤しむことは構いませんが、その都度受ける傷を、随分長く放置しているとスタッフから報告が上がっています。よく真っ直ぐ立っていますね……私は何も世間話のためにわざわざ研究室を出てきたのではありません。そちらの方は手の込んだ自殺をしようとしていますので、止めに来たのです。私への私怨のために半年近く治療を拒否し、その間も傷を受け続けるなど、自殺企図に他なりません。止めない方が情が無い行いでしょう」
 司書はものを問われなければ何も言わないが、自分が正しいと信じる位置からものを言う時に饒舌だ。その手の話題は小林にとって、事実痛かった。何も言えずに唇を噛んでいると、中野が小さく、意識して呼吸をした。
「彼を気遣ってくれているのは分かるよ。彼がなるべく補修室に行きやすいように、貴方が補修や治療の業務をスタッフに任せて、自分はあまり立ち寄らないようにしているのも皆知ってる。でも、補修したくない気持ちも分かる」
「ほう。貴方も精神面に不調が?」
「僕には無いよ。でも警戒心は解けない。僕たちの名前を未だに覚えていない……いや、覚える必要性を感じていないのかな。転生させた特務司書、文学を守るための礎、部下を指揮する上司……どの角度から見ても、そんなことはありえないと思うから」
「心外ですね。名称でしたら記憶しています」
 司書は、ゆっくりと二人の顔を眺め、「中野先生、そして、小林先生。疑念を持つのは構いませんが、御自身の仕事をお忘れにならないように」と忠告めいたことを言った。そうして、あっさり踵を返し、上りの階段の横を奥へ続く薄暗い廊下の方へ歩き去った。
 二人はじっと白い背中を見送り、靴音が聞こえなくなってからようやく中野は肩を落として、小林は深く息を吐き出した。全身が気だるく、座り込みたかったが、これから食堂に行くため膝をさするだけにしておいた。
「ごめん、重治……」
「いや、僕の方こそ、咄嗟に感情的になってしまった。良くなかったかもしれない……」
「……そんなことはないさ。でも……重箱の隅をつつくような指摘は、相手次第で逆鱗に触れる。いざと言う時は重治も、自分の立場を、守ってくれ。俺は大丈夫だから」
「……」
 中野は複雑そうに笑みを見せて、小林の背に、また手を置いた。先程の続きをするように。
「食堂に行こう。そこで改めて、僕からも言うよ」
「何を?」
「体調のことを。志賀さんも言いたいことがありそうだし、便乗させてもらおうかな。一時間くらいは逃がさないから、味の濃いものを選ぶといいよ」
「厳しいな……」
 小林が笑うと、中野もやっと、くすっと笑った。それから、小林が額の前に引き下げたフードに引っ掛けた指先を、黙って見つめた。
 二人は連れ立って、食堂へ向かう。近づいても人の声があまりしないのは、もうほとんど人がいないからだろう。どこへ行っても静かな図書館の中で、たまにカフェ程度には賑やかになることがあるのが食堂だったが、それだからこそ人がいない間の物寂しさは他所のどことも比べ物にならなかった。だから、小林も三回食べに来る以外では、食堂に立ち寄らないようにしていた。
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