起
二一九二号帝国図書館の地下書庫は、小林多喜二が来なければ誰も来ない。小林は転生してから一度も図書館の外へ出たことがないため──これは小林に限らず、転生した文豪全員がそうだが──余所を知らないが、同僚が調べてきたところに拠ると、他館は営業時間中どこも明るく、地下書庫にも閉館間際まで常に灯りがあるらしい。蔵書数も比べ物にならず、来館者も然りなのだろう。一方この館といえば、地下書庫から時折聞こえる唸り声だか軋みの音だかの噂があるせいで、恨みを持って死んだ人間が今も尚地下書庫の壁の中に埋まっているのだと恐れられている。呆れたことに噂は館外まで広がっているらしく、そのせいか来館者も少ない。同僚は少し前、来館者増加のためにイメージの払拭が必要だ、と、何やら企画を練るだとか話していた。小林にしてみれば、それよりも蔵書数や資料収集の再開、棚の整理、手続きの簡略化や視覚化など、やるべきことが先にいくらでもあるようにしか思えない。
しかし小林に、そう言った改善策を伝える相手は居ない。直属の上司に当たる特務司書の名前を、小林は今も尚知らず、同僚たちも知らないが、彼の口癖は皆よく知っていた──『先生方が気にされるようなことは、何もありません。御自身の職務に専念してください』。全てを一掃する、魔法の言葉だ。
今日も小林だけが、地下書庫に灯りを入れる。世間はようやく夏が来るというが、常に一定の環境を保たれている図書館内で季節を感じるには、ここに来るのが最も手っ取り早い。ぱちんという音から十秒も遅れ、天井に並ぶ古い蛍光灯が順番に点くが、待っている間に小林はもう汗だくになってしまい、たまらず被り続けのフードを少しだけ外した。
「早く確認して出てこよう……団扇じゃ間に合わない」
独りごちて熱い息を吐き、まだ点滅している青白い光の下の、重苦しく並んだ本棚の群れを見やった。薄っぺらく見える銀の金属で出来た、天井につく高さで横にも長い十段の本棚が左右それぞれ十八架ずつ、左右の壁に片側を接して居並ぶ様は迫り来る壁にも似ている。棚ごとにある程度は分類されてはいて、大小厚さも様々な本がどの棚にもいくらか入っているが、逆に見渡す限りぎっしり詰まった棚が無い。所謂閉架書庫とも呼ばれるここに、地上に置ききれなかった資料が全て収まっているはずで、つまりこの館の蔵書の全てだ。手前に辞書、最奥に新聞、少し手前に雑誌類、どれも空きが目立って大きい。それを見る度に小林は侘しい気分に襲われる。知恵の集積場として、あまりに頼りなく感じてしょうがない。最後に新しい本を見たのはいつだったか、思い出しながら、小林は本棚の間に入り込んだ。
どこか遠くにある換気扇がずっと低く唸るように稼働しているが、空気は重く湿っている。この機能しているのか分からない換気扇が、人を書庫に近づけさせない要因のひとつだ。小林は一ヶ月間ここに通って、どこにも不自然な壁や床が無いと知っていた。無意味な機械は止めるか直すかしなければ、怯える人間をただ増やし、実質的な幽霊として機能し、そこは噂によって墓場となる。いつかここで人死にが見つかっては一溜りもないのだから、最低限の設備くらいは整えて欲しいな、と考え、小林は嘆息しながらまだ進む。暑さが息苦しいので早足で行く先は、何も見ないでも分かるほど通いつめた、文学雑誌のまとまる棚。
やがて足を止めた。そこには無個性な箱に似る、分厚い本がずらりと並んだ日本文学を取り扱う雑誌の棚。一冊ごとに複数巻をまとめて綴ってあり、灰色の背表紙には書名が箔で押されているが、金の箔なのはよろしくない。仮に薄気味悪い電灯が仕事を全うしたとしても、書庫内はまだ不気味に薄暗く、金の箔では影に紛れてろくに見えない。灯りの下に引きずり出してようやく見えるから、いちいち引っ張り出して確かめ、違ったら戻し、を繰り返さなければならない。背表紙には請求記号が必ず貼ってあるはずが、そもそも請求記号を検索する媒体を使用する許可が、転生文豪には下りていない。
見当をつけて一冊引き出すと、背表紙の箔より先に、小口からぴらりとはみ出した細長い紙が目に付いた。流石使用率が低い、と苦笑する。これは小林が挟んだもので、小口からきっかり二センチ飛び出させることにしている。数日前に来た時と、なんの変化も見られない。栞のページを開けば、ある社会派の雑誌の一面記事が日の目を見る。
「……思い出した、ここからだ」
人が居座って本を読むことを想定していない書庫には、椅子も机もない。やむなくその場で立ち読みをするわけだが、立ったまま書くことも読むことも慣れている小林には造作もないことだ。時々汗が滴らないうちに袖で拭いながら、紙面に意識を向けた。二段組で論が続く頁の右端には見出しがある。
【命を折った作家の苦悩と爆発──転生失敗の少なからぬ要因について】
この作家の名前を、秀呼優という。小林も最初は読みから分からなかったが、ある一般雑誌を検めた際に初めてルビを知ってからは、しゅうこゆうの秀の部分を苗字と考え、秀さんと呼ぶことにしていた。どうにも馴染まない三文字の名前はペンネームらしい。本名を探しているが、図書館中の文学書を当たる限り、どこにも見つけられなかった。
彼は、要人を巻き込んで自爆し、計四名を死傷させた犯罪者であり、事件の直前には起こした事件の内容を予言したような作品を出版していることで好奇の目に晒され続ける作家である。小林は、今日に至るまで一ヶ月あまりの間、仕事の合間に書庫を尋ねては、この人物について調べる日々を送っていた。
「……『新星』出版後少しして事件。この間の足取りは不明だが……か。その足取りと、それまでが知りたいのに」
目を通していると、事件との照合のためか、引用文が出てくる。『新星』とは秀の遺作であるとされ、悪い意味で彼の最も有名な作でもある。
〈この世を現在、形成するものは、全て氷で出来ている。(中略)であれば、何か酷く、酷く熱い何かが、只中で急に大爆発すれば、足もこの世も全て、一斉に溶け失せるのではないか? それを考えると、いつでもおれは、冷たい喜びに頬を撫でられ、喉の中を伝う氷の欠片を味わうような気分になる。〉
〈(略)──冷たさがカンと冴えている。これが、数十分後には、灼熱の風船と化して、何もかもを焼き払うのだと思うと、たまらなくなる。〉
〈(略)閃光。成功を悟るまえにのみこまれる。男は行く末に気づかなかった。その頃にはもう、ほんとうに何も持たない命となった、だから、風船がどのように割れて、ゴム片がどのように、何もかも引きちぎって、咲いた熱花がどこまで咲き誇って、何十億の運命を道連れに、枯れていったのか、星がとりもどしたすがたが、いつのころのすがたなのか、男はなんにも気づかない。〉
《氏はこの後に件の事件を起こし、手製の爆弾で自爆を起こしている。まさしく熱い何かによって、この世を幾分溶かし破壊しようとしたのである。執筆にどれ程の期間を費やされたか定かでないが、その頃から事件の構想があったと見られる分には無理もないだろう。》
『新星』は、秀の他の作品をほとんど見かけない代わりに、彼を扱う文には必ずと言っていいほど引用される。事件が起きた当時の新聞にまで引用されていて、まるで事件に直接関連させて書かれた作品のように扱われている。引用箇所もいつも似たような文ばかりで、掻い摘んで書かれたあらすじさえ、判を押したように同じ文章で書かれているのが、彼の周囲の狭さを思わせる。収穫が少ない記事を閉じ、嘆息した。『新星』も気にはなるが、小林の関心は、違う文章に向いている。
懐に手を入れ、奥底の方へ隠してあった古く薄い文庫サイズの本を引き出し、雑誌の代わりに開く。
「『新星』……以外の作品、ということしか、まだ分からないなんて思わなかったな」
どの文と見比べても、『新星』と名付けられた文章やフレーズがひとつも見当たらない、秀の作品のひとつ。カバーもなく、文字は滲みに溶けて大部分消え、表題さえ判読不可能にされた、古い文庫本がただ一冊。小林の唯一の手がかりであり、彼の足を地下へ向かわせる、ある種の爆弾──あまりにも存在感が消え失せすぎた、朽ちかけの果実。手汗で壊れては困るので、指先で表紙と扉を纏めてつまみ、開くと、掠れた文字でこう始まる。
〈……から、名から逃げ…………た。強い……………………真……に、無我夢……駆…………すと、……いてきた…………はあっという間に遠………………〉
僅かな単語とその欠片を残して、後はほとんど読めない。これは経年劣化のせいだけでなく、どうやら侵蝕にやられたらしい。頁内は劣化に留まらず、あるページは丸ごと、あのバケツでぶちまけたように洋墨が染み込んで、何も読めなくなっていたりする。侵蝕──侵蝕者と呼ばれる負の存在により、文学が削られ、消去される、おぞましい現象。それを意のままに操る悪魔は倒された。だが、未だに侵蝕者は絶えず、生まれ、湧き、誰も知らないところで侵蝕を行う。この本のように。
「う……」
鋭い痛みを側頭部に感じた。抑えた手に籠った熱に応じて、じりじりと響く。暑く籠った中に長時間居たことによる熱中症のそれとは、少し違う。これは季節や気候に関係なく、たまに小林を襲い苛む現象だった。
頭骨の中、表面に程近い内部で起こる頭痛。じっとしていればすぐに消える時もあり、逆に眠ろうとしてもなかなか止まず徹夜の原因にもなるこの病は、いつ発症したのだったか。同僚の誰に聞いても分からず、医務室のスタッフに尋ねても解決しない。ただ、起きるタイミングはほぼ決まっている──この消えかけの文庫本を読む時と、秀について調べる時。つまりはこの著者に関することに触れようとすると、ほぼ決まって痛む。近頃は痛むどころか幻聴までする。唸り声にも似た慟哭の声が、四方から小林を囲むのだ。
「……っ、わかった、わかった」
呻き声に脂汗をかきながら、口角を少し吊り上げる。彼なりの気丈さを薄暗がりに見せるのは、見えない慟哭の主を落ち着かせようとする方便の一つ。
「今日はもう、やめておくから。落ち着いてくれ……」
開いたばかりの文庫本を閉じて、懐の奥へまた押し込む。上着の前を閉めて、暫くじっとしていると、次第に痛みが丸くなり、やがて名残だけ残して落ち着いてくれる。深く息を吐き出した。
「そんなに、知られたくないのか? ……でも俺は、アンタのことが知りたいよ」
懐に、上着越しに触れ、指先に僅かな硬さを確かめた。直接触れれば今にも崩れそうな古い見目だが、こうすると確かな一冊と何ら違わない。
「アンタがどんな犯罪者だろうと、アンタが何かを伝えたくてペンを取ったことは変わらない。そんなアンタの言葉が……俺の部屋の本棚に突然現れたのが、一ヶ月前だ。おかしな話だよね。俺はアンタを、知らなかったのに」
雑誌も閉じ、元の所へ立てておく。栞代わりの紙切れは、隣の本の最初に挟んだ。
「初めて中を見た時、もう既にこうなっていて、ほとんど読めなかった。それでも僅かな文字の欠片から、見知らぬ作家の悲鳴を聞いた気がした……それで、決めたんだ。アンタはきっと、俺に助けを求めた……なんでなのかは分からないけど」
押し込めた文庫本を、再び引き出して、灯りの元に晒す。手擦れのする表紙中央より少し下寄りに、薄く秀の名前がある。
「俺は、応えたいんだ。何も出来なくても、俺に出来ることを。昔、俺がしてもらったみたいに」
だから、手がかりを探している。この、財産とも呼ぶべき本がそもそも少なく、増して文学書がろくに無い図書館の中を、たった一人で彷徨っている。聞いたこともない作家の見知らぬ作品の表題と、本当の中身を読むために。忘れられようとしている魂を、この世に繋ぎ止めておくために。
「アンタはどんな人生を送ったんだろう。名前を捨てようとして、実際に捨てて、でも捨てきれなかった……この本は多分、そういう話を書いている。捨てきれなかったから、爆破したのか? 何もかも、壊したくなったのか? そしてその負の感情を……奴らに見つかった?」
何かものが軋む音が不意にして、小林は咄嗟に真後ろを振り返った。何も無いし、誰もいない。遠くで効かない換気扇が恨み言を零し続けている。
本棚の隙間を凝視し、己の気配を殺して様子を伺う。足は勝手に、視線と逆の方へじりじりと下がる。もう音がしないと分かると、くるりと足の行こうとする方へ向いて、ツカツカ歩き始めた。
「……明日はあの本、それでもダメなら、新聞を読もう。事件のあった年から、まずは遡って……きっとまた時間がかかる……明日の潜書は今日よりも上手く立ち回らないと。補修なんか、している暇はないんだ」
文庫本を懐へ収めてから、遠回りをして、入ってきた扉の前に立つ。灯りは使った者が消すルールだ。書庫を振り向き、一面見渡してから、小林はぽつり呟いた。
「また、来るよ。アンタのことを調べにね」
壁に手を伸ばし、電灯のスイッチをぱちんと押す。点く時とは逆で、書庫内は一瞬のうちに闇に沈む。扉を開く前に、頭にフードを深く被り直すことを忘れなかった。どれほど外から吹き込む風が快かろうと、この暑く苦しい過酷な地下書庫の方が、小林には息のしやすい場所であった。
しかし小林に、そう言った改善策を伝える相手は居ない。直属の上司に当たる特務司書の名前を、小林は今も尚知らず、同僚たちも知らないが、彼の口癖は皆よく知っていた──『先生方が気にされるようなことは、何もありません。御自身の職務に専念してください』。全てを一掃する、魔法の言葉だ。
今日も小林だけが、地下書庫に灯りを入れる。世間はようやく夏が来るというが、常に一定の環境を保たれている図書館内で季節を感じるには、ここに来るのが最も手っ取り早い。ぱちんという音から十秒も遅れ、天井に並ぶ古い蛍光灯が順番に点くが、待っている間に小林はもう汗だくになってしまい、たまらず被り続けのフードを少しだけ外した。
「早く確認して出てこよう……団扇じゃ間に合わない」
独りごちて熱い息を吐き、まだ点滅している青白い光の下の、重苦しく並んだ本棚の群れを見やった。薄っぺらく見える銀の金属で出来た、天井につく高さで横にも長い十段の本棚が左右それぞれ十八架ずつ、左右の壁に片側を接して居並ぶ様は迫り来る壁にも似ている。棚ごとにある程度は分類されてはいて、大小厚さも様々な本がどの棚にもいくらか入っているが、逆に見渡す限りぎっしり詰まった棚が無い。所謂閉架書庫とも呼ばれるここに、地上に置ききれなかった資料が全て収まっているはずで、つまりこの館の蔵書の全てだ。手前に辞書、最奥に新聞、少し手前に雑誌類、どれも空きが目立って大きい。それを見る度に小林は侘しい気分に襲われる。知恵の集積場として、あまりに頼りなく感じてしょうがない。最後に新しい本を見たのはいつだったか、思い出しながら、小林は本棚の間に入り込んだ。
どこか遠くにある換気扇がずっと低く唸るように稼働しているが、空気は重く湿っている。この機能しているのか分からない換気扇が、人を書庫に近づけさせない要因のひとつだ。小林は一ヶ月間ここに通って、どこにも不自然な壁や床が無いと知っていた。無意味な機械は止めるか直すかしなければ、怯える人間をただ増やし、実質的な幽霊として機能し、そこは噂によって墓場となる。いつかここで人死にが見つかっては一溜りもないのだから、最低限の設備くらいは整えて欲しいな、と考え、小林は嘆息しながらまだ進む。暑さが息苦しいので早足で行く先は、何も見ないでも分かるほど通いつめた、文学雑誌のまとまる棚。
やがて足を止めた。そこには無個性な箱に似る、分厚い本がずらりと並んだ日本文学を取り扱う雑誌の棚。一冊ごとに複数巻をまとめて綴ってあり、灰色の背表紙には書名が箔で押されているが、金の箔なのはよろしくない。仮に薄気味悪い電灯が仕事を全うしたとしても、書庫内はまだ不気味に薄暗く、金の箔では影に紛れてろくに見えない。灯りの下に引きずり出してようやく見えるから、いちいち引っ張り出して確かめ、違ったら戻し、を繰り返さなければならない。背表紙には請求記号が必ず貼ってあるはずが、そもそも請求記号を検索する媒体を使用する許可が、転生文豪には下りていない。
見当をつけて一冊引き出すと、背表紙の箔より先に、小口からぴらりとはみ出した細長い紙が目に付いた。流石使用率が低い、と苦笑する。これは小林が挟んだもので、小口からきっかり二センチ飛び出させることにしている。数日前に来た時と、なんの変化も見られない。栞のページを開けば、ある社会派の雑誌の一面記事が日の目を見る。
「……思い出した、ここからだ」
人が居座って本を読むことを想定していない書庫には、椅子も机もない。やむなくその場で立ち読みをするわけだが、立ったまま書くことも読むことも慣れている小林には造作もないことだ。時々汗が滴らないうちに袖で拭いながら、紙面に意識を向けた。二段組で論が続く頁の右端には見出しがある。
【命を折った作家の苦悩と爆発──転生失敗の少なからぬ要因について】
この作家の名前を、秀呼優という。小林も最初は読みから分からなかったが、ある一般雑誌を検めた際に初めてルビを知ってからは、しゅうこゆうの秀の部分を苗字と考え、秀さんと呼ぶことにしていた。どうにも馴染まない三文字の名前はペンネームらしい。本名を探しているが、図書館中の文学書を当たる限り、どこにも見つけられなかった。
彼は、要人を巻き込んで自爆し、計四名を死傷させた犯罪者であり、事件の直前には起こした事件の内容を予言したような作品を出版していることで好奇の目に晒され続ける作家である。小林は、今日に至るまで一ヶ月あまりの間、仕事の合間に書庫を尋ねては、この人物について調べる日々を送っていた。
「……『新星』出版後少しして事件。この間の足取りは不明だが……か。その足取りと、それまでが知りたいのに」
目を通していると、事件との照合のためか、引用文が出てくる。『新星』とは秀の遺作であるとされ、悪い意味で彼の最も有名な作でもある。
〈この世を現在、形成するものは、全て氷で出来ている。(中略)であれば、何か酷く、酷く熱い何かが、只中で急に大爆発すれば、足もこの世も全て、一斉に溶け失せるのではないか? それを考えると、いつでもおれは、冷たい喜びに頬を撫でられ、喉の中を伝う氷の欠片を味わうような気分になる。〉
〈(略)──冷たさがカンと冴えている。これが、数十分後には、灼熱の風船と化して、何もかもを焼き払うのだと思うと、たまらなくなる。〉
〈(略)閃光。成功を悟るまえにのみこまれる。男は行く末に気づかなかった。その頃にはもう、ほんとうに何も持たない命となった、だから、風船がどのように割れて、ゴム片がどのように、何もかも引きちぎって、咲いた熱花がどこまで咲き誇って、何十億の運命を道連れに、枯れていったのか、星がとりもどしたすがたが、いつのころのすがたなのか、男はなんにも気づかない。〉
《氏はこの後に件の事件を起こし、手製の爆弾で自爆を起こしている。まさしく熱い何かによって、この世を幾分溶かし破壊しようとしたのである。執筆にどれ程の期間を費やされたか定かでないが、その頃から事件の構想があったと見られる分には無理もないだろう。》
『新星』は、秀の他の作品をほとんど見かけない代わりに、彼を扱う文には必ずと言っていいほど引用される。事件が起きた当時の新聞にまで引用されていて、まるで事件に直接関連させて書かれた作品のように扱われている。引用箇所もいつも似たような文ばかりで、掻い摘んで書かれたあらすじさえ、判を押したように同じ文章で書かれているのが、彼の周囲の狭さを思わせる。収穫が少ない記事を閉じ、嘆息した。『新星』も気にはなるが、小林の関心は、違う文章に向いている。
懐に手を入れ、奥底の方へ隠してあった古く薄い文庫サイズの本を引き出し、雑誌の代わりに開く。
「『新星』……以外の作品、ということしか、まだ分からないなんて思わなかったな」
どの文と見比べても、『新星』と名付けられた文章やフレーズがひとつも見当たらない、秀の作品のひとつ。カバーもなく、文字は滲みに溶けて大部分消え、表題さえ判読不可能にされた、古い文庫本がただ一冊。小林の唯一の手がかりであり、彼の足を地下へ向かわせる、ある種の爆弾──あまりにも存在感が消え失せすぎた、朽ちかけの果実。手汗で壊れては困るので、指先で表紙と扉を纏めてつまみ、開くと、掠れた文字でこう始まる。
〈……から、名から逃げ…………た。強い……………………真……に、無我夢……駆…………すと、……いてきた…………はあっという間に遠………………〉
僅かな単語とその欠片を残して、後はほとんど読めない。これは経年劣化のせいだけでなく、どうやら侵蝕にやられたらしい。頁内は劣化に留まらず、あるページは丸ごと、あのバケツでぶちまけたように洋墨が染み込んで、何も読めなくなっていたりする。侵蝕──侵蝕者と呼ばれる負の存在により、文学が削られ、消去される、おぞましい現象。それを意のままに操る悪魔は倒された。だが、未だに侵蝕者は絶えず、生まれ、湧き、誰も知らないところで侵蝕を行う。この本のように。
「う……」
鋭い痛みを側頭部に感じた。抑えた手に籠った熱に応じて、じりじりと響く。暑く籠った中に長時間居たことによる熱中症のそれとは、少し違う。これは季節や気候に関係なく、たまに小林を襲い苛む現象だった。
頭骨の中、表面に程近い内部で起こる頭痛。じっとしていればすぐに消える時もあり、逆に眠ろうとしてもなかなか止まず徹夜の原因にもなるこの病は、いつ発症したのだったか。同僚の誰に聞いても分からず、医務室のスタッフに尋ねても解決しない。ただ、起きるタイミングはほぼ決まっている──この消えかけの文庫本を読む時と、秀について調べる時。つまりはこの著者に関することに触れようとすると、ほぼ決まって痛む。近頃は痛むどころか幻聴までする。唸り声にも似た慟哭の声が、四方から小林を囲むのだ。
「……っ、わかった、わかった」
呻き声に脂汗をかきながら、口角を少し吊り上げる。彼なりの気丈さを薄暗がりに見せるのは、見えない慟哭の主を落ち着かせようとする方便の一つ。
「今日はもう、やめておくから。落ち着いてくれ……」
開いたばかりの文庫本を閉じて、懐の奥へまた押し込む。上着の前を閉めて、暫くじっとしていると、次第に痛みが丸くなり、やがて名残だけ残して落ち着いてくれる。深く息を吐き出した。
「そんなに、知られたくないのか? ……でも俺は、アンタのことが知りたいよ」
懐に、上着越しに触れ、指先に僅かな硬さを確かめた。直接触れれば今にも崩れそうな古い見目だが、こうすると確かな一冊と何ら違わない。
「アンタがどんな犯罪者だろうと、アンタが何かを伝えたくてペンを取ったことは変わらない。そんなアンタの言葉が……俺の部屋の本棚に突然現れたのが、一ヶ月前だ。おかしな話だよね。俺はアンタを、知らなかったのに」
雑誌も閉じ、元の所へ立てておく。栞代わりの紙切れは、隣の本の最初に挟んだ。
「初めて中を見た時、もう既にこうなっていて、ほとんど読めなかった。それでも僅かな文字の欠片から、見知らぬ作家の悲鳴を聞いた気がした……それで、決めたんだ。アンタはきっと、俺に助けを求めた……なんでなのかは分からないけど」
押し込めた文庫本を、再び引き出して、灯りの元に晒す。手擦れのする表紙中央より少し下寄りに、薄く秀の名前がある。
「俺は、応えたいんだ。何も出来なくても、俺に出来ることを。昔、俺がしてもらったみたいに」
だから、手がかりを探している。この、財産とも呼ぶべき本がそもそも少なく、増して文学書がろくに無い図書館の中を、たった一人で彷徨っている。聞いたこともない作家の見知らぬ作品の表題と、本当の中身を読むために。忘れられようとしている魂を、この世に繋ぎ止めておくために。
「アンタはどんな人生を送ったんだろう。名前を捨てようとして、実際に捨てて、でも捨てきれなかった……この本は多分、そういう話を書いている。捨てきれなかったから、爆破したのか? 何もかも、壊したくなったのか? そしてその負の感情を……奴らに見つかった?」
何かものが軋む音が不意にして、小林は咄嗟に真後ろを振り返った。何も無いし、誰もいない。遠くで効かない換気扇が恨み言を零し続けている。
本棚の隙間を凝視し、己の気配を殺して様子を伺う。足は勝手に、視線と逆の方へじりじりと下がる。もう音がしないと分かると、くるりと足の行こうとする方へ向いて、ツカツカ歩き始めた。
「……明日はあの本、それでもダメなら、新聞を読もう。事件のあった年から、まずは遡って……きっとまた時間がかかる……明日の潜書は今日よりも上手く立ち回らないと。補修なんか、している暇はないんだ」
文庫本を懐へ収めてから、遠回りをして、入ってきた扉の前に立つ。灯りは使った者が消すルールだ。書庫を振り向き、一面見渡してから、小林はぽつり呟いた。
「また、来るよ。アンタのことを調べにね」
壁に手を伸ばし、電灯のスイッチをぱちんと押す。点く時とは逆で、書庫内は一瞬のうちに闇に沈む。扉を開く前に、頭にフードを深く被り直すことを忘れなかった。どれほど外から吹き込む風が快かろうと、この暑く苦しい過酷な地下書庫の方が、小林には息のしやすい場所であった。
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