市丸ギン
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潮風が運んでくる過ぎ去りし夏の思い出。
今はどうでもいいことだけれど。
左手に填めていた指輪の痕を見ることさえ今はできない。
少し前まではこの指に填められていたのに。
人懐っこい笑顔が印象的で真っ直ぐ且つ一生懸命な姿に惹かれた。
彼が年下だったからかいつも気を遣っていて、ありのままの自分を出すことは結局叶わず。
大人で理解ある心の広い彼女を演じていたけれど、ぐいぐい引張ってくれるような男性に一度でいいから甘えてみたい、という儚い夢を持っていた。
まさか部下に横取りされるとは思わず、年下の彼を信頼したのが間違っていたのか。
「私の馬鹿……」
海に向かって銀色の輪を静かに落とす。
風景の中の思い出。
◯◯が愛した言動・行動そのすべて。
何より銀の輪に秘められた深い記憶は痛い。
封印さえすればもう痛みは動かないから。
水底に沈み、錆を得て、忘却の彼方へと去るといい。
指輪が沈むのを確認し、重い腰を上げ砂を払う。
涙を追いやり、笑わなければ。
悲しくなんてないから笑おう。
いつかきっと忘れられるのだから。
なのに何故だろう、涙が底から溢れはたはたと流れてくるのは。
「悲しいて泣いてはるん?」
「……何番隊の方かは存じませんけど私は泣いてなどいません。目が痒くなって……」
「砂でも目にはいったんか? 先刻からぼそぼそと独りごと言うて水の中に物放り投げとったんちゃんと見てたんよ?」
「……」
水面に浮かぶ銀髪の青年。
死覇装の上に羽織。
脇差に似た斬魄刀。
同じ隊ではないから熟知しているわけではないけれど、噂では耳に蛸ができるほどよくきいている。
声だけでは分からなかった。
水面に浮かぶ彼を見て、はっとした。
彼が三番隊隊長であることは誰もが皆、知っていることだ。
「市丸隊長ですか?」
「見たところ面識ないのにボクのこと知ってんの?」
「知らぬ者など一人とていませんよ」
「まァ、そんなことはどうでもええけど。……キミは何でこないな所でこんなことしてるんや?」
「好きだった人に愛想尽かされただけですよ」
「……そうかァ……、でも悲観せんでもええんや。男も女も星の数ほどおるんやし、その男だけが男やないんやで?」
「それでも私にとってはたったひとりの男性で……あの人は一人だけ。どこにいっても同じ人はいない……男の人と交際なんて初めてだったから私、舞い上がってて。心配してながら逆上せ上がってたんです」
可愛いなんておかしいけれど、放ってはおけないくらい大事に世話をしていたつもりでいた。
温室の花のように、半ば押し付けるように可愛がった。
傍から離れ、冷たい仕打ちを受けるなんて。
その腕の温もりを慈しんでいたのが遠い昔のように思える。
今は新しい彼女の所有物と化しているだろうけど。
「なんや大変やったみたいやねぇ……ほな、景気付けに一杯飲みに行こか」
「し、初対面の相手に向かってそれは何ですか!? それに景気なんてそんな気分じゃ……」
笑みに似た口元。
表情は読み取れないが、笑っているのは確かだ。
「塞ぎこんどったら隙間が埋まるんはええんやけど、悪い事だけ考えてまう。明るいことだけ考えてたら嫌なこと、忘れてまうやろ?」
「市丸隊長……」
未練を切り捨て、自分のために独りの自由を楽しもう。
彼の誘いで足を運んだ居酒屋にてぎこちない手つきでお猪口を口にする。
お酌をするつもりがいつの間にやら市丸に酒を勧められ、その後の記憶は白紙状態であった事は言うまでもないが。
◯◯は酒によって緊張を解かれ、長々とした迷惑な愚痴と説教を市丸がひたすら聞いてくれていた、と近隣の住民が言っていたらしい。
誰かに救済を乞うなんて考えもしなかったけれど、軽々しい言動に救われたことは確か。
それからは度々居酒屋に足を運び、飲み会だけでなく私用でも語らう仲となった。
憧憬に似たこの想いを何といえばいいのだろう。
不思議な形に渦巻くこの想いを。
「◯◯先輩、書類此処でいいですかね?」
「ん……頑張りの成果が出てるね。もうあがってもいいよ、直す所もないようだし」
「はい、お疲れ様でした! ではお先に失礼しますね!」
「お疲れ様、気をつけて帰るんだよ」
日が暮れだす頃、鳥たちは我が家へと帰っていく。
より空に近い場所で外敵が眠るのを待ちながら周囲を見渡す。
子供を守るという大きな大役の為だ。
それと同時刻、部下たちは次々に帰っていく。
詰所内はぽつんと独り寂しく書類整理をする◯◯と乱菊だけになってしまった。
「◯◯、帰らないの? もう遅いわよ? 日も暮れてきたし」
「もう少しだけ……やっていきます」
「ギンと違って熱心で感心しちゃうわ。……でも◯◯が元気になってくれて本当によかったわ」
「……おかげさまですっかり元気になりましたよ。それもこれも市丸隊長のおかげなんですけどね」
半身を失ったかのような痛みに打ちひしがれていた。
疲労と苦難が押し寄せ、生気さえも奪われて生きる心地も消失してしまっていた。
そんなところに彼の何気ない助けがあり、今に至るという話。
「風の噂では仲がいい、って言うじゃない? ねぇ?」
「そんなことないですよ……?」
「結構似合いだと思うけど……? ギンも気がかりなようだし…」
「はぁ……でもそういうのではないと思いますよ。とんでもない女と出くわしてしまったから最後まで世話を見て下さっているというか……」
「ふぅ……自覚のない子って怖いわね。でもお互い様かしら?」
「何がです?」
「だってギンが言ってたんだもの。嘘じゃないわよ」
口から零れるは茉槻のことばかり。
気掛かりで仕方なかったのだろうが、それだけではないのだろう。
『やっと元気になったみたいやね、あの娘』
『部下の不始末なら私が付けれるけれど……恋愛まで手を出すなんて不躾な真似はできないからね』
『あの娘、人に悩み打ち明けるような子やないやろうしな。でも今にも死んでまいそうな顔、しとったなァ……横ばっかり見て男は一人しかおりません、って顔や。男なんか掃いて捨てるほどおるいうのにな』
『あんたとは違うのよ、◯◯は。真面目で純粋なの。正に浮気されても我慢して黙ってるようなタイプかしらね』
見たこともないその男を自分に当て嵌めてみる。
◯◯が彼女であったとして自分ならどちらに転ぶだろう。
従順で雪のようにまっさらな◯◯。
壁のような気を張り巡らし、強がってはいるものの芯は支えがなくては脆い。そう、木のようだ。
そのくせ他人の心配ばかり。
対するは◯◯の恋人を横取りしたと噂されている娘。
整った容姿はまさに神が与えたもうた産物に近しいという美しさで男たちを餌食にした、などという思わしくない噂もきくが、余程美しいのだろう。
果たしてよくも知りもしない女に惹かれるだろうか。
『ボクが丸で女を弄んどるような言い方はやめてくれるか』
『間違ってはいないと思うけど?』
『それはおいといてやな、ボクやったら知りもせん興味のない女に気、移すかなァ…』
友愛よりも思慕が優位になっていることに気付かない。
妹のように庇護してやりたくなり、それが保護となっただけ。
気になって目が離せない。
彼女の表情と自分の心臓が繋がっているように呼応する。
彼女は最早心臓を動かす司令塔。
恋に不慣れな茉槻に惹かれているなどとは思ってもいないだろう。
だがこれは事実でありまやかしではない。
『お遊びなら話は別だろうけど、◯◯だから惹かれているんでしょう?』
『…◯◯にかて相手選ぶ権利あるんやし、第一ボクは…』
『矛盾してることに早く気付いて欲しいわね。見てると焦らされてるみたいで嫌なのよ。いっそのこと◯◯に吐いたらどう?』
上司と部下。
愛情ではない過保護。
友人のようにしていれば気が楽だ。
信頼関係は崩れず、気を遣わずにいられる。
頭の中で一心に消そうとしていたのかもしれない。
その感情を、内なる性を。
『……他人の世話する前に自分のこと構たらどや?』
『お生憎様。私は◯◯が心配なだけよ。その隣にあなたが居たってだけ』
『乱菊には敵わんな。そんなこといわれたらボク……我慢せんよ?』
「……というわけなのよ、◯◯」
「そんなこと言われて直ぐに信じろ、って方が無理ですよ……?」
「そう……よね。こういうことは当人たちの問題だし、私がいたらかえって邪魔になるわよね。ギンは事前に呼んであるからすぐ来ると思うわ。少しの間、居てもらえるかしら?」
「ちょっ……それはどういう……」
頭の中でぐるぐると循環する理解できないもの。
何が何やらわからない。
市丸隊長が私に気があるなんて天地がひっくり返っても有り得ない。
確かに市丸は憧憬の的だ。
ずっとそう思ってきたし、疑問を感じたこともなかった。
だが乱菊の一言で揺らぐ胸の内。
肯定してきた胸の内が偽装、と覆されてしまったら?
共有できる時間の間、終始平安で満たされた状態が続く。
彼の言葉ひとつひとつが染み込んで心地いい。
まるで初心に戻ったかのよう。
幼心に手を繋いだ、あの時のような。
本当に憧れであるのか、わからなくなってきたのが事実。
嗚呼、どうしよう。
しがない身なりでは申し訳ないと毎度身なりや美粧には気を遣った。
知らぬ間に衣服や簪、そういったものが増えていく日々。
心躍ったのは久し振りのことだった。
だが心躍ったのはなぜなのだろう。
気兼ねなく居られ、気を許せる相手。
憧れではなく異性に対する恋慕。
易しき解答の指し示す方向は市丸。
もはや憧憬ではない、恋情。
恋の痛手を知り、無意識の中見切りをつけていたのだろう。
精神的疲労から心を閉ざし、心が選択した自己防衛とでも言うべきか。
もう恋愛などはすまい。
安心して預けられるような人はいないのだから。
男は悪だと断定し、固く閉ざしていた筈なのに。
けれどこの激しい動悸をどんな理由で説明しようか。
説明しようもない、見透かすかの如くのその瞳に清流は濁流と化す。
「じゃ、ゆっくりね」
「乱菊さぁん……」
◯◯の蚊が今にも息絶えそうな声を乱菊は障子を閉じることで遮った。
真っ直ぐ向かい合わなければいけない、愛情があるのならなおのこと。
二人が望むならくっついてしまえばいい。
寧ろお似合いなのではなかろうか。
傷を癒す為ではなく、互いのために。
床に集まる霊圧。
粉塵のように微弱な霊圧。
市丸、彼のものだ。
「覗き見なさるなんていい趣味とはお世辞にも言えませんよ? 市丸隊長」
「なんや。ばれてもうたか」
「私といえどあなたほどの霊圧を見逃す事などできませんよ」
「よう言うわ。こっそり入ったいうのに」
「そこまで鈍くはありません。そうは見えましてもね」
口元に笑みを浮かべ、目尻を下げる。
泣いた顔より笑った顔。
涙も闇では輝けるが、陽の下なら更に映えて、彼女には合っているように思う。
胸の内を這う針を刺すよなこの僅かな痛み。
先端で肌を突き、精神の空洞を作り出す。
彼女でなければ痛まない筈だ。
胸の核が自分のものなのだから繊細に作られたものではないことは知っている。
脆弱になってしまったのは清き夢に感染してしまったからだ。
どうしてくれようか。
自らの色に染め上げ、惹いた心を引き抜いて虜にする。
「毒気が抜けたみたいやね。◯◯は強い子やもんな」
「夢を……いいえ幻を見ていたような気がします。馬鹿というか愚かというか…でも市丸隊長のお陰で目が覚めたんです。本当にすみませんでした」
「そんなんええよ。恋は盲目、いうからな。周りなんか見えんで当然や」
「……あれから訳が分からなくなってしまって……私、好きとか嫌いとかではなくて憧れだった筈なんです。なのに……」
「◯◯はボクが好きなんよ。ただな、認めたくないだけなんや。キミには大好きな男がおって彼は真面目やった。けどその男はボクとは正反対……見ての通りな。こないな男を好きになるやなんて……そう思とるんや、キミは」
「……そんな……」
軽い男は裏が見えない。
本当なのか嘘なのか。
見透かそうとすればするほど自分の情報が搾り取られていく。
名から素性、趣向から性さえも。
愛情さえも見透かされて。
「ボクもな、意外やったんや。キミとおると温こうなって……それがあまりにも心地よかったもんやから鈍なってもうてな、気付かんかった。通りで余所の子に目がいかんなァ、思とったんやけど」
「聞こえは悪いですけど……乱菊さんに唆されて、後押しされて憧れてたと思ってたのに揺らいでやっと私……気付けたみたいです。だから……」
見上げるとふと唇をなぞる指先。
そして頬から額へと移り、◯◯の髪を梳いた。
「ボクが言うてえぇ? 恥かかされるやなんて癪に障るしな、気がすまへんわ」
「……お望みならお聞きしますよ」
はにかんだような微笑。
それなりに恋愛経験を積んだ若しくは年齢に応じて持たされる余裕。
「好き」の一言さえ吐いてしまえばきっと応えてくれるだろう。
改めて畏まるからこっぱすかしいのだ。
我ながら青臭くて笑ってしまうが。
惚れた弱みなのだから仕方がない。
「ボクな、好きなんやキミが。前からそう思ってたんかもしれん。……でもうちひしがれとる◯◯にそんなこと言う気にはなれんかったんや。そんな酷な事でけへんやろ?」
「挫折に慣れてないだけでしたから、仕方ありません。市丸隊長には救って頂いて、本当に感謝してるんですよ。それに私も……お慕いしていますし……」
言葉を続けようと必死に単語を探る◯◯。
何気ない動作に温度を感じ、精一杯の一言に底知れぬ愛情を。
生まれたばかりの子供ではないのだから、と言い聞かせ、平静を装う二人。
「ええの?ボクで」
「だめ……ですか? ふふ……そんな市丸隊長初めて見ました。だってほら、いつもそんな顔しないから」
「そんな顔?」
「笑った顔が優しいから嘘じゃない、ってことはわかりました。……これからは見る目を養わないと」
口調の硬さがだんだん柔らかくなっていく。
多少は認めてくれたのだろうか。
かつての思い出より苦痛なものはないだろうから安心してくれたらいい。
前の思い出が優しく色褪せてくれればいいのだが。
「疑うてるかもしれへんけどボクはせんよ」
「男の方は皆そう仰るってご存知ですか?」
「ボクはせんよ、そんなん。それにさっき言うたばっかりやん?」
あとはひとつふたつの◯◯の我侭で夢は実現する。
笑いながら吐きすてる愛情表現。
抱擁はその後に。
今はどうでもいいことだけれど。
左手に填めていた指輪の痕を見ることさえ今はできない。
少し前まではこの指に填められていたのに。
人懐っこい笑顔が印象的で真っ直ぐ且つ一生懸命な姿に惹かれた。
彼が年下だったからかいつも気を遣っていて、ありのままの自分を出すことは結局叶わず。
大人で理解ある心の広い彼女を演じていたけれど、ぐいぐい引張ってくれるような男性に一度でいいから甘えてみたい、という儚い夢を持っていた。
まさか部下に横取りされるとは思わず、年下の彼を信頼したのが間違っていたのか。
「私の馬鹿……」
海に向かって銀色の輪を静かに落とす。
風景の中の思い出。
◯◯が愛した言動・行動そのすべて。
何より銀の輪に秘められた深い記憶は痛い。
封印さえすればもう痛みは動かないから。
水底に沈み、錆を得て、忘却の彼方へと去るといい。
指輪が沈むのを確認し、重い腰を上げ砂を払う。
涙を追いやり、笑わなければ。
悲しくなんてないから笑おう。
いつかきっと忘れられるのだから。
なのに何故だろう、涙が底から溢れはたはたと流れてくるのは。
「悲しいて泣いてはるん?」
「……何番隊の方かは存じませんけど私は泣いてなどいません。目が痒くなって……」
「砂でも目にはいったんか? 先刻からぼそぼそと独りごと言うて水の中に物放り投げとったんちゃんと見てたんよ?」
「……」
水面に浮かぶ銀髪の青年。
死覇装の上に羽織。
脇差に似た斬魄刀。
同じ隊ではないから熟知しているわけではないけれど、噂では耳に蛸ができるほどよくきいている。
声だけでは分からなかった。
水面に浮かぶ彼を見て、はっとした。
彼が三番隊隊長であることは誰もが皆、知っていることだ。
「市丸隊長ですか?」
「見たところ面識ないのにボクのこと知ってんの?」
「知らぬ者など一人とていませんよ」
「まァ、そんなことはどうでもええけど。……キミは何でこないな所でこんなことしてるんや?」
「好きだった人に愛想尽かされただけですよ」
「……そうかァ……、でも悲観せんでもええんや。男も女も星の数ほどおるんやし、その男だけが男やないんやで?」
「それでも私にとってはたったひとりの男性で……あの人は一人だけ。どこにいっても同じ人はいない……男の人と交際なんて初めてだったから私、舞い上がってて。心配してながら逆上せ上がってたんです」
可愛いなんておかしいけれど、放ってはおけないくらい大事に世話をしていたつもりでいた。
温室の花のように、半ば押し付けるように可愛がった。
傍から離れ、冷たい仕打ちを受けるなんて。
その腕の温もりを慈しんでいたのが遠い昔のように思える。
今は新しい彼女の所有物と化しているだろうけど。
「なんや大変やったみたいやねぇ……ほな、景気付けに一杯飲みに行こか」
「し、初対面の相手に向かってそれは何ですか!? それに景気なんてそんな気分じゃ……」
笑みに似た口元。
表情は読み取れないが、笑っているのは確かだ。
「塞ぎこんどったら隙間が埋まるんはええんやけど、悪い事だけ考えてまう。明るいことだけ考えてたら嫌なこと、忘れてまうやろ?」
「市丸隊長……」
未練を切り捨て、自分のために独りの自由を楽しもう。
彼の誘いで足を運んだ居酒屋にてぎこちない手つきでお猪口を口にする。
お酌をするつもりがいつの間にやら市丸に酒を勧められ、その後の記憶は白紙状態であった事は言うまでもないが。
◯◯は酒によって緊張を解かれ、長々とした迷惑な愚痴と説教を市丸がひたすら聞いてくれていた、と近隣の住民が言っていたらしい。
誰かに救済を乞うなんて考えもしなかったけれど、軽々しい言動に救われたことは確か。
それからは度々居酒屋に足を運び、飲み会だけでなく私用でも語らう仲となった。
憧憬に似たこの想いを何といえばいいのだろう。
不思議な形に渦巻くこの想いを。
「◯◯先輩、書類此処でいいですかね?」
「ん……頑張りの成果が出てるね。もうあがってもいいよ、直す所もないようだし」
「はい、お疲れ様でした! ではお先に失礼しますね!」
「お疲れ様、気をつけて帰るんだよ」
日が暮れだす頃、鳥たちは我が家へと帰っていく。
より空に近い場所で外敵が眠るのを待ちながら周囲を見渡す。
子供を守るという大きな大役の為だ。
それと同時刻、部下たちは次々に帰っていく。
詰所内はぽつんと独り寂しく書類整理をする◯◯と乱菊だけになってしまった。
「◯◯、帰らないの? もう遅いわよ? 日も暮れてきたし」
「もう少しだけ……やっていきます」
「ギンと違って熱心で感心しちゃうわ。……でも◯◯が元気になってくれて本当によかったわ」
「……おかげさまですっかり元気になりましたよ。それもこれも市丸隊長のおかげなんですけどね」
半身を失ったかのような痛みに打ちひしがれていた。
疲労と苦難が押し寄せ、生気さえも奪われて生きる心地も消失してしまっていた。
そんなところに彼の何気ない助けがあり、今に至るという話。
「風の噂では仲がいい、って言うじゃない? ねぇ?」
「そんなことないですよ……?」
「結構似合いだと思うけど……? ギンも気がかりなようだし…」
「はぁ……でもそういうのではないと思いますよ。とんでもない女と出くわしてしまったから最後まで世話を見て下さっているというか……」
「ふぅ……自覚のない子って怖いわね。でもお互い様かしら?」
「何がです?」
「だってギンが言ってたんだもの。嘘じゃないわよ」
口から零れるは茉槻のことばかり。
気掛かりで仕方なかったのだろうが、それだけではないのだろう。
『やっと元気になったみたいやね、あの娘』
『部下の不始末なら私が付けれるけれど……恋愛まで手を出すなんて不躾な真似はできないからね』
『あの娘、人に悩み打ち明けるような子やないやろうしな。でも今にも死んでまいそうな顔、しとったなァ……横ばっかり見て男は一人しかおりません、って顔や。男なんか掃いて捨てるほどおるいうのにな』
『あんたとは違うのよ、◯◯は。真面目で純粋なの。正に浮気されても我慢して黙ってるようなタイプかしらね』
見たこともないその男を自分に当て嵌めてみる。
◯◯が彼女であったとして自分ならどちらに転ぶだろう。
従順で雪のようにまっさらな◯◯。
壁のような気を張り巡らし、強がってはいるものの芯は支えがなくては脆い。そう、木のようだ。
そのくせ他人の心配ばかり。
対するは◯◯の恋人を横取りしたと噂されている娘。
整った容姿はまさに神が与えたもうた産物に近しいという美しさで男たちを餌食にした、などという思わしくない噂もきくが、余程美しいのだろう。
果たしてよくも知りもしない女に惹かれるだろうか。
『ボクが丸で女を弄んどるような言い方はやめてくれるか』
『間違ってはいないと思うけど?』
『それはおいといてやな、ボクやったら知りもせん興味のない女に気、移すかなァ…』
友愛よりも思慕が優位になっていることに気付かない。
妹のように庇護してやりたくなり、それが保護となっただけ。
気になって目が離せない。
彼女の表情と自分の心臓が繋がっているように呼応する。
彼女は最早心臓を動かす司令塔。
恋に不慣れな茉槻に惹かれているなどとは思ってもいないだろう。
だがこれは事実でありまやかしではない。
『お遊びなら話は別だろうけど、◯◯だから惹かれているんでしょう?』
『…◯◯にかて相手選ぶ権利あるんやし、第一ボクは…』
『矛盾してることに早く気付いて欲しいわね。見てると焦らされてるみたいで嫌なのよ。いっそのこと◯◯に吐いたらどう?』
上司と部下。
愛情ではない過保護。
友人のようにしていれば気が楽だ。
信頼関係は崩れず、気を遣わずにいられる。
頭の中で一心に消そうとしていたのかもしれない。
その感情を、内なる性を。
『……他人の世話する前に自分のこと構たらどや?』
『お生憎様。私は◯◯が心配なだけよ。その隣にあなたが居たってだけ』
『乱菊には敵わんな。そんなこといわれたらボク……我慢せんよ?』
「……というわけなのよ、◯◯」
「そんなこと言われて直ぐに信じろ、って方が無理ですよ……?」
「そう……よね。こういうことは当人たちの問題だし、私がいたらかえって邪魔になるわよね。ギンは事前に呼んであるからすぐ来ると思うわ。少しの間、居てもらえるかしら?」
「ちょっ……それはどういう……」
頭の中でぐるぐると循環する理解できないもの。
何が何やらわからない。
市丸隊長が私に気があるなんて天地がひっくり返っても有り得ない。
確かに市丸は憧憬の的だ。
ずっとそう思ってきたし、疑問を感じたこともなかった。
だが乱菊の一言で揺らぐ胸の内。
肯定してきた胸の内が偽装、と覆されてしまったら?
共有できる時間の間、終始平安で満たされた状態が続く。
彼の言葉ひとつひとつが染み込んで心地いい。
まるで初心に戻ったかのよう。
幼心に手を繋いだ、あの時のような。
本当に憧れであるのか、わからなくなってきたのが事実。
嗚呼、どうしよう。
しがない身なりでは申し訳ないと毎度身なりや美粧には気を遣った。
知らぬ間に衣服や簪、そういったものが増えていく日々。
心躍ったのは久し振りのことだった。
だが心躍ったのはなぜなのだろう。
気兼ねなく居られ、気を許せる相手。
憧れではなく異性に対する恋慕。
易しき解答の指し示す方向は市丸。
もはや憧憬ではない、恋情。
恋の痛手を知り、無意識の中見切りをつけていたのだろう。
精神的疲労から心を閉ざし、心が選択した自己防衛とでも言うべきか。
もう恋愛などはすまい。
安心して預けられるような人はいないのだから。
男は悪だと断定し、固く閉ざしていた筈なのに。
けれどこの激しい動悸をどんな理由で説明しようか。
説明しようもない、見透かすかの如くのその瞳に清流は濁流と化す。
「じゃ、ゆっくりね」
「乱菊さぁん……」
◯◯の蚊が今にも息絶えそうな声を乱菊は障子を閉じることで遮った。
真っ直ぐ向かい合わなければいけない、愛情があるのならなおのこと。
二人が望むならくっついてしまえばいい。
寧ろお似合いなのではなかろうか。
傷を癒す為ではなく、互いのために。
床に集まる霊圧。
粉塵のように微弱な霊圧。
市丸、彼のものだ。
「覗き見なさるなんていい趣味とはお世辞にも言えませんよ? 市丸隊長」
「なんや。ばれてもうたか」
「私といえどあなたほどの霊圧を見逃す事などできませんよ」
「よう言うわ。こっそり入ったいうのに」
「そこまで鈍くはありません。そうは見えましてもね」
口元に笑みを浮かべ、目尻を下げる。
泣いた顔より笑った顔。
涙も闇では輝けるが、陽の下なら更に映えて、彼女には合っているように思う。
胸の内を這う針を刺すよなこの僅かな痛み。
先端で肌を突き、精神の空洞を作り出す。
彼女でなければ痛まない筈だ。
胸の核が自分のものなのだから繊細に作られたものではないことは知っている。
脆弱になってしまったのは清き夢に感染してしまったからだ。
どうしてくれようか。
自らの色に染め上げ、惹いた心を引き抜いて虜にする。
「毒気が抜けたみたいやね。◯◯は強い子やもんな」
「夢を……いいえ幻を見ていたような気がします。馬鹿というか愚かというか…でも市丸隊長のお陰で目が覚めたんです。本当にすみませんでした」
「そんなんええよ。恋は盲目、いうからな。周りなんか見えんで当然や」
「……あれから訳が分からなくなってしまって……私、好きとか嫌いとかではなくて憧れだった筈なんです。なのに……」
「◯◯はボクが好きなんよ。ただな、認めたくないだけなんや。キミには大好きな男がおって彼は真面目やった。けどその男はボクとは正反対……見ての通りな。こないな男を好きになるやなんて……そう思とるんや、キミは」
「……そんな……」
軽い男は裏が見えない。
本当なのか嘘なのか。
見透かそうとすればするほど自分の情報が搾り取られていく。
名から素性、趣向から性さえも。
愛情さえも見透かされて。
「ボクもな、意外やったんや。キミとおると温こうなって……それがあまりにも心地よかったもんやから鈍なってもうてな、気付かんかった。通りで余所の子に目がいかんなァ、思とったんやけど」
「聞こえは悪いですけど……乱菊さんに唆されて、後押しされて憧れてたと思ってたのに揺らいでやっと私……気付けたみたいです。だから……」
見上げるとふと唇をなぞる指先。
そして頬から額へと移り、◯◯の髪を梳いた。
「ボクが言うてえぇ? 恥かかされるやなんて癪に障るしな、気がすまへんわ」
「……お望みならお聞きしますよ」
はにかんだような微笑。
それなりに恋愛経験を積んだ若しくは年齢に応じて持たされる余裕。
「好き」の一言さえ吐いてしまえばきっと応えてくれるだろう。
改めて畏まるからこっぱすかしいのだ。
我ながら青臭くて笑ってしまうが。
惚れた弱みなのだから仕方がない。
「ボクな、好きなんやキミが。前からそう思ってたんかもしれん。……でもうちひしがれとる◯◯にそんなこと言う気にはなれんかったんや。そんな酷な事でけへんやろ?」
「挫折に慣れてないだけでしたから、仕方ありません。市丸隊長には救って頂いて、本当に感謝してるんですよ。それに私も……お慕いしていますし……」
言葉を続けようと必死に単語を探る◯◯。
何気ない動作に温度を感じ、精一杯の一言に底知れぬ愛情を。
生まれたばかりの子供ではないのだから、と言い聞かせ、平静を装う二人。
「ええの?ボクで」
「だめ……ですか? ふふ……そんな市丸隊長初めて見ました。だってほら、いつもそんな顔しないから」
「そんな顔?」
「笑った顔が優しいから嘘じゃない、ってことはわかりました。……これからは見る目を養わないと」
口調の硬さがだんだん柔らかくなっていく。
多少は認めてくれたのだろうか。
かつての思い出より苦痛なものはないだろうから安心してくれたらいい。
前の思い出が優しく色褪せてくれればいいのだが。
「疑うてるかもしれへんけどボクはせんよ」
「男の方は皆そう仰るってご存知ですか?」
「ボクはせんよ、そんなん。それにさっき言うたばっかりやん?」
あとはひとつふたつの◯◯の我侭で夢は実現する。
笑いながら吐きすてる愛情表現。
抱擁はその後に。
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