捧げ物
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伊呂具の庭園には手入れの行き届いた色鮮やかな紫陽花が咲き乱れ、滴を纏っている。
雨が土に落ちる音。雨独特の匂い。どれもこれも我が見慣れ、嗅ぎ慣れたものだ。
だが伊呂具ならではのこの風景ももう見ることはないだろう。
我は姫と同じくヒトの身となり、めでたく夫婦となったのだから。
我は姫と想いを通わせ、力を失うこととなった。その証拠に獣の耳と尻尾を失ったが後悔はしていない。
本来ならば即座に国を出ていかなければならないところだが、兄上の計らいで姫と祝言を挙げさせていただけることとなり、御膳まで振る舞われ、兄上には誠に頭が上がらぬ。
しかし豪華絢爛な衣装に身を包み、馳走を味わえるのも恐らくは今日限りだろう。
伊呂具の王子であった我は明日より後ろ楯を失うことになるからだ。
王子であればこそ衣食住に困ることなく生活を送ることができたが、これからは王族ではなく平民となる。
だが我に残されたのは無駄に長く生きてきた中で得た知識──主に薬師に相当するものとは自負しているがただそれだけだ。
『やや子が出来たら、必ず文を寄越すのじゃ。よいな? 伊呂具を出たとてわしの弟であることは変わらぬ。……必ずじゃ、必ずじゃぞ』
兄上はそう言って下さったが、兄上──それは我も願ってやまないこと。
しかしそれは叶わぬ願いなのです。
我とて姫との間に生まれてくる我が子をこの手に抱きたい。
だが明日からは姫との生活を守っていかねばならない。
きっと食い繋ぐのが精一杯になり、我が子を産み育てるなど夢のまた夢。
仮にも姫は宗主国の姫君であり、我の妻になったとはいえ、それは未来永劫変わらぬ事実だ。
その姫がもし他の王子と縁を結んでいれば多少の贅沢が許されたものを、我と縁を結んでしまったが故に苦労をさせることを考えれば誠に心苦しくてならない。
そんな我の気も知らず、白無垢姿の姫は馳走を小皿に取り分け、実に幸せそうな顔をしている。
「砕牙さん? 難しいお顔してどうしたんですか?」
「いや……未来(さき)のことを考えておった。明日からは質素な生活が待っておる──うぬがもし他の王子と結婚していたなら、こんなことにはならなかったであろう。我の妻になり、後悔しているのではないか?」
姫は豆鉄砲を食らった鳩のように驚いた顔をしていた。
その表情は悲しんでいるようにも見えたが、我の本心に相違ない。
姫と夫婦になり、今日はめでたき日であるはずなのに、これではまるで幼子の悋気ではないか。
「後悔なんてするわけがありません。私、砕牙さんの奧さんになれてとても嬉しく思っていますのに……もしかして砕牙さんにとって不本意な祝言だったのでしょうか」
白無垢を纏い、鮮やかな紅を引いた姫はいつもと違う雰囲気を醸し出していて、愛らしいのに何とも言えぬ色香を放っておった。
だがこの場には我とうぬの二人きり。その美しい姿をどこぞの馬の骨に見せることもなく、我だけがうぬを独占できるのは何とも喜ばしいこと──しかしうぬの表情を曇らせているのは我であろう。
眉を下げ、悲哀に満ちた瞳で我を見つめてくる姫にかける言葉は探しても見つからなんだ。
うぬと一緒になることは我の夢であり、希望でもあった。他意などあるわけがなかろう。
「そのようなことを申すでない。我は望んでうぬと一緒になったのだ……ただ我の欲でうぬに苦労を強いることを憂いておる」
「苦労?」
「我はもう王子でもない、ただの一国民だ。土地も財産も、職すらも持たぬ。後ろ楯がなくなる以上は今までのような暮らしはできまい。うぬはトロイメアの姫君だ。そのような暮らしなど経験はなかろう?」
我の問いかけにうぬは頷くとばかり思うておったが、姫は余裕とばかりに微笑を浮かべて目を細めた。
自身はトロイメアの姫ではあるが、トロイメアにはナビという執事によって連れてこられたのであって、それ以前は一般市民として暮らしていたという。
成程、そう言われれば公の場に慣れておらぬのも合点がいくというものよ。
だが一般市民としての暮らしが長かったというならば、うぬから教わることは山ほどありそうだ。
何も持たぬ夫に優しい手解きを頼むとしようぞ。
「ですが、私がいた国とは環境が違いますから、私が学ばなければいけないことは沢山あると思います。でも砕牙さんが隣にいるんですもの。どうとにでもなります。旅をしながら公務をこなしていた時はお会いできても年に一度や二度くらいしかお会いできなくて、とても寂しかったんです。でももうそんな思いをしなくていいんですもの」
姫はそう言いながら御神酒の入った三ツ組盃を差し出し、我に先に飲むように勧める。
兄上はこんなものまで用意して下さったのか──ああ、知っておるぞ。三献の儀というものであろう。
これでもうぬよりは長く生きておるのだ。知識だけならうぬよりもあると自負しているつもりだ。
だがまさか我がこのような経験をするとは思わなんだ……兄上には感謝してもしきれぬな。
御神酒で満たされた三ツ組盃には細かな金箔が浮かんでおり、海に笹舟を浮かべたようにゆらゆらと揺れている。
同じ器で酒を飲む──昔からある風習であるようだが、これでうぬと晴れて夫婦となれるのだ。これ以上の喜びはない。
我らの未来が笹舟ならば、嵐に遭遇すれば海の藻屑となり得よう。
穏やかな波に揺られていても、我らの身の安全を保障してくれる者はない。
どちらにせよ、うぬが腹を決めておるのだ。夫である我が逃げ腰では示しがつかぬ。
それならば共に歩いてゆこうではないか。今から我々は平々凡々な夫婦となるのだ。
伊呂具の城を出はしたが、結局伊呂具の地を離れることはできず、国外に行くことはなかった。
ムーンロードを渡ればできないことではなかったが、我を案じてか姫が伊呂具に留まろうと提案してきた。
伊呂具で生まれ、数千年も生活してきた土地だ。愛着がないと言えば嘘になる。
それに伊呂具の何処かにいれば、兄上の近況を知ることができるのだ。
そんな我を案じてくれたのであろう。誠にできた新妻だ。
人が密集した町中では我の顔を知っている者がいるやもしれぬ、と人里離れた山村まで足をのばすことになった。
過疎化が進んだ山村には村人は少なく、見ず知らずの我らを快く受け入れてくれた。
「ここいらじゃ見かけん顔だけど、余所から来たのかい? 何もないとこだけでゆっくりしていっておくれよ」
「かたじけない。だが旅行者ではなく、この地に住みたいと思うてな。我らでも就ける仕事はあるだろうか?」
「ああ、そういうことかい。贅沢品は何もないけどね、食うには困らないよ。土地は豊かだし、野菜も魚も活き活きしてんだよ。しっかし旦那、随分とまあ老成した口調だねぇ。まだ若いってのに」
化粧っ気のない女は屈託なく笑い、力いっぱい我の肩を叩く。
外見では若く見えても、うぬの先祖よりも長く生きておるわ。そう言えばどのような顔をしてくれるか興味があるが、話がややこしくなるので言葉は喉の奥に引っ込めた。
「ああ、実は祖父母に育てられてな。それが移ってしまったのだ。だが同居するにも家が狭くてな、祖父母も年を取ってきたし、苦労をかけまいと家を出たというわけだ」
「砕牙さん」
姫が何か言いたそうに我の顔を窺っている。揉め事などは起こさぬから、安心するがよい。
しかし、口から生まれたのではないかと思うくらいによく喋るおなごよの。うぬが退屈することはなさそうで何よりだ。
生活するのに困らぬなら、それ以上は何も望まぬ。うぬがいる、贅沢な時間以外はな。
「ようきんさったなあ、今宵は宴でも開くかの」
「あまり気を遣わんでくれ。慣れぬ旅路で些か疲れてしまったようだ。先ずは空き家を見せてはくれぬか」
「せわあない。お疲れなら今すぐにでも休める場所がよいだろう。さあさ、若いお二人をお連れしんさい」
腰の曲がった老婆二人が我らの荷を奪うように背負い、早うこい、と手招きしておる。
新たな地で新たな生活が待っておる。これからは何にも縛られず、自由にのびのびといられるのだ。
我がヒトになったとはいえ、うぬが我を置いていく未来は決して変わらぬ。
時が我らを分かつなら、それまでは共にいてはくれぬか。うぬが願ってももう離してはやれぬ。
眠りの世界から我を引き摺り出し、眩(まばゆ)い光を、希望をくれたのはうぬなのだから。
雨が土に落ちる音。雨独特の匂い。どれもこれも我が見慣れ、嗅ぎ慣れたものだ。
だが伊呂具ならではのこの風景ももう見ることはないだろう。
我は姫と同じくヒトの身となり、めでたく夫婦となったのだから。
我は姫と想いを通わせ、力を失うこととなった。その証拠に獣の耳と尻尾を失ったが後悔はしていない。
本来ならば即座に国を出ていかなければならないところだが、兄上の計らいで姫と祝言を挙げさせていただけることとなり、御膳まで振る舞われ、兄上には誠に頭が上がらぬ。
しかし豪華絢爛な衣装に身を包み、馳走を味わえるのも恐らくは今日限りだろう。
伊呂具の王子であった我は明日より後ろ楯を失うことになるからだ。
王子であればこそ衣食住に困ることなく生活を送ることができたが、これからは王族ではなく平民となる。
だが我に残されたのは無駄に長く生きてきた中で得た知識──主に薬師に相当するものとは自負しているがただそれだけだ。
『やや子が出来たら、必ず文を寄越すのじゃ。よいな? 伊呂具を出たとてわしの弟であることは変わらぬ。……必ずじゃ、必ずじゃぞ』
兄上はそう言って下さったが、兄上──それは我も願ってやまないこと。
しかしそれは叶わぬ願いなのです。
我とて姫との間に生まれてくる我が子をこの手に抱きたい。
だが明日からは姫との生活を守っていかねばならない。
きっと食い繋ぐのが精一杯になり、我が子を産み育てるなど夢のまた夢。
仮にも姫は宗主国の姫君であり、我の妻になったとはいえ、それは未来永劫変わらぬ事実だ。
その姫がもし他の王子と縁を結んでいれば多少の贅沢が許されたものを、我と縁を結んでしまったが故に苦労をさせることを考えれば誠に心苦しくてならない。
そんな我の気も知らず、白無垢姿の姫は馳走を小皿に取り分け、実に幸せそうな顔をしている。
「砕牙さん? 難しいお顔してどうしたんですか?」
「いや……未来(さき)のことを考えておった。明日からは質素な生活が待っておる──うぬがもし他の王子と結婚していたなら、こんなことにはならなかったであろう。我の妻になり、後悔しているのではないか?」
姫は豆鉄砲を食らった鳩のように驚いた顔をしていた。
その表情は悲しんでいるようにも見えたが、我の本心に相違ない。
姫と夫婦になり、今日はめでたき日であるはずなのに、これではまるで幼子の悋気ではないか。
「後悔なんてするわけがありません。私、砕牙さんの奧さんになれてとても嬉しく思っていますのに……もしかして砕牙さんにとって不本意な祝言だったのでしょうか」
白無垢を纏い、鮮やかな紅を引いた姫はいつもと違う雰囲気を醸し出していて、愛らしいのに何とも言えぬ色香を放っておった。
だがこの場には我とうぬの二人きり。その美しい姿をどこぞの馬の骨に見せることもなく、我だけがうぬを独占できるのは何とも喜ばしいこと──しかしうぬの表情を曇らせているのは我であろう。
眉を下げ、悲哀に満ちた瞳で我を見つめてくる姫にかける言葉は探しても見つからなんだ。
うぬと一緒になることは我の夢であり、希望でもあった。他意などあるわけがなかろう。
「そのようなことを申すでない。我は望んでうぬと一緒になったのだ……ただ我の欲でうぬに苦労を強いることを憂いておる」
「苦労?」
「我はもう王子でもない、ただの一国民だ。土地も財産も、職すらも持たぬ。後ろ楯がなくなる以上は今までのような暮らしはできまい。うぬはトロイメアの姫君だ。そのような暮らしなど経験はなかろう?」
我の問いかけにうぬは頷くとばかり思うておったが、姫は余裕とばかりに微笑を浮かべて目を細めた。
自身はトロイメアの姫ではあるが、トロイメアにはナビという執事によって連れてこられたのであって、それ以前は一般市民として暮らしていたという。
成程、そう言われれば公の場に慣れておらぬのも合点がいくというものよ。
だが一般市民としての暮らしが長かったというならば、うぬから教わることは山ほどありそうだ。
何も持たぬ夫に優しい手解きを頼むとしようぞ。
「ですが、私がいた国とは環境が違いますから、私が学ばなければいけないことは沢山あると思います。でも砕牙さんが隣にいるんですもの。どうとにでもなります。旅をしながら公務をこなしていた時はお会いできても年に一度や二度くらいしかお会いできなくて、とても寂しかったんです。でももうそんな思いをしなくていいんですもの」
姫はそう言いながら御神酒の入った三ツ組盃を差し出し、我に先に飲むように勧める。
兄上はこんなものまで用意して下さったのか──ああ、知っておるぞ。三献の儀というものであろう。
これでもうぬよりは長く生きておるのだ。知識だけならうぬよりもあると自負しているつもりだ。
だがまさか我がこのような経験をするとは思わなんだ……兄上には感謝してもしきれぬな。
御神酒で満たされた三ツ組盃には細かな金箔が浮かんでおり、海に笹舟を浮かべたようにゆらゆらと揺れている。
同じ器で酒を飲む──昔からある風習であるようだが、これでうぬと晴れて夫婦となれるのだ。これ以上の喜びはない。
我らの未来が笹舟ならば、嵐に遭遇すれば海の藻屑となり得よう。
穏やかな波に揺られていても、我らの身の安全を保障してくれる者はない。
どちらにせよ、うぬが腹を決めておるのだ。夫である我が逃げ腰では示しがつかぬ。
それならば共に歩いてゆこうではないか。今から我々は平々凡々な夫婦となるのだ。
伊呂具の城を出はしたが、結局伊呂具の地を離れることはできず、国外に行くことはなかった。
ムーンロードを渡ればできないことではなかったが、我を案じてか姫が伊呂具に留まろうと提案してきた。
伊呂具で生まれ、数千年も生活してきた土地だ。愛着がないと言えば嘘になる。
それに伊呂具の何処かにいれば、兄上の近況を知ることができるのだ。
そんな我を案じてくれたのであろう。誠にできた新妻だ。
人が密集した町中では我の顔を知っている者がいるやもしれぬ、と人里離れた山村まで足をのばすことになった。
過疎化が進んだ山村には村人は少なく、見ず知らずの我らを快く受け入れてくれた。
「ここいらじゃ見かけん顔だけど、余所から来たのかい? 何もないとこだけでゆっくりしていっておくれよ」
「かたじけない。だが旅行者ではなく、この地に住みたいと思うてな。我らでも就ける仕事はあるだろうか?」
「ああ、そういうことかい。贅沢品は何もないけどね、食うには困らないよ。土地は豊かだし、野菜も魚も活き活きしてんだよ。しっかし旦那、随分とまあ老成した口調だねぇ。まだ若いってのに」
化粧っ気のない女は屈託なく笑い、力いっぱい我の肩を叩く。
外見では若く見えても、うぬの先祖よりも長く生きておるわ。そう言えばどのような顔をしてくれるか興味があるが、話がややこしくなるので言葉は喉の奥に引っ込めた。
「ああ、実は祖父母に育てられてな。それが移ってしまったのだ。だが同居するにも家が狭くてな、祖父母も年を取ってきたし、苦労をかけまいと家を出たというわけだ」
「砕牙さん」
姫が何か言いたそうに我の顔を窺っている。揉め事などは起こさぬから、安心するがよい。
しかし、口から生まれたのではないかと思うくらいによく喋るおなごよの。うぬが退屈することはなさそうで何よりだ。
生活するのに困らぬなら、それ以上は何も望まぬ。うぬがいる、贅沢な時間以外はな。
「ようきんさったなあ、今宵は宴でも開くかの」
「あまり気を遣わんでくれ。慣れぬ旅路で些か疲れてしまったようだ。先ずは空き家を見せてはくれぬか」
「せわあない。お疲れなら今すぐにでも休める場所がよいだろう。さあさ、若いお二人をお連れしんさい」
腰の曲がった老婆二人が我らの荷を奪うように背負い、早うこい、と手招きしておる。
新たな地で新たな生活が待っておる。これからは何にも縛られず、自由にのびのびといられるのだ。
我がヒトになったとはいえ、うぬが我を置いていく未来は決して変わらぬ。
時が我らを分かつなら、それまでは共にいてはくれぬか。うぬが願ってももう離してはやれぬ。
眠りの世界から我を引き摺り出し、眩(まばゆ)い光を、希望をくれたのはうぬなのだから。