捧げ物
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
好きだから嫌いだと告げて、離してあげた。
君が望んでいたんじゃないか。
僕を惹きつけておきながら焦らしに焦らして。
あれだけ思わせぶりな態度を取っておきながら、それはないだろう。
誰が見たってみんな僕が正しかったという筈だ。
だから僕は悪党じゃない。
悲しい振りをして泣いて見せても、猿真似にしか過ぎないんだ。
純心を踏みにじった罪だとでも思ってせいぜい理解するといいさ。
僕が君を好きだったことも水に流してしまうような君が理解するとは塵ほどにも思っていやしないけれど。
いつもの生活に狂いはない。
副隊長として部下の面倒を見、書類に目を通す。
仕事の間中は神経を走らせるから余裕はない。
仕事第一の死神、そう見られていてもそれはそれで構わない。
きっとそれが自分の本来の姿なのだろう。
早い夏がやってきているから日差しが強い。
じっとしているだけで汗が雫のように額から流れ落ちる。
手首に重なる死覇装の袖を捲り上げれば、僅かでも暑さから解放されると思ったのが大きな間違い。
風も吹かぬ、日照りが激しいだけのこんな日。
涼しくなろうはずがない。
障子を開くと熱気がイヅルを包む。
「……」
静寂の中に溶け込んだ溜息が空を舞い、散っては消えてゆく。
休憩時というのに走らせている筆をおき、息を吐き出した。
たまらなく暑いのは正午というせいだけだろうか。
この際死覇装を、変形させてしまうのはどうだろう。
少しくらいなら風を得ることができるだろう。
後々困ることになるだろうことはわかっているから、そんなことはできないけれど。
少なからず副隊長で部下を持つ身としては、蔑みの目で見られることだけは避けたいものだ。
そんな目を向けられては立場が崩れ去り、路頭に迷うことになりかねない。
それだけは絶対にできないのだ。
『わかってるなら聞く必要なんてないじゃないか』
偶然にも三番隊で働くことが決まった日、豆鉄砲を食らったように目を丸くしてしまった。
小さかった肩がすっかり見違えて、大人びていた。
斬魄刀を振り回す様さえ、勇ましく逞しくて輝いて見える。
生き生きとしているのは隣で微笑む男のおかげなのか。
時々食事を一緒にしている所を見かけた。
恋人なのか友人なのかはよくわからなかったが。
『イヅルの同期なんやてな、聞いたで。……ちゃんと世話見たりや』
『同期というだけで別に何も……』
『そうは見えへんけどなァ……艶のある話があったんちゃうか?』
『そんな気の利く話題は残念ながらちっともありませんよ』
『まぁええわ。面倒見たるんも仕事のうちや。イヅル、頼んだで』
彼女に恋心を抱いていたなんて遠の昔の事、部下以上の感情はもうない。
思い合いながらもすれ違って、微笑むことを覚える。
毎日嫌でも出くわす機会が教えてくれた笑顔。
過去にあった楽しい思い出は眩しすぎて壁越しでなければもう直視できない。
白く汚されることのない思い出が空しく頭の中で過ぎり、イヅルは現実に引き戻される。
今とは違う、幼く拙い二人。
本性を隠す白塗りの皮で顔を覆い、善人を演じていただけ。
無欲で無知であった頃が一番二人にとってはよかったのかもしれない。
逢瀬を重ねることだけで満足していた。
「もう……何もかもが遅すぎたんだ……」
関係の亀裂ができるまでは心穏やかな恋人同士だった。
どこにでもいるような若者で、仲間に囃し立てられては照れ臭そうに俯きながら頬を染めていた。
イヅルを後押ししながら手を繋がせていたが、彼はまんざらでもない、と心の中で囁く。
誰にも通らぬ、彼だけの秘密でもあった。
イヅルの肩を指でつつく時は決まって、そうだ。
『手……いい?』
『姫?』
『誰も見てないよ? あ、誰か来たらちゃんと手、離すから』
『いや、繋いでくれてていいんだ』
『見られてからかわれるの、イヅルが嫌だっていってたんじゃないの?』
『僕がそうしたいんだ。隠すような疚しい事なんてしないんだから、堂々としてればいいんだよ』
『そんなこと言うからからかわれるんだよ? 妙な所で真剣な事、いうんだから』
『だって本当のことなんだから。好きなのは本当だよ』
『私の前では笑った顔と、困ってる顔しか見せないよね。真面目で真剣で……崩れてないのに、私といる時はにやけちゃうんだね』
『好きでしてるわけじゃないよ。大体勝手にイメージを作って壊された、なんて言われても僕は悪いことはしてないと思う』
真面目一貫。
けれど視線の先にいるのはいつも同じ女性で。
彼女に魅入られてからは自分を保つことが非常に難しくなった。
何もかもが新鮮そのものである子供のように、笑い泣いたり、悲しんだりすることが当たり前の彼女の表情につられて目尻が眉の位置が歪められる。
自由な時間を削ってでも、飛んでいこう。
呆れた顔をしているけれど、心臓は喜んでくれているに違いない。
『ありがとう』
『……どうして?』
『何でもない』
締まりのない顔をしては笑われたけれど、楽しかった。
空気のように纏わり付いていたから離れることは滅多になかった。
知らない男の横で目尻を下げている姿を見ていたくなかったから、笑って遠ざかって見せた。
空気のように重なった思いは泡になり、散ってしまったというだけ。
「今更……女々しい男だな」
姫との恋は終わった筈だ。
不自然なまでの当然と言えば仕方ない、自然消滅へと導いたのは自身。
よそよそしい空気を感じて、紫音もまた部下に戻った。
でもまだ胸に残る思いは確かに留まっていて、鮮やかな色を残している。
彼女を好きだという真実は変わらずにいる、この現状は言い訳を継ぎ足してもどうにもならない。
諦め切ったと思い込んでいた心はいつまでも彼女を捕まえる為に走り続けている。
面識のない男に走らせる嫉妬は醜悪そのもので。
終わった筈ではないか、彼女との恋は。
「吉良副隊長……?」
女性特有の高い声。
障子を開いて一礼する女。
イヅルの心の中に未だ住まう死神。
「何か用かい? ……まだ休憩中だろう?」
「あ、書類を六番隊から預かりまして。もしかしたら市丸隊長がいらっしゃるかと思ったんですが……市丸隊長は……?」
冷静に振舞おうとする度に心臓は強張りながらも震える。
たとえ上司であろうと知らぬ男であっても、姫が口にする他の男の名は耳障りが悪い。
口の端をあげて悪態をつこうなんて思ってはいないのに考えるより先に口が素早く動く。
「隊長に目をかけてもらおうなんてよく考えたものだね。こんな芝居までしてさ」
「芝居……? 何を……」
「うちの隊長がこんな時間に、しかも詰所にいるわけがないだろ? 貴重な休憩時間なんだから」
裏側に出ているのが真の気持ち。
姫を貶めようなどとは思っていないが、これも愛情の空回りゆえ。
姫はイヅルをきっ、と睨みつけ、書類を彼の胸に叩きつけた。
好きだからこそ溢れて零れる怒り。
怒りゆえに眉を歪め、一筋の涙を浮かべた。
「隊長に取りいろうなんて……私はそこまで堕ちるなら死神なんてとっくの昔にやめています。私につっかからないで下さい。もうあなたとは何の関係もないんだから」
「君の心が揺れ動いたから身を引いただけじゃないか。君のためを思って僕は……」
姫の腕を奪えば、書類の束がはらはらとゆっくり舞いながら地に伏せていく。
話題は同じなれど筋は食い違ったまま、続けられる。
「身を引いた……? よそよそしくなったから私が、身を引いたの。第一私はあなた以外に心を揺り動かされたことなんて一度もなかったのに」
「そうだというなら彼はなんだと説明してくれるんだい?」
「彼……?」
あんぐりと大きく開かれた口。
予想も想像もしていなかったイヅルの発言に姫は小さな、苦い笑い声を零した。
よそよそしくなったから離れて、恋人関係を解消したつもりだったのだけれど。
話が合わない。これは決定的だ。
「……惚けるつもりならもう遅いよ。僕はこの目で見たんだ、よく一緒にいるだろう?」
「ああ、あの人はただの友達。他の隊の人で要領が悪いから中々上手くいかないみたいで……相談されてただけ。……勿論、仕事の話」
「嘘だ」
僕を騙そうなんてそんな話、旨過ぎるよ。
じわりと溢れて表に出てきたものが弛緩の役割をする。
途端にぎこちないものが四散したような気がした。
皮肉を白紙に塗り替える笑みには勝てない、イヅルはそう感じ取った。
いつの頃からかその笑みは特別なものになっていたのか、記憶にないほど遠い昔だったことしか頭にはない。
いつも慰め、励まし、傍にいたのはいつも彼女だった。
「嘘、言ってどうするの? 私のこと大嫌いだって言った人に嘘言っても効力ないじゃない」
「……」
自分ではない黒の仮面を作ろうとは思ったが、儚い夢に終わってしまった。
悪ぶろうとする度に引き出される純心。
所詮彼女の前では偽ることなどできない。
素の一面さえ美しい姫の前では只の男にしか過ぎないということか。
おとなしく平伏すしか術はない。
「紫音……っ……」
「まだ話すことがあるの? 大嫌いなこの私に」
「嫌いなんじゃない……! まだ好きだったんだ。僕は君のことが好きだったんだ、認めるよ」
策に嵌ったが最後、抜け出せないのは確実。
イヅルが重い口を抉じ開け、告げた時に感じたものは忘れ去っていた何とも甘酸っぱい羞恥。
紫音は微動だにせずただ笑うだけだ。
「過去形なの? 私」
「……姫」
「なら、前言撤回してくれる? 私を嫌いだっていったこと。これでもすごく傷付いたんだよ?」
「それが一番姫の為にいいと思ったんだ……誤解を生む結果になってしまったけど……」
借りてきた猫のように小さくなった姫を抱き寄せ、頬に証を残す。
照れ隠しにと右手が頬を軽く抓る。
それが何を意味するのかは頭の中がしっかり覚えている。
磁力が引き寄せ、羽が導く。
距離さえ問わず、二人の間にできた溝を引き裂いて。
最後には肩を寄せることができれば、それでいい。
自分という仮面から脱皮を図れたような気がしなくもない。
君が望んでいたんじゃないか。
僕を惹きつけておきながら焦らしに焦らして。
あれだけ思わせぶりな態度を取っておきながら、それはないだろう。
誰が見たってみんな僕が正しかったという筈だ。
だから僕は悪党じゃない。
悲しい振りをして泣いて見せても、猿真似にしか過ぎないんだ。
純心を踏みにじった罪だとでも思ってせいぜい理解するといいさ。
僕が君を好きだったことも水に流してしまうような君が理解するとは塵ほどにも思っていやしないけれど。
いつもの生活に狂いはない。
副隊長として部下の面倒を見、書類に目を通す。
仕事の間中は神経を走らせるから余裕はない。
仕事第一の死神、そう見られていてもそれはそれで構わない。
きっとそれが自分の本来の姿なのだろう。
早い夏がやってきているから日差しが強い。
じっとしているだけで汗が雫のように額から流れ落ちる。
手首に重なる死覇装の袖を捲り上げれば、僅かでも暑さから解放されると思ったのが大きな間違い。
風も吹かぬ、日照りが激しいだけのこんな日。
涼しくなろうはずがない。
障子を開くと熱気がイヅルを包む。
「……」
静寂の中に溶け込んだ溜息が空を舞い、散っては消えてゆく。
休憩時というのに走らせている筆をおき、息を吐き出した。
たまらなく暑いのは正午というせいだけだろうか。
この際死覇装を、変形させてしまうのはどうだろう。
少しくらいなら風を得ることができるだろう。
後々困ることになるだろうことはわかっているから、そんなことはできないけれど。
少なからず副隊長で部下を持つ身としては、蔑みの目で見られることだけは避けたいものだ。
そんな目を向けられては立場が崩れ去り、路頭に迷うことになりかねない。
それだけは絶対にできないのだ。
『わかってるなら聞く必要なんてないじゃないか』
偶然にも三番隊で働くことが決まった日、豆鉄砲を食らったように目を丸くしてしまった。
小さかった肩がすっかり見違えて、大人びていた。
斬魄刀を振り回す様さえ、勇ましく逞しくて輝いて見える。
生き生きとしているのは隣で微笑む男のおかげなのか。
時々食事を一緒にしている所を見かけた。
恋人なのか友人なのかはよくわからなかったが。
『イヅルの同期なんやてな、聞いたで。……ちゃんと世話見たりや』
『同期というだけで別に何も……』
『そうは見えへんけどなァ……艶のある話があったんちゃうか?』
『そんな気の利く話題は残念ながらちっともありませんよ』
『まぁええわ。面倒見たるんも仕事のうちや。イヅル、頼んだで』
彼女に恋心を抱いていたなんて遠の昔の事、部下以上の感情はもうない。
思い合いながらもすれ違って、微笑むことを覚える。
毎日嫌でも出くわす機会が教えてくれた笑顔。
過去にあった楽しい思い出は眩しすぎて壁越しでなければもう直視できない。
白く汚されることのない思い出が空しく頭の中で過ぎり、イヅルは現実に引き戻される。
今とは違う、幼く拙い二人。
本性を隠す白塗りの皮で顔を覆い、善人を演じていただけ。
無欲で無知であった頃が一番二人にとってはよかったのかもしれない。
逢瀬を重ねることだけで満足していた。
「もう……何もかもが遅すぎたんだ……」
関係の亀裂ができるまでは心穏やかな恋人同士だった。
どこにでもいるような若者で、仲間に囃し立てられては照れ臭そうに俯きながら頬を染めていた。
イヅルを後押ししながら手を繋がせていたが、彼はまんざらでもない、と心の中で囁く。
誰にも通らぬ、彼だけの秘密でもあった。
イヅルの肩を指でつつく時は決まって、そうだ。
『手……いい?』
『姫?』
『誰も見てないよ? あ、誰か来たらちゃんと手、離すから』
『いや、繋いでくれてていいんだ』
『見られてからかわれるの、イヅルが嫌だっていってたんじゃないの?』
『僕がそうしたいんだ。隠すような疚しい事なんてしないんだから、堂々としてればいいんだよ』
『そんなこと言うからからかわれるんだよ? 妙な所で真剣な事、いうんだから』
『だって本当のことなんだから。好きなのは本当だよ』
『私の前では笑った顔と、困ってる顔しか見せないよね。真面目で真剣で……崩れてないのに、私といる時はにやけちゃうんだね』
『好きでしてるわけじゃないよ。大体勝手にイメージを作って壊された、なんて言われても僕は悪いことはしてないと思う』
真面目一貫。
けれど視線の先にいるのはいつも同じ女性で。
彼女に魅入られてからは自分を保つことが非常に難しくなった。
何もかもが新鮮そのものである子供のように、笑い泣いたり、悲しんだりすることが当たり前の彼女の表情につられて目尻が眉の位置が歪められる。
自由な時間を削ってでも、飛んでいこう。
呆れた顔をしているけれど、心臓は喜んでくれているに違いない。
『ありがとう』
『……どうして?』
『何でもない』
締まりのない顔をしては笑われたけれど、楽しかった。
空気のように纏わり付いていたから離れることは滅多になかった。
知らない男の横で目尻を下げている姿を見ていたくなかったから、笑って遠ざかって見せた。
空気のように重なった思いは泡になり、散ってしまったというだけ。
「今更……女々しい男だな」
姫との恋は終わった筈だ。
不自然なまでの当然と言えば仕方ない、自然消滅へと導いたのは自身。
よそよそしい空気を感じて、紫音もまた部下に戻った。
でもまだ胸に残る思いは確かに留まっていて、鮮やかな色を残している。
彼女を好きだという真実は変わらずにいる、この現状は言い訳を継ぎ足してもどうにもならない。
諦め切ったと思い込んでいた心はいつまでも彼女を捕まえる為に走り続けている。
面識のない男に走らせる嫉妬は醜悪そのもので。
終わった筈ではないか、彼女との恋は。
「吉良副隊長……?」
女性特有の高い声。
障子を開いて一礼する女。
イヅルの心の中に未だ住まう死神。
「何か用かい? ……まだ休憩中だろう?」
「あ、書類を六番隊から預かりまして。もしかしたら市丸隊長がいらっしゃるかと思ったんですが……市丸隊長は……?」
冷静に振舞おうとする度に心臓は強張りながらも震える。
たとえ上司であろうと知らぬ男であっても、姫が口にする他の男の名は耳障りが悪い。
口の端をあげて悪態をつこうなんて思ってはいないのに考えるより先に口が素早く動く。
「隊長に目をかけてもらおうなんてよく考えたものだね。こんな芝居までしてさ」
「芝居……? 何を……」
「うちの隊長がこんな時間に、しかも詰所にいるわけがないだろ? 貴重な休憩時間なんだから」
裏側に出ているのが真の気持ち。
姫を貶めようなどとは思っていないが、これも愛情の空回りゆえ。
姫はイヅルをきっ、と睨みつけ、書類を彼の胸に叩きつけた。
好きだからこそ溢れて零れる怒り。
怒りゆえに眉を歪め、一筋の涙を浮かべた。
「隊長に取りいろうなんて……私はそこまで堕ちるなら死神なんてとっくの昔にやめています。私につっかからないで下さい。もうあなたとは何の関係もないんだから」
「君の心が揺れ動いたから身を引いただけじゃないか。君のためを思って僕は……」
姫の腕を奪えば、書類の束がはらはらとゆっくり舞いながら地に伏せていく。
話題は同じなれど筋は食い違ったまま、続けられる。
「身を引いた……? よそよそしくなったから私が、身を引いたの。第一私はあなた以外に心を揺り動かされたことなんて一度もなかったのに」
「そうだというなら彼はなんだと説明してくれるんだい?」
「彼……?」
あんぐりと大きく開かれた口。
予想も想像もしていなかったイヅルの発言に姫は小さな、苦い笑い声を零した。
よそよそしくなったから離れて、恋人関係を解消したつもりだったのだけれど。
話が合わない。これは決定的だ。
「……惚けるつもりならもう遅いよ。僕はこの目で見たんだ、よく一緒にいるだろう?」
「ああ、あの人はただの友達。他の隊の人で要領が悪いから中々上手くいかないみたいで……相談されてただけ。……勿論、仕事の話」
「嘘だ」
僕を騙そうなんてそんな話、旨過ぎるよ。
じわりと溢れて表に出てきたものが弛緩の役割をする。
途端にぎこちないものが四散したような気がした。
皮肉を白紙に塗り替える笑みには勝てない、イヅルはそう感じ取った。
いつの頃からかその笑みは特別なものになっていたのか、記憶にないほど遠い昔だったことしか頭にはない。
いつも慰め、励まし、傍にいたのはいつも彼女だった。
「嘘、言ってどうするの? 私のこと大嫌いだって言った人に嘘言っても効力ないじゃない」
「……」
自分ではない黒の仮面を作ろうとは思ったが、儚い夢に終わってしまった。
悪ぶろうとする度に引き出される純心。
所詮彼女の前では偽ることなどできない。
素の一面さえ美しい姫の前では只の男にしか過ぎないということか。
おとなしく平伏すしか術はない。
「紫音……っ……」
「まだ話すことがあるの? 大嫌いなこの私に」
「嫌いなんじゃない……! まだ好きだったんだ。僕は君のことが好きだったんだ、認めるよ」
策に嵌ったが最後、抜け出せないのは確実。
イヅルが重い口を抉じ開け、告げた時に感じたものは忘れ去っていた何とも甘酸っぱい羞恥。
紫音は微動だにせずただ笑うだけだ。
「過去形なの? 私」
「……姫」
「なら、前言撤回してくれる? 私を嫌いだっていったこと。これでもすごく傷付いたんだよ?」
「それが一番姫の為にいいと思ったんだ……誤解を生む結果になってしまったけど……」
借りてきた猫のように小さくなった姫を抱き寄せ、頬に証を残す。
照れ隠しにと右手が頬を軽く抓る。
それが何を意味するのかは頭の中がしっかり覚えている。
磁力が引き寄せ、羽が導く。
距離さえ問わず、二人の間にできた溝を引き裂いて。
最後には肩を寄せることができれば、それでいい。
自分という仮面から脱皮を図れたような気がしなくもない。