添影のスターチス
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吐息も白く染まる朝、わたしは街に出ていた。道行く人たちは皆ぼろぼろのコートを着込み、猫背で襟に顔をうずめるようにして足早に歩き去っていく。
ロンドン北東部にあるとある貧民街。鼻が曲がりそうな異臭に、憂鬱な灰色の空、人々の暗い顔が常なこの街がわたしたちの故郷だ。決していい街じゃない。むしろ悪い方であると、幼いわたしにもわかるほど、この街の環境は劣悪だった。飢え、暴行、病死。通りで人が死んでいるのは日常茶飯事で、金目の物を探してそれを漁る人は腐るほどいる。
「出かけるぞ」
今朝方、にいさんはそう言って、毛羽立ったマフラーをわたしの首に巻いた。前に野良犬に襲われて大怪我をしてから、にいさんはわたしが街に出ることを嫌っているので、外出するのは久しぶりだ。
久々の街が嬉しくて、わたしはにいさんの腕に巻き付いて道を歩いた。街はコツコツと乾いた靴音で溢れて、向こうの通りからは客引きの声が聞こえた。すれ違う人たちから時折ぼそぼそとした話し声が流れてくる。
背後から怒号が聞こえたと思ったら、紙袋を片手で抱えた少年が人々の合間をネズミのような動きで走り抜けていく。それを追って、まて、にがすな、と辛うじて聞き取れる怒号をあげながら大人の男たちが人々を蹴散らしながら走る。
「邪魔だ!」
「ううっ」
例に漏れず、わたしも突き飛ばされる。にいさんの腕を掴んでいて、かつにいさんが支えてくれたために、わたしは無傷ですんだ。
「おい、無事か……。ぼさっとするなよな」
「アリガト」
「くそ、あいつらめ、懲らしめてやりたいとこだが、あーいうのにかかわってもロクなことないからな」
そういったにいさんの視線の先では、さっきの紙袋の少年が大人たちに捕まってしこたま殴られている。持っていた紙袋を奪われて、地面にみっともなく転がされている。その腹に鋭いけりが入ったのを見て、うっ、と思わず声を漏らした。
「盗みか盗まれているのかは知らんが……逃げ切れない方が悪いんだぜ。いこう」
にいさんはわたしの手を引くと、それ以上殴られ続ける少年に目もくれず市場へ足を踏み出す。わたしは最後にチラリと少年を見て、にいさんの後を追った。
まだ朝だというのに、空は薄暗くて、まるで終わりのない夢の中にいるようだった。
にいさんがわたしの手を引いてやった来たのは、街のはずれにある焼き菓子屋さんだった。貴族が食す宝石のような焼き菓子はないけれど、下層階級のわたしたちにとってはそれだけでもご馳走であり、大切な人生へのご褒美だった。子供の誕生日にすら買うことができない家庭が多く、いつも閑古鳥が鳴いているのに、どうやって利益を出して、店を構え続けていられるのかずっと不思議だ。
店主は入店のベルの音に新聞から顔を上げた。人良さそうな穏やかな紳士で、並び立つわたしたちを見ると笑い皺をさらに深くさせた。
「おやおや、珍しいねェーーーーー。きみたちだけかい」
「そうだが…………何か不満でも」
「いやいや、まさか。むしろこんなヘンピな場所まで買いに来てくれるお客には神様にするように感謝するさ」
「…………」
「いやはや、珍しい、珍しいねェ。どうぞゆっくりみておいき」
人好きな店主は表情を友好的に和らげてみせて、新聞に目を戻した。ぐるりと店内を見回すと、蜘蛛の巣ひとつなく清潔で、代わりに穏やかな色をしたテーブルのうえには見たこともない焼き菓子が並んでいる。
甘い匂いのするそれは数多く取り扱ってはいないが、どれも目玉が飛び出るような値段をしていて、おもわずにいさんの裾を引いた。しかし、にいさんはそれに動じることも怯む様子もなく、一通り焼き菓子たちを見回した後にわたしを振り向く。
「おまえはどれがいい」
「え、い、いいの……本当に買うの?」
「わざわざこんな場所まで冷やかしに来るほど、ぼくはひまじゃないぜ」
「ホホホホ。そいつは信用に足る言葉だね」
機嫌よく店主が笑う。にいさんは無愛想にフンと鼻を鳴らしてあしらった。
どういう風の吹き回しなのかと混乱するわたしをよそに、にいさんは焼き菓子を吟味している。その横顔を見て、わたしはにいさんが本気で買い物をしているのを悟った。本気でわたしにどれが欲しいかを聞いている。
横目ではやく選べと催促されて、慌てて焼き菓子たちに目を戻す。わたしの目にはどのお菓子も魅力的で、きらきらと輝く宝物のように光を放っているように見えた。これがいい、いや隣のも美味しそう、いややっぱりあっちのやつ。目移りしてしょうがないわたしを見かねてか、
「お嬢ちゃん、悩んでるならこのスコーンなんてのはどうかね。甘くておいしい、食べやすい、そんでハラにもたまるッ。最高尽くしの菓子パンさ。最近スコットランドからレシピ入ってきたんだよ」
「スコーン…………?」
店主は群れからひとつ、厚みがあって温かい色の焼き菓子を取り出してみせた。とても美味しそうで、さっきも目に留まったやつだ。
「おすすめ?」
「おすすめだよォ。まーちと値段は張るが、ウン、仲良しな兄妹の入店を記念してちょいとまけてやろうかな」
「え! 本当!」
「ウソいわんよ。客商売はウソついたら品物が濁るんだ。濁った品物をお客に売りつけることはしない」
「アラ素敵。でも、それじゃあお店立ち行かなくなるわ」
「フフフ、子供がそんなこと気にするもんじゃないよ。この店はわたしの道楽でねェ、貧しい人々にも美味しいお菓子を知ってほしいんだ…………。それがちょっぴりでも世界を生きてみようって活力になってくれたら、それ以上に嬉しいことはない」
「ドーラク?」
「趣味ってことさ」
柔らかく笑う店主。にいさんは怪訝しげに眉を寄せていたが、彼の言葉に感銘を受けたわたしはスコーンを選ぶことにした。楽しみな気持ちでにいさんに伝えると、彼は不機嫌そうな顔をしていたけれど、とうとう何も言わずにお金を支払って店を出た。
退店のベルと店主のまたおいでねェ〜という柔和な声を背に受けて、わたしは振り返って手を振った。
外は吹き付ける風が冷たくて、いつもならぶるりと震えて体を縮こませるところだが、お菓子を抱えて高揚状態のわたしは元気よく石畳の上を跳んだ。
「わああああい!にいさん、ありがとう!!でも、いったいどうしていきなりお菓子を買うの?」
「……たまにはイイことあったほうが、生きる気力も湧くってもんだろ?」
「…………とうさんにお土産?」
「冗談でも怒るぜ」
苛ついた顔でにいさんが睨むので、わたしは萎縮して謝った。
手を差し出され、自分のそれを重ねるとちがう、と呆れた声音で言われる。慌てて焼き菓子の袋を差し出すと、にいさんはそれを小脇に抱えた。わたしが持っていると盗まれてしまうからだ。いくらにいさんが隣で睨みをきかせていたって、まだまだ弱い10にも満たないわたしから奪うことは容易い。
次いでもう一方の手をまた差し出され、飛びつくようにそれを握る。にいさんの手は大きくて、少し冷えていて、けれどぎゅっと握り返してくれる力があたたかかった。
「とうさんには内緒だからな」
「うん」
家に帰って、わたしたちは玄関先に座ってスコーンを食べた。
今朝、朝ご飯に食べた安物のパンとは比べ物にならないくらいしっとりしていて、とろけるほど甘くて、今まで食べた何よりも美味しかった。
ロンドン北東部にあるとある貧民街。鼻が曲がりそうな異臭に、憂鬱な灰色の空、人々の暗い顔が常なこの街がわたしたちの故郷だ。決していい街じゃない。むしろ悪い方であると、幼いわたしにもわかるほど、この街の環境は劣悪だった。飢え、暴行、病死。通りで人が死んでいるのは日常茶飯事で、金目の物を探してそれを漁る人は腐るほどいる。
「出かけるぞ」
今朝方、にいさんはそう言って、毛羽立ったマフラーをわたしの首に巻いた。前に野良犬に襲われて大怪我をしてから、にいさんはわたしが街に出ることを嫌っているので、外出するのは久しぶりだ。
久々の街が嬉しくて、わたしはにいさんの腕に巻き付いて道を歩いた。街はコツコツと乾いた靴音で溢れて、向こうの通りからは客引きの声が聞こえた。すれ違う人たちから時折ぼそぼそとした話し声が流れてくる。
背後から怒号が聞こえたと思ったら、紙袋を片手で抱えた少年が人々の合間をネズミのような動きで走り抜けていく。それを追って、まて、にがすな、と辛うじて聞き取れる怒号をあげながら大人の男たちが人々を蹴散らしながら走る。
「邪魔だ!」
「ううっ」
例に漏れず、わたしも突き飛ばされる。にいさんの腕を掴んでいて、かつにいさんが支えてくれたために、わたしは無傷ですんだ。
「おい、無事か……。ぼさっとするなよな」
「アリガト」
「くそ、あいつらめ、懲らしめてやりたいとこだが、あーいうのにかかわってもロクなことないからな」
そういったにいさんの視線の先では、さっきの紙袋の少年が大人たちに捕まってしこたま殴られている。持っていた紙袋を奪われて、地面にみっともなく転がされている。その腹に鋭いけりが入ったのを見て、うっ、と思わず声を漏らした。
「盗みか盗まれているのかは知らんが……逃げ切れない方が悪いんだぜ。いこう」
にいさんはわたしの手を引くと、それ以上殴られ続ける少年に目もくれず市場へ足を踏み出す。わたしは最後にチラリと少年を見て、にいさんの後を追った。
まだ朝だというのに、空は薄暗くて、まるで終わりのない夢の中にいるようだった。
にいさんがわたしの手を引いてやった来たのは、街のはずれにある焼き菓子屋さんだった。貴族が食す宝石のような焼き菓子はないけれど、下層階級のわたしたちにとってはそれだけでもご馳走であり、大切な人生へのご褒美だった。子供の誕生日にすら買うことができない家庭が多く、いつも閑古鳥が鳴いているのに、どうやって利益を出して、店を構え続けていられるのかずっと不思議だ。
店主は入店のベルの音に新聞から顔を上げた。人良さそうな穏やかな紳士で、並び立つわたしたちを見ると笑い皺をさらに深くさせた。
「おやおや、珍しいねェーーーーー。きみたちだけかい」
「そうだが…………何か不満でも」
「いやいや、まさか。むしろこんなヘンピな場所まで買いに来てくれるお客には神様にするように感謝するさ」
「…………」
「いやはや、珍しい、珍しいねェ。どうぞゆっくりみておいき」
人好きな店主は表情を友好的に和らげてみせて、新聞に目を戻した。ぐるりと店内を見回すと、蜘蛛の巣ひとつなく清潔で、代わりに穏やかな色をしたテーブルのうえには見たこともない焼き菓子が並んでいる。
甘い匂いのするそれは数多く取り扱ってはいないが、どれも目玉が飛び出るような値段をしていて、おもわずにいさんの裾を引いた。しかし、にいさんはそれに動じることも怯む様子もなく、一通り焼き菓子たちを見回した後にわたしを振り向く。
「おまえはどれがいい」
「え、い、いいの……本当に買うの?」
「わざわざこんな場所まで冷やかしに来るほど、ぼくはひまじゃないぜ」
「ホホホホ。そいつは信用に足る言葉だね」
機嫌よく店主が笑う。にいさんは無愛想にフンと鼻を鳴らしてあしらった。
どういう風の吹き回しなのかと混乱するわたしをよそに、にいさんは焼き菓子を吟味している。その横顔を見て、わたしはにいさんが本気で買い物をしているのを悟った。本気でわたしにどれが欲しいかを聞いている。
横目ではやく選べと催促されて、慌てて焼き菓子たちに目を戻す。わたしの目にはどのお菓子も魅力的で、きらきらと輝く宝物のように光を放っているように見えた。これがいい、いや隣のも美味しそう、いややっぱりあっちのやつ。目移りしてしょうがないわたしを見かねてか、
「お嬢ちゃん、悩んでるならこのスコーンなんてのはどうかね。甘くておいしい、食べやすい、そんでハラにもたまるッ。最高尽くしの菓子パンさ。最近スコットランドからレシピ入ってきたんだよ」
「スコーン…………?」
店主は群れからひとつ、厚みがあって温かい色の焼き菓子を取り出してみせた。とても美味しそうで、さっきも目に留まったやつだ。
「おすすめ?」
「おすすめだよォ。まーちと値段は張るが、ウン、仲良しな兄妹の入店を記念してちょいとまけてやろうかな」
「え! 本当!」
「ウソいわんよ。客商売はウソついたら品物が濁るんだ。濁った品物をお客に売りつけることはしない」
「アラ素敵。でも、それじゃあお店立ち行かなくなるわ」
「フフフ、子供がそんなこと気にするもんじゃないよ。この店はわたしの道楽でねェ、貧しい人々にも美味しいお菓子を知ってほしいんだ…………。それがちょっぴりでも世界を生きてみようって活力になってくれたら、それ以上に嬉しいことはない」
「ドーラク?」
「趣味ってことさ」
柔らかく笑う店主。にいさんは怪訝しげに眉を寄せていたが、彼の言葉に感銘を受けたわたしはスコーンを選ぶことにした。楽しみな気持ちでにいさんに伝えると、彼は不機嫌そうな顔をしていたけれど、とうとう何も言わずにお金を支払って店を出た。
退店のベルと店主のまたおいでねェ〜という柔和な声を背に受けて、わたしは振り返って手を振った。
外は吹き付ける風が冷たくて、いつもならぶるりと震えて体を縮こませるところだが、お菓子を抱えて高揚状態のわたしは元気よく石畳の上を跳んだ。
「わああああい!にいさん、ありがとう!!でも、いったいどうしていきなりお菓子を買うの?」
「……たまにはイイことあったほうが、生きる気力も湧くってもんだろ?」
「…………とうさんにお土産?」
「冗談でも怒るぜ」
苛ついた顔でにいさんが睨むので、わたしは萎縮して謝った。
手を差し出され、自分のそれを重ねるとちがう、と呆れた声音で言われる。慌てて焼き菓子の袋を差し出すと、にいさんはそれを小脇に抱えた。わたしが持っていると盗まれてしまうからだ。いくらにいさんが隣で睨みをきかせていたって、まだまだ弱い10にも満たないわたしから奪うことは容易い。
次いでもう一方の手をまた差し出され、飛びつくようにそれを握る。にいさんの手は大きくて、少し冷えていて、けれどぎゅっと握り返してくれる力があたたかかった。
「とうさんには内緒だからな」
「うん」
家に帰って、わたしたちは玄関先に座ってスコーンを食べた。
今朝、朝ご飯に食べた安物のパンとは比べ物にならないくらいしっとりしていて、とろけるほど甘くて、今まで食べた何よりも美味しかった。
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