添影のスターチス
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ボロ家で唯一のベッドは、最近風邪をこじらせた父親が占領している。毎日咳をして、ひどく苦しそうだ。わたしたちの頬を打つ手は腫れており、最近では胸の痛みを訴えはじめ、日に日に弱っていくのが見て取れた。かわいそうだと思った。
刺すように冷たい隙間風が吹く貧しい我が家。適切な医療など無縁の家では、とうさんの体調は一向によくならない。
「とうさん、体どうですか? にいさんが今、薬を買いに行ってるから。大丈夫、きっとよくなります」
「ディオの野郎、また効きもしねえ薬なんか買いに行ってるのか。あいつ、マヌケか? ネズミのクソより役立たねえ薬より酒買って来いって言ってんだろーが! おまえからも言って聞かせろ、なまえ」
「そんなこと言わないで……にいさん、とうさんのためにお金だって集めているんだよ」
「フン!無駄なことしやがる。どーせ街のヤブ医者にニセの薬つかまされてるんだろーよ。ちっともよくなりゃしねえ」
「にいさんはそういうひとに騙されるほどアタマ悪くない。きっと今に薬は効くよ、ね、とうさん。だからひどいこと言わないで」
「うるせェ!」
怒ったとうさんが近くにあった酒瓶を振り上げる。急いでベッドから離れると、壁にぶち当たった瓶はがしゃんと大きな音を立てて割れた。咄嗟に顔を庇うが、破片が腕をかすめて白い肌に傷を作った。赤い血が腕を伝う。
とうさんは肩で息をして、起こした体を再びだるそうにベッドに横たえた。風邪のせいで相当体力が落ちているらしい。前は頻繁に拳を振り上げわたしたち兄妹を殴っていたけれど、そんなこともめっきり減った。
嬉しい変化だったけれど、日に日に元気をなくす父親の姿は心に複雑なものを残した。殴ってほしくないけど、苦しんでほしいわけでもないから。
しばらくするとベッドからいびきが聞こえてきたので、わたしは床に飛び散ったガラス片の掃除をしようと思った。大きい破片を拾おうと手を伸ばしたとき、ぎいと古ぼけた音を鳴らして玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
四角い夜空を背負って立っていたのは、ディオにいさんだった。酒瓶が入った袋を持って、鼻が少し赤らんでいる。
ドアから覗いた顔がわたしを見て綻んだのもつかの間、床に散乱するガラスの破片を見るやいなやにいさんは表情を険しくさせた。手に持っていた酒瓶を置いて大股でわたしの隣へやってきて片膝をつくと、破片に伸びたわたしの手をやんわりと掴んで止めた。その手のひらの冷たさに瞬くと、綺麗な色の瞳が覗き込んでくる。
「とうさんがやったのかい」
「うん。ちょっと怒らせちゃった」
「ガラス片に素手でさわるなよ……手が切れる。ホウキ持ってきてやるから待ってろ」
にいさんはわたしの手を下ろさせ、怪我はないかと聞いた。腕の傷を見せると、にいさんは怒りに眉間に皺を寄せた。空気がぴりつき、わたしは眉を下げてにいさんを見上げた。
「あんまり痛みないから大丈夫だよ。血はいっぱい出てるけど、見た目よりひどくないの」
「そういう問題じゃない。傷は浅くてもばい菌は入る」
飛び散ったガラス片をそのままに、治療するからと椅子に座らされて、傷口に清潔な布を当てられる。貴重な物なのに、にいさんは躊躇いなくそれを使ってくれた。苛立たし気に、けれど丁寧で適切な手つきで手当てが進む。
昔から、にいさんはわたしが傷つくことをひどく嫌う。前に、にいさんの留守中、とうさんの機嫌を損ねてわたしが気を失うほど殴られたのを境に、それはより顕著になった。
「ありがとう、にいさん」
「ぼくの言いつけを守らないからこうなるんだ。ぼくがいない間、あいつと口を利くなといつも言ってるだろ。ベッドに近づくのもダメだ」
「ゴメン。とうさん、咳していたから心配で……薬が効かなくてイライラしてるみたい」
「歳なんだろ。風邪拗らせてるだけさ」
ベッドに横たわるとうさんの背中を忌々しそうに睨んで、にいさんはため息をついた。そして、息を潜めて言った。
「薬は買ってきたよ…………だがこれで持ち直さなかったら、これ以上続けても無駄だと売り手に言われた」
「え!」
「人間年取ると、取るに足らない風邪も命取りになるってことさ。こんなところじゃあ尚更だな」
白い布がじわじわと真っ赤に染まっていく。浅い切り傷だったけれど、血管を切ったらしい。ビリビリとした痛みが襲ってくる。
にいさんの話はそんなこともどうでもよくなるくらいの衝撃をわたしに与えてきた。
外でびゅうとひときわ強い風が吹いて、ボロボロの家自体がガタガタ揺れたような気がした。隙間風が体を冷やす。
にいさんがやさしい声音で、わたしの名前を呼ぶ。
「そんな不安そうな顔するなよな……。薬は別にもあるんだ。もしものときはそっちを試せばいいさ」
「風邪、治らなかったらどうなる?」
「死ぬかもな……おい、泣きそうな顔をするな。人間必ず死ぬんだよ。ここで生きてきたにしちゃこいつは長生きしたほうだと思うぜ、ぼくは」
別に悲しくもなさそうな、平生と変わらない顔でにいさんは言った。苦し気に縮こまる背中に向く目は、ひどく冷たくてよく手入れされたナイフのようだ。わたしに視線が戻ってくると、その目にはもう鋭くとがった冷たさはなかった。
「解けるから激しく動いたりするなよ」
にいさんは包帯を取り出してわたしの腕に巻くと、話は終わったというふうに注意したので、わたしは頷いてみせた。
それを見届けたにいさんは箒を取りに行き、わたしは包帯の上から傷に手を当ててみる。熱を持っていて、どくどくと脈打っている。包帯越しの感覚は、間違いなくわたしの生だ。
顔を上げて、いなくなってしまうかもしれない父の姿を目に写す。
あのひとは、この生に一度でも関心を持ったことがあったのだろうか。
刺すように冷たい隙間風が吹く貧しい我が家。適切な医療など無縁の家では、とうさんの体調は一向によくならない。
「とうさん、体どうですか? にいさんが今、薬を買いに行ってるから。大丈夫、きっとよくなります」
「ディオの野郎、また効きもしねえ薬なんか買いに行ってるのか。あいつ、マヌケか? ネズミのクソより役立たねえ薬より酒買って来いって言ってんだろーが! おまえからも言って聞かせろ、なまえ」
「そんなこと言わないで……にいさん、とうさんのためにお金だって集めているんだよ」
「フン!無駄なことしやがる。どーせ街のヤブ医者にニセの薬つかまされてるんだろーよ。ちっともよくなりゃしねえ」
「にいさんはそういうひとに騙されるほどアタマ悪くない。きっと今に薬は効くよ、ね、とうさん。だからひどいこと言わないで」
「うるせェ!」
怒ったとうさんが近くにあった酒瓶を振り上げる。急いでベッドから離れると、壁にぶち当たった瓶はがしゃんと大きな音を立てて割れた。咄嗟に顔を庇うが、破片が腕をかすめて白い肌に傷を作った。赤い血が腕を伝う。
とうさんは肩で息をして、起こした体を再びだるそうにベッドに横たえた。風邪のせいで相当体力が落ちているらしい。前は頻繁に拳を振り上げわたしたち兄妹を殴っていたけれど、そんなこともめっきり減った。
嬉しい変化だったけれど、日に日に元気をなくす父親の姿は心に複雑なものを残した。殴ってほしくないけど、苦しんでほしいわけでもないから。
しばらくするとベッドからいびきが聞こえてきたので、わたしは床に飛び散ったガラス片の掃除をしようと思った。大きい破片を拾おうと手を伸ばしたとき、ぎいと古ぼけた音を鳴らして玄関のドアが開いた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
四角い夜空を背負って立っていたのは、ディオにいさんだった。酒瓶が入った袋を持って、鼻が少し赤らんでいる。
ドアから覗いた顔がわたしを見て綻んだのもつかの間、床に散乱するガラスの破片を見るやいなやにいさんは表情を険しくさせた。手に持っていた酒瓶を置いて大股でわたしの隣へやってきて片膝をつくと、破片に伸びたわたしの手をやんわりと掴んで止めた。その手のひらの冷たさに瞬くと、綺麗な色の瞳が覗き込んでくる。
「とうさんがやったのかい」
「うん。ちょっと怒らせちゃった」
「ガラス片に素手でさわるなよ……手が切れる。ホウキ持ってきてやるから待ってろ」
にいさんはわたしの手を下ろさせ、怪我はないかと聞いた。腕の傷を見せると、にいさんは怒りに眉間に皺を寄せた。空気がぴりつき、わたしは眉を下げてにいさんを見上げた。
「あんまり痛みないから大丈夫だよ。血はいっぱい出てるけど、見た目よりひどくないの」
「そういう問題じゃない。傷は浅くてもばい菌は入る」
飛び散ったガラス片をそのままに、治療するからと椅子に座らされて、傷口に清潔な布を当てられる。貴重な物なのに、にいさんは躊躇いなくそれを使ってくれた。苛立たし気に、けれど丁寧で適切な手つきで手当てが進む。
昔から、にいさんはわたしが傷つくことをひどく嫌う。前に、にいさんの留守中、とうさんの機嫌を損ねてわたしが気を失うほど殴られたのを境に、それはより顕著になった。
「ありがとう、にいさん」
「ぼくの言いつけを守らないからこうなるんだ。ぼくがいない間、あいつと口を利くなといつも言ってるだろ。ベッドに近づくのもダメだ」
「ゴメン。とうさん、咳していたから心配で……薬が効かなくてイライラしてるみたい」
「歳なんだろ。風邪拗らせてるだけさ」
ベッドに横たわるとうさんの背中を忌々しそうに睨んで、にいさんはため息をついた。そして、息を潜めて言った。
「薬は買ってきたよ…………だがこれで持ち直さなかったら、これ以上続けても無駄だと売り手に言われた」
「え!」
「人間年取ると、取るに足らない風邪も命取りになるってことさ。こんなところじゃあ尚更だな」
白い布がじわじわと真っ赤に染まっていく。浅い切り傷だったけれど、血管を切ったらしい。ビリビリとした痛みが襲ってくる。
にいさんの話はそんなこともどうでもよくなるくらいの衝撃をわたしに与えてきた。
外でびゅうとひときわ強い風が吹いて、ボロボロの家自体がガタガタ揺れたような気がした。隙間風が体を冷やす。
にいさんがやさしい声音で、わたしの名前を呼ぶ。
「そんな不安そうな顔するなよな……。薬は別にもあるんだ。もしものときはそっちを試せばいいさ」
「風邪、治らなかったらどうなる?」
「死ぬかもな……おい、泣きそうな顔をするな。人間必ず死ぬんだよ。ここで生きてきたにしちゃこいつは長生きしたほうだと思うぜ、ぼくは」
別に悲しくもなさそうな、平生と変わらない顔でにいさんは言った。苦し気に縮こまる背中に向く目は、ひどく冷たくてよく手入れされたナイフのようだ。わたしに視線が戻ってくると、その目にはもう鋭くとがった冷たさはなかった。
「解けるから激しく動いたりするなよ」
にいさんは包帯を取り出してわたしの腕に巻くと、話は終わったというふうに注意したので、わたしは頷いてみせた。
それを見届けたにいさんは箒を取りに行き、わたしは包帯の上から傷に手を当ててみる。熱を持っていて、どくどくと脈打っている。包帯越しの感覚は、間違いなくわたしの生だ。
顔を上げて、いなくなってしまうかもしれない父の姿を目に写す。
あのひとは、この生に一度でも関心を持ったことがあったのだろうか。
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