本編
店から飛び出して、数分たった頃。
わたしは、「なにあの男! 気持ち悪い! ほんと、ムカつく!」と思っていたあの時のことを、激しく後悔していた。
歩きながら、頭の中で、電卓を叩き、家計簿を開く。
うん。足りない。確実にお金が足りない。
みぞおちをけったことに関しては、後悔していない。わたしが後悔しているのは、あのカフェのバイトをやめてしまったことだ。
わたしは両親がいない。父は物心ついた時から知らず、母はわたしが高校に入ってすぐに亡くなった。親族もおらず、頼れる身内もいない。
そんなわたしは、バイトを幾つもかけ持ちしながら、生活をしている。学費、食費、光熱費、水道代……できるかぎりのことは、自分の力で稼いでいた。
新しいバイト、すぐ見つかればいいけど……。
あの店は、店長はあれだったが、給料はとても良かった。わたしの生活費は、大半があそこでの稼ぎだった。しかも、家から近いので、移動費もかからない。
……正直、あそこ以上に稼げそうなところが見つからない……。
わたしは、近所の人通りの少ない公園を通り過ぎる。時計を見ると、針は6時15分を指していた。
なにごともなく帰ることができれば、6時20分くらいで家に着くかな。
今はとりあえず、早く帰って、これからのことを考えたい。
そう思った瞬間だった。
「あぁぁっ! もう!」
どこからともなく、声が聞こえた。若い女の声である。
「もう! ダイアモンドがいなくなって、最初の任務があんなデッカいバケモノとか、無理に決まってるじゃん!」
聞こえる喚き声に、わたしは一瞬、ぎょっとする。
声は、公園の方からした。チラリと横目で見ると、公園の中の木の脇に、ぽつりと1人の影が見える。
珍しい。この公園、この時間はいつも人がいないのに。
誰だろう。
目を凝らし、じっと見る。
そこにいたのは、愛らしいドレスを身に纏う、美少女だった。
胸元の大きなリボン
襟と裾を覆うフリフリとしたレース。
パニエでふくらませた膝丈のスカート。
そして、愛くるしい顔に、綺麗にセットされたツインテール。
その姿は、わたしも見たことがある。
……さきほど、カフェにいたJKの話の中にでてきたディア戦士……ディア・ルビーだ。
なんで、こんなところにディア・ルビーが……?
思いがけない出会いに、わたしはぎょっとした。驚きのあまり、その場で動くことができないわたしを、彼女は目ざとく見つけた。
彼女は、わたしを見ると、一瞬、目を丸くした。しかし、その顔はすぐに花のように可憐な笑顔になった。そして、ずかずかと、わたしの元にやってくる。
「やあ、お姉さん」
彼女は、わたしの肩をポンっとたたいた。彼女の顔がすぐ目の前にある。
肌、めちゃくちゃきれいだな……。
女の子に憧れの存在……ディア戦士のうちの一人が、まじまじとわたしを観察する。
そして……
「ねえ、お姉さんの名前は?」
彼女は、わたしの名前を聞いた。
わたしは、怪訝に思いつつも、自分の名前を告げる。
「香月撫子です」
「ふんふん、撫子ちゃんね」
「年齢は?」
「17です」
「おっ! 同い年だ! 部活とかはやってる?」
「やってません。あっ、でも、たまに運動部の子からヘルプに入ってって言われる時があるので、その時には参加してます」
「ほうほう……なるほどね……」
彼女は、なにかを考えるように、あごの下に手を置く。
名前と年齢と部活のことを聞いて、この人はいったい何をしたいのだろうか。疑問に思うが、それをディア・ルビーに問う勇気はない。
しばらくして、彼女はどこからともなくケータイを取り出し、それを耳にあてた。
「もしもし? おにいちゃーん!」
お兄ちゃん?
なぜ、いきなり自分の兄に電話しはじめたのだろう。
私が首をかしげている間も、彼女は電話越しの「兄」と電話をし続けている。
「お兄ちゃん……ああ、うん……その件はごめんって。いや、でもさ、でもさ! 仕方がないじゃん! あたしだって必死だったんだから……まあ、あたしの尻ぬぐいをしてくれたことには感謝してるよ、ありがとう」
何の話をしてるのだろうか。というか、わたしは、もう帰ってもいいのだろうか。
わたしは、さりげなくディア・ルビーから遠ざかろうとする。しかし、彼女から離れようとしたわたしの腕を、彼女に捕まれる。ディア・ルビーが、ちらりとわたしのことを見た。
そして、電話越しにいる相手に向かって、言葉を放った。
「新しいディア戦士候補を見つけたよ」
ん……? ディア戦士候補……? 誰のことだ……?
戸惑うわたし。そして、わたしの腕をつかみつつも、電話の先の相手と話し続けるディア・ルビー。
「あのね、香月撫子ちゃんっていうんだけどね……めっちゃくちゃ美人な現役女子高生なんだけど……」
わたしのことじゃん!
「ストップ! ちょっと待って? なに話進めてんの!?」
あわてて、ディア・ルビーに向かって叫ぶ。
「え? ならないの?」
「なりませんよ!? なるなんて話、わたしとあなたの会話の中で一言も出てなかったじゃないですか!」
「今出したよ。やろう?」
「やりません!」
強く言う。これは、強く言わないと、あれよあれよという間に、ディア戦士にさせられる気がする。
正直、ディア戦士に憧れがまったくないとは言い切れない。しかし、わたしのような普通の女子高生が街を守り、戦うなんて無理だ。自分がひらひらの服を着て、戦場を舞う姿なんて、想像できない。
「ねえ! やろう? やろう? あたし、もう一人で戦うのはつらいよ!」
彼女は電話の先にいる人の存在をスルーし、わたしに向かって叫んだ。
「じゃあ、わたしじゃなくてもよくない!? ほかの子に当たればいいじゃないですか!」
「でも、あたしは撫子ちゃんがいい! なんかさ、見た瞬間にびびっと来たんだよ! 『あたし、この子と一緒に戦いたい!』って思ったんだよ」
「そんなファンタジーなことを言われても無理なものは無理です! わたしには、役者不足です! そもそも、わたし、バイトしなきゃいけないのにそんなことする時間はありません!」
はっきりと断言する。しかし、彼女があきらめる気配はない。キラキラとした瞳を私に向け、訴えかけてくる。
「じゃあ、バイト辞めて、魔法少女になりなよ」
「嫌ですって。うち、お金ないんだから……」
「魔法少女だって、無賃じゃないよ。お給料はちゃんと出るからさ……」
なんですって。お給料が出るですって!?
いやいやいや。給料出るからと言って、魔法少女になるのは抵抗あるぞ。
いくらなんでもさすがに……
「ちなみに、このくらい出るんだけど……」
ほんの少しだけ心揺らいでいるわたしに、ディア・ルビーが、スマホの画面を見せつける。ちなみに、ディア・ルビーとディア・ルビーのお兄さんとの通話は、いつの間にか切れていた。
わたしは、恐る恐る、スマホの画面をのぞき込む。
そこにある金額を見て、わたしは、口をあんぐりと開けた。
「それ、時給ね」
う、う、う、う、うそでしょ!? ほかのバイトより、断然いい! なんなら、あのセクハラ店長のカフェより、断然いい!
出された金額に驚愕するわたしの隣で、ディア・ルビーがにたりといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「どう? やらない?」
先ほどから何度も繰り返されている問い。わたしは、その問いにすぐ答えた。
「やります」と一言で。
「いやったああああああっ!」
ディア・ルビーが飛び上がる。そして、彼女は、その場でガッツポーズをした。
「これで、一人寂しく戦うことはなくなるっ……!」
彼女が、がばりと、私の手を掴んだ。
「これから、よろしくね! 撫子ちゃん! あたしの名前は、|来殿百合《らいでんゆり》。同い年だから、気軽に話しかけて!」
「……よろしく」
わたしは、彼女の手を握り返す。
こうして、わたしの魔法少女としての壮大な戦いの物語が始まったのだった。