本編
「ディア・ダイアモンドが引退したらしいよ」
「えっ!? ショックー! なんで……?」
「分からないよ。ニュースには何も書いてない」
とある春の日の夕暮れ時。バイト先のカフェにて。机を拭いているわたしの耳に、女子高生たちの会話が入ってきた。
彼女たちの話に出てくるディア戦士……。その存在は、現役女子高生にしては流行にうといわたしでも知ってるものだった。
数年前、この街にAMOと呼ばれる謎のバケモノがあらわれた。そのバケモノは、人を殺すことは無かったが、街を暴れまわり、周囲一帯に大きな被害を与えた。
そんなAMOに対抗するために生まれたのが、ディア戦士である。
ある時は可憐に、そしてある時はかっこよく。ひらりひらりと、戦場を舞う。
街を守るために、身を粉にして戦う正体不明のうら若い可憐な女戦士……彼女たちは、人々の希望だった。
最近は、ディア・ダイアモンドとディア・ルビーという2人のディア戦士が前線で戦っており、バケモノとの激戦を、連日繰り返していたのだが……
話を聞くに、どうやら片方が引退するらしい。
「ってことは、ディア戦士は、ルビーだけになるってこと?」
「そうじゃない?」
「でも、ルビーって、ダイアモンドに比べると、そんな強くなくない?」
「そう? でも、可愛いじゃん。女の子らしくて。私は大好き」
「ええ……そうかな……わたしは、断然、ディア・ダイアモンド派だけど……」
ディア戦士たちは、今どきの女の子の憧れの存在だ。特にディア・ダイアモンドは、はじめてディア戦士が表に出た日から戦っており、熱血なファンが多くついている。
なぜ、このバケモノが生まれたのか、ディア戦士があらわれたのかというのは、一般市民であるわたしにはわからない。しかし、この街ではディア戦士とAMOの戦闘が日常となっているのだ。
「撫子ちゃん、撫子ちゃん」
わたしがホールでの仕事を終え、カフェの裏に回ると、店長がわたしの名前を呼んだ。
振り向くと、ひょろりとした体躯の、髪の毛を金色に染めたチャラそうな男が立っていた。飲食店には有るまじき容貌をしたこの男が、この店長である。
店長は、私を見るなり、ニタリといやらしい笑みを浮かべた。
……嫌な予感がする。
私は身を構えた。
奴はのそりのそりと、こちらにやってくる。
わたしは、彼から逃げるように、じりじりと後ろに下がった。
「撫子ちゃんさ……」
……まただ。また……わたしは、こいつの被害にあうんだ。
わたしは、鳥肌が立つのを感じつつも、店長の次の言葉を待つ。
店長が、わたしの髪の一部分を、指ですくいとった。
「ほんっとうに美人さんだよね」
きっもちわるい!
わたしは、かわいた声で「ははは……ありがとうございます……」と返した。多分、今、わたしの顔は引きつってると思う。
こいつのセクハラは、いつものことだ。そして、さらにいうなれば、「誰に対しても」だ。
わたしだから特別というわけではない。こいつは、女であれば、見境なく、セクハラしはじめる。しかも、こいつは自分のことをイケメンだと思い込んでいるようで、やることなすことすべてドン引きするレベルのキザで、気持ち悪い。
実際、店でもこいつのセクハラのせいで辞めた子たちがたくさんいる。しかし、こいつの父はこのカフェを経営する会社の社長であるとのことで、セクハラの事実はすべてもみ消されたのだ。結果、多くの女の子たちが、泣き寝入りをしてしまっている。
「よくよく見たら、スタイルもいいし……」
そう言って、彼はわたしのおしりを撫でた。
わたしは、思わず、「ひぇっ……!」という、間抜けな声を出してしまう。
我慢だ……我慢。もうすぐ、帰れるんだから。我慢しろ……撫子。
気づけば奴は、しれっとした顔でわたしを、壁に押し付ける。俗にいう、「壁ドン」の体制になった。
店長の顔が、わたしの眼前に広がった。そして、やつはそのいやらしい口元から、言葉を放つ。
「撫子ちゃん、俺と付き合わない?」
きっっもちわるっ!!
やはり、こいつは自分のことをイケメンだと思っている。少女漫画に出てくるヒーローを気取ってるみたいで、本当に気持ち悪い。
お願いだ。鏡を見てくれ、切実に。ついでに、現実も見てくれ。
わたしはチラリと時計を見る。
あっ。やった。あと、退勤まで40秒だ……。
「えっと……わたし、付き合ってる人いるのでぇ……」
とっさに、嘘をつく。
……お願いだ。これで、諦めてくれよ。
そんな願いも虚しく、奴はふっと自信ありげに笑った。
「じゃあ、その男、ここに連れてこいよ。俺が撫子ちゃんに似合うか、見定めてやるよ。まあ……俺の方がいい男だろうけど……」
こいつ、何様!?
もう、呆れてものが言えない。背中がゾワゾワする。
わたしは、とりあえず、愛想笑いを返しといた。
……退勤まで、あと20秒だ……がんばれ、わたし……。
「つれないなぁ……。
俺、いろんな女の子口説いてきたけどさ、こんな本気になったのは撫子ちゃんだけだって。
俺が見た女の子の中で1番可愛いし。いい子だし。おっぱいでかいし」
そう言って、彼の手がわたしの胸を鷲掴みにする。とっさのことで、一瞬、何が起こったのか分からなかった。わたしの頭が真っ白になる。
そして、奴は鷲掴みにしていた手をやわやわと動かしはじめた。
……これ、胸を揉まれているのでは?
わたしは頭を落ち着かせる。状況を理解したと同時に、今度はふつふつと怒りが湧いてきた。
我慢するんだ……撫子……。あと数秒で帰れるんだ……。
わたしは、時計に意識を向ける。そして、ゆっくりと時がすぎるのを待った。
10……
9……
8……
7……
6……
あと5秒となった時。奴の顔が、ゆっくりとわたしに迫ってきた。気持ち悪い顔が、徐々に迫ってくる。唇を尖らせて、こちらに顔を向けるから、わたしの方向から見ると、とても無様だ。
待て、こいつ、キスするつもりか!?
……ええいっ! 我慢できない!
「この変態ぃぃぃいいっ!」
わたしは足をあげ、渾身の一撃を奴にお見舞してやる。
「うごっ」
わたしの足は、奴のみぞおちにはいった。奴の口から、うめき声が上がる。
崩れ落ちた店長が、ぎろりとわたしを睨みつける。
「てめぇ……」
わたしはそんな視線を無視して、帰宅の準備をはじめた。店長から、逃げるようにカフェを出る。
店を出た時、どこからか「お前なんか明日から来なくてもいい!」という怒鳴り声が聞こえた。
言われなくても、そうしてやる! こんな店、もう二度と来てやるものか!