2025〜2026 冬の思い出 短編集


麋角解


 花は咲き乱れ、川の水は清く。顕となる岩肌にはほのかに苔がともり、森の木々は青々と生い茂る。澄んだ空気は心を洗い、清い風が肌を撫でる。明らかに人の世とは違う天の世界の中で。そんな世界のとある湖にて。私は彼と共に居た。私と彼は船に乗り、湖を揺蕩う。私達が通った後に、静かな波がたった

「奥さん、奥さん」
「なぁに?」
「今日も君は綺麗だね」

 彼の唐突な甘い言葉が私の頭を響かせる。私はぎゅっと彼の手を握りしめた。そして、彼の頬に顔を近づけ、そのままそこに接吻をする。彼は照れることもなく、私の顔を見た。
 彼の顔は美しい。雅な顔立ちを持ち、たおやかな雰囲気を醸すとても美しい青年である。サラサラとした髪がほのかに風にゆれ、扁桃のような瞳は艶めいている。天の世界の天人は清らなものであるが、彼は群を抜いた美しさを持つ。
 そんな彼と私は夫婦の仲であった。いつから番になったか覚えていないほどの長い間、私はずっと彼のそばにいる。これからも、ずっと。永久のときを彼と共に生きるつもりである。

 私はじっと周りを眺めた。誰もいない。この寒い季節なので、鳥も虫もいない。私たちだけの空間であった。それが私にはとても心地よくて。ずっとこのままここに居たい。そう思ってしまった。

「奥さん、見て見て」

 ふと、彼はそう言って。私の肩をポンポンと叩く。彼が指さしたのは池の底であった。ただの“底”であろう。澄んだ湖の底なんて、苔を身に纏う石ころくらいしかないはずだ。私は期待なんてせずに、彼の指差す方を見た。

 それを見て、私は唖然とした。そこには、景色があった。上から下を見下ろすような角度で、世界が広がっているのである。私たちが見ているその景色は、湿地のようだった。穏やかな緑に、豊かな水源が広がっている。天界にはない不思議な景色であった。ふと、その湿地の中で、何かが動いているのが見えた。なにか茶色い……ゆっくりと動くものが、数個ある。

「ねえねえ、行ってみない?」

 彼が好奇心を顔に宿しながらそう言った。この世界が何か分からない以上は、行かない方がいいのではないか。そう思うが、彼の爛々とした瞳に私は押し負けてしまう。私は首を縦に振った。

 彼が船の上で立ち上がり、湖の中に入った。湖はそこまで深くない。彼の腰ほどの高さである。彼が私に手を差し伸べる。私は、その手に自分の手を重ねた。そして、湖の中に入る。湖の水は針を刺すような冷たさだった。鳥肌がたつが、それに察した彼は自分の羽織を私に着せた。

「潜るよ」

 彼と私は湖の中に顔を沈める。非常に冷たい水である。潜ることに慣れていない私は目を閉じてしまった。前が見えない。が、彼と手を握っているため、彼と別れることはない。彼が私を引っ張ってくれる。しばらくして、水が消え、私の体は空気に触れた。それと同時に、浮遊感を抱く。

 触れた空気は少し濁りを感じた。ほのかに、臭う気がする。なんの匂いが断定することは叶わないが、それが清浄なものではないことは分かった。そして、ここは天界ではないことも悟った。身体が徐々に穢れていく感覚があった。

 ゆっくりと目を開く。私は空を飛んでいた。我々は天人である。空を飛ぶのは容易いことである。が、天界以外で空を飛ぶのは初めてである。

「大丈夫?」
「ええ」

 少し不安もあるが、彼にそれを悟られないようにした。私は下を見てみる。やはり、先程と同じく何か茶色いものがモゾモゾと動いている。

「あっちに行ってみようよ」

 彼に手を引かれ、私たちは静かに地面に近づいた。茶色い物体の正体が顕になる。最初は鹿かと思った。だが、どこか違う。鹿にしては体が大きい。

 蹄は牛に似ているが、牛ではない。
 頭は馬に似ているが、馬ではない。
 尾は驢馬に似ているが、驢馬ではない。
 角は鹿に似ているが、鹿ではない。
 
 見たことの無い珍獣であった。その珍獣は群れを作り、湿地の中を右往左往する。群れの中には角があるものと無いものがおり、無いものの方が個体数が多い。角があるものはきっと雄で、無いものは雌なのだろう。昔、鹿はハレムを築くと聞いた。きっとこの生き物もそうなのだろう。

 私たちは地に降りた。その生き物に近づくことはせず、草と草の間からじっとそれを観察する。

「人間界にはこんな不思議な生き物がいるんだね」

 彼の言葉により、ここは人間界なんだと悟った。彼の好奇心はひたすら観察に耽る。その生き物は温厚そうだった。鳴くこともせず、暴れることもせず。彼らとこの湿地が織り成す世界はとても静かで厳かで美しかった。たしかに、空気は汚いし、湿地の水も濁っている。だが、人間界の自然の壮大さを身をもって体験できる場だと感じた。天界には生も死もない。だが、ここにはそれがある。天界が絵画的な永遠に続く幻想の美しさだとすれば、ここは諸行無常の宇宙の営みの美しさであった。

 その余韻に浸り。私は一言も喋ることなく、その景色を見ていた。ふと、足元に何かが落ちている事に気がついた。角である。しかも、かなり大きく立派なものだ。拾ってみると、かなりずっしりとしている。女の身である私が持つのは少し辛いくらいに重い。なんだろうか。

「あそこにいる生き物の角かな」

 彼が私の心を悟ったかのようにそう答えた。なるほど。

「鹿も自然に角が抜けるからね。この生き物もそうなんだろう。だけど、鹿の角が抜ける時期はもう少し後ーー春が始まる頃くらいだけどね」

 彼がまじまじと私が拾った角を観察しながらそう言った。私もそれを改めて見てみる。とても硬い角である。加工したら、ちょっと強い武器が作れてしまいそうだ。とはいえ、私にそのつもりはない。とりあえず、元あったところに角を戻しておく。

 刹那、穏やかな顔をしていた彼が、いきなり険しい顔つきになった。そして、己の腰にさしていた剣に手を伸ばした。

「少しここにいて」

 彼が私のことをチラリと見て。その珍獣の元に駆け寄る。何故、彼は自然の中に足を踏み入れたのか。わけがわからなかった私は少し戸惑ったが、その答えはすぐに明らかになった。

 私たちと同じように。その珍獣を観察するものがいたのだ。彼らは私たちとは違い、穏やかに自然を眺め想いを馳ようという気は更々ないようで。手には縄と刃物を持っていた。この珍獣を捕らえるか、殺すかするつもりである。

 その相手が人間であることはすぐに分かった。人間というものは元々話に聞いたことがある。この宇宙の中で文明を築き上げた生き物である。聞いたことはあるが、初めて見た。見た目は、我々と変わらない。強いていうなれば、容姿が清らではなく、装いも薄汚い。個体差もあるであろうが。

 駆け出した彼は、奴らに攻撃を仕掛ける。攻撃を仕掛けた時、異変を察知した珍獣たちは一目散にその場から逃げた。ひとまず、珍獣たちの身の安全は確保できたようである。

 私の夫は美しいし仕事もできるが、腕も立つ。彼らの攻撃を即座に交わし、華麗な剣技で相手を打ちのめしていく。殺してはいないだろう、きっと峰打ちをしているはずだ。強さは彼の方が強いが、如何せん敵の人数が多い。彼も苦戦を強いられているようだ。私は心の中で、彼を応援しながら、その戦いを見つめる……いや、見つめていたはずだった。

 突然、後ろからガバッと抱きしめられた。何が起こったか分からなかった。驚きと恐れ、それから身が穢れていく感覚が私の背中に伝わる。

「お嬢ちゃん、綺麗だなぁ……!」

 恐ろしく、おぞましい声だった。もがく。が、身体は動かない。助けてと叫びたいが、口が何かで塞がれてしまった。人間だ。2人はいるであろう。私を捕らえてる人間と、私の口を塞いだ人間。後者であろうが、私の目の前にあらわれた。そして、ねとりとした視線を私に向けた。

「これほどの美人、見たことねぇな」

 この男の服装は、珍獣を狙ってた人間とおなじものだ。仲間なのだろう。

 その男が私の顎をくいっとあげた。そして、そのまま愛のない接吻をした。その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。私が愛する彼への裏切り、天人としての誇り、女としての恐怖。様々な感情が入り交じって、瞳に宿る涙となった。あれよあれよという間に衣を向かれ。私の蕾は暴かれ、散った。

 奴らは私を湿地の中にポイっと捨てて、その場を去った。目が虚ろ虚ろとしているのが自分でもわかった。私の身は穢された。天人は清浄でなければならない。このような穢れがある――それは天人の資格の剥奪を意味した。それを自覚した時、襲われた時とは違う涙が流れた。

 ああ、もう彼のそばには居られないのだと。ずっと、ずっと一緒にいて、これからも共に穏やかな日々を過ごす彼と一緒にいることはできないのだと。私にとってこの世の全てともいえる存在を喪ってしまった。その哀しみと喪失感で、涙が止まらなかった。嗚咽が口からこぼれる。

 私の手が徐々に透明になっていく。刹那、彼が帰ってきた。衣は剥かれ、髪も乱れ、顔をぐちゃぐちゃにする私の姿を見て、彼は全てを悟ったようだった。そして、私の身体を抱きしめた。

「ごめん、俺が一緒にここに連れてきたから……君を放っておいたから……」

 彼の乱れた声は、静かな湿地に響き渡る。私は最期に彼の口に自分の唇を重ねた。彼は私の身体から離れ、私の足元に落ちていた珍獣の角を拾った。なんだって切れる剣で一部を切り取り、小さな石ころ程度の大きさにする。それを、ぎゅっと握りしめて。握りしめた角の欠片は光を放って。白く輝く球体となった。それは真珠みたいであった。彼はそれに紐をつけ、私の首にかける。

 その頃には私の身体はうっすらと見える程度であった。それでも尚、彼は改めて私を抱きしめる。

「絶対に迎えに行くから」

 彼が私の耳元で囁いた。それを聞いて、私の心が暖かくなった。彼の言葉は私にとって絶対である。絶対、彼は私を迎えに来てくれる。世界が違っても、時代が違っても、姿が違っても。そんな気がする。

 私は、ほぼ見えなくなってしまった腕で、彼の身体を抱きしめ返す。

「絶対に迎えに来て」

 その言葉は空気に溶けて。私の意識も闇へと落ちていくのであった。
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