case3 天女と少年

 足元に狭間が転がっていた。狭間の意識はない。

 「おまえ、こいつに何したんだ?」

 私は呉竹に問うた。呉竹は肩をすくめた。

 「記憶を消したんだ。私とつばきに関する記憶をすべてね」

 ……おそらく、あの男は呉竹に恋慕の執着を見せていた。それがなくなるのは少しかわいそうではある。まあ、本人にその記憶がないので、本人はそれで幸せであろうが。 

 「そうだ、つばき。あの湖はここから近いよね」

 「ああ」

 「少し、立ち寄らないか?」

 「ここに落ちてるこいつはどうすんだ」

 私は、足で狭間をつついた。起きる気配はない。

 「少しの間ならおいていっても大丈夫でしょ」

 なんともまあ、薄情な男である。とはいえ、私もこの男に同情してやる義理はない。呉竹の案に従って、狭間はそこに於いていくことにした。

 呉竹はかつてあの湖にいくまでに何日も時間を要していたが、じつは山のふもとからあの湖まではそこまで遠くない。徒歩30分ほどだ。ただ、道が整備されていないので遭難してしまうことが多い。

 私たちは、しばらく歩き、その湖へ向かう。

 月の光に照らされたそこは美しかった。満月や星が、湖に映し出される。ひんやりとした空気も相まって、神秘的な空間になっていた。

 「20年ぶりくらいに来たな」

 私は辺りを見渡す。呉竹も、懐かしそうに眺めている。私は足を湖につけた。涼しい。冷たい。湖に両足を入れ、辺りを見渡す。豊かな自然と、清浄な空気に囲われた空間である。

 「つばき」

 突然、呉竹が私に語り掛けた。その声は真剣なもので。いつもの穏やかな声色じゃないことに身構えてしまう。

 「……これ」

 そういって呉竹が差し出したのは、檜扇であった。いきなり差し出されたので、意図が分からず固まってしまう。

 「これ、つばきに預けておくよ」

 「なぜ?」

 本当に意図が分からない。なぜ、私に。

 「もともと、私はこれを探してたからね」

 「ん? これだけなのか?」

 てっきり、荷物一式を探しているのだと思ってた。私にはこの檜扇の価値がわからない。なぜ、私に渡そうとするのか。

 私の反応を見て、呉竹はくすりと笑った。そして、靴と靴下を脱ぎ、ズボンをめくり上げる。そして、湖に足を踏み入れ、私の隣に立った。

 「他の荷物の行方、教えて貰えなかったからね」

 「は?」

 「狭間が盗んで、この山に埋めたらしいけどね。狭間の記憶、消しちゃったからね」

 「馬鹿だ……阿呆だ……」

 彼が持っている羽衣は故郷に帰るために必要だと聞いたことがある。なくして難儀だなと思った。正直、めんどくさくはあるが、古い友のよしみでちょっとだけ、探すの手伝ってやろうとか思ったが、まさか自分でチャンスを手放してしまうとは。あきれてものが言えなかった。

「……まあ、とはいえその扇があれば私は天人としての力を使えるようになる。だから、この山のどこかにある羽衣を探すのが楽になるんだ」

「……なるほど。たしかに自分で羽衣を方が効率はいいのか」

 だが……

「なぜ、扇を私に渡すんだ? 自分で羽衣を探して、さっさと故郷に帰ったらいいじゃないか」

 私は問いかける。すると、呉竹は肩を竦めた。

「……もう少し、「人」としてここにいるのもいいと思ってね」

 ……なるほど。このままの生活を続けたいということか。

 ……ということは。

「私は?」

 私だけ山に帰ってもいいのか? そう思う。山に帰れば、何もしなくてもいい堕落したハッピーライフが待ってる。何年も、何十年も、何百年も。そんな日々が待ってるはずである。

 それはそれで私にとっては幸せだ。

 だが――

 呉竹は私の顔をじっと見つめる。その顔は何か言いたそうではあるが、言葉に迷っているようであった。

 私は小さくため息をついた後、扇を受け取った。

「お前に付き合うのは、あと少しだけだぞ」

 私の言葉に、呉竹の口元に笑みがこぼれる。そして、私の頬を撫でた。

「気持ち悪い。そんな恋人のようなことをするな」

 頬を撫でる呉竹の手をはらい落とす。

「いや、そんな素直に言うこと聞くなんて、本物のつばきなのかなと思ってしまってね」

「前言撤回するぞ」

 調子乗らしたら、すぐこれだ。

 呉竹がいつも通りの穏やかな顔になった。私は腰から太刀をぬく。

 そして、これを渡した。

「かわりだ」

「え?」

「なんか、大切なものなんだろう? 私も大切なものを預ける」

「え? さすがに武器はないと困るだろう? それに、私を守れない」

 たしかに。私は太刀を腰に戻す。

「そのかわり、これをくれないか?」

 そう言って、呉竹が指さしたのは私の扇であった。腰に指しているものであるが、あまり使うことは無い。白い蝙蝠扇子だ。

「これ? 何の役にも立たないぞ」

 私は扇を引き抜き、呉竹に渡す。

「扇を渡して貰ったんだから、扇で返してもらうんだよ」

 呉竹は私の扇をひろげる。本当に特になんの柄もないシンプルな扇である。

 にこりと微笑む口を扇で隠した。

「つばき」

 名前を呼ぶ。そして、点を見上げる。私もそれにならって見上げた。いつも通りの空が広がっている。何百年もこの空は変わらない。

「これからもよろしくね」

 軽やかな声でいった。

 この無理やり働かされる地獄の日々、まあ居心地は悪くはない。一生これは少しキツイが、もう少しこいつに付き合ってやるか。
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