短編
また、行くの、と。最後に彼にそう声をかけたのはもう2年も前。
『ちょっと、待っちょって。』
彼はいつものように、私の額にひとつ、キスを落とす。まるで子どもをあやすように。
「ぶぅぃー」
もう聞きなれた声に、はっと現実に戻された。見てみて、と誇らしげな顔で私に見せるのは、座卓の上に置いていたお気に入りのマグカップ。
「コップ取れたの、上手だねぇ。」
ぱちぱち、と手を叩くとにかりと嬉しそうな笑みが帰ってくる。銀色のくせっ毛が愛らしいこの子を育ててもう1年以上。2年間、1度も帰らない彼を父親と呼ぶ気は無いし、彼もその気は無いだろう。
手慰みにスマホを操作して、『仁王雅治』と書かれた連絡先をぼーっと眺める。
「まーま。」
コップをカンカンと床に打ち鳴らす音と一緒に、自分を呼ぶ声。彼が居なくても幸せだと思ってしまう自分は薄情なのだろうか。
『ガチャリ』
なぁに、という発しかけた言葉は、発する前に口の中で消えていった。この家の合鍵を持っているのは。この家に用事のある人間は。
『カン』
靴箱に鍵を置く音。キーホルダーも何も付けていない、生身の軽い鍵の音。
「ただいま帰ったぜよ。」
玄関へ続く扉から聞こえる朗らかな声。二年前と変わらない、まるで今朝出ていった人間かのような言葉。きょとんと私を見上げる彼の子を震える腕でぎゅっと抱き締めた。
「おらんのか。」
一人言のような呟きと共に、扉が開く。扉を開けた彼とぱちりと、目があった。二年前と変わらない白い肌に、少しだけ筋肉質になったように見える腕。
「……おかえり?」
癖でへらりと笑って、それから空気を読むように大人しくなってる彼の子を安心させるように背中をぽんぽんと叩いた。
「……誰の子じゃ。」
「えっと……私の?」
彼の無表情に彼の子を尚更抱きしめる。彼に見えないように、隠すように。
「誰との。」
「……関係ない人だよ。」
大丈夫。認知なんて求めないから。夫なんて、父親なんて、求めないから。彼が縛り付けられることを嫌っているのなんて、自分が一番よく知っているのだから。
「ほう。」
彼は冷たく言い放って、私の手をぐっと掴む。明るさに晒された子供がぱしぱしと瞬きするのを彼はじっと見て、それから薄く笑った。
「おまんの周りに、銀髪でくせっ毛で青眼の男がそんなにおるんか。」
全てを見透かした彼を見ていられなくて、目を逸らした。知られたくなかったと、そう言うのはこの子に対する冒涜だろう。けれど決めたのだ。私が二人分の愛情を注いで、何も問題なく育てるのだと。決めたのだ、彼に父親の役目を求めて、離れられないように、棄てられないように。
「ごめん、なさい。迷惑、かけないから。」
必死の強がりを言葉にする。腕の中の子がぱちぱちと私の頬を叩くから、それに笑って見せる。大丈夫、君には私が居る。
彼は一つ息を履いて、私の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「ちょっと、待っちょって。」
二年前にも、聞いた言葉。あぁ、また二年後か、それとももう一生帰ってこないのか。私の行ってらっしゃいを待つことなく、彼は玄関に消えてゆく。
バタンと玄関の閉じる音が聞こえて、それからようやくじわじわと感情が湧き出てくる。悲しみと、虚しさ。冷たい声、存在がバレてしまったこの子の存在。
「まーま?」
「大丈夫、うん、大丈夫。」
みっともない所を見せてしまったと、笑いかける。この子さえ居なければなんて思ったことはない。私の宝物で、大好きで大切な存在。だけど。
「パパ、いなくなっちゃったね。……もう、帰ってこないのかな。」
腕の中の子に言い聞かせるように呟いて、それから自分の言葉の意味を実感する。この子を見て、それから出ていった。彼の行動が示すことはたった一つだろう。
ぽた、ぽたとこの子の頬に落ちてゆく雫を見て、ようやく自分が泣いていることに気がついた。彼が居なくても生きていけるように、なんてずっと考えていたことのはずなのに。ぎゅっとこの子を抱きしめて、嗚咽を堪えた。彼が居ない。たったそれだけの事が、苦しくて、悲しくて、とても怖かった。
「ままー。」
「……うん、うん。」
大丈夫だよ、なんて涙が溢れ続ける私が安心させることはできないかもしれないけれど。この子の安心を第一に考えている自分に気づいて、それからそれが恐ろしくてならなかった。私はもう、母になってしまったのだ。彼が好きで居てくれた女の自分はもう、どこにも居ない。
あぁ。私は電球を見上げて、涙を拭いた。不思議そうな顔をする子に、笑いかける。
ねぇ。彼も居なくて、彼が好きでいてくれた自分もいなくて。そんな世界なら、いっそ。
「もう、消えちゃおっか。どっか、遠く、遠く……。」
『ガチャリ』
玄関の開く音で、目が覚めた。非日常的な事に興奮してしまったこの子を寝かしつけて、自分も寝てしまっていたらしい。かぴかぴに乾いた肌。目もきっと腫れているのだろう。
「ただいま。」
ぼんやりと子の寝顔を見ていると、急に聞こえた声に飛び上がった。聞こえるはずのない声。そっと振り返ると、銀髪がふわりと舞った。
「泣いちょったん?」
座り込んで、私の目尻をそっと撫でる、無骨な手、心配そうに少しだけ下げられた眉。
「な、んで。」
掠れた声が、不安に揺れている。これは、夢だろうか。この2年間、滅多に夢なんか見なかったくせに。
「嫌なことでもあったんか。」
彼の言葉に、ふるふると首を動かす。現状についていけない頭がまだぼんやりとしている。
「それやったら、寝ちょる間に終わらそ。」
「……別れ話?」
ぎゅっと唇を噛み締めた。彼はそんな私を見て、少しだけ目を大きくさせて、それから少し口角を上げた。
「そんな事考えて泣いちょったんじゃろ。」
名推理、と言いたげな彼の表情に、分からなくなって素直に頷いた。彼は私の額に一つキスを落とすと、たった一つの持ち物である鞄の中から、クリアファイルを取り出した。
「これ、取ってきちょった。」
二枚の紙を取り出し、私に手渡す。
「これ……!」
「遅くなってすまんかったの。」
意地悪な笑顔をじっと眺めて、それからこの胸の高鳴りと高揚は夢ではないのだと実感して、手元の書類の文字をもう一度確認する。婚姻届と、認知届。何か、何かを言おうと思って、けれど言葉にならなくて、大きく息をする。
「もう一個、プレゼントじゃ。」
「え、」
「指、見てみんしゃい。」
彼に促されて、自分の手に視線を落とす。左手の、薬指。そんな特別な場所に、まるで以前から居ましたと言いたげに輝く銀色の指輪。指輪と、彼の顔で視線を右往左往しながらぱくぱくと唇を開く。そんな私が面白かったらしい。彼は楽しげに、同じデザインの指輪を嵌めた彼の指を見せる。
「元から今日、渡そうと思っちょったもんやき。」
ぎゅっと胸が締め付けられて、嬉しさと戸惑いと照れくささでいっぱいになって、ぎゅっと目を閉じた。それが合図のように、ふわりと唇に感触が降り注ぐ。
「俺の子、名前は?」
「……はる。おひさまの、陽の字で、『はる』。」
「ん。……俺も、陽の親になってもええ?」
「うん。……うん。」
窓からさした夕日が彼の髪をオレンジに染めてゆく。子供が生まれてから張り続けていた緊張の糸が一本、ぷつんと、切れる音がした。
「はる、ママに行ってきますは言うたんか。」
「まだー。母さん、いってきまーす。」
すっかりと似た声に成長した二人に苦笑する。高校になって初めての夏休み。受験も乗り越えて、さぁ何がしたいと聞いたら『父さんと二人で出かけたい』なんて。二人が時たまふらりとどこかへ行くことは前からの事だったけれど、ついにそれが1ヶ月という長期間になってしまった。
結局、子供は親の背中を見て育つということなのだろうか。まぁ帰る日にちを知らせてくれるだけマシになったというものだ。
「行ってらっしゃい。」
ゆるゆると手を振ると、待ちきれないというように陽は玄関を飛び出してゆく。そういうところは絶対に父親似ではないような気はするけれど、誰に似たんだろうか。微笑ましく見送ると、少し遅れて彼も玄関に経つ。
「行ってらっしゃい。」
「ん。行ってくるき、ちょっと待っちょって。」
彼は安心させるように私の頭をポンとひとつ、優しく叩いた。必ず帰ってくるという言葉は結局彼の口から聞いたことはないけれど、それでも良いかと思う。
自分の事を待っていてと、彼がそれを望んでいるのであれば、結局私はそうするしか無い。惚れた弱みというやつだ。
彼が玄関を出ると、元気な私たちの子供の声が跳ねて聞こえる。
「ね、最初は山行こ山!」
「ぇえ……パパ暑いとこは嫌いなんじゃけど……。」
猫背の彼は中学の頃から変わらず、けれど嬉しさと、楽しさを滲ませて出てゆく。暑い日差しがじりじりとアスファルトを焦がして、玄関の先から我が子のキラキラとした笑い声が聞こえた。
今までとこれからの話をしよう
「そういえば。」
彼が自分の子を認知してから数週間。からからと彼と子がおもちゃの木琴を叩く音。彼が遊んでいるのか子が遊んでいるのか分からない、そんな時間。彼が突然に口を開いた。
「はるのこと、連絡してくれちょった?」
妊娠したこと、出産したことを指しているのだとすぐに理解した私は首を横に振った。彼が携帯を持っていることも、その電話番号もメールアドレスも知っているが、彼に連絡したことは殆どない。
「縛られるの、嫌いでしょ?」
素直な言葉にすれば、彼は少しだけ動作を止めて、それから1つ瞬きをした。
「……まぁ。けど、おまんのとこには帰るって言っちょったじゃろ。」
その言葉が何を指すか分からなくて、きょとんと首を傾げると、彼は私の方に向き直った。
「大切な事やき、ちゃんと言うて。すぐに戻るき。」
戻る、大切な事。その言葉に、じわじわと肩の力が抜ける。
「大切なことって、」
「ねーちゃんも妊娠時期から子育ては死にたくなるって言うとった。俺も手伝いに行っちょったし。」
数年前に会った彼のお姉さんを思い出す。あの頃は確か子どもなんて居なかったはずだ。彼は私の寝起きで乱れたままの髪を優しく手櫛で梳かした。
「おまんの辛い時は、一緒に居りたい……って言うためのそれやったやんじゃけど。」
彼の視線の先には私の薬指に付けられた指輪。彼の笑顔はどことなく苦いものに見えて、胸が締め付けられる。彼のその優しさを、その誠実さを好きになったのだと思い出した。
「……帰ってきた時、そんなに辛そうな顔してた?」
「ん。……長く帰らんくて悪かった。」
「全然。連絡しなかったのは私だし。」
こんなに長く一緒に居て、何度も何度も彼の久しぶりの「ただいま」を聞いて。なのに長く帰らなかったことを彼の口から何か聞くのは初めてで。経験のない子育てに、どうしようもなく不安で、怖くて、幸せが抑え込まれてしまいそうな毎日が、その言葉だけで報われたような気がした。
「ぱー」
とたとた、と小さい足音と、涎混じりの嬉しそうな表情。彼は自分の子を抱き寄せて、それからばっと私に顔を向けた。
「今、パパって言いよった。」
「惜しい、はるはママは言えるもんねー?。」
「まーま。」
「はる、パパも言いんしゃい。おまんならできる。」
「ぶぅいー」
くすくすと笑って、彼の腕の中に居る子を優しく撫でた。パパだママだと、そんな夫婦のやりとりをできるなんて、想像もしなかった。夢にも見なかった贅沢が、当たり前のように降り注いだ。
「パパ。パパってさ、小さい俺のこと置いてふらふらしてたんでしょ?」
そんな事を言い出したのは、小学6年生の夏休み。『色んな仕事』なんて自由研究のテーマを前に、そんな言葉が飛び出した。ソファの上でうつらうつらと船を漕いでいた意識が少し浮上するが、私に話しかけられているわけではないらしい。
「ふらふらとは人聞き悪いのぅ。ちょーっと家に居らんかっただけじゃ。」
「ふらふらしてんじゃん。」
「はよ本題に入りんしゃい。」
「……そんときってさ、パパなんの仕事してたの?」
また微睡みに入りかけていた意識を取り戻す。目を閉じたまま、だけれど彼らの言葉に耳を傾けた。私は終ぞ、彼の居ない期間のことを聞いたことは無かったし、彼も話そうとはしなかった。
「んー……仕事……言う程のもんは……。」
「無職かってこと?」
「最後まで気きんしゃい。まぁ、頼まれてスクールのコーチしたり大会に出たりはしよった。」
「テニスの?」
「ん。」
「へー、テニスプレイヤーってこと?」
「プロ登録はしとらんから趣味の範囲じゃけど。」
ふーん、なんて子の声と、ふわりと欠伸する彼の声。少ししてから、「父親の欄に無職って書くん辞めんしゃい!」なんて声が聞こえてくる。
「だってパパの言うこと難しいし。」
「えぇ……。まぁ詳しいことはそこで寝たふりしてるママに聞きんしゃい。」
彼の予想だにしない言葉にびくりと肩を震わせて、子の「え」なんて声も聞こえる。諦めて瞼を開ければ、リビングの向こう側で楽しげに目を細める彼の楽しげな表情。
「……私知らないよ、パパがどこで何してたのか。」
「「え。」」
その声は彼と子のものが重なっていて。彼に対しては寧ろ何故知っていると思っているのかと突っ込みたくなる。少しの静寂の後、一番最初に口を開いたのは彼。
「……もしかして俺、おまんに何も言っとらん?」
また訪れた暫しの静寂のあと、こくりと頷くと、彼の盛大なため息がひとつ。
「え?パパ、ママに何も言わないで2年もどっか行ってたの?そういうのもう古いよ?ママかわいそ。」
けらけらと揶揄うような笑い声は誰から学んだものなのか。子が私の味方をするように、私が寝ていたソファーまで来て隣に座ってくれる。それに釣られて彼もソファに座った。3人がけのソファと言えども、もうすぐ中学生になるという子と一緒だとやけに狭く感じる。彼は私の指をそっと撫でた。
「え、おまん、俺がどこにおるかも分からんのに丸2年待っちょったんか?」
少し寂しさを交えたようなその言葉と一緒に、指先がきゅっと彼の指に包まれる。連絡をしなかったのは彼なのに何を今更、なんて少し笑みが込み上げた。
「雅治が言ったんだよ、『ちょっと待ってて』って。」
「2年も音信不通なら俺が生きとるか不安にならんか?」
「いや、はるが生まれたから……その心配までする余裕は……」
「すまん。」
「パパ、お詫びケーキ必要な案件だわこれは。」
子のこの状況を楽しんでいるかのような柔らかい笑顔が嬉しい。この子は、物心つく前の父親の不在も、私の不安定さも何も知らない。何も知らないからこそ、これからもずっとパパとママは当たり前に隣に居るものだと知っている。だからこその明るさに、助けられた。
「そのブンちゃん寄りの思考どうにかならんか。」
「俺丸井さんりすぺくとだから。パパのお財布預かろうか?俺はチョコケーキね。」
「おまんケーキ食べたいだけじゃろ。まぁえぇけど。」
「やったー!行ってきまーす!」
彼が財布を出すと、それを受け取って軽い足音がたったと玄関を出てゆく。生意気な口もきけるようになったがまだまだ子どもらしい、その背中を微笑ましく見送った。
ぽすん。
二人になると同時に感じる、肩の重み。
「なぁ、もし妊娠とかしとらんくても、俺のこと待ってくれちょった?」
それはいつもの、ただの軽口と同じ音で紡がれた、彼の小さな不安。もう13年も前の出来事に何を今更、と思うと彼が愛らしくなって小さく笑った。
「なに笑っちょるん。」
「2年離れてただけで、その後13年一緒に居てくれてるじゃん。」
「もうそんなにもなるんか。」
口にして自分でも驚く。自分も彼も、歳を取ってしまったものだ。体力のなくなっていくことは自分でも実感しているけれど、彼の格好良さは増すばかりなのだからタチが悪い。
彼は握ったままの私の手をそっと離して、私の髪をさらりと手に取る。瞳と瞳がぱちりと合って、自然と近くなる距離に少し俯いた。
「今更13年前のこと掘り返すんもおかしい話だよね。」
私が照れ隠しでそんなことを伝えれば彼がくすりと笑う。13年前にこんな未来が訪れるなんて、誰が想像してただろう。この場所に、羽休め程度に彼が帰って来てくれれば良い……なんて考えていたはずなのに、いつの間にか彼のいる贅沢な日常が当たり前になってしまった。幸せが日常になって、贅沢が毎日になる。
「パパママただいまー!モンブラン買ってきた!」
銀髪をふわりと靡かせたわが子が自慢げに帰宅する。『丸井製菓店』の文字を見て、彼にも愚痴から相談からいっぱいお世話になったことを思い出す。ふらりとどこかに行ってしまう彼と、彼を留めておけない私と。
空白の時間があって、周りからの見守りがあって、それから私と彼の確かな愛情があって。そうして私たちは、やっと家族になった。