百花学園の愉快な日常 ACT:1
夜須鹿薙、彼は普通の場所ではあまり喋らないが会議室に入ったらとても雄弁になる、らしい。その姿を一二三は見た事はないが、有名なようだ。
登山同好会会長にして工業科生徒会長。工業科三年、建築系列伝統建築コース。将来は宮大工を目指し勉強中だ。てこの愛弟子でもある。その縁で登山同好会は始まった。てこと夜須が始めた趣味の会にいつしか人が集まり、今回ようやく部員が五人とまでなった。
皆神山はここいらで一番高い山で近隣の登山家達も集う名所だ。登山道が初心者向けから超上級者向けまでいくつかあるが、一二三達が登るのはその登山道の中でも一番険しい道のりのものだ。序盤とはいえ山に登り慣れた一二三達は兎も角、初心者の新人にはキツいと思っていたのだが。
「へえ、なかなか面白い道っすね。地元って意外と隠れた名所が潜んでるもんなんだなあ」
辺りを見回す余裕もさることながら、汗もほとんどかいていない。なんという期待の新人だろうか、と一二三達は皆感動する。勿論同好会メンバー、教員二名も難なく登っている。
ねえてこ先生、お昼は頂上でですか?」
一二三は先行するてこに問いかける。
「ん。そうじゃの。このペースでいけば丁度良いくらいじゃろう」
分かりました、と返事をして一二三はまた黙々と歩き続ける。
山を登るという行為は、とても好きだった。初めて登ったのは家族で行ったハイキングだ。小学三年生の頃に近所の低い山で、お弁当を持って行った。山を登り終えた時の爽快感。山頂で食べたお弁当の美味しさ。町では味わえない空気の澄んだ感じ。全てが一二三を魅了した。
そして大きくなってからは、登山中の時間で自分を見つめ直したり考え事をするのにうってつけだと気付き、楽しみとして追加された。困り事や面倒事など、悩みも何もかも、他に考えを奪われる事なく考えを纏められる。
一二三の脳内を占めているのは、例の手紙だった。
差出人不明の白い封筒。あの手紙には続きがあったのだ。
それは今週の半ばの出来事だ。
自分の教室に着いた一二三は慌てて自分の席へと座る。と同時にチャイムが鳴って担任と副担任が入ってきて、HRの開始を告げた。いつも通りの朝だ。
理数系に進んだ一二三の週の時間割は数学と化学、物理などが大半を占めている。選択授業は理系を多く選んでいるので、自分の教室にいるよりも化学室や実験室にいる事の方が多い。そのため小中学校のように自分の席は自分の物、といった感覚が少ない。だから一二三は余計な物を机に入れないし、必要なものはロッカーや鞄の中に入れている。
だから椅子に座った瞬間、違和感にすぐ気付いた。
手を机の中に入れると、一枚の紙に触れたのだ。心当たりのないそれに首を傾げながら取り出してみると、見覚えのある物だった。
白い横向きの封筒。表に書かれた丁寧な自分の名前。昨日下駄箱に入っていた物と同じだった。
何だろうかと思ったが、すぐに見ずに担任の話を聞く。最初の移動教室の時にでも読めばいいとポケットに突っ込んだ。
最初は科学で、二時間続けての実験だ。実験は一二三の好きなものの一つなので楽しみにしていた。実験室は青龍館にあるので急がなければ遅れてしまう。
青龍館は特別教室が多く入っている校舎で、基本的にはがらんとしているものの時間割りが特別教室を使うものに重なった場合は生徒達でごった返す。今朝もそうで、色とりどりの制服が見えた。
あの濃い緑の制服は工業科、技術室でも使うのだろう。遠くには家政科のふんわりとしたスカートが翻り、家庭科実習室へと入っていく。階段を上がっていく生徒の胸に大きなリボンが見え、美術室に行く芸術科だろうと判断する。
一二三はこの学校の科ごとに違う制服が好きだ。その見ているだけで楽しい服装。全く別の学校が一つになっているようだと思う。
それに系列やコースごとにさえ少しづつ趣が違う。例えば普通科では理数系文系とでボタンの色が違い、一二三ら理数系は銀、文系は金色だ。そして特選コースは襟元にバッジを付けている。
他には、個性的なもよといえば芸術科の絵画系列は服が汚れるからと白衣を支給されているし、彫刻系列はエプロンを付けたまま通常の授業を受けるので一目で分かる。
目を引くのは音楽科ダンス系列で、コースごとにスカートのデザインが違う。可愛らしいものも多く、女子生徒に人気が高い。
そんな事を考えているうちにもうすぐチャイムが鳴る時間になってしまい、一二三は急ぎ実験室に向かう。
席に着くのとチャイムの音が同時で、胸を撫で下ろしながら開始の挨拶が聞こえる。
始めは先生の今日の実験内容についての説明で、その話を聞きながら一二三はポケットから例の封筒を開いた。
『大饗一二三様へ』
たった一行のメッセージカードと共に入っていたのは、今県美術館で行われている展覧会のチケットだった。
先々週からやっているもので、今とても人気があるのだと誰かが言っていたような。そうだ、市古先生か。
うちの学校の芸術科の生徒も多数出展しているそうで、どこぞのお偉い方から賞を貰った作品もあるとか。
しかし何故これが?デートの誘いにしては日付も目的すらも書かれていない。チケットの内容的には行ってみたい気もあるのだが、流石に不安要素は多い。どうするべきか。
「そんなモン、捨てるのが得策じゃろうて」
「それは、行ってみたらいいのでは」
てこと草司、二人から真逆の答えが返ってきた。
放課後、登山同好会の新入生紹介と週末の登山の打ち合わせで皆が集まった。30分後、教室から去っていく同好会メンバーを尻目に一二三は二人の教員に手紙の事を相談してみたのだった。
一瞬二人は視線を交わしたが、先にてこが喋り始めた。
「不純異性交遊など言語道断じゃ。それ以前に顔も見せんと、名乗りもせんとは卑怯じゃ。そんな奴ろくでもないに決まっとるわい」
反論するのは草司。柔らかな笑みを浮かべて、穏やかに話し出す。
「いえいえ、きっと恥ずかしがり屋さんなんですよ。もしかしたらその展覧会に作品を出品しているのかも。それで自分の作品を見て欲しいんじゃないでしょうか。だから何も書かずにチケットだけを送った」
「何を言う。見て欲しけりゃ名前を書かんと分からんじゃろ。男なら正々堂々と来いというものじゃ」
「そんな事が出来るのは一握りの、自分に自信を持つ者だけです。貴方は……」
二人の言い合いが始まってしまい、途方に暮れる一二三。その肩に手を置いたのは工業科三年・夜須だ。無口な彼は首を横に振った。
チケットに書いてある開催期間は今週末までだった。日にちはまだある。それまでに決めれば良いだろう。
一二三と夜須は大人げない大人達をそっとしておいて、教室から出た。
昇降口へ行くにはエントランスを突っ切る必要がある。下校時刻もまだ先のこの時間帯は多くの生徒が行き交っていた。
そこには生徒のみならず、幾人かの教員の姿も見えた。目付の意味もあるだろうが、とても楽しそうに生徒達と談笑している。
この学校は教員の平均年齢が他の学校に比べて非常に若い。その理由が学校を出てすぐの教員の方が生徒の気持ちを理解出来るからだ。この学校は自由な校風の元多種多様な生徒が集う。全ての生徒に目が行き届くかといえばそう上手くはいかない。そのために若く、エネルギッシュで情熱溢れる教員は重宝されるべきである。
生徒の悩みに気付き、すぐに相談に乗れる。それはつい先日まで学生だった者の方が共感でき力になれるからだ。
時々、まだ学生と言われても余裕で騙されそうな程に生徒に近い教師もいる。そういうのは冗談交じりにからかわれるが、同時に親近感も湧く。生徒達も悩みを相談しやすい。まるで友達に話すかのように。
そういった、この学校特有の雰囲気。
「いいですよね、この学園は」
何と居心地の良い場所でしょう。そう付け加えると夜須はこくりと頷いた。
相談も共感もしやすい教員たちでも、流石にこの事ばかりは力にならない。結局、うんうんと唸りながらも今週末を迎えてしまった。
もう期限は明日までだった。今日中にどうするか決めたい。
今までそんな手紙を貰った事などなかったし、嬉しいのもある。手紙を見る限り悪い人ではなさそうだった。しかし、気味が悪いと言ってしまえば気味が悪い。自分は相手を知らないのに、相手は自分を知っている。それは少し恐ろしい。危険もあるかもしれない。
行くか、行かないか。
思考は纏まらず堂々巡り。
ある程度まで登ったところで草司の休憩にしますか、という優しい声が聞こえて立ち止まった。
みんなで車座になって座り、思い思い飲み物や軽食を口にする。
「このチョコレート美味しいんですよ。どうぞ」
草司が見た事もない外国のチョコレートをみんなに差し出している。外国の登山家に人気らしく、一二三も貰い口に含むととても甘くて美味しかった。
「のうひふみ、どう見る?」
空を見上げていたてこが険しい顔で尋ねてきた。一二三も上を向いてみると確かに雲が厚くなってきている。心なしか空気も湿気を含んでいるようだ。
「んー、多分平気だと思うんですが。山の天気は変わりやすいとは言いますが、山の天気は私に甘いみたいなので」
「はは!そうじゃのう。お前と登って雨が降った事は一度もないからの。どうなっとるんじゃ、普通これだけ山に登っていたら何度か雨やらに降られるもんじゃろうて」
信じられん、と首を振るてこに一二三はあはは、と笑う。一二三の長い登山歴の中で、雨に降られたのはただの一度だけだった。
「雨、降らないとかマジ凄いっスね」
新人の彼が感心した様子で一二三を見た。
そんな事ないよ、と答えるとてこが「魔法じゃろ魔法」と意味のわからない事を言ったので小石を投げた。怒られた。
そして再び立ち上がり皆登り始めた。一人では辛くとも皆で行けば楽しいものだ。何事も。
また堂々巡りが始まるか、と思ったがふとてこ達の背を見て思った。
ああ、誰かと一緒に行けばいい事じゃないか。何を簡単な事を悩んでいたのだ。
学生なら割引されて安いし、遠いという訳でもない。さて、誰と行くか。
潤一は美術というか芸術全般が面白いくらいに駄目だしな。明日はちーちゃんは彼氏とデートって言っていたっけ。フウは部活の友達と遊びに行くんだったな。やっぱりここはみちかかな。急な話で大丈夫だといいけれど。
おお、という声が聞こえた。
分厚く広がる雲の隙間から太陽光が地上へと触手を伸ばす。見事なまでの美しさだった。
「素晴らしい風景じゃの。これだから山登りはやめられんわい」
見渡す限りの素晴らしい風景に、皆目を奪われていた。
そして草司が鞄からカメラを取り出してみんなを集める。
「では。記念に一枚撮りますよ。並んで並んで」
折り畳み式の三脚も取り出してカメラのタイマーをセットする。急いで草司も列に加わる。
登山同好会の毎度恒例で、頂上で皆揃って写真を撮る。登山をする者にとってはほとんどの者がやる行為であるが、登山同好会ではこの恒例をとても大事にしていた。皆で写真を撮る為に山に登っているとまで言うのは草司だが、強ち間違っている訳でもない。皆で達成感を共有するという行為はとても大事だ。
笑顔で写真に写るけれどそこに至るまでの道のりは楽ではないし、むしろ苦ばかり。苦楽を共にした仲間がどれ程素晴らしいものか、皆知っている。故にまた再び彼らは山に登るのだ。仲間との絆を深める為に。それが彼らの登る理由。
今回の写真は新人を加えてのものだったので、先輩達は悪ノリをして襲いかかっていた。きっとそれを見て笑う日が来るだろうと一二三は笑った。
レジャーシートを広げて昼食を食べる事にしたのだが、毎回の事ながらてこに非難が集中する。
「てこ先生、そろそろ自分で料理するか料理上手な彼女作ったらどうですか」
コンビニ弁当やジャンクフード、インスタント食品を主食とするてこはいつも生徒達に心配され馬鹿にされ、教師陣からは見本となるべき教師がそんな事でどうすると怒られる。学校では学食などで誤魔化しているものの、登山に来る時ばかりは残念な事になっている。
勿論草司やメンバーは自作もしくは親の手作り弁当を持参している。もう最近ではてこに憐れみの目しか集まらない。今も片側に無残に寄ったコンビニ弁当をつついている。
一二三は父に作ってもらった弁当を食べながら尚も続ける。
「どうして一人暮らしにしたんです。家でちゃんとご飯食べてます?家庭の味が恋しくならないんですか?」
「うるさいわい!お前はわしの母親か!!大体、あんな家は飛び出して当然じゃ。いや、家でもない」
「てこ、生徒の前ですよ」
草司の厳しい声ではっとなるてこ。
「ああ、何か最近は自制出来んのう。すまん、悪い」
帽子を外して頭をぐしゃぐしゃと掻きむしるてこ。そして場の空気を変えようとわざと明るい声を出した。
「そうじゃ、そんなに言うならお前が作ってこい、ひふみ。潤一が言っておったぞ、お前の作る料理はイギリス料理も真っ青らしいの」
「やめてくださいお願いしますお腹壊したいんですか」
「そんなにか!?」
どっと他の生徒達が笑った。が、その中で夜須だけが苦い顔をしていた。別にてこの先程の言葉が気になった訳ではない。以前食べた一二三の手料理を思い出したのだ。
最初は自分に恨みでもあって毒を盛ったのかと思ったが、どうやら違うようで「どうですか美味しくないですか?」と、聞く可愛い後輩の為に必死で吐き気をこらえて飲み込んだのを覚えている。
そして彼女自身にも食べさせたらその威力を思い知ったのか不味さに耐えてごめんなさいでしたと謝ったものだ。夜須がしみじみと思い出していると、横合いから肘鉄を食らった。
大爆笑していた普通科三年坂道が新人の方へと倒れこみ、それを避けようと横にずれたら工業科二年の澤山にぶつかった。澤山は勢いを殺しきれず倒れるとそこに夜須がいたという寸法だ。不運すぎる。
無言で痛みを堪える夜須に気付き寄ってきた一二三。
「だ、大丈夫ですか?ヤッさん、盛大に腹に肘鉄入りましたけど」
こくりと頷いて耐える夜須。
その様子に恐れ戦き、責任を押し付け合う坂道と澤山。そしてそれを見ていたてこが草司に話しかける。
「……若いのう」
「若いですねえ」
青い春を満喫している生徒達をしみじみと眺める二人だったが、勿論二人は一般的に見てとても若い。
登山同好会会長にして工業科生徒会長。工業科三年、建築系列伝統建築コース。将来は宮大工を目指し勉強中だ。てこの愛弟子でもある。その縁で登山同好会は始まった。てこと夜須が始めた趣味の会にいつしか人が集まり、今回ようやく部員が五人とまでなった。
皆神山はここいらで一番高い山で近隣の登山家達も集う名所だ。登山道が初心者向けから超上級者向けまでいくつかあるが、一二三達が登るのはその登山道の中でも一番険しい道のりのものだ。序盤とはいえ山に登り慣れた一二三達は兎も角、初心者の新人にはキツいと思っていたのだが。
「へえ、なかなか面白い道っすね。地元って意外と隠れた名所が潜んでるもんなんだなあ」
辺りを見回す余裕もさることながら、汗もほとんどかいていない。なんという期待の新人だろうか、と一二三達は皆感動する。勿論同好会メンバー、教員二名も難なく登っている。
ねえてこ先生、お昼は頂上でですか?」
一二三は先行するてこに問いかける。
「ん。そうじゃの。このペースでいけば丁度良いくらいじゃろう」
分かりました、と返事をして一二三はまた黙々と歩き続ける。
山を登るという行為は、とても好きだった。初めて登ったのは家族で行ったハイキングだ。小学三年生の頃に近所の低い山で、お弁当を持って行った。山を登り終えた時の爽快感。山頂で食べたお弁当の美味しさ。町では味わえない空気の澄んだ感じ。全てが一二三を魅了した。
そして大きくなってからは、登山中の時間で自分を見つめ直したり考え事をするのにうってつけだと気付き、楽しみとして追加された。困り事や面倒事など、悩みも何もかも、他に考えを奪われる事なく考えを纏められる。
一二三の脳内を占めているのは、例の手紙だった。
差出人不明の白い封筒。あの手紙には続きがあったのだ。
それは今週の半ばの出来事だ。
自分の教室に着いた一二三は慌てて自分の席へと座る。と同時にチャイムが鳴って担任と副担任が入ってきて、HRの開始を告げた。いつも通りの朝だ。
理数系に進んだ一二三の週の時間割は数学と化学、物理などが大半を占めている。選択授業は理系を多く選んでいるので、自分の教室にいるよりも化学室や実験室にいる事の方が多い。そのため小中学校のように自分の席は自分の物、といった感覚が少ない。だから一二三は余計な物を机に入れないし、必要なものはロッカーや鞄の中に入れている。
だから椅子に座った瞬間、違和感にすぐ気付いた。
手を机の中に入れると、一枚の紙に触れたのだ。心当たりのないそれに首を傾げながら取り出してみると、見覚えのある物だった。
白い横向きの封筒。表に書かれた丁寧な自分の名前。昨日下駄箱に入っていた物と同じだった。
何だろうかと思ったが、すぐに見ずに担任の話を聞く。最初の移動教室の時にでも読めばいいとポケットに突っ込んだ。
最初は科学で、二時間続けての実験だ。実験は一二三の好きなものの一つなので楽しみにしていた。実験室は青龍館にあるので急がなければ遅れてしまう。
青龍館は特別教室が多く入っている校舎で、基本的にはがらんとしているものの時間割りが特別教室を使うものに重なった場合は生徒達でごった返す。今朝もそうで、色とりどりの制服が見えた。
あの濃い緑の制服は工業科、技術室でも使うのだろう。遠くには家政科のふんわりとしたスカートが翻り、家庭科実習室へと入っていく。階段を上がっていく生徒の胸に大きなリボンが見え、美術室に行く芸術科だろうと判断する。
一二三はこの学校の科ごとに違う制服が好きだ。その見ているだけで楽しい服装。全く別の学校が一つになっているようだと思う。
それに系列やコースごとにさえ少しづつ趣が違う。例えば普通科では理数系文系とでボタンの色が違い、一二三ら理数系は銀、文系は金色だ。そして特選コースは襟元にバッジを付けている。
他には、個性的なもよといえば芸術科の絵画系列は服が汚れるからと白衣を支給されているし、彫刻系列はエプロンを付けたまま通常の授業を受けるので一目で分かる。
目を引くのは音楽科ダンス系列で、コースごとにスカートのデザインが違う。可愛らしいものも多く、女子生徒に人気が高い。
そんな事を考えているうちにもうすぐチャイムが鳴る時間になってしまい、一二三は急ぎ実験室に向かう。
席に着くのとチャイムの音が同時で、胸を撫で下ろしながら開始の挨拶が聞こえる。
始めは先生の今日の実験内容についての説明で、その話を聞きながら一二三はポケットから例の封筒を開いた。
『大饗一二三様へ』
たった一行のメッセージカードと共に入っていたのは、今県美術館で行われている展覧会のチケットだった。
先々週からやっているもので、今とても人気があるのだと誰かが言っていたような。そうだ、市古先生か。
うちの学校の芸術科の生徒も多数出展しているそうで、どこぞのお偉い方から賞を貰った作品もあるとか。
しかし何故これが?デートの誘いにしては日付も目的すらも書かれていない。チケットの内容的には行ってみたい気もあるのだが、流石に不安要素は多い。どうするべきか。
「そんなモン、捨てるのが得策じゃろうて」
「それは、行ってみたらいいのでは」
てこと草司、二人から真逆の答えが返ってきた。
放課後、登山同好会の新入生紹介と週末の登山の打ち合わせで皆が集まった。30分後、教室から去っていく同好会メンバーを尻目に一二三は二人の教員に手紙の事を相談してみたのだった。
一瞬二人は視線を交わしたが、先にてこが喋り始めた。
「不純異性交遊など言語道断じゃ。それ以前に顔も見せんと、名乗りもせんとは卑怯じゃ。そんな奴ろくでもないに決まっとるわい」
反論するのは草司。柔らかな笑みを浮かべて、穏やかに話し出す。
「いえいえ、きっと恥ずかしがり屋さんなんですよ。もしかしたらその展覧会に作品を出品しているのかも。それで自分の作品を見て欲しいんじゃないでしょうか。だから何も書かずにチケットだけを送った」
「何を言う。見て欲しけりゃ名前を書かんと分からんじゃろ。男なら正々堂々と来いというものじゃ」
「そんな事が出来るのは一握りの、自分に自信を持つ者だけです。貴方は……」
二人の言い合いが始まってしまい、途方に暮れる一二三。その肩に手を置いたのは工業科三年・夜須だ。無口な彼は首を横に振った。
チケットに書いてある開催期間は今週末までだった。日にちはまだある。それまでに決めれば良いだろう。
一二三と夜須は大人げない大人達をそっとしておいて、教室から出た。
昇降口へ行くにはエントランスを突っ切る必要がある。下校時刻もまだ先のこの時間帯は多くの生徒が行き交っていた。
そこには生徒のみならず、幾人かの教員の姿も見えた。目付の意味もあるだろうが、とても楽しそうに生徒達と談笑している。
この学校は教員の平均年齢が他の学校に比べて非常に若い。その理由が学校を出てすぐの教員の方が生徒の気持ちを理解出来るからだ。この学校は自由な校風の元多種多様な生徒が集う。全ての生徒に目が行き届くかといえばそう上手くはいかない。そのために若く、エネルギッシュで情熱溢れる教員は重宝されるべきである。
生徒の悩みに気付き、すぐに相談に乗れる。それはつい先日まで学生だった者の方が共感でき力になれるからだ。
時々、まだ学生と言われても余裕で騙されそうな程に生徒に近い教師もいる。そういうのは冗談交じりにからかわれるが、同時に親近感も湧く。生徒達も悩みを相談しやすい。まるで友達に話すかのように。
そういった、この学校特有の雰囲気。
「いいですよね、この学園は」
何と居心地の良い場所でしょう。そう付け加えると夜須はこくりと頷いた。
相談も共感もしやすい教員たちでも、流石にこの事ばかりは力にならない。結局、うんうんと唸りながらも今週末を迎えてしまった。
もう期限は明日までだった。今日中にどうするか決めたい。
今までそんな手紙を貰った事などなかったし、嬉しいのもある。手紙を見る限り悪い人ではなさそうだった。しかし、気味が悪いと言ってしまえば気味が悪い。自分は相手を知らないのに、相手は自分を知っている。それは少し恐ろしい。危険もあるかもしれない。
行くか、行かないか。
思考は纏まらず堂々巡り。
ある程度まで登ったところで草司の休憩にしますか、という優しい声が聞こえて立ち止まった。
みんなで車座になって座り、思い思い飲み物や軽食を口にする。
「このチョコレート美味しいんですよ。どうぞ」
草司が見た事もない外国のチョコレートをみんなに差し出している。外国の登山家に人気らしく、一二三も貰い口に含むととても甘くて美味しかった。
「のうひふみ、どう見る?」
空を見上げていたてこが険しい顔で尋ねてきた。一二三も上を向いてみると確かに雲が厚くなってきている。心なしか空気も湿気を含んでいるようだ。
「んー、多分平気だと思うんですが。山の天気は変わりやすいとは言いますが、山の天気は私に甘いみたいなので」
「はは!そうじゃのう。お前と登って雨が降った事は一度もないからの。どうなっとるんじゃ、普通これだけ山に登っていたら何度か雨やらに降られるもんじゃろうて」
信じられん、と首を振るてこに一二三はあはは、と笑う。一二三の長い登山歴の中で、雨に降られたのはただの一度だけだった。
「雨、降らないとかマジ凄いっスね」
新人の彼が感心した様子で一二三を見た。
そんな事ないよ、と答えるとてこが「魔法じゃろ魔法」と意味のわからない事を言ったので小石を投げた。怒られた。
そして再び立ち上がり皆登り始めた。一人では辛くとも皆で行けば楽しいものだ。何事も。
また堂々巡りが始まるか、と思ったがふとてこ達の背を見て思った。
ああ、誰かと一緒に行けばいい事じゃないか。何を簡単な事を悩んでいたのだ。
学生なら割引されて安いし、遠いという訳でもない。さて、誰と行くか。
潤一は美術というか芸術全般が面白いくらいに駄目だしな。明日はちーちゃんは彼氏とデートって言っていたっけ。フウは部活の友達と遊びに行くんだったな。やっぱりここはみちかかな。急な話で大丈夫だといいけれど。
おお、という声が聞こえた。
分厚く広がる雲の隙間から太陽光が地上へと触手を伸ばす。見事なまでの美しさだった。
「素晴らしい風景じゃの。これだから山登りはやめられんわい」
見渡す限りの素晴らしい風景に、皆目を奪われていた。
そして草司が鞄からカメラを取り出してみんなを集める。
「では。記念に一枚撮りますよ。並んで並んで」
折り畳み式の三脚も取り出してカメラのタイマーをセットする。急いで草司も列に加わる。
登山同好会の毎度恒例で、頂上で皆揃って写真を撮る。登山をする者にとってはほとんどの者がやる行為であるが、登山同好会ではこの恒例をとても大事にしていた。皆で写真を撮る為に山に登っているとまで言うのは草司だが、強ち間違っている訳でもない。皆で達成感を共有するという行為はとても大事だ。
笑顔で写真に写るけれどそこに至るまでの道のりは楽ではないし、むしろ苦ばかり。苦楽を共にした仲間がどれ程素晴らしいものか、皆知っている。故にまた再び彼らは山に登るのだ。仲間との絆を深める為に。それが彼らの登る理由。
今回の写真は新人を加えてのものだったので、先輩達は悪ノリをして襲いかかっていた。きっとそれを見て笑う日が来るだろうと一二三は笑った。
レジャーシートを広げて昼食を食べる事にしたのだが、毎回の事ながらてこに非難が集中する。
「てこ先生、そろそろ自分で料理するか料理上手な彼女作ったらどうですか」
コンビニ弁当やジャンクフード、インスタント食品を主食とするてこはいつも生徒達に心配され馬鹿にされ、教師陣からは見本となるべき教師がそんな事でどうすると怒られる。学校では学食などで誤魔化しているものの、登山に来る時ばかりは残念な事になっている。
勿論草司やメンバーは自作もしくは親の手作り弁当を持参している。もう最近ではてこに憐れみの目しか集まらない。今も片側に無残に寄ったコンビニ弁当をつついている。
一二三は父に作ってもらった弁当を食べながら尚も続ける。
「どうして一人暮らしにしたんです。家でちゃんとご飯食べてます?家庭の味が恋しくならないんですか?」
「うるさいわい!お前はわしの母親か!!大体、あんな家は飛び出して当然じゃ。いや、家でもない」
「てこ、生徒の前ですよ」
草司の厳しい声ではっとなるてこ。
「ああ、何か最近は自制出来んのう。すまん、悪い」
帽子を外して頭をぐしゃぐしゃと掻きむしるてこ。そして場の空気を変えようとわざと明るい声を出した。
「そうじゃ、そんなに言うならお前が作ってこい、ひふみ。潤一が言っておったぞ、お前の作る料理はイギリス料理も真っ青らしいの」
「やめてくださいお願いしますお腹壊したいんですか」
「そんなにか!?」
どっと他の生徒達が笑った。が、その中で夜須だけが苦い顔をしていた。別にてこの先程の言葉が気になった訳ではない。以前食べた一二三の手料理を思い出したのだ。
最初は自分に恨みでもあって毒を盛ったのかと思ったが、どうやら違うようで「どうですか美味しくないですか?」と、聞く可愛い後輩の為に必死で吐き気をこらえて飲み込んだのを覚えている。
そして彼女自身にも食べさせたらその威力を思い知ったのか不味さに耐えてごめんなさいでしたと謝ったものだ。夜須がしみじみと思い出していると、横合いから肘鉄を食らった。
大爆笑していた普通科三年坂道が新人の方へと倒れこみ、それを避けようと横にずれたら工業科二年の澤山にぶつかった。澤山は勢いを殺しきれず倒れるとそこに夜須がいたという寸法だ。不運すぎる。
無言で痛みを堪える夜須に気付き寄ってきた一二三。
「だ、大丈夫ですか?ヤッさん、盛大に腹に肘鉄入りましたけど」
こくりと頷いて耐える夜須。
その様子に恐れ戦き、責任を押し付け合う坂道と澤山。そしてそれを見ていたてこが草司に話しかける。
「……若いのう」
「若いですねえ」
青い春を満喫している生徒達をしみじみと眺める二人だったが、勿論二人は一般的に見てとても若い。